恵「…………」

 時刻は午後十一時、あと数分で日付が変わろうとしていた。
 澪と恵は昼過ぎに修行を開始した時と変わらない体勢のまま立ち尽くしている。
丸半日闘気を放出し続けていた恵の表情からは疲労の色が垣間見られた。

澪「…………」

 それよりも深刻なのは澪の方だ。
流れる汗は次第に衣服に染み込んでゆき、日が沈む頃には衣服は黒ずんでいた。
首筋から身体を流れ、足を伝って畳に染み込む汗は濁った水溜まりを作っている。
 恵の手首に巻かれた腕時計の音だけが鳴り響く。

 時計の長針と短針が頂点で交わった。
それと同時に恵は澪の首筋に添えた模造刀をそっと離す。

恵「お疲れ様」

 腰に差した鞘にそれを納め、恵は衣服の乱れを整えた。

澪「…………」

 終わったという実感など澪には無かった。
 闘気を当てられ続けたこの半日の間に自分が何千、何万回殺されたか。命から生まれるエネルギーのやり取りの中で垣間見た疑似的な『死』。
それは澪の心を休ませる事を許さなかった。

恵「怖かったでしょう。ごめんね? もう大丈夫だよ」

 恵は汗に塗れた澪の身体を強く抱き締めた。
一瞬だけ抵抗するように澪の身体が跳ねたが、やがて恵に身を預ける。

 二人が無言で抱き合っていると、突如恵の服の胸ポケットが震え出した。

恵「もしもし」

 震える携帯電話を取り出し、二、三分会話してから電話を切る。
そして恵は呆れたような溜め息をついた。

恵「あの子も心配性ね。抜け目無いのは良いけれど、派手な心配たまに傷ってやつかな」

澪「……?」

 澪は何度か瞬きして首を傾げた。

恵「あれ、分からなかったかな? 一個違いでもジェネレーションギャップってあるんだね」

 自嘲気味に微笑むと、恵は澪の肩を抱いたまま歩き始めた。

恵「じゃ、お風呂入ろっか」

 個人の家では考えられないような大きな檜の浴槽の中で、二人は一糸纏わぬ姿で肩を並べていた。

澪「今日は……ありがとうございました」

恵「良いのよ。私が好きでやってる事だし」

 あまり面識のない先輩と風呂の中で肩を並べている事に緊張し、澪はおずおずと口を開いた。それに対して恵はあっけらかんに答える。

恵「それよりも、今の感覚はどう? 世界が変わったでしょう」

澪「……はい。何だか世界の中で私だけが浮いてるような、正直言って……」

 澪はそこで言葉を区切り、顔を伏せて言った。

澪「寂しいです」

 それが澪の率直な感想だった。
『絶対の彼方』を越える覚悟は出来ていた。
そしてそれに対して後悔など無い。

恵「…………」

 それでも胸に巣食うざわめきに心を苛まされる。
そんな澪の感情が、今の恵には手に取るように理解出来た。

澪「…………」

 ほんの少しだけ、二人の間の空間を静寂が支配した。

恵「そうね。そう考えると『絶対の彼方』を越えた人は、ある意味被害者なのかも」

 澪はその言葉に対して何も返さなかった。だが否定もしない。

恵「それも踏まえて聞いておこうかな。世界から取り残されてでも力を欲しがる理由は何なの?」

 恵は湯船の縁に腰掛け、水が滴る髪の毛を後ろに払った。
一糸纏わぬその姿が澪には後光を帯びた神々しいナニカに見えた。

澪「…………」

 見つめる事すら躊躇してしまう美しい身体が目の前にある事に、澪は思わず息を飲んだ。

澪「私は……」

 澪は頭を下げたまま口を開いた。

澪「私は、揺らぎたくないんです」

恵「…………」

澪「人前で怒ったり、泣いたり、素の自分を人に見せるのが怖かったんです。だから人前では優秀を装っていました」

 肩は震え、湯の中で握り締めた拳には力が込もる。

澪「そうしている内についた二つ名は『鉄壁』でした。絶対に揺らぐ事のない大きな壁、そこに私が目指していたものがあった筈なのに……」

 澪は内より込み上げる何かを抑える事が出来なかった。
瞳から零れ落ちた一粒の涙が水面にぶつかり、消える。

澪「偽りの強さで塗り固めた壁の中で……私はいつも揺らいでいました……っ」

 恵が震える澪の肩をそっと抱き寄せる。
柔らかいお互いの身体の感覚を確かめ合うように、世界から取り残されたお互いの存在を確かめ合うように。

澪「私が負けて……。唯が居なくなって……。矮小な自分が嫌になって……」

 言葉はたどたどしく、支離滅裂になりつつあった。
だが恵にはそんな澪の感情が痛いほどに理解出来た。
桜高生徒会長という重役を担っていた当時の自分の思い、悩み、それらが今の澪と重なる。

恵「……うん。うん」

 そっと澪の頭を撫でた掌に艶やかな黒髪が絡まり、すり抜けてゆく。

恵「だからこそ『絶対』に揺るがない本当の自分が、力が欲しい」

 心の中での独白が見透かされていた事に澪は思わず顔を上げた。

恵「そして私が見つけた答えは『絶対領域』だった。……あなたが見つける答えは何なのかな?」

 上げた顔を覆うように、恵は澪の首に手を回した。

恵「分かったわ。あなたが答えを見つける時まで見届けさせてもらおうかな」

 手に込めた力を緩め、恵は澪の目を見つめた。

澪「……ありがとうございます」

 その時澪の胸の中にある感情が過ぎった。
澪には曖昧模糊としたその感情に名前をつける事は出来なかった。

恵「今のあなたは力を開拓しただけの状態。ここから先は──」

 そこまで言いかけて恵は澪の異変に気付いた。

恵「……どうしたの?」

 自分の目の前で目を閉じた澪。そしてその澪が自分から手を背中に回してきた事に恵は驚いた。

澪「自分でもよく分からないんです。でも……今だけは、甘えさせてくれませんか?」

 決して褒められた行為ではない。
 気の迷いから成る一過性の感情だ。
 そこまで分かっていながらも澪は自分の感情を抑えられなかった。

恵「んっ……」

澪「……ぅん」

 澪の唇が吸い寄せられるように恵の唇と重なった。
求め合うように、与え合うように、混ざり合うように、。
二人の唇は静かに交ざり合う。


 一方日付が変わった頃、柄の悪い不良達が溜まっている騒がしいファミレスの一席で、立花 姫子は一人コーヒーを啜っていた。

姫子「…………」

 服装は黒を基調としたパンツルック。
頬杖をついて物憂げにコーヒーを啜るその姿は容姿と服装が相俟って、実年齢より大人びた色気を放っている。
 そんな少女が四人掛けのテーブルで一人座っているのだ。
当然盛りのついた不良達が姫子を放っておく筈もない。

「ねぇお姉ちゃん今一人かい?」

「良かったら俺ら今からカラオケ行くんだけど、一緒にどう?」

 卑しい笑みを浮かべた男が三人。四人掛けのテーブルを埋めた。

姫子「ごめんなさい。もうすぐ友達が来るんで……。退いてもらえますか?」

 姫子は物腰低くし、丁寧にあしらおうとする。
だがこの手の人間がその程度で引き下がる筈もない。

「なら友達も一緒に行こうよ。女の子だろ?」

「髪の毛綺麗だねー。触ってもいい?」

 逆に馴々しい態度で接してくる男達。
それに痺れを切らした姫子は頭を撫でてくる男の手首を掴み、強く捻った。

「あがっ──」

 男は間抜けな声を上げ、激痛が走る自身の手首を見た。

姫子「病み上がりで機嫌が悪いんです。退いてくれないなら殺しますよ」

 手首から先がだらりとぶら下がっている。
そして室内なのに姫子の周囲を取り巻く嫌な風が、男達の恐怖心を駆り立てた。

姫子「……三つだけ数えますね」

 姫子が一つと言おうとした時には、既に男達は席を立って駆け出していた。
そして男達と丁度入れ違いで、二人の桜高生徒がファミレスに入ってきた。

アカネ「久し振りだね、具合はどう?」

エリ「お、しばらく見ない間に痩せた?」

 かつての戦いの引き金を引いた張本人とその手駒となった者。
瀧 エリと佐藤 アカネ、立花 姫子が同席した。そして──。

姫子「ほんと、久し振りだね『三人』とも。しずかなんてあの日以来話してもなかったよね」

 姫子が自分の存在を認識している事を確認すると、しずかが姫子の隣に現れた。

しずか「流石だね。完璧に気配を消してたのに」

姫子「ふふ、しずかも頑張ってるみたいじゃん。だからこそここに来たんでしょ?」

 バレー部勢の二人を差し置いて談笑に興じる姫子としずか。
覚悟を決めて絆を手放した二人が、再び無くしたモノを拾い上げた瞬間だった。

姫子「次は風子か木村さん辺りかな。無理はしないでね」

しずか「あはは、全部お見通しなんだね。姫子には敵わないや」

姫子「目を見れば分かるよ。トップランカー、なれると良いね」

 激励と呼ぶにはやや淡白な励ましは、確実にしずかを勇気づけた。

姫子「信代は?」

 軽音部殲滅に駆り出された戦士の内の一人、『岩窟王』中島 信代の姿が見当たらない事に姫子は疑問を覚えた。

アカネ「治療が追い付かないから大手の病院に移動だって」

 律に片目を毟り取られ、顔面から脳にかけて深刻なダメージを追っていた信代は最早復帰は絶望的とまで囁かれていた。
それでも命を取り留め、徐々に快方に向かっているのは彼女の恵まれた体力と体躯の賜に他ならない。

エリ「こんな事になっちゃった原因の私が言うのもあれだけど、生きててくれて良かった」

アカネ「生きてさえいれば何度でもやり直せる。私達があの子に償いをする事もね」

姫子「原因……? 償い?」

しずか「……?」

 姫子としずかはほぼ同じタイミングで首を傾げた。

アカネ「……単刀直入に言うね。軽音部が他の部を乗っとろうとしてたのって、嘘なの」

エリ「どんな罰でも受けます。許してくれなくても良い、でも聞いて」

 交互に途切れる事なく紡がれる言葉からは二人の結束と同調が垣間見られた。
 そして二人の口から軽音部殲滅作戦の発端から自分達がその中で経験した事のあらましが語られた。
一切謀る事なく、一切躊躇する事なく。
それが禊であると言わんばかりに二人は懺悔する。

 件の責任は私達が負う。
その言葉を幕引きとして二人の懺悔は終わった。

姫子「…………」

しずか「…………」

 沈黙が空間を支配する。
しずかは気を遣うように姫子の顔色をちらちらと伺っている。
姫子はすっかり冷めてしまったコーヒーカップの中身に映る自分の顔を、穴があきそうな程にじっと見つめていた。

アカネ「病み上がりなのにこんな勝手な事に付き合わせてごめんね」

エリ「私達……。死ぬ覚悟くらいなら出来てるから」

 あくまで淡々と、事務作業をこなすような二人の語り口に、ついに姫子が返答した。

姫子「随分あっさりなんだね。ここに居る全員が死んでたかもしれないのに」

 鋭い眼光がエリとアカネを居抜く。
二人は死を覚悟していたにも関わらず、人としての生存本能からくる恐怖に震えた。

姫子「過ぎた事を今更どうこう言うつもりは無いけど、傷付いた人達を理由にして中途半端な覚悟を見せつけるのは止めて欲しいな。はっきり言って不愉快だよ」

 拭える筈もない死の恐怖を生半可な覚悟で克服したつもりになっている二人の態度に、姫子は激しく憤る。
自分達なりの覚悟をあっさり否定された二人も、静かに怒っていた。

姫子「文句があるならお望み通り殺してあげようか?」

 姫子はずいっ、とテーブル越しに身を乗り出した。
そして両手の人指し指をそれぞれ二人の額に押し当てた。

エリ「……ぁ」

アカネ「い……いやっ」

 唐突に襲いかかる死の恐怖に二人は声を絞り出した。

姫子「さよなら」

 姫子の言葉が二人にはやけにスローに聞こえた。
額に当てられた指に力が込められるのが分かる。
二人の頭はゆっくりと押されてソファの背もたれにぶつかり、ボールをついたように跳ね返った。

アカネ「…………」

エリ「…………」

 身体中から汗が噴き出て、心臓が激しく暴れている。だが──。

姫子「なーんちゃって」

 二人は生きていた。
死んでしまうと思った直後に生まれた生への執着だけが、二人の中に残った。

姫子「心の弱さを責める事なんて私には出来ないよ。それでも償いたいって言うんなら……」

 冷めたコーヒーを飲み干して姫子は言った。

姫子「あなた達の命、私に預けて欲しいの」

エリ「え?」

 流れる汗を拭いつつ、エリが反応した。

姫子「私気付いちゃったんだ。桜高のいざこざなんてちっぽけなものじゃない、もっと大きな事が起ころうとしてる事に」

 圧倒的暴力によって叩き潰された後に聞いた今回の件の結末。
自分が手にかけた唯がいちごに拉致された事が姫子の心に猜疑心をもたらしていたのだ。

姫子「それこそこんな事に関わったら死んじゃうかもしれない。でも聞いて、できたら協力して欲しい」

 エリ、アカネ、しずかの三人は無言で、しかし力強く頷いた。
姫子はそれを見て安心したように胸を撫で下ろして微笑んだ。

姫子「じゃあ話すね。あの日私と唯が闘った時の事……」

 緩めて顔の筋肉を引き締め、一瞬だけ身震いしてから姫子は言った。

姫子「唯の中に居る『モノ』の事を」





姫子「ようこそ『絶対の彼方』へ」

 姫子と唯は静かに対峙していた。
グラウンドに吹き付ける風は嵐のように強い。
それに相反するように唯が纏う紫電は一層強く輝く。

姫子「っ──!」

 姫子は大気の乱れを感じ、咄嗟に身を捩る。
それとほぼ同時に唯は姫子が居たところまで潜り込んでいた。

唯「あはっ」

 唯は歪な動作で顔を上げた。
瞳は餌を前にした獣のように爛々と輝いており、半開きの口からは舌が垂れている。
一筋の光を残して唯は姫子の顔面目掛けてフックを放つ。
姫子はそれをすんでのところで掌で受けるが……。

姫子「い……っ!?」

 唯の拳に触れた瞬間強烈な電気が姫子の身体に流れた。
電流、電圧、共に計り知れない規模のそれは姫子の身体を蹂躙する。

唯「ボディがお留守だよ!」

 電気の衝撃に耐える事に手一杯で、姫子はガードを疎かにしていた。
そんな重大な隙を唯が見落とす筈もない。

姫子「がはっ──!?」

 衝撃に甘んじて吹き飛ぶ事も許されず、姫子の身体は一層強い紫電に食らい尽くされる。

唯「あはははははははっ!!」

 唯は堰を切ったように笑い声を上げた。
紫電と闘気が混ざり合い、形成されたモノが見え隠れする。

姫子「へらへら……すんな!」

 身を焦がす痛みに耐え、姫子は唯の側頭部に回し蹴りを放った。
鈍器のような威力を持った足が唯に突き刺さる。

唯「あは──」

 狂った笑みを浮かべたまま唯は吹き飛んだ。

姫子(何これ……意味分かんないよ!)

 先程まで姫子の中にあった強者と戦える悦びは跡形も無く消え去っていた。
そしてそれの代替として自分の身を脅かす者に対する殺意が沸く。

唯「…………」

 緩慢な動作で身を起こした唯は、きょろきょろと辺りを見回して、その焦点を姫子に合わせた。

唯「姫子ちゃん……」

 姫子を見据える瞳には一切の光も宿っておらず、黒曜石を嵌め込んだようなそれは静かに揺らいだ。

唯「タのシイ──ネ!」

姫子「っ!?」

 唯は既に唯ではなくなっていた。
闘争心を吐き出し続けるただのモノ。
そこに人間らしさなど介入する余地も無かった。

姫子(殺す……?)

 それは容易い事ではないが出来ない事でもない。
『絶対の彼方』を越えたばかりの唯と姫子では潜在能力では唯に分があるものの、経験が違い過ぎる。
姫子がその気になれば二、三分で事が済むだろう。

唯「あっははハハハハはっ!!」

 姫子の心の内の葛藤も知らずに、唯は身を跳ねさせて笑う。
広げた両手からは紫電が放出され、地面を爆散させてゆく。

唯「惚けてるね~。余裕なのかな? かな?」

 唯の姿が姫子の視界から消えた。
姫子は既に唯を目で追う事を放棄し、闘気の流れで動作を察知している。

唯「エンハンサー!!」

 姫子の頭上で唯は拳を振りかぶっていた。
右腕に紫電を纏い、一気に動作を加速させる。

姫子「~~っ!?」

 初速と最高速度の差が大き過ぎて対応が遅れる。
頭上で交差させ、唯の拳を受け止めた腕に衝撃が走る。

唯「あっははははっ!! 最っ高だねぇ!」

 姫子の腕を中心にして衝撃が波のように広がる。
痛みが全身に到達するのに一秒と掛からなかった。

 衝突と同時に身体を流れる電気を相手に流し込む。
衝撃は波となって響き、広がる。
それが衝撃拡散型戦闘スタイル『エンハンサー』だ。
 『絶対の彼方』を越えて自分の闘気の特性を理解した上で即座にこのスタイルを閃いた唯の才能は、今や武神の域に到達しつつある。

唯「か~ら~の……!」

 唯は押し当てた拳に力を込め、その反動で宙返りする。
そして地面に足が着くと同時に姫子の懐へ潜り込む。

唯「トレモロ!」

姫子「やば──っ!?」

 下から突き刺すような軌道を描く唯の拳を見て姫子は焦る。


 姫子は咄嗟に身を屈めて拳を躱す。
頭上で拳圧が広がるのが分かった。

姫子(私の技をコピーした……!?)

 一発の突きを放つ刹那に走った無数の衝撃。
それは『風哭き』と呼ばれる姫子が最も得意とするスピード特化の戦闘スタイルだった。

姫子「こんの……っ!」

 片手を地面につき、その手を軸にして鎌のような足払いを仕掛ける。
ガードという概念すら捨て去ってしまっている今の唯にそれを避けられる筈もなく、そのまま盛大に転ぶ。

唯「あ?」

 唯が地面に衝突するよりも早く、姫子は唯の両腕を掴む。

 そのまま腹這いに唯を叩き付け、その小さな背中に跨る。

姫子「逃がさないよ!」

 全力で抵抗する唯を押さえ付け、姫子は唯の身体を海老反りの状態にきめた。

唯「あ……ぐ……っ!」

 ぎりぎりと圧迫される背骨が悲鳴を上げる。
声にならない声を漏らしながらも、唯は抵抗を止めない。

姫子「負けを認めなよ。このままじゃあ背骨折れちゃうよ?」

 関節技やその類の技は力任せに抵抗したところでそう簡単に解けるものではない。
こうなってしまえば唯の命は姫子の気分によって転がされる。
そのまま力を込めて背骨をへし折る事は児戯にも等しい単純な作業なのだ。

 だが姫子はそれをしなかった。
普段から自分に懐いてくれていた唯を、今や姫子は自分の妹のように愛しく思っていたのだ。
一過性の殺意に身を任せて大切な人を殺める事など、立花 姫子に出来はしない。

唯「あはハハハハはっ! 痛いよぅ姫子ちゃン! あはははハハッ!!」

 唯の嬌声は情愛にも似た姫子の思いをあっさり打ち砕く。

姫子「っ!?」

 大切な人が遠くに行ってしまった喪失感は、姫子の手を一瞬、ほんの一瞬だけ緩めてしまった。
 そう立花 姫子は間違ってしまったのだ。
最早唯は姫子が知っている唯ではない。
人の皮を被った悍ましいナニカに情を注いでしまった。

唯「あはっ! 優しイねぇ、姫子ちゃンは!!」

 唯は一瞬の隙を利用し、針の穴を通すような的確かつ精密な動作で束縛を振り払う。
姫子には何が起こったのか理解出来なかった。
ただ気付いた時には自分が仰向けに倒れていて、その上に唯が跨がっていた。
 マウントポジションから振り下ろされる鉄鎚の如き拳を姫子はすんでのところで受け止める。

姫子「いっ──!」

 エンハンサー。防御不可の痛みが姫子を襲う。
立て続けに振り下ろされる拳に容赦などない。

唯「あはははっ!! 死んじゃえ! 死んじゃええええっ!!」

 痛みに侵され、朦朧とする意識の中で姫子は葛藤していた。
 生きる為にはKILLしか無い。
昔読んだ小説のそんな言葉遊びが頭を過ぎる。

姫子「うぐ──」

 ガードの隙間を縫い、唯の拳が姫子の頬を捉えた時、姫子の頭の中でぶちりと音がした。
それは姫子の覚悟が情を食い破った音だった。

唯「あは──」

 唯の嬌声は強制的に遮断された。
首筋に放たれた姫子の手刀が唯を打つ。
言うまでもなく勢いよく吹き飛ぶ唯の身体を、姫子は脱兎の如く追う。

姫子「ごめん!」

 唯の首を両手で掴み、直立不動のままその手に力を込める。

唯「──っ!」

 不規則に息を漏らしながら唯は全力で抵抗する。
身体に纏った紫電は全て姫子の身体に流し込まれる。

姫子「絶対……離さない……っ!」

 ぎりぎりと歯を食いしばり、首を絞める力を更に強める。
次第に唯の抵抗は弱まり、だらりと頭を俯せた。

唯「…………」

 完全に意識を手放したと判断した姫子は力を緩めようとした。
だがその時、姫子に電流走る。

唯「ひゃっはははは!! 離せっつってんだろぉがこのアバズレがあああっ!!」

 操り人形のような歪な動作で顔を上げた唯は今までで一番狂った笑い声を上げた。

 その声は姫子が良く知る唯の声では無かった。
幾つもの声が混じり合った、人工音声のような声。
そんな醜い笑い声を上げながら、唯だった者は片手を空に翳し、突き出した人指し指をくるくる回した。

姫子「……っ!?」

 闘気の流れが空に向かうのを感じ、姫子は空を仰いだ。
紫電が収束し、轟音を響かせているのが見えた。

唯「喜べ! 慶べ! 歓べ! 悦べ!! この『龍』が直々に殺してやる!」

姫子「う……」

 恐怖は防衛本能を駆り立てる。
空で帯電する闘気がより一層強く輝いたその刹那、姫子は闘気を最大限に放出した。

姫子「うわあああああああっ!!」

 爆風が吹き荒れる。
姫子の腕はただ一つ、唯の心臓を目掛けて神域の速さで直進した。
ずぶりと肉を貫く嫌な音と感触が姫子の心を痛め付ける。
その直後に姫子の真横に紫色の光が降り注いだ。

唯「ひめ……こ……ちゃん……」

 伸ばした腕の先に在る唯の顔は穏やかなものだった。
自分を縛る鎖、枷が外れ、ようやく全てから解放された。そんな笑み。

姫子「あ……やだ……やだよ……っ!」

 自分が殺めたにも関わらず、安らかに死にゆく唯を見て姫子は狂乱する。

唯「────」

 最期に唯が呟いた言葉は、姫子の心をひたすらに苛める。

姫子「いやああああああああっ!!」

 姫子の世界は音を立てて崩れた。


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