恵「赤、青、黄、緑。闘気は通常これら四つの種類に色分けされていて、それぞれ違った特色を持っているの」
軽音部の部室にて六人が一同に会していた。
備え付けられたホワイトボードには四色の円が描かれている。
恵「赤は炎。青は水。黄色は土。緑は風。それぞれの闘気はその四大元素に干渉していると伝えられてるわ」
律「じゃあその闘気をマスターすれば手から炎出したり出来るんですか!?」
律は新しい玩具を目前にした幼児のように目を輝かせた。
その様子を見て脇にいた和がくすりと笑った。
和「そんな魔法があっさり使えればこの世は資源不足になんかならないわよ」
軽く窘められた律はつまらなそうに舌打ちすると、僅かに浮かせた腰を椅子の背もたれに預けた。
恵「感受性次第、よね。そもそも闘気自体普通に生活していれば気付く筈が無い代物なの。そんな繊細な力を扱うにはその宿主も繊細じゃないと……」
律「……ってことは」
言いかけて律は肩を竦めた。
澪「そのがさつな性格を何とかしないとな」
澪は窓際の椅子に腰掛け、足を組んだその上で頬杖をついている。
表情はフードの中にすっぽりと隠れており、彼女の心境を鑑みる事は出来ない。
律「だよなぁ……」
普段は食ってかかる律もこの時ばかりは気が気ではなかった。
紬「まぁまぁりっちゃん。三つ子の魂百までって言うし」
梓「ムギ先輩……。それフォローになってませんよ」
律「やめろよ……。そんな目で私を見るなって」
同情の視線が今の律には痛々しく思えた。
和「その点ではあの子は飛び抜けてるからね。センスやポテンシャルで言えば私よりも良いモノ持ってるわよ」
恵「そりゃそうよ。私の『可愛い後輩』だからね」
恵は唇に指を添えて微笑み、ぼんやりとしている澪の方を見た。
恵が澪を見る時の表情の何とも言えない艶めかしさに一番始めに気付いたのは紬だった。
紬「その……。お二人、何かあったんですか?」
紬の素頓狂な質問に部室に居た全員は一斉に紬の方を見た。
紬「何ていうかその……。上手く言葉には出来ないんですけど……」
自分と同じ匂いがする。とは口が裂けても言えなかった。
そんな紬の心境を悟り、恵は少し意地が悪そうな笑みを浮かべて言う。
恵「何があったっけ? 澪ちゃんは覚えてる?」
投げ掛けられた質問に対して澪は反射的に手で顔を覆った。
その拍子に被っていたパーカーのフードが外れる。
澪「……っ。止めて下さいよ恵先輩……」
覆われていない耳の部分は真っ赤に染まっており、震える声からは明らかに動揺している事が分かる。
紬「まぁっ!」
紬の表情が打って変わって爛々としたものになる。
それに少し遅れて梓が引いたような視線を澪に送る。
律「あ? なにがどうなってどういう事だってばよ?」
梓「……だから律先輩はがさつなんですよ」
子馬鹿にしたような梓の呟きを律は聞き逃さなかった。
一秒にも満たない時間の間に律は梓の頭を腕で締め上げる。
律「なぁかぁの~!!」
梓「ちょ……っ。痛い! ごめんなさい! 痛い痛い痛いっ!!」
容赦無い締め上げに梓は泣き言を漏らした。
その様子を眺めつつ、恵と和は溜め息をつく。
和「困った子達ね……」
恵「あら、でもこういうのも悪くないんじゃない? 少し嫉妬しちゃうな」
ほんの少し哀愁が漂う憂いを帯びた笑みを浮かべ、恵は澪の方を見た。
澪「…………」
澪はどこかつまらなそうな表情で、椅子の上で抱えた片膝に顎を乗せている。
和「……世界から取り残されてまで得た力に、意味なんかあるんですかね?」
恵「これからこの子達を巻き添えにする人間の台詞じゃないわね」
恵がそこまで言ったところで、今まで黙っていた純が口を開く。
純「深く考えることないんじゃないですか? 無駄な深読みはお腹空くだけですって」
からからと笑う純の言葉に、恵は深く頷いた。
恵「闘う相手がいる内は何も考えずにぶつかりなさい。分からないモノを模索したって破綻するだけなんだから」
恵はそう言うと我が子を見るかのような優しい表情のまま、部室を一瞥した。
しずか「こほっ……こほっ……」
時を同じくして、木下しずかは校舎の屋上で大の字になって寝そべっていた。
コンクリートの足場の冷たさが、今の彼女には少し心地良く感じられた。
しずか「血が……足りない、かな……?」
しずかが着ている学校指定のブレザーは既に使い物にならないほどに切り裂かれている。
その切り口の隙間からは赤黒い血が滲んでいた。
しずか「えへへ。これで、やっとトップランカーだね……」
しずかは力ない笑みを浮かべて、自分の両脇で倒れている二人の生徒を見た。
しずかの右隣で倒れているのは木村文恵。
超好戦的かつ残忍な戦闘スタイルとその卓越した剣捌きから『辻斬り』と呼ばれ恐れられた少女だ。
彼女の両手の甲にはバタフライナイフが刺さっており、綺麗に足場に穿たれた形になっている。
背中には一際大きな傷がついており、そこから夥しい量の血が流れていた。
しずか「真っ先に心臓狙ってくるんだもん。びっくりしちゃうよ」
しずかは虚ろな瞳で文恵の手元に転がっている刀を見た。
刃の中心部には大きな亀裂が走っており、あとほんの少し力を加えればたちまちに折れてしまいそうだ。
しずかはそのまま視線を真逆に移した。
視線の先には長い黒髪で眼鏡をかけた少女が仰向けに倒れている。
しずか「……私の首はあげないよーだ」
高橋風子の二つ名、『死神』の大元のルーツとなる黒塗りの大鎌は、彼女の手元で真っ二つに折れている。
力無き者に無慈悲なる裁きを下す死神は、両足の腱を切り裂かれて全ての肋骨をへし折られていた。
しずか「……ふふん」
少し誇らしげなその表情は小さな体躯のしずかを更に幼く見せる。
しずかはボロボロのブレザーのポケットをまさぐり、携帯電話を取り出した。
アドレス帳のハ行にある名前をクリックし、電話をかける。
通話先の人物はきっちり三コールで電話を取ったようだ。
しずか「姫子……。私一人でやれたよ。トップランカーになれたんだよ」
絶え絶えになっている朦朧とした意識の糸を握り締め、しずかは喜びを姫子に伝える。
しずか「うん。うん、でも迎えに来て欲しいかなー、なんて。もうクタクタで動けないや……」
電話越しに聞こえる姫子の声は、確かにしずかを勇気づける。
しずか「屋上だよ。うん、じゃあまた──」
言いかけたところで携帯電話はしずかの手から滑り落ちた。
川の字になって寝そべる三人から流れる血は、血の川を作り上げている。
平沢 唯は夢を見ていた。
床に着いて意識を手放し、そしてその意識が覚醒した瞬間唯はこれが夢なのだと悟った。
上を見上げてもそこには空も天上も無かった。
ただ真っ白な空間だけが無尽蔵に広がっている。
足元を見ると工場付近の溝川のように虹色に濁った液体が広がっていた。
あらゆる物理法則を無視し、彼女はその上に立っている。
『おはよう。或いはおやすみ、かな?』
初めからそこにいたかのように、それは唯の目の前に現れた。
少し癖がある茶髪。やや起伏が控え目の身体。白くも黒くもない、日本人らしい黄色の肌。
唯の前に現れたのは唯だった。
ただ一つ、彼女と唯にある明確な違いを挙げるとするならその瞳だろう。
純真無垢な黒真珠のような唯の瞳とは違い、彼女の瞳にはキャンバスにぶち撒けた黒の絵の具のような漆黒の濁りがあった。
唯「君は……?」
『皆まで言うなよ唯。私に名乗る名前なんて無い」
自分の名前を呼ばれて唯は一瞬どきりとした。
だがこれは夢なのだ。そんな思い込みと持ち前の肝の太さでその動揺は直ぐにかき消された。
唯「じゃあ何処かの誰かさん。此所は一体何なの?」
唯の質問に対して彼女はからからと笑った。
自分と同じ顔が目の前で表情をころころと変えているその異様なシチュエーションに唯はどぎまぎする。
『何処かの誰かさん、ね。こりゃ良いや、私は今日からそう名乗る事にしよう。……と、お前の質問に答えるならば、此所は『全て』であるとでも言っとこうかな』
回りくどい喋り方に唯は内心いらいらしていた。
唯は気が短い方ではない。
だが彼女は温厚な唯すらも苛立たせる妙な不快感を持っていた。
『そうかりかりしなさんなって。私は何千年も生きてきたわりにはオツムの方はからっきしなんだ。此所が何たるかを分かーりやすく説明出来る語彙力なんか持ち合わせてないよ』
まぁオツムが弱いのはお互い様か。後に付け加えたその言葉は唯を更に苛立たせる。
『ここはお前の家でもあるし軽音部の部室でもある。はたまた修学旅行でお前が見た清水寺でもあるし国会議事堂でもあるんだぜ?』
言いながら彼女は指を鳴らした。
その渇いた音と共に回りの景色がスクロールされてゆく。
慣れ親しんだ軽音部の部室。毎日憂と他愛ない談笑をしていたリビング。東京タワーに凱旋門。コロッセオにナスカの地上絵。
景色の暗転が十階を越えたところで唯は反応を示さなくなった。
『分かったか?』
唯「分からないよ」
唯は機械的に即答した。
感情や礼儀が籠っていないその返事は普段の彼女からは想像出来ない冷淡さを持っている。
『……全てと繋がり、全てが集う場所とでも言っておこうかな。頭の悪い私がこうやって頭使ってるんだ。ちょっとは感謝しろよ?』
次第に相手にする事すら億劫になっていた唯は何も答えなかった。
『……まぁ良いや。んじゃそろそろ本題に入ろうかな。お前がここに来た理由、或いは私がここに居た理由を教えてやるよ。どっちが知りたい?』
唯「どっちにしても同じ事なんでしょ?」
『ご名答。このシチュエーションを作り上げた因果が何であろうとどうでも良い。物語には関係無い事だからな』
彼女は再びからからと笑う。
唯は口を真一文字に閉じる。
『まぁなんだ。立ち話もなんだしお茶でも飲もうか。好きだろ?』
彼女が指を鳴らすと軽音部の部室が現れた。
いつも五人で茶を啜っているお馴染みのテーブルには二つのコップが置かれており、琥珀色の液体が湯気を立てている。
唯「私はいらないよ?」
『そうか。なら飲め、今直ぐに』
唯「っ!?」
唯は自然な動作で椅子に座り、テーブルに置かれたティーカップに手を伸ばした。
だがその動作とは裏腹に、表情は狐に化かされたかのように困惑している。
唯「~~っ!?」
自分の意志に背き、身体だけが一人歩きしていた。
琥珀色の液体は唯の口内に流し込まれ、喉を通ってゆく。
唯「こほっ……」
至って普通のレモンティーなのだが、今の唯にはそれが得体も知れないモノに思えた。
込み上げる不快感から思わず噎せ返る。
『ぎゃっははは! あんまり私に否定的な態度ばっかりとるなって。つんでれってのはもう終わったコンテンツなんだろ?』
大仰にテーブルを叩きながら彼女は言う。
『私は親切心からお前に忠告する為にこの環境を作ってやったんだぜ?』
唯「忠告?」
唇に手を添え、無意識に警戒したまま唯は尋ねた。
彼女はその僅かな猜疑心すら見透かすようにじっと唯を見据える。
『若王子 いちご。あいつに心を許すな、人間だと思うな。その胸の傷が癒え次第直ぐにあの女を殺せ』
唯の喉を何か冷たいものが通り抜けた。
絶対零度を越えた死の冷たさが唯を襲う。
唯「──っ!」
唯は震えて感覚が薄れてゆく身体を唇を噛み締める事で奮い立たせた。
それでも唯の胸を這い寄る死は薄れない。
『怖いか? 怖いだろ? それはお前が私に敵意を持ってるからなんだよ。早く楽になっちまえ、私はお前にとって悪い事なんて言わない』
唯「……うるさいよ」
猫撫で声で詰め寄る彼女を睨み付け、唯は手に持つティーカップに力を込めた。
ティーカップは音を立てて割れ、空中で粉になる。
『何で抗う? いつも無意識で最良の道を選んで来たじゃねぇか』
唯「私の人生が最良だなんて思った事はないよ」
『涙が出る程怖いだろ? その涙の理由を変えたいとは思わないのか?』
唯「泣きたくなる気持ちを捩じ曲げてまで逃げたいとは思わない」
『力への意志。お前にはそれがあるだろう? 生ある者にしか最強は訪れないぞ』
唯「望まれない最強になるくらいなら、私は最弱でも皆と笑いたいよ」
『死んじまったらお前が笑えねぇだろうが』
唯「私は死なないよ。いちごちゃんの事も信じた上で笑ってみせる」
『ふざけるな』
唯「ふざけるよ」
永遠、或いは刹那とも感じられる二人の間の問答は不意に終わりを迎えた。
『……良いぜ。お前がほざいてる事が全部強がりだって事を教えてやんよ』
世界が硝子細工のように脆く崩れ去り、全てが虚構に消えた。
唯は得も知れない何かと向き合う覚悟をした。
だがその覚悟すら闇に溶けていったのだ。
『お前は私だ。だからお前の気持ちなんて尋ねるまでもねーんだよ』
彼女は一歩唯に詰め寄り、両方のこめかみを指でがっちりと固定した。
唯「え?」
胸を這う死の恐怖がいよいよ現実のものになろうとしている。
だが唯はそれに対して悲鳴を上げる事も出来なかった。
『だがお前は私じゃない。おこがましい真似はそれくらいしとけよ? 取り敢えず今はさよならだ。私の器』
彼女の指がゆっくりと唯の頭部に侵入してゆく。
脳を冒す絶望と苦痛。
それを感じる手前で唯の頭は粉々に砕け散った。
唯「……あ」
目を開くと唯の眼前には真っ白な天井が広がっていた。
唯「…………」
彼女に会う前に感じていた、あれは夢だという独特な感覚は消え失せていた。
ぐちゃぐちゃになった拙い思考回路ながらも彼女は考察し、思う。
唯「……夢じゃない」
夢じゃない。だが現実でもない。
唯と彼女が居たあの空間は、そんな陳腐な定義すら打ち崩す超越したモノなのだ。
いちご「適応率が七十パーセント越え……?」
あちらこちらからむき出しのケーブルが飛び出ている怪しげな研究室。
いちごはその中央に鎮座するモニターを訝しげに見つめた。
斎藤「一過性のものでしょうか? 鎮静剤を投与しますか?」
いちご「……いや、いい」
唇に手を添え、何か考え込むような仕草を見せると、いちごは脇に備えられたパソコンのキーボードを叩いた。
いちご「現段階で『エデンシステム』は適応率九十三パーセントまでは耐えられる筈。むしろ『龍』の力を多く補給出来るし、好都合よ」
パソコンのディスプレイが暗転し、透明のカプセルが映し出された。
いちご「或いは一過性でなくても、この状態を保てれば完成が大幅に早まるわ」
カプセルの中には木を手の平ほどの大きさに縮めたようなモノがあった。
葉の一枚一枚がうっすらと光を放っており、神々しさを放っている。
いちご「ねぇ斎藤」
斎藤「はい」
いちごの呼び掛けに斎藤は一歩前に出て背筋を伸ばした。
いちご「あなたはアダムとイヴの逸話を知ってる?」
斎藤「その手の話には疎いもので……。大まかな事しか存じておりません」
いちご「そう。ならそれでも良いわ」
いちごはパソコンの前の丸椅子に腰掛け、くるりと斎藤の方を向いた。
いちご「サタンに唆され、知恵の実を食べた愚者は楽園を追いやられた。永遠と幸福を奪われてね」
空想のアダムとイヴ、そして林檎の木と蛇の悪魔を思い浮かべ、いちごはそっと目を閉じた。
いちご「限られた命という呪いを架せられたアダムとイヴの子孫である私達も、その咎を悔い改め続けなければならない」
目を開き、無機質な天井を仰いで目を細める。
いちご「馬鹿らしいとは思わない? 覚えの無い罪を勝手に背負わされて、確実にやってくる死に怯えなければならないなんて」
斎藤「……しかし人は死にます。それは覆らない道理なのでは?」
いちご「愚か者はそうやって思考停止してると良いわ。私は愚者のままではいたくない」
失望の意を隠す事もせず、いちごは冷たい瞳で斎藤を睨んだ。
いちご「知恵の実を食べた愚者の子孫である私達の宿命。それは生命の実を創る事よ」
斎藤「……『エデンシステム』ですか」
斎藤はサングラス越しにモニターを見据えた。
映し出された禁断の林檎の木が、途方もなく悍ましいものに見える。
いちご「そう。私はこの『エデンシステム』で神に反逆する」
そして斎藤は生命の実を創ろうとしているいちごに、恐怖を越えた感情を覚えた。
斎藤「……私には分かりません。そこまでしてこの世に居続けたい理由は何なのでしょうか?」
いちごは一瞬口を噤んだ。
そして何処か悲しそうな顔をして、くるりと斎藤に背を向ける。
いちご「……それで皆が幸せになれるからよ」
斎藤「はたしてそうでしょうか? 常套句ではありますが、限りある命こそ尊いと私は思います」
斎藤が言い終えると同時に、いちごはキーボードを強く叩いた。
いちご「あなたの大切な人が死んだ時、同じ台詞が吐ける?」
斎藤「私にそのような方は居ません」
いちご「私にもまだ居ない。でも生きていればきっとそんな人が現れると思うの」
いちごは一瞬だけ身震いした。
いちご「その人が急に私の前から消えたら……。想像しただけで気が狂いそう。誰もこんな思いをしちゃ駄目なの」
斎藤「しかし……」
斎藤は何か言い掛けて口を閉ざした。
いちご「……世迷い言。ごめん、忘れて」
いちごは二つ結びにした髪の毛を弄り始める。
いちご「下がって。少し一人になりたい」
斎藤は二つ返事で踵を返し、研究室を後にした。
無機質な天井はまだ続いていた。
斎藤「平沢 唯を利用する事で悲しむ人間は、この言葉を聞いたら何を思うのだろうか……」
黒いスーツの内から煙草を取り出し、少しためらいながらもそれを口に咥え、火を点けた。
斎藤「夢を見るのは自由……か」
斎藤は紫煙をくゆらせながら歩く。
その背中は心なしか小さく見えた。
怪しげな雰囲気を醸し出す夜の繁華街。
純はブレザーの上から無骨なライダースジャケットを纏い、ジップを首元まで上げている。
そんなアンバランスな格好でこんな怪しげな通りを歩くのには理由があった。
純「……暑いっつーの」
第一の理由は生徒会による見回り。
先の一部の生徒によるテニス部への暴力事件の被害者が、この近辺のいかがわしい店で働かされているとの情報があったのだ。
しかしいくら世間の桜高の生徒に対する視線が畏怖の念に染まっていようと、女子が制服で風俗街を一人歩くのは流石に印象が悪い。
そんな俗物的思考から、純は現在この苦労を強いられている。
純「もうすぐ夏服に切り替わろうかって時期にこのジャケットですか!?」
和「異論は終わってから聞くわ」
そんな五秒にも満たないやり取りで、自分の苦労が確定されたと思うと、純は内心苛立っていた。
放課後の澪との邂逅。闘気という概念の指導。
今日だけで三日分の体力を消費した気がする。
頼むから今日はもう何も起こらないでよ、などと切に願っていた純なのだが。
純「…………」
拭い様もない絶対的な違和感に、純は足を止めた。
コンクリートジャングルの中に潜む獅子。 或いは豊潤な土壌に潜む蠍。
或いは淡々と、炎々と繰り広げられる日常の中に潜む異常。
そんな場にそぐわない存在がそこにあった。
純「っ──!」
気付いてからは速かった。
喧騒で溢れる繁華街から、純の姿が消える。正確には超スピードでその場から離れたのだ。
純(うっそでしょ……。殺る気満々じゃん)
コンクリートの建物の屋上を転々とし、繁華街を離れると木々が鬱蒼と茂る小山に辿り着く。
純「みーつけたっ!」
繁華街から数キロ離れたこの小山に辿り着くまでに要した時間は僅か五秒。
武術に秀でた剛の者が今の純を見ればそれだけで尻尾を巻いて逃げ出すものなのだが、それは宙を舞う純を見据えて、獣のような笑みを浮かべた。
地毛とも染色ともとれる独特な色の髪の毛を二つ結びにした可憐な容姿。
それから放たれる威圧感は醜く、どす黒い。
純「……上等!」
空中で体重移動し、落下スピードを高める。
純はそれの前に降り立った。
純「事前の取り締まりってのも一応ありなんですよね。私にそんな殺気を見せた自分の愚かさを恨んで下さいな」
三花「……『獣王』佐伯 三花。私の名前だよ」
全く噛み合っていない会話。
だが今の二人にはそれで充分だった。
純は三花の膝に下段回し蹴りを放った。
格闘における基本中の基本とも呼べる技。
シンプル故に強靱な一撃が三花を捉える。
純「まだまだ!」
続いて脇腹に中段回し蹴り。膝に下段足刀。瞬時に体勢を変え、ローファー越しに足の甲を踏み付ける。
がら空きの顎に上段足刀。
両手で脇腹に鉤手。こめかみに肘打ち、両手をそのまま縦に広げ、顔面と下腹部に突きを放ち、首筋に手刀を決める。
ふらつく三花の身体をそのまま倒す事は許さない。
渾身のアッパーを鳩尾に捩じ込む。
純「あははっ、こりゃ楽しいや!」
神速のコンビネーションは止まる事を知らない。
三花にその地獄のような包囲網から逃れる術は無かった。
最期に頭突きを顎に捩じ込み、三花にとっての地獄は終わる。
純「煉獄──」
倒れゆく三花の身体に見向きもせず、純は癖の強い髪の毛をさっと払った。
だがそれがいけなかった。
純は究極のコンビネーション技、煉獄を止めるべきではなかったのだ。
たとえ一昼夜続けて煉獄を放ち続けても、佐伯 三花を相手にするならば用心のし過ぎという事はない。
三花「いっ……たぁ……」
純「へ?」
背中に強烈な衝撃を感じつつ、純は一際大きな木に叩き付けられた。
負荷に耐えられなくなった木は鈍い音を立てて倒れる。
三花「急所ばっかりそんなに狙って……。『人間』だったら死んでるよ?」
純「っ!?」
三花から感じ取れる闘気は零。
つまり佐伯 三花は『絶対の彼方』を越えていない。
にも関わらず純は悪寒を感じた。
『絶対の彼方』と同等、或いはそれ以上の異端の壁を越えた力が純の肌を刺す。
純「一体……」
負ける気はしなかった。
恐らく本気でやり合えば十中八九自分が勝つであろう。
だがそんな確信の中に欺瞞が見え隠れしている。
純「何者……?」
「『獣王』よ」
丁度三花の頭上からその凜とした声は聞こえた。
腰に桜の波紋を持つ銘刀『桜花』を携えた桜高の帝。
和「……面倒な事になってきたわね。私の代の生徒会は貧乏くじだったのかしら?」
夢幻の霧の中を蠢く獣王。その眼前に女帝が降臨した。
最終更新:2013年03月04日 19:52