窓から差し込む日の光が仄暗い部屋を照らす。
日が昇り、そして沈んで月が昇る。
その至極当然の世界の営みの中から完全に隔離された世界がそこにあった。

憂「…………」

 この部屋に閉じこもってから何時間、何十時間が経ったのだろうか。
憂は既に考えるのを止めている。
 朝日が射し込む窓は粉々に割れており、木で出来た扉にはぽっかりと空洞が出来ていた。
この部屋への侵入経路となる部分は凄惨に壊れているにも関わらず、部屋自体は埃っぽさはあるものの荒れてはいない。

憂「…………」

 その理由は至ってシンプルだ。
そして今その理由が証明されようとしている。

「平沢 憂だな」

憂「…………」

 割れた窓から黒いスーツを纏った男が現れた。表情はサングラスに覆われていて分からない。
扉、天井裏からも同じような出で立ちの男が十数人ほど現れた。

憂「…………」

 男の呼び掛けに対して憂は何も答えない。
ただ部屋の隅で膝に顔を埋めている。
 憂に抵抗の意志が無いと判断した男は仲間内で目配せをし、憂の肩に手をかけようとした。

憂「……帰ってください」

 そこで憂はようやく口を開いた。
それと同時に空間が歪み、全てを掌握する。
男が伸ばした腕は肘に辺りから先が消え失せていた。

「え?」

 血は吹き出ない。
だが消えた腕の断面から崩れ落ちるように自分の身体が粉になってゆく。

「ひっ──!?」

「う、うわあああああああっ!!」

 その現象は他の男達にも現れていた。
頭部から崩れてゆく者。爪先から崩れてゆく者。
それぞれが異なる崩壊を遂げているが、行き着く先は無情にして平等だ。

憂「……帰ってください、お願いです。もう誰も殺したくないんです……」

 憂の声は男達の悲鳴にかき消された。
血液、内臓、骨、皮膚。人間を構成するあらゆるものが塵となってゆく。

 他者の存在の否定。
 憂は皮肉にも、最愛の姉を失った絶望故に究極の力を手にしたのだ。
憂の闘気にあてられない強者さえも彼女の前ではその全てを否定されてしまう。
 絶望の螺旋を駆け巡り、増大していったその力は最早憂自身にもコントロール出来ない。

憂「誰か殺してよ……! こんなのやだよ……!」

 自暴自棄になって自殺を図った事もあった。
だが自分の命をどうこうする権利など、既に彼女には無かったのだ。
 憂の中で蠢く漆黒の『龍』は訪問者を食らい続け、貪欲に肥大してゆく。
 唯と憂、二人の少女の運命は力故に間違い、そして終わってゆくのだろうか。
その答えはまだ誰にも分からない。





和「…………」

 和は一人、平沢家を外から眺めていた。
通学途中でいつも通るのだが、何故か今日だけはやけに目につく。

和「……気のせいよね」

 胸騒ぎを押し殺した和は再び止めた足を動かした。
奇しくも、この時平沢家では十数人の男達がその存在を否定され、消え去っているところだった。
 真鍋 和は葛藤する。
自分では一生掛かっても乗り越えられないであろう平沢 憂という壁。
いつかその憂と命のやり取りをするのかもしれない。
曖昧ながらもそんな予感がしているのだ。
 姫子は言った。イレギュラーがイレギュラーたる原因は観測者の力量不足だと。
 純は言った。勝ち目は一パーセントくらいが丁度良いと。

 両者の意見は和の思考とは異なるものだった。
 幼少時より憂という存在を見続けていた和には分かる。観測し得ないイレギュラーがこの世にはあるという事を。
純の思考にいたっては論外だ。
そんなにスリルが欲しいのならどこぞの闇に舞い降りた天才と麻雀でもすると良い。

和「…………」

 しかし、他人の意見を絶対的に否定するように、自分の意見を絶対的に肯定出来る確信は和には無かった。
 或いは平沢 憂をも凌駕する力という概念を越えた力。
それを持つ者がこの先現れるかもしれない。
そしてあわよくば自分に協力的であれば、などと和は考える。

和(まぁ……。そんなの御都合主義も良いところだけどね)

 この曲がり角を行けば慣れ親しんだ学校が見える。
安易な希望を捨てていつもの厳粛な生徒会長像を取り繕おうとしていると、一台の車が和の隣で停車した。

和「……?」

 白の軽自動車の窓ガラスにはスモークが貼られていて運転手の顔を外から伺う事は出来ない。
いつでも臨戦態勢に移れるよう、和は腰に差した『桜花』に手をかけた。
窓ガラスが開き、運転手が顔を出したのはその直後だった。

恵「おはよ」

 少しやつれたような顔が現れる。
目の下にはうっすらと隈が出来ており、いつもの見ていて質量を感じさせない艶やかな茶髪はごわついている。

和「……大丈夫ですか?」

恵「あはは……。ちょっと徹夜しちゃってね」

 力無く笑う恵のやつれ具合は二、三日眠らなかったなどというレベルではない。
和は助手席に佇む少女を見て、恵の疲労の理由を察した。

和「あまり無理はしないで下さいね。その子の指導もあなたの身体ありきの事ですから」

恵「ああ、それならもう大丈夫。私の指導は多分もう必要ないわ」

 ちらりと助手席を見て、恵は少し誇らしげにはにかんだ。

恵「だってこの子、もう私より強いもの。ねぇ澪ちゃん?」

 澪はパーカーのフードを目深に被り、俯いている。
彼女の身から放たれる闘気は絶対零度の如く冷たい。

澪「……はい」

 控え目に片手を上げて肯定する。
そして首を振り、被ったフードを払ってから和を見据えた。

和「──っ!?」

 和は戦慄する。
今まで驕りなどではなく絶対的な理の元に自分よりも格下だと確信していた澪に、自分が恐れを抱いているという事実に。

澪「どうした?」

和「え……ぁ……」

 言葉を紡ごうにも口の中が渇き、喉がひりついて上手く喋られない。
視覚した世界が歪み、一秒でも早く逃げ出したい衝動に駆られる。この感覚は……。

和「う、憂ちゃん……?」

 イレギュラーがイレギュラーたる原因は観測者の力量不足。
姫子の言葉が和の脳内で鳴り響く。
間違いなく今の澪は自分にとってイレギュラーだ。

恵「──ねぇったら!」

 恵の声で我に返る和。
見ると恵が窓からコンビニ袋を提げて手を伸ばしてる。

和「……あ、すみません」

恵「ふふ、凄く間抜けな顔だったわよ? これ差し入れだから、軽音部の皆と食べてね」

 差し出されたコンビニ袋を慌てて受け取る時、和は恵の手が震えている事に気付いた。

和「え……?」

 和の表情の変化を察知し、恵は即座に手を引っ込めた。
そして目が合い、ばつが悪そうな顔をする。

恵「何か疲れちゃったな……。澪ちゃん、ここで良い?」

澪「はい、ありがとうございます」

 恵に一礼し、澪は車から降りた。

和「あ……」

 和を襲う戦慄が再来する。
 止めろ。辞めろ。来るな、化物!
 心の中で呪詛の言葉を澪に投げ掛けるのは、偏に和の胸で蠢く恐怖心のせいだった。
 澪の手がそっと和に伸びる。
冷や汗だけが落下運動を続けるが、肝心の身体はぴくりとも動かない。
喉が張り裂けんばかりに叫べればどれだけ楽だろう──。

澪「顔色悪いよ?」

 伸びた手は和の肩に置かれた。
身体が吹き飛ぶ事も全身も凍てつかされる事も無かった。

和「……大丈夫よ」

澪「そっか。じゃあ、ありがとうございます恵先輩。また連絡しますね」

 普段の澪らしい、凛々しくも御淑やかな礼だった。
恵はそれににこりと笑って返す。

恵「うん。決して『間違えない』ようにね」

 意味深な言葉を残して、恵は車は発進させた。
マフラーから流れた排気ガスが風に運ばれて消えるまで、澪は恵が去った方向を見据え続けていた。

澪「行こっか。皆待ってるよ」

和「ええ」

 歩き始めた澪の後ろを和は着いてゆく。
だが和は歩みを早めて肩を並べる事が出来なかった。

 和は一人困惑する。
恐らく今の澪は誰の手にも制御出来ない至高の力を手にしている。
平沢 憂が『究極生命体』ならば、秋山 澪は『完全生命体』と言ったところか。
 澪の繊細で揺らぎやすい豊かな感受性は『絶対の彼方』を易々と越えた。
だが果たしてその力は百パーセント自分に害が無いと言えるのだろうか。
 似通った心の揺らぎを持っている憂と澪。
制御不能と判断され、恐れられる憂の二の舞にはならないのだろうか。

和(それでも……)

 征くしかない。
 澪は威風堂々と桜高の校門を潜った。
そしてそれに遅れて和も校門を潜り、寄り添うように肩を並べた。





姫子「怪我の具合はどう?」

しずか「ん、そこまで深くなかったみたい。動く分には問題ないよ」

 桜高の保健室にて、姫子としずか、そしてエリとアカネが会合していた。

エリ「あれ? 切り傷とか骨までいってなかったっけ?」

アカネ「トップランカーからしたら唾つけときゃ治るレベルなんじゃない?」

 この二人は自分達とは立つ世界が違う。それを改めて認識したエリとアカネは若干引きながらも笑っていた。

姫子「ん、ちょっとごめんね」

 胸ポケットの中で携帯電話が震えているのを確認し、姫子は廊下に出た。

姫子「もしもし」

 未登録の電話番号。電話の向こうで聞こえた声は聞き慣れないものだった。

「おはようございます立花先輩。生徒会の者ですが」

 姫子の心臓が跳ねた。
依頼して一日も経たずにクライアントに経過報告が出来るその手際の良さに素直に驚いたからだ。

姫子「もう見つかった? そっちのシーカーさんは随分手が速いんだね」

「いえ、今回お電話させていただいたのは、今回の依頼は遂行出来ないという旨を伝える為です」

姫子「…………」

「申し訳ございません。若王子 いちごは既に国外に逃亡しているようです」

 予想していなかったわけではない。むしろその確率の方が高いと思っていた。
だがこれから先の唯奪還の計画の難航を想像すると、肩を落とさずにはいられない。

姫子「大丈夫だよ、よくやってくれたね。真鍋さんにもよろしく言っておいて」

「ありがとうございます。せめてご武運を祈っております、では……」

 通話はあっさりと途切れた。
酷く事務的な会話だったな、と姫子は思った。

姫子(となると、それなりの財力が必要か……)

 いくら桜高が規格外とはいえ、一介の高校生に海外に調査団を派遣出来る財力を持つ生徒は限られてくる。というより一人しかない。

姫子「琴吹 紬さん、かな」

 昨夜同盟を組み、即座に和に生徒会の者を調査に出させた。
だがそれが無意に終わったとなるならば、残る手段は一つしかない。
暫く考え込むように俯き、姫子は携帯電話のボタンを押した。

姫子「もしもし? ちょっとお願いしたい事があるんだけど……」

 三分ほど通話し、姫子は携帯電話をポケットにしまった。
そして再び保健室に入ってゆく。

エリ「おかえりー。誰だったの?」

姫子「ん、生徒会の人だよ」

アカネ「生徒会? 何でまた」

 訝しげに目を細めるアカネに対して、姫子は険しい視線を返した。

姫子「うん、それで話があるんだけど。それとしずか」

しずか「へ?」

 身体に巻かれた包帯を代える為に下着姿になっていたしずかだが、着替える手を止めてきょとんとする。
 一連の動作の全てが愛らしい、愛しくてたまらない。
だが自分が企てている計画が悪い方に転がれば、この子を失ってしまうかもしれない。
そう思うと姫子は胸が苦しくなった。

姫子「多分もう少し先の話になると思うんだけど、しずかに大事な役目を任せたいんだ。聞いてくれる?」

しずか「うん! 任せといてよ」

 姫子の苦悩を露知らず、しずかは姫子が自分を必要としているという事実に胸を躍らせた。

 特異体質故に獲得した『詐欺師』の戦闘スタイル。
他者に己の存在を認識させないその能力には致命的な穴がある。
しずかの能力は必要不可欠なのだが、その穴を補完出来るほどに鍛練を積む時間は恐らくないだろう。

姫子「その時になったら伝えるね。期待してるよ、トップランカーさん」

 しずかの表情が更に明るくなった事で姫子は更なる罪悪感に駆られた。
今全てを打ち明ければしずかの心はきっと揺れるだろう。
付け焼き刃の安定を求めて詐欺師のようにしずかを鼓舞する自分が嫌になった。

しずか「私頑張るね!」

 無垢な笑顔に対して姫子は、取り繕った笑みを浮かべる事しか出来なかった。

澪「誰から?」

和「立花さんからよ。何かムギに用事があるみたい」

紬「私に?」

 律と紬とは教室で合流していた。
 和の通話先が意外な人物だった事に、三人は驚く。

和「今日の九時に家に行っても良いか、だって。代わる前にきれちゃった」

 携帯電話はぱちりと折り畳み、胸ポケットに収める。
紬の表情がぱっと明るくなったのはそれとほぼ同時だった。

紬「美味しい料理を準備させておくわ!」

 自分の家に客を招待する機会が皆無に近い境遇故、姫子が訪れるという朗報に胸が躍っているのだろう。
紬は手を打って、微笑ましいほどに無邪気な笑顔を浮かべた。

律「私も私も! ムギん家行きたーい!」

和「はぁ……。ほどほどにしときなさいよ」

 澪は戯れ合う三人を冷淡な瞳で見つめていた。
こいつらは唯が居ない事を何とも思っていないのだろうか。
澪には巨悪の根源の場所さえ突き止めれば一瞬でけりをつけられる自信があった。
だが現状では何も出来ない歯痒さに顔をしかめる。

律「澪も行くだろ?」

澪「行かないよ」

 ぽんと肩に置かれた手を払う。
そしておもむろに立ち上がった。

紬「どこに行くの?」

澪「帰るよ。どうも体調が優れないんだ」

 机にかけた鞄を肩に引っ提げ、澪はそのまま教室を去って行った。

 教室に居るとむず痒い気分になる。
それは唯をないがしろにしている律達の態度から来る苛立ちなのか、その答えはノーだ。
 たとえ一瞬でも間違った思考に至ろうと、律達はきっと悔い改める事が出来る。
今のところは何も言うまい、澪はそう決め込んでいた。

澪「…………」

 昇降口で靴を履き替え、外に一歩踏み出す。
見上げた空は雲一つ無い快晴だった。
 腰に差した刀を抜き、宙を一閃する。
音も無く空が割れ、曇り空にも似た澱んだ空間が現れる。

澪「ぼちぼちだな」

 快晴だった空からは大粒の雨が滝のように降り注ぐ。
パーカーのフードを被り直すと、澪は雨の中を悠然と歩き始めた。





 俺はいつだって非情に生きてきた。
上からの依頼があれば女だろうが餓鬼だろうが一秒と躊躇せずに殺せる。そしてそうしてきた。
 殺した人間が夢にすら出てこなくなったころ、俺は目覚めたのだ。
 『絶対の彼方』を越える。
今思えばそれは何ということもないちっぽけな壁だった。
 壁を越えてから十年間、金の為だけに琴吹財閥お抱えの狙撃手として途方もない数の人間を殺してきた。
そしてそれはこれからも変わらない。

「見つけた」

 ライフルのスコープ越しに標的の内の一人が見えた。
突然降り出した雨で酷く視界が混濁しているが、まぁ問題は無いだろう。

 女の表情はフードで隠れていてよく分からない。
これから一分後には脳みそをぶちまける人間は何を思い、どんな顔をしているのだろうか。

「まぁ、知らねぇわな」

 考えても詮無き事だ。
俺は俺に与えられた仕事を完遂するだけ。
 引き金に手をかけて静かに闘気を練り込む。
赤の闘気で破砕効果を高めた一発必中の弾丸の完成だ。
 標的の女はふと足を止めた。
パーカーのフードを下ろしたその顔を見て、俺は思わず息を飲む。

「…………」

 綺麗だった。
一言で彼女を形容するなら、ずばりその言葉が正解なのだろう。

 血液が下腹部に集中しているのが分かる。
今立ち上がってズボンを見れば確実にテントが張ってあるだろう。
 仕事の最中に女子高生に欲情している自分が情けなくなった。
だがそれ以上に、俺の中で蠢く嗜虐性向が歓喜の声を上げている。
こんな上玉の女を俺の手で壊せる。考えただけで射精してしまいそうだ。

「ふぅー……」

 ミスは許されない。
逸る思い、うろたえる気持ちは全て『絶対の彼方』に置いてきた。
 息を整えて再び女を見据える頃には、失敗というシチュエーションは俺の脳内から消え失せていた。
 瞬きを抑えて引き金を絞る。
 さぁ、絶頂へのカウントダウンだ。
 三──。
 二──。
 一──。

「零」

 後ろで凜とした声が聞こえた。
振り返る事はままならない。

「あああああっ!?」

 右肩の辺りに痛烈な痛みを感じ、俺は狼狽した。
肩は熱を帯び、心臓の鼓動がうるさいくらいに頭に響く。

「切り傷一つでそこまでうろたえるんなら、初めからこんな事しないで下さい」

 女がそう言うと同時に俺の肩を貫いたモノを引き抜いた。
痛みで意識が引き抜かれそうになる。いや、むしろ引き抜かれてしまった方が楽なのかもしれない。
 痛い、ただそれだけだ。それ以上でも以下でもない。
だがそれ故に、俺は息をする事すらままならなくなっていた。
 考えなくても分かる。俺の物語はここで終わるのだろう。

澪「闘気から居場所を突き止めるのに苦労しました。まさか一キロも離れてるとは思いませんでしたよ」

 狙撃手の男は澪の言葉を聞いて驚愕した。
男が闘気を発したのは澪に狙いを定めた時で初めてだ。
つまり澪は自分が澪を視覚し、引き金を絞る間の僅かな時間で居場所を突き止め、ここまで来たという事になる。
男は格の違いを痛感した。

「……こんな寂れた廃ビルに……。あの時間でこぎ着けただと……?」

 息も絶え絶えに男は言葉を紡ぐ。

澪「赤の闘気は私の青と相反する属性ですから。距離的に手間は掛かっても一秒以上はかかりませんよ」

 直後、廃ビルの一室に氷のように冷たい空気が流れた。

澪「まぁそれは置いといて、貴方の意図とパトロンの居所。洗いざらい吐いて貰いますね」

 澪は血が着いた刀を払って鞘に収め、人指し指を立ててくるくると回す。
その軌道を追うように水が現れ、凍り付いて結晶となり落ちる。

「……なるほどな。しょーがねぇ、吐いてやるよ」

 男は舌打ちをすると、どこか清々しい表情で語り始めた。

「俺は旧琴吹財閥。つまり若王子機関のお抱えスナイパー──っつ!」

 肩の痛みの波が強まったのか、男は身を跳ねさせた。

澪「じっとしてて下さいね」

 即座に澪が肩に手を当てる。
傷口から溢れた血が凍り、男の感覚を麻痺させていった。

「……すまねぇ」

澪「煩わしいだけですよ。ちなみに言っておくとその腕、もう使い物になりませんから」

 痛みが麻痺したお陰で男は冷静でいられた。
むしろ自暴自棄というべきなのかもしれない。
片腕を潰されても笑いすら漏れてくる。

「冷たい、冷たいねぇ……。まぁ良いや、こんな腕くれてやるよ」

澪「いりませんよ。で、若王子機関の本部はどこにあるんですか?」

「はっ、聞いて驚くなよ」

 男の低俗な笑みが澪を苛立たせた。

「ここより遥か南、南極大陸さ」

 澪は眉をぴくりと動かしただけだった。
琴吹財閥を解体して乗っ取ったのだ。
それくらいの財力があったところで何ら不思議ではないだろう。

澪「南極に行けば唯に会えるんですね?」

「唯? あぁ、あのモルモットの事か。『エデン計画』が順調に進んでるんならまだ居るんじゃねーの?」

 男の口から意味深な単語が漏れたのを聞き付け、澪は訝しげに目を細めた。

澪「エデン計画?」

「おっと、それ以上は聞くなよ。俺も名前を知ってるだけで概要までは知らねぇんだ」

 男は着ている黒の上着の胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。

「おねーちゃんも一本いるかい?」

澪「私はまだ未成年です」

 差し出された煙草の箱を突っ撥ねると、澪は立ち上がって踵を返した。

澪「ありがとうございます。お大事に」

「待ちな、おねーちゃん」

 不意に呼び止められ、澪は顔だけ男に向けた。
男は下卑た笑みを浮かべており、ちびちびと煙草を吸っている。

「これから何か用事でもあんのか? もし良かったらもう少しだけここに居てくれよ」

澪「……?」

 男の意図が理解出来ない澪はしばらく考え込むように顔を伏せた。

「理由なんてねーよ。俺はおねーちゃんの可愛いお顔とエロエロボディに惚れてんだ。もうちっとだけ堪能させてくれよ」

 嫌らしい顔つきと下卑た笑みが、澪の生理的不快感を煽った。

「はぁー……。せめて一発ヤりたかったなぁ、くそ」

 男のズボンの股間の部分は雄々しく盛り上がっている。
吐き気すら覚えてくる男の言動。だが澪は募る怒りをすんでのところで抑えた。

澪「帰ります」

「うおっ!? ちょいまてって!」

 これ以上の対話は無意味だと察した澪は扉に手をかけた。
だが去り際に男が放った言葉が澪の足を止める。

「最期に一つ質問があるんだ! ふざけないから聞いてくれ!」

澪「…………」

 それならば、と澪は手をかけた扉を閉め直し、身体ごと男に向けた。

澪「手短にお願いします」

「へへ……。簡単な質問だよ」

 男が咥えている煙草は既に半分ほどが灰になって床に落ちていた。
更に続けて吸うつもりなのか、無事な片手でポケットをまさぐっている。

「俺みたいな小悪党がよぉ……。こんなにペラペラと機密を漏らすのってどんな時だと思う?」

澪「…………」

 質問の意味こそ分かれど、その意図を理解する術を、澪は持っていなかった。

澪「小悪党の心境なんて分かりませんよ」

 大して興味もなさげに、澪は今度こそと再び扉に手をかけた。
 その後ろで男は笑う。
どうせ自分の中で終わらせてしまった物語だ。
最期くらい格好良く散るのも良いだろう。
そんな気持ちが男の頭を満たしていた。

「正解は、自分の勝利を確信した時だ」

 澪は振り向かない。たとえ男が後ろで満面の笑みを浮かべていても。
たとえ男のポケットの中にあったハンドメイドの手榴弾のピンが外されても。
 男の脳裏に走馬燈が過ぎる。
思えば二十八年間。無為に過ごしてきたような気がする。
貪欲に金と権力を求め、時には親族を殺した。
誰かの犠牲の上に成り立つ幸福に意味はあったのだろうか。
 男はそこで考えるのを止めた。
後三秒も経たずに特大規模の爆発が起こる。

「今回はもうゲームオーバーだ。だが次はぜってー間違えね……え?」

 男は異変に気付く。
失われる筈の自分の命が、いつまで経っても失われない事に。

澪「自分の死を以て勝ちを彩るのは勝利なんかじゃない。それは自分の敗北と向き合えない真の敗北者です」

 澪は振り向かずに指を鳴らした。
男のポケットの中で何かが砕ける音がする。

「な……。え……?」

 男は驚愕を隠せなかった。
死を覚悟した自分のプライドが音を立てて崩れてゆくのが分かる。

澪「そのまま安易に死ぬ事は許さない。せめて残った片腕で醜く生きて、生き延びて……」

 首をゆっくりと後ろに回す。酷く冷淡な瞳がそこにあった。

澪「一生私にビビってろ」

 澪はそれだけ告げて部屋を立ち去った。
 凍り付いて砕けた手榴弾の破片が男のポケットをじわりと濡らした。


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最終更新:2013年03月04日 19:55