時は午後九時前。
琴吹邸のリビングではメイドや執事達があくせく働いていた。
 食器同士が触れ合う金属音。温かいスープから沸き立つ湯気。芸術的な彩りを放つサラダ。鼻孔を突き抜ける芳醇な香りは分厚いステーキから。
五感全てが食欲を増幅させる。

律「ひぇー、いつもこんなの食ってんのかよ。良いなぁ」

 口内に涎が溜まってゆくのを感じて、律は咄嗟に口を閉じた。

純「…………」

 純の手が静かに食器へと伸びる。
もう少しで料理に手が届くところで、純の口の中に酢コンブが捩じ込まれた。

和「そんなにお腹空いたんなら酢コンブでも食べてなさい。自分で買ったんでしょ」

純「知りませんよこんなの~っ!」

 和は賢しくも酢コンブを全て純に押し付けていた。
口の中に広がる独特な臭みと酸味に純は顔をしかめた。

紬「ふふ、焦らなくても料理は逃げたりしないわよ」

 紬は貫徹して朗らかな笑みを絶やさない。
すると執事の一人が紬に耳打ちした。

紬「ええ、通してあげて」

 紬の命令を聞き、執事は足音一つ立たないしなやかな動きで部屋を後にした。

和「一国の主みたいね」

律「でも琴吹財閥って解体したんじゃ……」

 内容が内容の為、律はしどろもどろになりながらも紬に尋ねる。

紬「ええ、社益の殆どを持っていかれたわ。でも生活にはあまり支障は無いみたいなの」

律「え? そうなの?」

和「千ある内の八百を奪われても、一しか持たない庶民よりは裕福って事ね」

 和はそう言って水が注がれたグラスに口をつけた。

紬「ええ、その点は問題無いんだけど。従者衆を持っていかれたのは辛いわ」

律「じゅーしゃしゅう?」

 聞き慣れない単語に律は首を傾げる。
紬はかつて自分の側に仕えてくれていた五人に想いを馳せ、高い天井を仰いだ。

紬「加藤、伊藤、後藤、江藤、そして斎藤……」

 五人の名を紡ぐ紬の表情は物憂げだった。

紬「皆私の為に頑張ってくれていたわ。澪ちゃん達と比べたらまだまだだけど、ここまで強くなれたのもきっとあの人達のお陰」

 紬の言葉を興味津津で聞いていたのは和だった。

和「……その人達って、私よりも強いのかしら?」

紬「強いわ」

 紬は即答した。予想外の回答に和は眉を顰めた。
桜高の女帝である和よりも強いとなるとその実力は如何ほどのものなのか、少なくとも律の思考は遠く及ばなかった。

紬「『絶対の彼方』の意味を知った今なら分かるわ。少なくとも斎藤は、ここに居る誰よりも強い」

 沈黙が流れた。
普段ならここで余計な事を口走る純も今は口の中の酢コンブを消化するのに夢中になっている。
 豪勢な料理、豪華な造りのリビング。その中で空気だけが清閑だった。
 誰も口を開くことなく十秒程過ぎた時、仰々しい蝶番付きの扉が開いた。

姫子「え? 何この空気……」

 若干引きつった笑みを浮かべつつ、姫子がテーブルについた。

紬「あ、ごめんなさい。じゃあ全員揃った事だし──」

純「いただきます!」

 紬の言葉を遮り、待ってましたと言わん許りに純が料理に飛びついた。

和「はぁ、犬でもそんなにがっつかないわよ」

律「ははっ、保護者みたいだな」

 やはり人間というものは充実した食事の前では泣きも怒りもしないもので、若干重くなっていた空気は料理が半分ほどになる頃には払拭されていた。

律「私今日死んでも悔やまないよ……」

純「私もです。もう普通のご飯食べれないや……」

 今日一日でかなり舌が肥えたのではないかと錯覚してしまう程の上等な料理に、各々の目尻は緩んでいた。

姫子「しずか達にも食べさせてあげたかったな。特に梓ちゃんには悪い事しちゃったかな」

律「梓? もしかして和が言ってた梓を強くするアテって……」

 紙ナプキンで口を拭いつつ、姫子は答えた。

姫子「一応そんな事任されてるね。あの子の心配はしなくて良いよ」

 多分今頃夢の中だけど、と姫子は心の中で呟いた。

姫子「まぁそれは置いといて……。お願いがあります琴吹 紬さん」

 一際険しい顔をして、姫子は紬の方を見た。

紬「え?」

姫子「今の琴吹財閥の財力を総結集して、唯奪還の為の調査団を作って欲しいの」

 姫子の口から放たれた要求は、とてもではないが一介の高校生にするものではなかった。
たとえその相手がその手の界隈で名を轟かせる琴吹財閥の令嬢だとしても。

紬「えっと……。その……」

姫子「無理なお願いをしてるのは分かってる。でも唯は今国外で独りぼっちなんだよ? 私はこのまま黙って見てるなんていやだよ」

 唯が国外に居るという情報はここに居る全員にとっては初耳の情報だ。
それはさておき、唯を助けたいという姫子の想いはここに居る全員に通ずるものだった。

紬「ごめんなさい……。そればかりは私の力じゃあ無理なの」

 紬は顔を伏せた。たとえ琴吹財閥の令嬢と言えど出来る事には限界がある。
肝心なところで何の役にも立てない自分が堪らなく嫌になった。
 再び空気が重くなり始めたその時、蝶番の扉が開いた。

「若王子機関の拠点は南極。唯はそこで行われている実験の材料として丁重に保護されてるよ」

 黒いスーツに身を包んだ初老の男がそこに居た。
漆黒のスーツは血に塗れてどす黒く変色しており、顔の皮膚は重度の火傷を負ったかのように突っ張っている。

「こいつの見込みだと少なくとも後二週間は無事だそうだ。これで調査団は必要無くなったな」

 両手首を縛るように透き通った氷が男の手に纏わりついている。
男の歯はがちがちと震え、その年に不釣り合いな大粒の涙が頬を伝っている。
首筋に押し当てられた鈍色の刃が男の恐怖心を更に煽った。

澪「ムギ、家のセキュリティはもっと固めとかないとな。鼠が紛れ込んでたぞ」

 男の背後から現れたのは澪だった。

「ひっ……。ひっ」

 何十年と拷問を受け続けたかのような苦悶の表情を浮かべる男。
澪の挙動の一つ一つに反応して震える様は、まるで小動物のようだった。

紬「そんな……。嘘でしょ……?」

 紬は驚愕した。
澪がこの家のセキュリティを難なく掻い潜った事ではなく、侵入者の男が澪に倒されているという事に。
 紬がたとえ軽音部の全員が束になっても敵わないだろうと思っていた従者衆が一人、伊藤が見るも無残な姿になっていた。

澪「夜中までここに忍んで、闇に乗じてムギを殺すつもりだったみたいだな」

 澪は伊藤の襟首を掴み、そのまま自分の胸元に引き寄せた。
そして続け様に喉元に刀を突き付ける。

「い、いやだっ……! 助けてください!」

 苦し紛れな命乞いに澪は大きく溜め息をついた。

澪「どうする? 殺すなら私が代わりにやっとくけど」

 言いながら澪は伊藤の頬に手を当てた。

「いっ!? ぎゃああああああっ!!」

 触れた部分から浸食するように氷が広がってゆく。
凍傷を負った顔の皮膚が更に凍らされ、目も当てられない悲惨なものとなった。

紬「止めて!」

 紬は喉が裂けんばかりに大声で叫んだ。
目には涙が溜まっており、太い眉は八の字に垂れ下がっている。

澪「…………」


 澪は無言で手を離した。
既に意識は手放しているようで、伊藤は物理法則に逆らわずに崩れるように倒れ伏した。

 純は思った。
自分が憧れていた澪は既に死んでいるのだと。
それが良いか悪いか知る術を彼女は持っていない。
 姫子は思った。
梓を強くすると約束したものの、果たして自分に梓を正しい道に導ける力はあるのだろうかと。
 和は思った。
やはりどれだけの器量を持とうとも、人が人である限り観測し得ないイレギュラーは確実に存在するのだと。

紬「澪ちゃん……」

 紬の心は揺れ動く。
かつて自分が信頼を寄せていた裏切り者が、現在自分が信頼を寄せる友人にあっさりと蹂躙されてしまった事実に。
 そして澪の変貌に誰よりもショックを受けた者が居た。

律(澪……。お前どうしちまったんだよ……)

 人と呼べるかすら疑わしい今の澪を、律は睨むように見据えた。





 伊藤は直ぐに従者達による治療を受けた。
だが凍傷の度合いは皮膚の下の組織まで凍て付かせる凶悪なレベルだったらしく、応急処置だけでは追い付かないので急遽病院に搬送された。

澪「まぁこんなところかな」

 今は紬の部屋に場所を移し、澪が得た情報を共有している。

澪「気になるのは『エデン計画』の概要、そして何で拠点を南極にする必要があったのか、だな」

 伊藤が握っていた情報は朝方澪を狙った狙撃手が持っていたものとさほど変わりは無かった。
それでもこの情報が有るか無いかでは今後の方針が大きく変わる。
澪達はいちごに対して大きなアドバンテージを得た事になるのだ。

和「場所が分かってもそんな所が拠点じゃあね……」

紬「あ、そこまでの足くらいなら何とかなると思う」

 問題の一つは早々に解決された。
だがそれ以外にも課せられた問題は数多くある。

純「でも敵は序列四番目の『沼』でしょう? 噂が本当なら何の罠も無く拠点を置くなんてしないと思うんですけど……」

 そう。相手は知略のみで桜高のトップ集団の中に食い込んできた、言わば策士だ。
侵入に当たって常に最悪のパターン想定しておくのが道理だろう。
どれだけ用心したところで、若王子 いちごが相手の時に限っては用心のし過ぎという事は無いのだ。

姫子「それについて一つ提案があるの」

 部屋の隅で壁に寄り掛かっていた姫子が唐突に挙手した。
そこに居る全員が一斉に姫子を見る。

姫子「しずかを使おう。あの子を単独で拠点に忍ばせる」

 姫子の提案に対し、和が黙ってなかった。

和「……自分が言ってる事の意味は分かってる? そんな事したらあの子、十中八九死ぬわよ」

姫子「私の見解じゃあ七割は生きて帰れるよ。一番生存率が高いのはしずかだと思うの」

 解せない。和は素直にそう思った。
木下 しずかが最近トップランカーに食い込んできたのは知っていたが、この戦いに介入出来るような力は持っていないと踏んでいたのだ。

澪「まぁ、やってやれない事は無いだろうな」

和「どういう事?」

 和の問いに対し、澪はどこか遠い目をして答えた。

澪「完全ステルス能力。あの子は誰であろうと絶対に視覚出来ないからだよ」

姫子「正確には視覚と聴覚による他者との干渉を一切遮断する。自分から不用意に近付かない限りは誰にも気付かれないよ」

和「…………」

 それでも和は納得出来なかった。
聴覚と視覚から存在を感じられないのなら、それはつまり気配すら残さないのと同義だ。
だがたった一つ。しずかのステルス能力には致命的な穴がある。

和「……闘気」

 和の呟きに姫子は目を伏せた。
恐らくその一点こそが最大の懸案事項だったのだろう。

姫子「そう……だね。あの子は闘気の存在自体を認知出来てないから、人に元々備わってる闘気を気取られたら……」

 姫子はそこから先を言う事が出来なかった。
悲惨な境遇を共有した友人が死ぬ。
しかもそれは決して有り得ないIfではないのだ。
たとえ仮想の中であろうと、そんな事象とは向き合いたくはない。

和「この子にそのステルス能力をコピーさせたら……」

純「馬鹿言わないで下さいよ。体質までコピー出来る程人間辞めてないですって」

 和の意見は一瞬で一蹴された。
純は和を蔑むような呆れ顔を浮かべている。
和はそのまま助けを求めるように紬の方を見た。
どこか悲しそうな顔はしているが、姫子の意見に異論は無さそうだった。

和「クラスメイトが死ぬかもしれないのよ!?」

律「でも唯が死んじゃうのも嫌だ!」

 今まで黙っていた律が声を上げた。
怒号に近い叫びだったが表情はやけに穏やかだ。

律「唯を助ける為なら皆命張る覚悟は出来てるんだ。助ける人がしずかになっても同じ事だよ」

 拙いながらも律の想いはひしひしと皆の胸に伝わってくる。

律「誰も死なせねぇ。唯を助ける為にしずかが死にそうになったら私が助ける!」

 それは律の矜持なのだろう。
いたずらな覚悟ではない、皆が笑ってハッピーエンドを迎える為の死に対する覚悟。

和「そんなに上手くいくわけないじゃない……。私だって唯が死ぬのは辛いわ。でも犠牲の上に立ったあの子の辛そうな顔なんて見たくないの」

 唯を失った悲しみ。何も出来ない今の状況に対する妬み。
律はそんなネガティブな感情を一身に受け止めて、言った。

律「大丈夫」

 和の両肩に手が置かれる。
小さくて頼りないその手は、とても温かかった。

律「皆唯が大好きだよ」

紬「ええ、仮に従者衆全員を殺める事になっても、私が死ぬ事になっても……。私は唯ちゃんを恨んだりなんかしない」

純「むしろここで動かなかったら私は私を許せませんね。脇役に成り下がるなんて真っ平です」

姫子「私達は大丈夫。失う覚悟なんてまだ決められる自信は無いけど、失わない為に傷付く覚悟ならとっくに出来てるからね」

 純と姫子は自信に満ち溢れた笑みを貼り付け、紬の部屋から退出した。
 和は幼馴染みがここまで皆に愛されている事にうち震えていた。

澪「私は和の仲間だよ」

 澪の表情は氷のように冷たい。
だが紡ぐ言葉はとても優しかった。

澪「だから大丈夫」

 和は顔を伏せる。
和の頬を何かが伝うのを見た者は誰も居なかった。

いちご「斎藤、これを見てくれる?」

斎藤「はい」

 南極の氷を掘り砕いて作った一室。
所謂機関本部の地下室に二人は居た。
 斎藤はいちごから手渡された何かの設計図らしきものに目を通す。

斎藤「…………」

いちご「それを明日から三日以内に完成させるわ。参考までに聞きたいんだけど……」

 そこまでのいちごの言葉は斎藤の耳には入っていなかった。
それほどまでに、書類に書かれている事は驚愕に値していたのだ。

いちご「あなたとこれがやり合ったとして、これに勝てる自信はある?」

斎藤「ありません」

 斎藤は即答した。

斎藤「十中八九私の負けでしょう。運良く勝てたとしてもただではすまない筈です」

 いちごは分かっていたとでも良いたげにほくそ笑んだ。

いちご「もう一つ質問。『龍』を奪った時にあの場に居た子の中で、あなたより強い子は居た?」

斎藤「恐らく『龍』の片割れだけでしょう」

 それを聞いていちごは更に口角を上げた。

いちご「そう。ならこれの製造を決定するわ」

斎藤「…………」

 斎藤は自分の口を憎んだ。
自分の選択の結果、こんな化け物が世に生まれてしまうのだから。
 設計図には何かのパーツらしきものが無尽蔵に書き連ねられている。
紙の左端の辺りには一際大きな文字で『タナトス』と書かれていた。


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最終更新:2013年03月04日 19:58