梓の覚醒の翌日。
 まだ朝日も昇っておらず薄暗い早朝の雑木林を澪は歩いていた。
 抜き身のまま刀を携えており、その刀身にはどす黒い血が付着して輝いている。

澪「出て来い」

 唐突な呟きと共に木々が揺れた。
それに遅れて渇いた銃声が数発。
放たれた鉛玉は澪の元に届く手前で失速する。
空間が水面のような波紋を浮かべて揺らぎ、銃弾がみるみるうちに凍り付いてゆく。

澪「……そこか」

 澪は銃弾が飛んできた方を見て、刀を地面に深々と刺し込んだ。
刀を中心に氷柱が四方に飛び交い、木々の向こうへと収束してゆく。

 数人の男の短い悲鳴が聞こえた。
それでも健在な者は居たようで、黒スーツに身を包んだ三人の男がそれぞれ澪を囲むように直進していく。

「オラァッ!!」

 野太い声を響かせながら刀を持った男が澪に切り掛かる。
技を一切捨てた乱雑な一撃。
澪はそれを技で受け流そうともせず、ただ力任せに刀身を刀で切り付けた。
甲高い金属音が鳴り響き、男の持つ刀は真ん中から真っ二つに折れる。

澪「一人目」

「ぐっ──!?」

 人指し指で軽く男の胸を突く。
その瞬間男の身体を巡る全ての水分が波打った。
男が膝を折る事すら澪は許さない。
男の顔面をサッカーボールと同じ要領で蹴り上げると、男の身体はその後ろで構えていた男とぶつかる。

 後ろで構えていた男はその拍子に持っていた得物を手放してしまった。
澪という絶対的な強者を前にしてそんな隙を見せるという事は死に直結する。

「ひっ──!?」

 短い悲鳴の後に、男の身体が肩口から胸にかけてざっくりと切り付けられる。
運が悪ければショック死を引き起こしてしまいそうな切り傷だが、それは決して深くはない。
致命傷たり得ないその傷が男に甚大なダメージを与えたのは次の瞬間だった。

「ひっ、ひぃやああああっ!?」

 傷口を中心に冷気が拡がり、男の身体を凍らせてゆく。
出血は一瞬で止まり、代わりに重度の凍傷が男を蝕んだ。

澪「いつだってそうだ」

 男の悲鳴にかき消されてしまうほどのか細い声で澪は呟く。
そして振り向きざまに刀を薙いだ。

「え──」

 刃と化した水が刀身から迸り、最後の刺客の右手の甲から先を奪い去った。
舞い散る血飛沫。鉄が地面と触れ合う音。狂乱した叫び。
その全てが澪の神経を逆撫でる。

澪「勝ちの目なんてこれっぽちも無い事を自覚しながら、害虫みたいにわらわら沸いてくる」

 澪が地面を蹴ると、地表から現れた氷柱が男二人を串刺しにした。
急所は外れており、貫かれた箇所は一瞬で止血される。後に残るのは痺れと痛みだけだ。

澪「そして最後には思考停止。自爆を謀って殉職者気取り」

 地面を転がる鉄の塊が小型の爆弾である事を、澪は振り向かずとも察知していた。
それは本来の役割を果たすことなく、ただ虚しく転がっている。

澪「自分から死ぬ勇気があるんなら、その意地でしっかり生きててよ……」

 右手を失いながらもそれ以外は健在な男。
澪はそこで初めてその男の方へと向き直った。

「な……。何で……?」

 男は困惑した。
悪鬼羅刹が如き残虐な戦い振りを見せていた少女が、その冷淡な瞳を滲ませて顔を伏せたからだ。

澪「ばか……」

 震える声で涙目になりながら呟く澪は、どこから見ても年相応の少女だった。
 力を手に入れ、揺るがない意志を持った。
 情を捨て去り、どこまでも非情になれた。
 だが優しさと甘さは違う。
どれだけ強くなったところで澪は自分の優しさだけは捨て去る事が出来なかった。

「…………」

 身も凍る冷気で痛みすら麻痺していた。
だが男は思った。捨て駒としての価値しかない自分だが、ただ一言この少女に謝りたいと。
 口を開きかけたその時、男の側頭部に衝撃が走る。
辛うじて保たれていた男の意識はそこで途切れた。

澪「んっ……」

 目を擦って何度か瞬きをすると、澪は刀を鞘へと収めた。
そして大きく伸びをして、血に染まって黒くなったパーカーを脱ぎ捨てる。
腰の手前まで伸びた艶やかな黒髪を払い、悠然と歩くその様からは先程の少女の一面は見られない。
 一寸の猶予も与えられぬまま叩き潰された三人の男が横たわり、呻き声を漏らしていた。
各々が目も当てられないほどの重傷を負っているが、誰も澪を恨むことは無かった。
 痛い。だがそれ故に生きている。
髪の毛一本も残さずにこの世から抹消する事も出来たのにそれをしなかった澪に、三人は感謝の意すら覚えていた。

 電車の路線をなぞるように移動する事十分。
澪が敵襲を迎撃した地点から三駅分ほど離れたところに琴吹財閥の格納庫があった。

和「遅かったわね」

澪「ごめん、どうも向こうの動きが活発みたいでね」

 澪は身体中に飛び散った血飛沫を和に見せ、大きく溜め息をついた。

澪「で、肝心の木下さんはまだ来てないの?」

和「さっき立花さんと来たけど二人でどっか行っちゃったわよ。私が水を差すのも悪いし、ね?」

 ふぅん、とあまり興味なさげに呟く澪。
彼女の興味はこの格納庫に鎮座している鉄の塊に向いていた。

澪「それにしても凄いな。財閥の長までになると自家用ジェットなんかも買えるのか……」

 流線型のフォルムに白を基調としたボディ。
軍用兵器や機械に疎い澪にはそのジェット機の価値は分からないものの、自分では一生掛かっても買える代物ではないとは直感していた。

紬「あ、おはよう澪ちゃん」

 格納庫の扉が開かれる。 
そこには盆の上にティーカップを乗せて運ぶ紬が居た。

澪「こんな時まで気を使わなくても良いのに……」

紬「こんな時だからこそよ。私にはこれくらいしか出来ないもの」

 琥珀色の液体が注がれたティーカップを澪と和に手渡す。

 澪は紅茶を啜り、ほっと一息ついた。
朝方の冷たい風に晒されて冷えた身体がすっと溶けてゆくのを感じた。

和「それにしても遅いわねあの子達。ムギが見た時はどうだった?」

紬「二人で何か話してたみたいだけど……」

 紬が言いかけたところで格納庫の扉が開いた。
昇り始めた朝日が部屋の中に差し込む。

しずか「ごめん、待たせたね。もう準備は出来たから」

 誇らしげな表情を浮かべるしずか。
そしてその後ろで温かく見守るような笑みを浮かべる姫子が居た。
姫子の頬にはうっすらと涙が伝った後があるが、その笑顔は作り物ではない。
誰もがそれを理解していた。

しずか「出発までどれくらいかかる?」

紬「操縦はオートマティックだから乗り込み次第飛び立てるわ」

 そう、と短く呟いてしずかはジェット機のドアを開いた。

和「随分あっさりね」

しずか「あまり長居してると怖くなっちゃうからね」

 しずかは落ち着いた様子で笑みを浮かべた。
それが作り物か否かは、しずか以外には分からない。

澪「木下さん」

 機内に乗り込もうとしずかが身を屈めたその時、澪が呼び止めた。

しずか「……何?」

 怪訝そうな表情を浮かべて振り返るしずか。
澪は残った紅茶を一気に飲み干すと口を開いた。

澪「危なくなったら逃げて。そして隠れて。例えこの潜入が無駄になったとしても、木下さんが無事帰ってきてくれればそれで良いから……」

 澪は言葉を区切り、一息つくと再び口を開いた。

澪「逃げる事を臆病だなんて思わないで。命さえ残っていれば、後は万事どうとでもなるからね」

 たとえ状況が悪化したとしても、その時の尻拭いは自分がしよう。
それが出来る力を自分は持っている筈だ。
澪はそう心に決めた。

しずか「……ありがとう」

 眉尻を下げてはにかみ、しずかは機内に乗り込んでゆく。

和「何か言わなくて言いの?」

 和が姫子に言葉を促す。
だが姫子はそれに対して首を振るだけだった。

姫子「私は大丈夫だよ。言いたい事はあの子が『帰ってきて』言うから」

 無事帰ってこれる保証などない。
そんな事は嫌というほど理解している。
だがここで別れを惜しんだらしずかは永遠に帰って来ない。
姫子はそんな予感を感じ取ってきた。

姫子「だからしずかは大丈夫だよ」

 誰に言うでもなく姫子は呟いた。
 格納庫の扉が完全に開き、封鎖されて滑走路と化した道路がジェット機の行く末を示している。

和「そうね」

 エンジンに火が点り、機体の駆動音が鳴り響く。
それに遅れて機体はゆっくりと走り始めた。

 機体の動きは徐々に加速していき、道路を走る。
首の部分が上を向き、前輪が収納されるその時、一陣の風が吹き荒れた。

姫子「良い風だね」

 モカブラウンの髪の毛がはためくのを抑え、姫子は空を飛ぶ鉄の鳥を見送った。
 今の姫子が何を考え、何を思っているのか。
それを知る術を持つ者は姫子以外に居なかった。
だが要らぬ詮索はするまいと澪達は思う。
そう思えるほどに姫子の表情は明るかった。

澪「そうだね」

 綺麗な思い出は綺麗なままで。
この二人の語らいに水を差すような真似はせずに、澪は一言呟いたのだった。


 飛び立ってからどれくらいの時が経っただろうか。
そんな事を考えながらしずかは機内に備えられていた耐寒スーツに着替えていた。

しずか「ひゃっ……」

 首元まで覆うタイツのような生地のそれは地肌と擦れ合い、妙な刺激をもたらす。

しずか「このまま外に出ても大丈夫って言うんだから、科学の力って凄いよねぇ……」

 ぼんやりと呟いてはみるものの、それに答えるものは居ない。

しずか「…………」

 着替えが入ったジェラルミンケースの中には弛めのパンツとダウンジャケット、それに白色のマフラーと耳当てが入っていた。

 少し考えるように腕を組み、しずかは脱ぎ散らかした制服を手に取った。

しずか「やっぱりこっちの方が良いや」

 耐寒スーツの上からスカートを履き、ブラウスに袖を通す。
しずかはブラウスのボタンを下から一つずつ止める毎に、気持ちが引き締まってゆく感覚を覚えた。
 着古して少し緩んだカーディガンのボタンを止め終える頃にはしずかの表情は険しくなっていた。

しずか「よっし!」

 軽く頬を叩き、備え付の電子ポットの中のホットチョコレートを紙コップに注ぐ。
嗅ぐだけで心が休まりそうな甘い香りが機内に満ちた。

 だがしずかの表情は決して緩まない。
紙コップに口をつけ、数枚に分けられた今回の計画書に目を通す。

しずか「…………」

 その内容は決して容易なものではない。
そもそも南極への潜入自体が過酷なのだ。
たとえ日本から離れた南極に本部構えていたとしても、用心深いいちごがセキュリティを甘くする道理は無い。
張り巡らされた膨大なセキュリティの網が上空にまで及んでいる事は火を見るより明らかだ。
 つまり潜入のチャンスは一度きり。
ジェットが本部上空を駆け抜けるその一瞬のうちに飛び降りなくてはならないのだ。

しずか「やっぱりきっついなぁ……」

 それが出来なければ進路を予めプログラムされている機体はたちまち日本へと帰還してしまう。
それで済めば御の字だろう。
最悪の場合、セキュリティに引っ掛かった機体は想定し得ない何らかの迎撃システムによってたちまち破壊される。
それはつまり、しずかの死に直結する。

しずか「──っ!」

 突如として機内に警報が鳴り響く。
敵に存在を悟られたわけではない。
この警報音は、機体が若王子機関本部の上空の到達した知らせだった。

しずか「よっし!」

 飲みかけのホットチョコレートを投げ捨て、食料を詰め込んだパラシュート付きのリュックを速やかに背負う。

 警報音が鳴り止んでから三秒。それがしずかに残された時間だ。

しずか「『詐欺師』木下 しずか──」

 ドアをこじあけると常人では耐えられぬほどの風圧がしずかを襲った。
だがしずかはその脅威にすら気圧されない。

しずか「行きます!」

 直後に警報音が鳴り止んだ。
しずかの身体は物理法則に逆らう事なく、急速に落下速度を増してゆく。
目を開けているのも辛い状況の中で、しずかは空を駆る機体を見送った。
ジェットはあくまで機械的にしずかを手放し、突き放すように飛びさってゆく。
 氷雪で覆われた大地がしずかの眼前に迫ってくる。
しずかはそっとパラシュートに手をかけた。

いちご「この警報は……?」

斎藤「侵入許可を出していない機体が上空を過ぎ去ったようです」

 巨大なモニターと何台ものコンピュータが設置された場所にいちごと斎藤、そして片目を覆う長い黒髪を気障な動作で弄る青年が居た。

いちご「直ぐにその様子を再生して」

斎藤「はい」

 斎藤がリモコンのようなものを弄ると、林檎の木を映し出していたモニターが空へと切り替わる。

「ふぅん、見たところほんとに通り過ぎただけみたいですね」

 気障な男がさも興味なさげに呟いた。

いちご「通り過ぎた機体を拡大してもう一度再生して」

 男の言い分に少しも耳を貸さずにいちごが言った。
再び斎藤がリモコンを弄ると、ピント調節された先の映像が流れる。

「あぁ? 何だありゃ故障か? ドアが開いちまってるじゃねーか」

 男が若干声を荒らげるのを聞いて、いちごは眉を顰めた。

斎藤「機体から何かが落ちた形跡はありませんね。しかし用心の為注意を促しておきますか?」

いちご「いや……」

 唇に指を添え、少し考え込むといちごは斎藤らの方へ振り返った。

いちご「従者衆全員に命令を下すわ。各々のスキルを全力で発揮し、施設内の警備に当たる事。一般作業員には悟られないように」

「あぁ!? なんだってそんな──」

斎藤「よせ、後藤」

 斎藤はいちごに食ってかかる後藤を片手で制した。
黒のサングラス越しの表情は誰にも分からない。

斎藤「何で、だって、しかし、でも。我ら従者衆が口にして良い言葉ではないな。主人の命令に対する返事は一つだけの筈だ」

 斎藤はちらりといちごの方を見たが、当のいちごは背を向けてパソコンのキーボードをタイプしている。

後藤「ちっ……。了解です」

 後藤は悪態をつきながらスーツのポケットに手を突っ込み、踵を返して去って行った。

斎藤「見苦しいところをお見せしました」

いちご「気にしてないよ。それよりあなたには私の護衛を任せるから、今から一時間自由時間をあげる」

 いちごはそれだけ言うと、再び振り返る事は無かった。
部屋を出る時斎藤は妙な猜疑心に駆られたが、特に気にせずそのまま部屋を後にした。

いちご「まずいね……」

 いちごは誰も居ない空間の中でぽつりと呟いた。
表情は険しく歪んでおり、うっすらと汗をかいている。
 先の映像を見て、いちごは全てを理解していたのだ。
あの機体は琴吹財閥が仕向けたもの。そしてあれに乗っていた人物が木下 しずかであるという事も。
 全て分かっているからこそ分かる。
事態は深刻な方向に進んでいる事が。

 仮にしずかが『タナトス』の情報。そして『エデンシステム』に触れたとしたらその被害は甚大なものになるだろう。
それを考えるといちごは気が気ではなかった。
 『沼』の策士たるいちごがこの事態を想定し得なかったかと問えば、その答えはノーだ。
だが結束力の強い桜高の面子がステルス能力以外に取り柄が無いしずかをこんな危険に曝すとは思っていなかったのだ。
いや、思っていなかったという表現には語弊がある。
正確には今の状況に陥る可能性を微弱なものと判断し、効率を重視したのだ。

いちご「それでも……」

 いちごは天井を仰ぎ、うわ言のように呟く。
口調は弱々しいものの、その瞳には強靱な意志が宿っていた。

いちご「真っ向から不意打ってあげるわ」

 詐欺師の見えざる手が智略の沼に潜り込まんとしていた。





 一方桜高の生徒会室には軽音部、『星の観測者』、生徒会の面々が集っていた。
和はデスクトップのパソコンをタイプしており、その様子を他の面子が後ろから眺めている。

律「何やってんのかさっぱり分かんねーや。私にも分かるように説明してよ」

澪「そうやってかれこれ三回は説明したじゃないか。もう黙って見てろよ」

 律が拗ねたように唇を尖らせ、澪は呆れたように溜め息をつく。

和「あんた達いつまでそうしてるつもり? 気が散って集中出来ないんだけど」

 和は片手を振って煩わしさを露にする。
和の言葉を境に純以外の面々は散開していった。

和「なに?」

純「お気になさらずー」

 純は隣の席に腰掛け、パソコンを立ち上げる。
和が横目でディスプレイを見ると、そこには見覚えがある盤面が映し出されていた。

和「……呆れた」

純「あーあ、いきなり不可予知出ちゃった」

 ぴりぴりとした空気が漂う室内で呑気にマインスイーパーが出来る辺り、純のメンタルは強いというより捻子曲がっているのだろう。

律「で、結局何やってんの?」

澪「だから何回も言ってるだろ。木下さんから送られてくる情報の解析準備をしてるんだよ」

 いまいち理解を得ないような律の反応に澪は再び溜め息をついた。
その後ろで紬がいそいそと茶を淹れている。

紬「どうぞ」

和「ありがと、悪いわね」

 この時世にしては珍しく古めかしい造りの湯呑みを和に手渡す。だが和は注がれたお茶には手をつけず、脇に置いてそのまま作業に没頭した。

姫子「大変そうだね」

アカネ「どうする? 時間がかかりそうなら戻って梓ちゃんの訓練でも……」

 アカネが言い終える前に姫子は首を振った。

姫子「ごめん、私は止めとくよ」

 理由など詮索するまでもなかった。
むしろアカネは今の姫子にそんな提案してしまった事に後悔した。

エリ「じゃあ私達は行こっかあずにゃん」

梓「あ、はい……」

 後ろ髪引かれながらも梓は生徒会室を後にした。
部屋を出る手前で一度振り返り何を思ったか、今では梓自身にも思い出せない。

梓「…………」

 校門を通り抜け、前日通った道と同じ道を歩く。

アカネ「…………」

 夕焼けの空では雲が日に溶け込み、滲んでゆく。

エリ「…………」

 面々の足取りは重く、通夜を思わせる清閑さがあった。

梓「あの……」

 無音の世界に終止符を打ったのは梓だった。
梓の呟きを機にアカネとエリは一斉に梓の方を向く。
無言の圧力にたじろいでしまうが、それでも梓は口を閉ざなかった。

梓「しずか先輩はきっと帰ってきます。だからそんな顔しないでください」

 梓の言葉は清閑なる空気を払拭するものとは成り得なかった。
そうだね、と力無く呟くアカネとエリの背中には悲愴が漂う。

梓「…………」

 澱んだ感情は周囲にも伝染するもので、何とか場を和ませようとしていた梓の頭も自然と下がっていった。

エリ「ほんとにこれで良かったのかな……」

アカネ「今更何言ってんのよ」

 ふと弱音を漏らすエリをアカネが窘める。

エリ「だって……。しずかは確かに私達と比べたら桁違いに強いかもしんないけどさ……」

アカネ「やめてよ……」

エリ「それがあの子が無事に帰ってこれる理由になるのかな……」

アカネ「やめてったら!」

 アカネの叫びはエリには届かない。
遂にエリの足は止まり、手に持っていたバッグを手放す。

エリ「どうしよう……。私達、しずかを見殺しにしちゃったよ……っ!」

 眼に力が入っているのが傍から見ていても分かる。
だがその力みとは裏腹に、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。

アカネ「だったらどうしろっていうのよ! 何の策も無しに突っ込んで皆で死ねとでも言うの!?」

 アカネは憤りに身を任せ、ガードレールを殴り付けた。
鉄製であるにも関わらずレールは紙のようにひしゃげる。

エリ「そんなの、分かんないよ……」

 振り絞るように呟き、エリは閉口する。

アカネ「……結局誰かがやらなきゃいけないの。それが出来ない私達には悔やむ権利なんて無いわ」

 エリに背を向けてアカネは再び歩き始めた。

梓「…………」

 もの言わぬアカネの背中から悲痛の叫びが聞こえてくるような気がして、梓は眼を逸した。
視線を逸した先には俯くエリ。
その顔を上げて言葉をかけてやる事すら出来ない自分が、堪らなく嫌になる。
 今になって思うと、姫子が学校に残ったのも気が急いてしまったがゆえなのだろう。
 戦いは始まったばかりなのに、士気は壊滅的に低下してしまっていた。

 刺すような鋭い風が吹き荒れ、雪を運ぶ。
風が吹いているのか雪が吹いているのか分からなくなる過酷な状況下で、木下 しずかは着実に歩を進めていた。

しずか「ううぅ……」

 身体自体は琴吹財閥製の耐寒スーツのお陰で常温を保ってはいるものの、首から上の外気に触れる部分は悲惨だった。
髪の毛や睫毛は凍り、元の面影は殆ど見られない。

しずか「冷たいよぅ……」

 服が湿る事も厭わずにどっかりと雪の上に座り込む。
だが氷雪は尚も降り注いできて、しずかの英気を殺いでゆく。
 このままではもたないと判断したしずかはそこで小休止を取ることにした。

しずか「お腹空いたなぁ……」

 肩にかけたリュックの中から真空パックに入った粘土のような携帯食料を取り出し、張り付けられていたシールを剥がす。
すると真空パックはたちまち熱を持ち蒸気を放った。

しずか「あちちっ……」

 雪の中にそれを突っ込み、温度を調節するとしずかはチューブの蓋を開けた。
チューブを吸い上げると味が薄くお世辞にも美味とは言えない流動食が口内に広がる。
味は粗末なものでも、この過酷な環境下で自分はまだ生きているという実感は自然としずかの頬を綻ばせた。

斎藤「どうしたものか……」

 娯楽など何一つ無い名ばかりの談話室にて、斎藤は煙草を咥えてぼんやりと宙を眺めていた。

「身に余る悪巧みはその身を滅ぼすぜ?」

 背後で聞こえた粘っこい声色に斎藤は眉をしかめた。

斎藤「なんだ、後藤か」

後藤「なんだとは何ですかい。忠実な部下をないがしろにしてる内は三流止まりですよ」

 自分で言っていれば世話は無い、と軽くあしらい、斎藤は煙草を灰皿で揉み消した。

後藤「全くあのお嬢も人使いが荒い。あそこまで用心深いと生きるのも息苦しいだろうに」

斎藤「目的の為ならどこまでも用意周到になれる。それこそが成功者の条件だと思うがな」

 斎藤の言葉を鼻で笑い、後藤は胸ポケットからシガレットケースを取り出して煙草を咥えた。
煙草の先端に一人手に火が点る。

後藤「はっ、堅苦しい生き方だな。俺には真似出来ねーや」

斎藤「人の生き方に水を差すのは感心しないな」

 後藤が吐き出した紫煙を斎藤は軽く手で扇いだ。
それを一瞥すると後藤はにやりと口角を歪める。

後藤「そいつぁ失敬。俺はある程度の資金を稼がせてもらったらこんなところからはおさらばさせてもらうさ。そんでバイクで世界を旅する。人生を楽しまないのは罪だぜ?」

 その言葉はいちごに向けられているのか、はたまた自分に向けられているのか。
斎藤には分からなかった。

斎藤「好きにしろ。与えられた仕事をこなしていれば私は何も言わんさ」

後藤「……やっぱつまんねーな、斎藤の旦那は」

 くるりと踵を返して後藤は歩み始めた。

後藤「さてと、俺は夢の為に狐狩りに出掛けますかね」

 人指し指で短くなった煙草を弾く。
炎の赤は放物線を描いて、床に落ちる前に大きく燃え盛った。
それはほんの一瞬の出来事で、煙草の吸い殻は既に灰の一片すら残っていない。

斎藤「……私にも夢はあるさ。年甲斐もなく無様に追い続ける下らない夢がな」

 誰も居ない空間で斎藤は自嘲気味に微笑む。

斎藤「私が仕える主君に、全てを捧げ続ける事……」

 泡沫のように舞った言葉は誰にも聞かれることなく弾けた。


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最終更新:2013年03月04日 20:04