凍て付く氷雪に覆われ、あらゆる存在を拒む建造物。
しずかは遂にそれを眼前に見据えるところまで来ていた。
しずか「…………」
腕に巻き付けた時計型のカメラを起動する。
音も無く、光も無く、しずかが撮った光景は自動的に桜高へと送られる。
しずか「よっし!」
両頬を叩き、気を引き締める。
ここから先は一言も口を開く事すら出来ない。
それを頭の中に刻み込み、高く反り立つ塀をよじ登ってゆく。
常人ならば一通りの道具が無ければ登れないであろう垂直な壁だが、そこはやはり流石桜高の生徒と言ったところか、階段でも登るかのようにスムーズに登ってゆく。
猫のようにしなやかな動作で塀から降り立つ。
ふと振り返り、足跡の心配をしたがそれは杞憂だと気付いた。
視覚されない。触る事すら出来ないしずかが唯一残した足跡は降り注ぐ雪に瞬く間に覆われてゆく。
少しだけ頬を緩めて歩きだそうとしたその瞬間、しずかの真横を赤い何かが通り抜ける。
しずか「──っ!?」
心臓が跳ね上がり、一瞬にして呼吸が乱れる。
通り過ぎたものが炎だと気付いたのはそれが雪を溶かして作り上げた一本道を視覚してからだった。
「かったりぃなぁおい」
調子はずれで緊張感の無い声が響く。
黒いスーツを身に纏った男は咥え煙草のまま降り注ぐ氷雪の中を悠然と歩いている。
三流ホストのような伸ばしっ放しの黒髪は片目を完全に覆っており、隠れていない右目は野獣のように鋭い。
後藤「……うん?」
雪解けの道を歩いていると後藤はふと眉をしかめた。
確信があるわけではない。だが何かが這っているような、或いは何者かに見られているような不快な感覚を覚える。
しずか「っ! ──っ!」
意味が無い事を知っていながらしずかは両手で口を覆った。
胸で激しく脈打つ心臓の鼓動でさえ気取られ殺される。
そんな錯覚を感じさせるほどのモノをこの男は持っている。
後藤「気のせい、だよなぁ?」
後藤は訝しげな目付きで辺りを見回した。その視線が通り過ぎる度、しずかの心臓は激しく暴れ狂う。
極寒の地のど真ん中にいるのにしずかのスーツの中の肌はぐっしょりと濡れていた。
後藤「まぁいいや」
後藤は雪が降り注ぐ空を見上げ、不機嫌そうに舌打ちした。
そして片手を眼前に翳し、眼を閉じる。
その瞬間翳した手の先から血のような赤色をした炎は迸った。
轟音を上げる炎は後藤の行く末に道を作り上げる。
後藤「ったく……。こんだけ雪が積もってると靴が汚れてならねーや」
しずかに背を向ける形で後藤は呟く。
だが後藤の首から上がゆっくりとしずかの方へと向き始めた。
断腸の思いで神に祈るしずかだが、後藤の動きは止まらない。
後藤「お前もそう思うだろ?」
ここまで下卑た笑みを浮かべられる人間が他に居るだろうか。
しずかは眼を見開き、呆然と立ち尽くしていた。
理性は早急にこの場から離れるよう警告しているが、本能は既に生きる事を諦めて終息へと向かっている。
しずか「────」
しずかは言葉を紡ぐ事が出来なかった。
叫び声を上げることも、呻き声で訴えることも出来ない。
後藤「…………」
後藤はにやにやと笑みを浮かべるだけで何もしてこない。
しずか「──っ!」
しずかは閉ざした唇を強く噛んだ。
身体を縛り付けていた恐怖が一瞬だけ和らぐ。
だがしずかが後退ろうとしたその時、後藤は思いがけない行動に出た。
後藤「こんだけカマかけて出てこねーってことは……。やっぱ気のせいかぁ?」
どこか不満げな表情を作り、後藤は視覚していないしずかの顔へと手を伸ばした。
しずか「……っ」
安堵の溜め息を吐くべきか歓喜の雄叫びを上げるべきか、取り敢えずは一命を取り留めた喜び故にしずかの呼吸は再び乱れた。
視覚されないとは言えど些か不安に思ったしずかはそろりと身を屈めて後藤の手を躱す。
後藤がおかしいなぁ、などと呟いている脇でしずかは手を合わせてひたすら祈った。
早く行け、足を止めるな、振り返るな。
呪詛の言葉のように心の中で呟き続けるしずかの思いが伝わったのか、後藤は振り向くことなく歩き始めた。
後藤「っかしーなぁ。俺もそろそろ年かぁ?」
煙草を咥えて指先に火を灯す。
吐き出した紫煙は寒空の元で吐き出る白い息と混ざり合い、残り香を置いて言った。
しずか「良かった……」
捻った言葉や感想などは要らない。
しずかは生きているという実感を味わう為、小声ながらもそう呟いた。
腕時計型のカメラを後藤に向けてピントを調節し、シャッターを切る。
音も光も発することは無い。つまりこの行為がばれる事は無いのだが、しずかの手は小刻みに震えていた。
しずか「ふぅー……」
これで一つ大きな仕事をこなしたかのような疲労感があるものの、その実やるべき事はまだ何一つとしてこなしていない。
やれやれだね、としずかは呟き、後藤が作った道を避けて歩き始めた。
もし後藤が自分の能力を熟知していれば。
邂逅した相手が後藤よりも用心深い者だったら。
無限に存在するIfの中のどれかが成立していれば自分の命は無かった。
この時点ではしずかは神に愛されていたのだろう。
そんな事を考えながらしずかはそっと溜め息を吐いた。
和「あら?」
パソコンのディスプレイが点滅し、受信音を鳴らす。
本日二度目のしずかからの受信に一同は和の元へ駆け寄る。
純はマインスイーパーに飽きたのか、既にソリティアに移行していた。
律「さっき入口の写真が届いたばかりだろ? 幸先良いなぁ」
和「人、かしら? 見づらいわね……」
送られてきた映像に映る人影にカーソルを合わせ、マウスを二回クリックする。
紬「後藤……」
紬は片手で口を覆い、悲しそうに眼を伏せた。
律「後藤って、あのなんとか衆ってのの……」
澪「従者衆だろ」
そうそれ! と律は指を弾きながら紬の方へと振り返った。
だが振り返った先にあった紬の辛そうな表情を見て、律は自分の軽率さを改めた。
律「……ごめんな。やっぱムギにとっちゃキツいよね」
紬「いいのよりっちゃん。覚悟は出来てるから」
強がって笑っているのは誰の目から見ても明らかだった。
だが律は紬のそんないたいけな努力を汲んで、それ以上は言及しようとしなかった。
紬「唯ちゃんの方が大切だもんね」
心の平静を求めるように自分に言い聞かせる。
だがそれは欺瞞だと紬は心の何処かで理解していた。
たとえ裏切り者だとしても、ディスプレイに映る後藤、そして従者衆と唯を天秤にかけて選ぶ事など出来やしないのだ。
遠い目で紬は天井を仰ぎ、幼い日の事を思い返す。
後藤「今日から貴女の身の回りの世話をさせていただく後藤です。至らない点もあるでしょうが、その際は何卒ご教示下さい」
たどたどしくはあるものの、丁寧な言葉遣いだった。
紬「こちらこそよろしくおねがいします」
幼い紬は少し弾んだ声で礼を返した。
その声とは裏腹に紬は思っていた。
また要らない置物が増える。自分が一人になれる時間が減ってしまうと。
この頃の紬は小学校三年生だった。
その年の子供は往々にして人との繋がりを求めるものなのだが、幼い頃より置かれた環境が紬の繋がる心を荒ませていたのだ。
斎藤「家庭教師の方が体調不良でお見えにならないので今日は今から二時間は自習です。何かあれば後藤に言いつけて下さい」
紬「分かりました」
紬の二つ返事を聞くと斎藤は音も無く去ってしまう。
残された二人が口を開く事はなく、静寂が部屋を包み込んだ。
紬「…………」
鉛筆が紙の上を滑る音が断続的に聞こえる。
後藤はその音を聞きながら、年のわりにはやけに大人びた紬の後ろ姿を眺めていた。
後藤「すげーなぁ。この年から机に向かってお勉強なんて俺だったら五分も持たねーや」
静寂が一時間ほど続いたあたりだろうか、後藤は従者とは思えない軽率な言葉遣いで呟いた。
鉛筆を握る紬の手に力が込められる。
お前に何が分かる? 出来るのではなくやらなければならない環境に置かれた自分の心中を、少しでも想像した事があるのか。
沸き上がる苛立ちをそのままこの軽率な男にぶつけたい衝動に駆られたが、父の期待を考えるとそれは出来なかった。
紬「……お茶を貰えますか?」
後藤「はあ? んなもん給仕係にでもやらせろよ。何で俺が小学生に茶なんざ汲まなきゃなんねーんだよ」
紬「え?」
沸き上がった怒りが急速に冷めてゆくのを感じる。
はたして今まで生きてきた中で自分にこんな汚い口を利く者がいただろうか。
未知なる人種との邂逅に紬は恐怖すら感じつつあった。
後藤「ったく、斎藤の旦那も人がわりーよな。初日から令嬢の目付け役なんて荷が重過ぎるっつーの」
がしがしと頭を掻きながら後藤はシガレットケースを取り出す。
後藤「っと、流石に煙草はマズいよな。失敬失敬」
苦笑いしながら後藤は胸ポケットにそれをしまう。
この時点で普通は解雇に値している。
それを知ってか知らずか後藤は我が物顔でずかずかと紬に歩み寄ってきた。
紬「な、なんですか……?」
後藤「ははっ、そうびくびくしなさんなって。ちょっくら俺の退屈凌ぎに協力してもらうだけさ」
後藤は机の上に広がったノートを取り上げ、ぐしゃぐしゃに引き千切った。
紬「っ!?」
散らばる紙屑を見て、紬は呆然とするしかなかった。
後藤「この年から机にかじりついてっとろくな大人になんねーぞ。折角誰も見てねーんだからガキらしく遊ぼうぜ」
後藤は人の悪そうな卑しい笑みを浮かべた。
だが紬は不思議とそれを不快には思わなかった。
突拍子も無い新人従者の提案にただただ驚くだけだったのだ。
紬「…………」
思えば物心がついた時からまともに笑った記憶が無い。
しかしどうしてだろうか。
この男となら今まで笑えなかった分まで笑えるような気がする。
紬はそんな淡い期待を抱きつつあった。
後藤「さて、と……。意気込んだは良いものの最近の子供の遊びはよく分かんねーんだよな。何かやりたい事無いのか?」
普通の子供ならばここであれをやりたい、これをやりたい、と騒ぎ立てるものなのだが、この時の紬は違った。
胸の前で両手を組んでしゅんとうなだれたのだ。
紬「私、今まで遊び道具なんて貰ったことないです……」
口ごもりながら紬は言った。
後藤はばつが悪そうな顔をして頭を掻いたが、それはほんの一瞬で、再び下卑た笑みを浮かべてずいっと紬に詰め寄った。
後藤「最近の子供は道具がなきゃ遊べないのか? こんな時に頭使う為にお勉強してんじゃねーのかよ、んん?」
乱暴な物言いに紬は思わずたじろいだ。
そして後藤は紬の反論を待たずに閃いたぜ! と叫びながら部屋を飛び出してゆく。
紬「…………」
一から十まで何一つとして理解出来ない人間だ。
紬は幼いながらも後藤の人格の突拍子の無さを悟った。
まるで条件反射で喋り、動いている。
それは自分では真似出来ない。いや、真似しようとも思わない。
けれどもどこか羨ましさすら感じてしまう気持ちの良い生き方だった。
後藤「おっまたせーい!!」
かちゃかちゃと音を響かせながら、後藤が再び戻ってきた、
右手には盆に乗せられた十数個程のグラス。
そして左手には水が入ったピッチャーがあった。
後藤「日曜に早起きした甲斐があったぜ。まさかこんなところで役に立つとはな」
紬には何の事を言っているのかさっぱり分からなかった。
困惑する紬を余所に後藤はてきぱきと机を片付けてグラスを置いてゆく。
紬「…………」
作業が進むにつれて紬は後藤がやらんとしている事を理解した。
机の上には異なる量の水を注がれた八つのグラス。
後藤は鉛筆を手に取り、横一列に並んだグラスを順に叩いた。
紬「わあっ!」
グラスは澄んだ音で音階を奏でる。
紬の表情は年相応の少女のそれと同じように綻んだ。
後藤は器用に音を刻み、ばらばらの音を繋いで歌を作る。
後藤「と、こんなもんか」
後藤は満足げな笑みを浮かべて鉛筆を紬に手渡した。
やってみろと手で合図をするが、紬はもじもじして顔を伏せている。
紬「でも私、こんなのやった事無いから……」
後藤「はっ、よっぽどの暇人じゃなきゃこんな事やんねーよ。こんなもんピアノと一緒だって」
強引に鉛筆を握らせると後藤は更に強く促す。
紬「…………」
そろりとグラスを叩いてみる。
澄んだ音が鳴り響くと紬の顔は更に綻んだ。
今度は後藤の手ではなく自分の手で音を紡ぐ事が出来た。
他の子供にとっては何でもない事が、紬の心に温かい何かを染み渡らせる。
紬は顔を両手で覆い、肩を震わせた。
小さな指の間から一粒の涙が零れ落ちる。
後藤「なぁにめそめそしてんだよ」
後藤は肩を竦め、紬の頭を乱暴に、優しく撫でた。
それを口火に塞き止められた水が決壊したかのように紬の中から何かが溢れ出た。
紬「こういう事するのが……。ずっとずっと夢だったんです。私……私……っ!」
後藤は困ったように頭を掻く。
だが人の悪そうな表情の中には、確かな優しさがあった。
後藤「……社長令嬢だからって無理に気負うこたねーよ。寂しくなったら俺や斎藤の旦那が一緒に遊んでやるからさ」
まぁ斎藤の旦那は年食い過ぎってから厳しいかもな、と喉を鳴らして笑うと、後藤は紬の両手を取った。
涙でくしゃくしゃになった紬の顔が露になる。
後藤「そうだ。俺の夢はバイクで世界中旅する事なんだけどよ、お前がこれくらい大きくなったら後ろに乗っけてやんよ」
紬の頭上で手をひらひらと振り、後藤は笑った。
その笑顔は今日一番、そして紬が今まで見た笑顔の中で最も人間らしい笑顔だった。
紬「うん!」
紬はくしゃくしゃになった顔に年相応の無邪気な笑顔を浮かべた。
それから後藤と紬は紬の父や厳しい従者達の目を盗んで色んな事をした。
温室育ちの紬にとってそれらは新鮮で、人格に大きな影響を与える。
多くの習い事の中で特にピアノに熱心に打ち込んだのもその日の出来事がきっかけだ。
今でも時に見せる向こう見ずな好奇心も、かつて紬が後藤のそんな人格に憧れた事が影響なのだろう。
彼女が何か楽しい事を経験した時に常套句のように口走る「するのが夢だったの」という決まり文句はその日から始まった事は、今となっては彼女自身も覚えていない。
紬「…………」
きっと語られる事は無い。
紬はそんな泡沫のような思い出を愛でるように思い返す。
あの時後藤が示した身長に到達する事は出来ただろうか。
そんな自問自答を最後に紬は考えるのを止めた。
紬「その写真に写ってるのは従者衆の一人、後藤よ」
律「…………」
鬼気迫る紬の物言いに律は思わず押し黙った。
紬「昔手品と称して火を操るのを見た事があるわ。闘気の事なんて知らなかった私にもはっきり見えたから──」
和「少なくとも私や立花さんと同等、或いはそれ以上の使い手ってわけね」
紬の言葉を和が代弁する。
紬は肯定の意を込めて強く頷いた。
紬「私の事は気にしなくていいの。私も全力でやるから皆も──」
紬の口から紡がれた言葉は冷たく、それでいた燃え盛る火のような思いが込められていた。
紬「従者衆を、皆殺しにするつもりでいて」
※キャラの戦闘力が知りたいな。
多分他にも居そうだからお粗末ながらも強さ順に並べてみた
ウイさん>>>何かよく分からんが凄い壁>>>澪>姦通式の壁>>>斎藤≧後藤>和≧恵>純≧姫子≧対姫子戦唯(?)>>>絶対の彼方>>>三花>>通常唯>律>しずか>信代>文恵>紬>風子>>>トップランカーの壁>>>梓(銃器持ち)>>>上位ランカーの壁>>>キミ子≧よしみ>>エリ>アカネ>>純にボコられた不良>>>中堅の壁>>>吹奏楽部部長>>梓(銃器無し)>>いちご>>>>>>>>物語に参加出来るか否かの壁>>>>>>>>>>>>>>冒頭の不良、憂の闘気に当てられて自殺した不良、聡etc.
ぶっちゃけ即興だからあてにならない(つーかあてになったら興が殺がれる、よな?)けど大まかに言うとこんな感じ。
後藤との不吉な邂逅の後、しずかは順調に敵陣の奥深くまで潜り込んでいた。
先程の緊張などまるで無かったかのように、しずかの表情からはうっすらと笑みが漏れている。
しずか(いける……っ!)
声には出さないものの徹底的に自身を鼓舞した。
そのお陰かどうかは定かではないが、しずかの動作は時間が経つ毎に機敏になってゆく。
しずか「っとと……」
一瞬だけ声を漏らしてしまい、思わず身を震わせる。
だがしずかの目に止まったものはしずかを動揺させるには充分過ぎるものだった。
しずか「…………」
他の扉とは明らかに室が違う鋼鉄製の扉。
そこには『披験体収容室』と刻まれていた。
心臓が脈打つ音が一際大きくしずかの頭に響く。
確証があるわけではないが確信はあった。
自分達が助けるべきクラスメイト、
平沢 唯はこの扉の向こうにいる。
しずかは恐る恐る扉に手を伸ばしてみた。
自分の完全ステルス能力は生半可なセキュリティには認識すらされない。
その自信すら揺らがされる何かがこの扉にはあったのだ。
しずか「……っ」
やはりというべきか、扉にはロックがかけられており、ぴくりとも動かなかった。
だがしずかの本能が鳴らした警鐘は杞憂に終わり、何事も無かったかのように空気が流れてゆく。
しずかは腕時計型のカメラを起動する。
これで丁度三十枚目か、などと考えてそっと一息ついていたその時、それは起きた。
しずか「うぐ……っ!?」
肩口に指すような激痛。
たまらず痛みの発信部を抑えると、何か固く鋭いものが手に当たった。
それが何か確認する為に振り返ったしずかは自分の選択を悔いる。
「駄目じゃない狐さん。狼から逃げようと思うんなら、その卑しい匂いをどうにかしなきゃね」
針金が組み込まれた強化ガラスの窓の縁に、妖艶な雰囲気を漂わせる女が腰掛けていた。
「従者衆が一人、江藤よ。よろしくね」
毒々しいまでに艶めいた黒髪はアップで纏められており、黒縁眼鏡の向こうの瞳はしずかを咀嚼するように見つめている。
黒のジャケットと丈の短いキュロットスカートに包まれた肢体はそれらの衣服をはちきらせんばかりに起伏の存在を主張していた。
しずか「くっ……」
身体が思うように動かない。
まるで全身の血の巡りを止められたかのように身体が痺れている。
江藤「後藤くんと加藤さんは何してるのかしら? こんな女狐一匹見つけられないようじゃ従者衆失格ね」
女狐と称された事に怒りを覚え、しずかは江藤をきつく睨み付けた。
江藤「うふふっ、怖い顔しちゃって。でも駄目よ、全身が痺れて動かないでしょう?」
にやにやとせせら笑いながら、江藤はしずかに歩み寄る。
しずか「はな……れてっ!」
拒絶の言葉とは裏腹に、しずかはがくりと膝を折ってしまう。
江藤「ふふっ、興奮しちゃうわ。即効性の毒を盛られてもまだそんなに元気に喋れるの?」
江藤はしずかの顎を持ち上げ、長い舌をちろちろと動かした。
頬はうっすらと高揚しており、西洋人形のように整った顔は妖艶に歪む。そして……。
しずか「~~っ!?」
江藤の長い舌がしずかの口内に捩じ込まれた。
口内を侵す舌を噛み千切ってやる事も出来ない。
しずか「んっ……んー……っ!」
ぴちゃぴちゃと卑しい音が鳴り、しずかの背徳感を煽る。
江藤の細い指がしずかの唇を撫で、舌と舌が絡まり合ってねっとりとした唾液が二人の口内を行き来した。
しずか「──ぷはっ!」
江藤「うふふっ、ご馳走さま」
不意に唇が離されて、しずかは大きく肩で息をする。
だがそんなものではしずかの身体を蝕むものは払拭されない。
唇を犯された背徳感。そして全身を縛り付ける悪寒。
何故痛みを感じた時点で逃げなかったのかとしずかはひたすらに悔いる。
江藤「さぁて狐ちゃん、次はどんな遊びが良いかしら? あっ、安心してね。私が満足するまでは殺さないであげるから」
冗談じゃない。しずかは思った。
この女は自分の身体を骨の髄まで貪り尽くした挙げ句、残飯のように捨て去るつもりだ。
その末路を想像すると自然としずかの目から涙が零れ落ちた。
しずか「やめて……よぉっ……。こんなの……」
江藤「敵陣の真ん中でそんなお願いが通じると思ってるの? 本気で言ってるなら抱き締めたくなるような可愛い子ね」
趣味、嗜好の歪みがそのまま具現化したような残虐な笑みを浮かべたまま、江藤はしずかの細い首に手をかけた。
江藤「こういうのも最高じゃない?」
じわじわと首を掴む手に力が入ってゆく。
いたいけな少女を手中に収めた征服感に、江藤は恍惚の表情を浮かべた。
しずか「あがっ……!」
押し倒された拍子に肩口に刺さった刃物が更に肉を貫き、めり込んでゆく。
だがその痛みにしずかは一縷の希望を見出した。
全身を襲う悪寒が、痛みのお陰で一瞬だけ緩和されたのだ。
しずか「くっ……」
即効性の毒がどんなものなのかはしずかには分からない。
だがその効力が痛みによって誤魔化せる程度のものならば、そんなものは知る必要すら無い。
しずかは震える手で肩口に刺さった刃物を掴み、そして。
しずか「──っ!」
渾身の力を込めて引き抜いた。
その痛みは刃が刺さった時のそれとは比べ物にならない痛みで、それはしずかの身体を覚醒させる。
江藤「きゃっ!?」
意表を突いたしずかの一撃は江藤の元に届く事は無かった。
だがしずかが引き抜いたナイフに塗られた毒を恐れてか、江藤は大きく身体を逸す。
その隙に身体を捻って拘束から逃れたしずかはそのまま脱兎の如く駆け出した。
江藤「あらあら狐さん。そっちに行くなら狼に噛まれた方がマシだと思うんだけどな……」
取り残された江藤は尻餅をつく形でしずかの背中を眺め、それを追う事は無かった。
しずか「はぁ……はぁっ……」
息遣いは荒く、ステルスなどとうに解除されていた。
闘気を探られれば一瞬で居場所を突き止められるとはいえ、それ以外に欠点は無いステルス能力の解除方法は声を出す事だ。
その事さえ忘れて、しずかは呻き声を混じらせながら息を荒らげる。
しずか「ひゃ──っ!?」
足をもつらせて盛大に転ぶ。
何でも無い痛みが今では全身打撲の重傷を負ったような錯覚に陥らせる。
痛みを堪えて背後を振り返ると、自分をこの状況に叩き込んだ張本人は既に追って来ていない事に気付いた。
しずか「…………」
安堵感から意識が遠のいてゆく。
だがここで寝てしまえば命は無いだろう。
諦めと執着、二極化した感情が責めぎ合う。
寝そべって葛藤していると、冷たい床を伝って一人分の足音が聞こえてきた。
しずかは痛みに耐え、よろよろと身体を起こそうとした。
だが、その生への執着は突如として発せられた禍々しい闘気の奔流によって叩き折られる。
「──人間道」
しずかの視線の向こうから厳かな声が響いた。
その瞬間しずかの身体は冷たい床に叩き付けられた。
しずか「かっ……はっ……!?」
まるでこの空間だけ重力が何倍にも増幅しているような圧力がしずかを襲う。
空気に身体を穿たれ、骨が軋み、臓物が圧縮される。
「侵入者よ、貴様の退路はここで絶たれた」
霞みゆくしずかの視界に男が現れる。
黒のスーツを身に纏い、表情は黒のサングラスで隠されている。
斎藤「私は従者衆が一人、斎藤だ。来い、貴様の意志を以て活路を見出してみろ」
厳かな声はそう言った。
体勢は丸腰で棒立ち。傍から見ればある程度武の心がある者ならば一瞬で首を刈り取る事が出来そうにも見える。
だが視覚がそう認識していても本能、第六感は真逆に働く。
どれだけ修練を積んだところで埋めようが無い力量の差。
自分の無力にしずかは再び涙を流した。
歯は震え、耐寒スーツは最早意味を成さず、悪寒がひたすらしずかを襲う。
その様子を暫く無言で眺めていた斎藤だが、痺れを切らしたのか遂にしずかを一喝する。
斎藤「立て! 単身でここに乗り込んで来た覚悟はそんなものだったのか!?」
怒号の後に斎藤は床をだんっ、と鳴らした。
更に強い重圧がしずかを襲う。
しずか「────っ!」
最早口を開く事すら出来なかった。
しずかは確信し、諦めた。
ここで自分が命を落とす事は自明の理であると。
この諦めが必然だとすれば、それは偶然だったのだろうか。
どちらにせよ、人はそれを奇跡と呼ぶのだろう。
ぶちりと、しずかの頭の中で何かが切れた音がした。
しずか「────」
声にならない声を上げながら、しずかは見えざる圧力を突破して立ち上がる。
それを見て斎藤は満足げに口角を弛めた。
斎藤「……それで良い」
責めぎ合ってくるのは自分のそれとは相反する闘気。
その色はどんな深い森よりも深く緑に染まっていた。
室内であるにも関わらず一陣の風が廊下を突き抜ける。
斎藤はその時一瞬だけ瞬きをしていた。
その刹那の間に、しずかは斎藤の懐に潜り込んでいたのだ。
斎藤「っ!?」
認識出来たのは鋭く輝く銀色のナイフだった。
斎藤は咄嗟に手を翳し、刃を素手で受け止める。
しずか「くっ……」
空いた片手でがっちりと身体を掴まれ、身動きが取れない。
逃れようと身体を捩らせるが、それも無意味に終わる。
斎藤「もういい」
不意に斎藤が呟いた。
斎藤「貴様の戦士としての誇り、存分に見せてもらった」
斎藤は刃が突き刺さった手に力を込め、乱暴に引き抜く。
一瞬だけ鮮血が舞い、直ぐに治まった。
斎藤「その決意に敬意を払おう。一瞬でケリをつけてやる」
刹那、空間そのものが歪んでゆくような膨大な闘気が溢れ出す。
土壇場で手にした『絶対の彼方』を越える力。
それを以てしても埋まらない力の差に、しずかの心は燃え尽きた。
だが不思議と絶望は無い。
たとえ自分がここで死んだとしても、それは仲間達にここに巣くう脅威を知らせる警告となるのだ。
何一つとして無駄な事などない。
しずか「姫子……」
最期にしずかは思う。
しずかの死を知ってあの風の申し子はどんな顔をするだろうか。
眉を顰め、身を震わせて涙を流す姫子の姿が頭を過ぎった。
しずか「ごめん──」
地獄のような孤独の檻の中から救ってくれた貴女に、私は少しでも恩返しが出来たでしょうか。
心の中で自分に問うて、しずかは笑みを零した。
世界が終わりを迎える。
だが姫子と姫子を取り巻く全てのものの世界はまだ終わらない。
きっと穏やかな道を切り開いてくれる。
そう思うとしずかの心はこれまでに無いほどに晴れ渡ってゆく。
しずか「大好きだよ……。姫子!」
フェードアウトなどでは無い。
しずかの意識は走馬灯を映すこともなく、一瞬で途切れた。
斎藤「……私よりも強いのだな、貴様は」
斎藤はしずかを掴んでいた手を離した。
何の抵抗も無くしずかの身体は床に転がり、ぴくりとも動かなかった。
最終更新:2013年03月04日 20:07