目が痛くなるような真っ白な部屋で、唯は苦痛に耐えていた。
唯「うっ……。ぐぅ……」
その痛みは何の前触れも無く突然訪れた。
脳の奥を刺す鋭い痛み。そして全身の血が沸騰してきそうな妙な高揚感。
苦痛の中で見え隠れしているのは、貪欲に戦いだけを求める『龍』の本能だった。
唯の中に巣くう彼女はひたすら呼び掛ける。
『こっちに来い』と。
唯「やだ……っ。やだよ……っ!」
半ば狂乱気味になりながら唯は頭を抑えた。
だがその苦行は意味を成さず、頭に響いた硝子が割れるような音と共に唯の意識は砕けていった。
先程までいた真っ白な部屋とは対照的に、その部屋は仄暗かった。
部屋と呼ぶには語弊があるかもしれない。
その場所にはあらゆる境界を取り払う純然たる闇と、仰々しく悪趣味な模様が刻まれた門だけがあった。
唯「…………」
唯は目の前の光景を目の当たりにして唇を噛み締めた。
自分と同じ顔、背丈の少女がその目に虚構を映して立ち尽くしていたのだ。
『我が主がお待ちです。どうぞ中へ』
その少女は唯を確認すると門の蝶番に手を触れた。
次の瞬間その少女の身体が燃え盛り、一瞬で血のような赤色に包まれる。
肉を焼き、骨を焦がし、魂を蹂躙する。
地獄の業火に焼かれて灰と化した少女は更に細かな粉となって門に付着した。
唯「──っ!?」
恐らくそれが鍵だったのだろう。
常人では動かす事も出来なさそうな巨大な門が音を立てて開いた。
その先には更に濃い闇が口を開けて佇んでいた。
黒に黒を重ねて黒で固めたような黒。
唯は少しだけ身震いしたが、勢いよく闇の中へと飛び込んでいった。
仮にこの世界が自分の内面を映したものだとして、こんな禍々しいものを飼っている自分は果たして人間を名乗っても良いのだろうか。
そんな自虐に満ちた自分への問いに対して答えが返ってきたような気がした。
たった一言、『笑わせるな』と。
一分。或いは一時間、はたまた永遠か。
刹那とも永劫ともとれる時を落下し続けた後に、唯の足はようやく地に着いた。
唯「…………」
舞い降りた視線の先へと無言でにじり寄る。
だが視界の先の少女は唯に背を向けたまま揚々と挨拶した。
『よう、宿主』
その少女は唯に背を向けて胡座を掻いていた。
両手には何かを抱えていて、顔をその何かに埋めている。
唯「そんなの……」
少女が抱えているものが何なのか、唯は直ぐに理解した。
その瞬間強烈な吐き気と目眩に襲われる。
『どうしたぁ? 化物でも見たみたいな顔しやがって』
彼女は振り返った。
本来は白かったであろう歯はてらてらと赤く光り、血が滴り落ちている。
歯だけではない。
口元、両手、髪の毛。制服から露出している部分の大半は赤黒い血がこびりついていた。
唯「そんなの……。見せないで!」
唯の悲痛の叫びに呼応して彼女はけらけらと笑った。
そして両手に抱えていたものを乱暴に投げ捨てる。
唯「ひっ!?」
転がったのは一糸纏わぬ少女だった。
華奢な身体付きで発展途上の凹凸、本来は茶色がかった癖毛だったであろう毛髪は黒く染まり、固まっている。
そしてその少女の眼や鼻がついている位置、つまり顔面は見るも無残な状況になっていた。
まるで西瓜の皮だけを綺麗に剥き取り、現れた赤い表面を乱雑に掻き毟ったかのような肉のクレーターが出来ている。
こぽこぽと間抜けな音を立てて滲み出す血は少女の無念を晴らすことなく、無残に零れるだけだった。
『要らなくなったものを美味しく頂いてるだけじゃねーか。そんな怖い顔するなよ』
唯「悪趣味過ぎるよ!」
だんっ、と闇を踏み締めて威嚇する。
だが彼女はそんな唯の憤りさえも楽しんでいた。
『要らなくなった思い出。捨てたのはお前自身なんだぜ?』
唯「え?」
『日常の中で忘れられてゆくお前はこうして私の餌になる。まさか被害者面する気じゃねーだろうな』
目を細めてせせら笑いながら、彼女は唯の元へと歩み寄ってゆく。
『今のお前もいつかこうなるだろうさ。その時のお前はどんな顔して私に食われるんだろうな? ひゃっははははっ』
彼女は唯の首筋に舌を這わせ、無垢な柔肌に唯の血を擦り込む。
嫌悪感だけが先走るばかりで、唯は身体を震わせる事すら出来なかった。
『それもこれも全てお前が選択した結果だ。他の全てを忘れてもこれだけは忘れるんじゃねーぞ?』
唯「え?」
『日常の中で忘れられてゆくお前はこうして私の餌になる。まさか被害者面する気じゃねーだろうな』
目を細めてせせら笑いながら、彼女は唯の元へと歩み寄ってゆく。
『今のお前もいつかこうなるだろうさ。その時のお前はどんな顔して私に食われるんだろうな? ひゃっははははっ』
彼女は唯の首筋に舌を這わせ、無垢な柔肌に唯の血を擦り込む。
嫌悪感だけが先走るばかりで、唯は身体を震わせる事すら出来なかった。
『それもこれも全てお前が選択した結果だ。他の全てを忘れてもこれだけは忘れるんじゃねーぞ?』
一呼吸置くように唯の耳を甘噛みして息を吹き掛けると、彼女は言った。
『私はいつだってお前の事を一番に考え、お前の味方であり続ける。たとえお前が私を拒んだとしてもなぁ!』
唯「うぐっ──!?」
刹那、雷光が轟く。
何よりも強く鋭い雷が唯の身体に纏わりついた。
『アッハハはははハハッ!!』
唯の視界にノイズが走り、五感全てが揺さぶられる。
それでも彼女の壊れたような笑い声は悲しい程に唯の身体に染み渡った。
『まぁさかもうお手上げなんて言わないよなぁ? まだ言いたい事も言ってねーのによぉ』
ポイズン、と呟いて一人笑い転げる彼女の様子など、唯の目には殆ど映っていなかった。
唯「言いたいこと……?」
漆黒の闇に身を任せて倒れ伏した体勢のまま、唯は呟いた。
『おおっ、笑い過ぎて忘れるところだったよ。今日はお前に説教しに来たんだ、いや呼んだんだっけ? まぁどっちでも良いや』
彼女は唯の首を片手で掴み上げ、空いた手の指を鳴らした。
世界が渦巻き、捩じれ、崩壊してゆく。
不意に手を離されて身体がすとんと落ちる。
『終点、桜高軽音部部室でーす。ぎゃっはははっ』
唯はいつも自分が座っていた椅子に腰掛けていた。
机の上で胡座を掻いている彼女はおどけながら指を鳴らす。
紬が持ってきたティーカップが二つ、宙を舞って机に落ちた。
唯「言いたいことって……。何なの?」
『まぁ大した事じゃないんだけどな。お前があの巻き毛女といちゃいちゃしてる間にお前の友達が傷付いてんぞってこった』
大した前置きもなく彼女が言い放った。
その言葉に唯は眉を顰め、露骨に嫌悪感を示す。
唯「いちごちゃんを悪く言わないで!」
机を叩き、身を乗り出す。
彼女はそれをとても冷めた目で見ていた。
『大事なお友達を悪く言われて大層ご立腹ってかぁ? お前は零から唯まで全部ずれてやがんな』
まぁ何も持たない私よりかはましかな、と呟き、彼女は冷めて目付きのまま唯に顔を近付ける。
『ずれっぱなしのド天然のお前にも分かるように簡単に道を示してやんよ』
唯「……っ」
『今お前の為に血反吐吐きながら戦ってる奴等は、お前の友達じゃないんかよ?』
それはシンプル過ぎる教示だった。
手に届く位置に居たいちごだけを盲信し、友の想いに盲目になっていた自分を戒める言葉。
唯「きみは……一体……?」
『今はまだ知らなくても良いよ。お前と私の間にある因果はこんなちっぽけな諍いじゃあ片付けきれねーからな』
唯の問いに答えないまま、彼女はそっと唯の額に触れた。
唯「まっ、待って……!」
手を伸ばせば届く距離の筈なのにその距離は彼女にとっては数寸で、唯にとっては無限となっていた。
身体が徐々に闇に溶け、落ちてゆく感覚に陥る。
滲む視界の先に居る彼女の表情は、今までの残虐なものとはどこか違っていた。
『近いうちにまた会おう。もしかしたらそれは明日かもしんねーな』
下卑た笑い声が空間に鳴り響き、その声は遠のく唯の意識を包む子守歌となっていた。
遥かな深み、或いは高みへと落ちてゆく。
ずっと────。
ずっと──。
ずっと。
唯「くぅっ……」
白い部屋に戻ってきた唯は考える前に身体を動かしていた。
あの黒い場所に居た時とは異なり、胸の痛みはまだ完全には癒えていない。
精神面が穏やかである時は幾分かましにはなっているが、今は痛みのあまり全身から冷や汗が吹き出ている。
唯「うぅ……開かないよぉ……っ」
閉ざされた扉を押し引きするがびくともしない。
身体の痛みに耐えて力任せに扉を殴るが、それさえも無意に終わる。
唯「いちごちゃん……どうして?」
押し付けた拳からは血が流れる。
唯はそのまま力無く膝を折り、啜り泣いた。
桜高生徒会室では室内であるにも関わらず爆風が吹き荒れていた。
その風は主の悲痛の想いを具現化したように悲しく哭く。
澪「そんなんじゃあの子が報われないよ」
姫子「ごほっ……」
姫子は腹部を抑えて嗚咽を漏らしている。
そんな彼女を取り押さえるように澪は長い茶髪を乱暴に引き上げていた。
律「…………」
報われないのはどちらの方だろう。
律は完全なる力を行使する澪を見て、そんな事を考えていた。
死と同義である一夜を乗り越えて手にしたその力。
何故そんなものの代償に、こんな冷めた目しか出来なくなってしまったのか。
時は十数分前に遡る。
それはしずかの死がほぼ断定された時だった。
和「……良くて捕虜、けどほぼ確実に殺されてるでしょうね」
淡々とした口調ではあるが、机の下で握られた拳からは血が滴り落ちていた。
姫子「…………」
俯いた姫子の表情を伺う事は出来ない。
脇では紬が目頭を押さえて啜り泣き、律は肩を震わせながらも平静を保つように大きく息を吐く。
順調に送り込まれていた情報が急に途絶えた時点で全員はある程度予感していた。
和の言葉によってたちまち現実味を帯びてゆく絶望。
それは姫子の身体をつき動かす。
姫子「…………」
姫子は俯いたまま歩き出した。
和「どこに行くの?」
姫子「決まってる、しずかの仇討ちに行かなきゃ。今から一台出せるかな?」
姫子は和を通り越して紬に問う。
平静を装ってはいるものの、今直ぐに泣き、震え、叫び、暴れ出してしまいそうな危うい雰囲気を醸し出していた。
純「待ってください」
存在そのものが地雷と化した今の姫子に何の躊躇もなく警告するのは純だった。
姫子「……大丈夫だよ。しずかを送り出したのは私なんだから、その尻拭いもちゃんと私がするからさ」
姫子は笑えない瞳のまま無理に笑ってみせた。
そして純の肩を軽く叩き、過ぎ去ろうとする。
純「何の対策も練らずに行くつもりですか? それじゃああの人、まるで犬死にじゃないですか」
純はあくまで冷静に、姫子を諭すつもりだった。
だがしずかの死という単語が姫子の逆鱗に触れる。
次の瞬間、純の身体は壁に叩き付けられていた。
純「──っ!?」
前に闘った時とは段違いに闘気が膨れ上がっている。
そんな驚愕を抱いている間に追撃が迫ってきた。
視覚可能なまでに凝縮された風の刃が現れる。
純「うわっとと……」
流石と言うべきか、刹那の間に駆け抜ける風の刃を純は紙一重で躱した。
だが姫子の目的は純を屈伏させることではない。
まるで何事も無かったかのように死地へと赴こうとする彼女の背には、自暴自棄でネガティブな感情が渦巻いていた。
澪「待って」
そんな姫子を澪は黙って見てはいなかった。
敵さえも生かす彼女が仲間が無意の死を遂げる事など許す筈もない。
待てというたった一言の警告を姫子は無視した。
それがいけなかった。次の瞬間姫子が手にかけた扉は凍り付いた。
姫子「──」
何か言おうとした姫子はそれさえもかなわずに床に吸い寄せられた。
痛みも無ければ苦しみも無い。
それが澪に足を引っ掛けられたと気付いたのは、仰向けになって天井を見据えてから数秒後だった。
澪は感慨もなく姫子の腹部に片足を捩じ込む。
反作用の力さえも押さえ込み、踏みつぶすその圧力に姫子は声にならない声を上げた。
澪「私が言いたい事は分かるよね。分からないならもう一発いっとくけど」
姫子の反骨心はまだ絶えない。
噎せ返りながらも瞳には憎悪を宿しており、身体には風を纏っている。
姫子「……退いてよ。私は行かなきゃいけないんだか──」
澪「うるさい」
澪は姫子の言葉を待たずに刀を鞘に収めたまま振り下ろした。
姫子の側頭部から潰れたトマトのような鮮血が噴き出る。
澪「無意味に死ぬ事に価値なんてあるの?」
その答えは分かりきっている。
それでも姫子は、友を危険の渦中に送り出した自責の念を払拭する償いが欲しかったのだ。
澪「あるわけないよね。無意味なんだから」
甘えるなとでも言いたげな絶氷の仮面を顔に張り付けたまま、澪は淡々と言い放つ。
姫子「分かんないよ……。じゃあ私は……」
世迷い言のようにぶつぶつと辛みを吐き出す姫子を見兼ねたのか、澪は乱暴に茶髪を引っ張り上げた。
澪「死にたい人間を引き止めるつもりは無いけどさ、そうやって自分を美化してあの子を侮辱するのは止めてよ」
駄目押しに、澪は姫子の頬を思い切りひっぱたいた。
こうして時系列は元に戻る。
殺意無き悲しい風は主を置き去りにしていた。
律には風が示す悲しみが姫子ではなく澪の内面を映しているような気がしてならなかった。
律「澪……」
律は縋るように澪の名を呼ぶが、当の澪はどこか遠い目をしている。
律は悟った。
今の澪を止められるのは自分しかいないという事を。
たとえどこまで高みに登り詰めたとしても、気難しくて臆病な澪はそこに居る。
その澪は既に死んでしまったというなら叩き起こせば良い。
儚さすら醸し出す青の少女を見据えながら、律は思った。
憂「あなたは一体何なんですか?」
荒んだ空気に満ちた個室で一人、憂は空虚に話し掛けていた。
『私は貴女ですよ。それ以上でも以下でもありません』
どこからともなく、憂と同じ声が響いた。
『敢えて私を記号化するならば龍、でしょうね。そういう風に創られたのだから』
憂「創られた……?」
一体誰に創られたのか。そんな憂の思考を先読みしていたかのように声の主は即答する。
『神様にですよ。もっとも、強くなり過ぎたが故に今はこんな有様ですが……』
言葉を濁して咳払いすると、彼女は数秒の間押し黙った。
『お姉ちゃん』
沈黙の後に紡がれたその単語は憂の身体を跳ね上がらせた。
憂「……お姉ちゃんが何処に居るか分かるんですか?」
自分と名乗る空虚にすら縋りつく自分を、情けないと思う余裕は憂には無かった。
『それを伝える為に私は貴女に話し掛けたのですよ』
次の瞬間宙に光の粒が舞った。
一つ一つは小さく儚いそれは、数万数億と折り重なって形を成してゆく。
『貴女の気持ちはよく分かります。私にも大好きなお姉ちゃんがいましたから』
憂「…………」
光を映さない憂の両目に映ったのは自分自身だった。
『いつだって自信満々で、自由奔放で、たまに手がつけられなくなったりしてたけど……。それでも大好きなお姉ちゃんでした』
まるで自分の事のように誇らしげに語る彼女の表情は限り無く健やかだ。
『でも神様はお姉ちゃんは何も与えてくれませんでした。どれだけお姉ちゃんが頑張っても、何をしても報われなくて……』
この少女は一体何を抱えて今まで在り続けたのだろうか。
思案するにつれて深みにはまってゆく自分の意識を憂はすんでのところで引き上げた。
『だから貴女のお姉ちゃんにはそうなって欲しくないんです。だから一緒に行きましょう?』
差し出された優しい光に対して、憂はただ一言『はい』と呟いた。
やたらと鼻につく甘ったるいルームスプレーの香りが充満した個室に彼女は居た。
アンティーク調の腰掛けに身を委ね、上品に紅茶を啜る姿は中世の貴婦人を思わせる。
そんな高貴なる彼女のティータイムはノックの音によって中断させられた。
江藤「どうぞ」
江藤の応対の後に扉は開かれる。
扉の先にいたのは斎藤だった。
斎藤「休憩中のところ悪いな」
言葉とは裏腹に大して悪びれもせず、斎藤はずかずかと部屋の中に入ってゆく。
江藤「どうしたんですか? 私用ってわけでも無さそうだけれど……」
ちらりと斎藤の方を見て江藤は大体の事を把握した。
斎藤は平静を装ってはいるものの、よく見れば肩で息をしており、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
江藤「うふふっ、油断しちゃ駄目じゃないですか斎藤さん。狐にも牙はあるんですよ」
斎藤「牙はあっても毒は無い筈なのだがな」
悪態をつきながら斎藤は空いた腰掛けに座り込んだ。
江藤「それは災難でしたね。でもまだこうして立っているという事は、もしかして斎藤さんって悪運は強い方だったりします?」
斎藤「御託は良い。解毒薬はあるんだろうな」
有無を言わせぬ斎藤の圧力に江藤は肩を竦めた。
江藤「ご心配なく。その毒は神経系を狂わせる強力な毒だけど、それで死ぬ事はありませんから」
脇に置いてあった小瓶と注射器を取り、斎藤に投げ渡す。
江藤「それできっちり一人分。それを打って安静にしていれば今日中には良くなる筈ですよ」
江藤の説明を受けると斎藤は直ぐに立ち上がり、部屋を後にしようとする。
江藤「あ、そうそう」
急な呼び止めを煩わしく思いながらも斎藤は振り返った。
江藤はそんな斎藤の心情を察しながらも不敵に笑う。
江藤「毒の効力自体に殺傷能力は無いけど、そんなに血を流してたら早くしないと合併症状で衰弱死しちゃうかも」
斎藤「……それを先に言え」
斎藤はぎりぎりと歯を食いしばりながら江藤を睨み付けた。
数秒の沈黙の後に、やや取り乱した動作で斎藤は部屋を後にする。
江藤「斎藤さんに傷を負わせるなんて……。私も少し遊んどけば良かったなぁ」
ぐっと伸びをして江藤は立ち上がった。
そして個室に備わったシャワールームへと歩を進める。
上着を脱ぎ捨てスカートのファスナーをそっと引き下ろすと、瞬く間に彼女の姿は扇情的なものとなった。
鼻歌混じりに纏った下着を脱いでゆく彼女の顔には意味深な笑みが張り付けられていたが、それが何を意味するのかは彼女にしか分からない。
姫子と澪の諍いの次の日。
完全下校を知らせるチャイムが鳴り響くグラウンドの中央に和達は集っていた。
和「送られた情報の解析が終わったわ。今配った紙を見てくれる?」
和の一声の後に紙が擦れ合う音が重なった。
澪「凄いな……。三十枚の写真からあの建物の構造の殆どが割り出せてる」
和「あくまで推測よ。実物との差異にはその都度臨機応変に対応してもらうわ」
事務的に物を言う和には厳格な雰囲気が漂っていた。
彼女が桜高を束ねる事に誰も異論を唱えないのも頷けるだろう。
梓「臨機応変、ですか……。便利な言葉ですね」
梓は苦笑いを浮かべておどけて見せるも、動揺は隠し切れていなかった。
もしかしたらこの中で一番足を引っ張るのは自分かもしれない。
そう考えると梓は気が気ではなかった。
純「あれぇ? 梓ってばもしかしてビビってるぅ?」
梓は横でけらけらと笑う純の肩を軽く小突いた。
だが煩わしくは感じない。むしろ日常を思わせるその軽いやり取りは梓の心の波を静めてゆく。
和「黙って聞きなさい!」
和の一喝と共に残撃によって生み出された不可視の刃が駆け抜ける。
純はそれを咄嗟に屈んで躱し、事なきを得た。
純「だぁから! そろそろ私も本気で怒りますよ!? 何ですかそれ! せめて真っ当な人間扱いして下さいよ!!」
ぎゃあぎゃあと喚く純を完全にスルーしつつ、和は説明を続ける。
和「出来る事なら全員連れて行きたいんだけど不透明な点が多過ぎるのよね。取り敢えず勝手に突入の面子を組ませてもらったわ。異論も受け付けます」
律「あるわけねーだろ。なんたって和の判断なんだからな!」
両の拳をぶつけながら律は意気揚々と答えた。
彼女も彼女で思うところはあるのだろうがその影を落とす事は一切無い。
軽音部の部長としての器量には申し分なかった。
和は他の面子にも目配せした。
全員が申し合わせたかのように首を縦に振るのを見て、和は少しむず痒くなる。
和「プレッシャーかかるわね……。それじゃ言うわよ」
少し間を空けて和は一人目を呼んだ。
和「ムギ」
紬「どんと来いです!」
一人目に彼女が選ばれたのは必然だ。
この作戦は紬無しでは機能し得ない。
そして従者衆にも精通しているという点ではデメリットも多少あるが、それ以上のメリットもあるだろう。
和「澪」
澪「うん」
澪は地図から目を切らずにそっけなく答えた。
この二人だけで作戦は成功してしまうかもしれない。
そう思わせるだけの力を手にした彼女は、言わば桜高の最終兵器と言ったところか。
和「次に私ね」
憶する事もなく自分を推すその自信は流石は『女帝』と言うべきだろう。
今の澪には大きく劣るものの、彼女の強さも常識で計り得るものではない。
和「立花さん」
姫子「……」
無言で頷くだけだった。
だがその瞳には捨身の覚悟が宿っていた。
或いはその覚悟こそが、最大の武器になるのかもしれない。
和「佐伯さん」
三花「うなー」
自分で選んだもののこの子はどう動くだろうか。
一抹の不安を抱える和とは裏腹に当の本人はゆらゆらと頭を振るばかりだった。
和「律」
律「うっし!」
律は拳と平手を作って打ち鳴らす。
仮に全体の統率が取れなくなった場合、自分以上に場を纏めるスキルを持っているのは律だ。
力よりも大切な強さ。
そんな期待を抱きながら和は律を選んだのだ。
和「中野さん」
梓「は、はい!」
裏返った声から緊張している事は直ぐに分かった。
だが軽音部の覚醒していない三人の中で一番初めに力を手にするのは彼女だろう。
少し前とは違う梓の闘気を感じ取った和はそんな予感を抱いていた。
和「作戦決行は明日。以上の八人を潜入メンバーとするわ。一応聞いておくけど何か異論のある人は?」
聞くまでもないだろうと言わん許りに一人を除いて皆沈黙を返した。
選ばれなかったエリ、アカネ、そしてキミ子とよしみもそれは同じだった。
純「いやいや……」
そんな中純はぼそりと呟く。
純「いやいやいやいやいやいや! これって突っ込むところですよね!? 一応聞いときますけど私は入ってないんですか!?」
喚き散らす純から鬱陶しそうに逸しつつ、和は手に持った書類を再確認した。
和「ああ忘れてたわ。あんたも入ってるわよ」
桜高のグラウンドにぶちん、と何かが切れる音が響いた。
最終更新:2013年03月04日 20:09