唯「出して! 出してよぉっ!!」
発狂気味に叫びながら彼女は叫び続ける。
殴打し続けた扉は大きく陥没してはいるものの開く気配は無い。
赤子のように泣き喚いても差し伸ばされる手は無い。
やがて泣き疲れたのか、唯はベッドに顔を埋めて押し黙った。
時折聞こえる嗚咽を漏らす音は虚しく響く。
唯「うぅ……。ギー太ぁ……」
シーツに埋めた顔を起こすとスタンドに立て掛けられたギターが目に入った。
買った当初より少しネックが反ってしまっただろうか、適切なメンテナンスは殆ど施されてないので若干古ぼけてしまっている。
唯は何かに取り憑かれたようにふらふらとギターに手を伸ばし、それを弾くわけでもなくただそっと抱き締めた。
唯「誰か、誰か助けてよ……」
ぼそりと呟いたその時、それは起きた。
唯「ひっ──!?」
床、天井、壁。あらゆる場所から白い蒸気のようなものが噴出される。
たちまち煙に覆われてゆく部屋の外から放送の音が聞こえてきた。
「披験体をエデンシステム内に搬送します。関係しているクルーは速やかに持ち場に待機、該当しないクルーは収容区域から速やかに退出してください」
放送の直後に外が急に慌ただしくなった。
唯「うっ……ごほっ、ごほっ」
催眠ガスの類のものなのだろう。
ぼんやりと滲んでゆく意識の中で唯は思考する。
披験体。
エデンシステム。
搬送。
収容区域。
それらの単語から辿り着く答えは……。
唯「私……。死んじゃうのかな……?」
これからどれ程の苦汁を飲まされるのだろうか。
もしかしたら全身を捌かれて中を掻き乱されるのかもしれない。
或いは全身の血を一滴残らず搾り取られるのかもしれない。
絶望のヴィジョンだけが頭を過ぎる。
唯「いやだ、よ……。死にたくないよ……」
唯の意識はフェードアウトしていった。
斎藤「……催眠効果が作用したようですね」
いちご「まだ安心は出来ないわ。後三十分放出を続けて」
慌ただしく駆け回るクルー達がいちごの一声で更に動きを早める。
斎藤「しかしよろしいのでしょうか。プランを早めるとエデンシステムは正確に起動しない恐れが……」
いちご「背に腹は代えられないの。今は時間が無いからね」
事態がますます深刻化してゆく事にいちごはひたすら憤っていた。
しずかの潜入はそれほどの被害を及ぼしていたのだ。
いちご「こっちにはタナトスもあるし、最悪あちら側に対抗出来る力さえ出来ればそれで良いわ」
ひたすら後手に回り続ける。
それはいちごが今まで経験した事の無い状況だ。
桜高でトップランカーに登り詰めるまでに彼女は一度も敵に傷を負わされたことはない。 それは彼女の闘いが相手の千手先を読んで事前に策を仕掛ける計算ずくの詰め将棋だったからだ。
いちご「大丈夫……。大丈夫だから」
うわ言のように呟く彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
何から何までイレギュラーばかりだ。
自分の居場所がこれほど早く特定されるとは思わなかった。
しずかが単身でここへ乗り込んでくるとは思わなかった。
だがそれも仕方ないと言ってしまえばそれまでだ。
彼女は澪がかつての憂と同等のレベルまで昇華している事も知らなかった。
それでは主君に絶対的な忠誠を誓う従者衆が一人、伊藤が恐怖のあまり自白してしまう事も予測出来ない。
そこまで観察する為の労力は全て憂に牽制をかける事によって使い果たしていたのだから。
いちご「…………」
唾を飲み込んでいちごは立ち上がった。
先程まで狼狽していた頼りない表情は影を潜めている。
いちご「あの子から抽出するエネルギーの内の五パーセントをタナトスに回して」
斎藤「……はい」
いちご「そして四十五パーセントをエデンシステムに投入」
斎藤「…………」
斎藤は顔にこそ出さなかったものの、その数字に疑問を覚えた。
残りの半分を温存する意味は何なのだろうか。
その考えは直後に放たれたいちごの言葉によって払拭された。
いちご「残りの半分はエデンシステムを介して私が貰うから」
その言葉の意味を斎藤は直ぐに理解した。
そして同時にいちごの強靱なる精神を触れる。
唯から抽出する『龍』の闘気の内の半分を身体に宿すという事は人外の者へと堕落してしまうという事だ。
その決断をこうも容易く下してしまうという事は自分の命を軽く見ている事と同義。
普通ならば褒められたものではないが斎藤は違った。
むしろあらゆる犠牲を払ってでも目的を成さんとするいちごに畏敬の念すら覚える。
いちご「何してるの? 早くして」
斎藤「は、はい……」
この少女ならば或いは……。
制御すら困難な『龍』の力すら涼しい顔で手駒としてしまうかもしれない。
斎藤は少し遅れて、堂々と歩むいちごの背後を恐縮するようにおずおずと着いて行った。
一昨日しずかが通った軌道と同じ空を一台のジェットが走る。
機内に不快な揺れは無く、各々が迫る戦いの時に備えて集中力を高めていた。
律「なぁ澪」
澪「うん?」
不意な呼び掛けに澪は刀を手入れする手を止めた。
律「仮にさ、あちらさんの中に『絶対の彼方』を越えた人間が百人居たとする。お前ならその内何人倒せる自信がある?」
澪は口を噤んで質問の意図を探ってみたが、今まで律が深い考えを以て何かを言った事があっただろうかと考えると馬鹿らしくなり、率直に答える。
澪「百人居るなら百人倒せるだろうな。多分五百人でも千人でもそれは変わらないよ」
律「そっか……。そりゃ頼もしいな」
律の曖昧な返事に澪は違和感を覚えた。
だがそれはそこまでの話で、澪はその違和感を胸にしまったまま再び刀の手入れへと戻る。
再び静寂が機内に満ちた。
中にはタオルケットを被って眠りについている者もいるのでそれは当然なのだろう。
離陸してからどれくらい時間が経っただろうか。
かつてしずかがこの機内でそう感じたように、律と澪もそんな事をぼんやりと考えていた。
その時──
澪「っ!」
けたたましい警報音が機内に鳴り響いた。
その音に遅れて仮眠を取っていた者も次々に飛び起きる。
和「皆落ち着いて。飛び降りるのは警報が鳴り止んでからだか──」
和はそう言いかけて言葉を止めた。
ぞわりと首筋を這う感覚が和の思考を一瞬だけ掻き乱す。
澪「飛べ!」
喉が張り裂けんばかりに叫び、澪は鞘で機内の壁を突いて。
動作の見た目とは裏腹に、機体に大きな風穴が空く。
紬「えっ!? なんなの──」
律と紬だけが事態を把握していなかった。
痺れを切らした純が二人の首を掴み、躊躇いなく外へ飛ぶ。
律「のおおおおおおおっ!?」
律の叫び声が空に響いた。
続けて三花、梓、姫子、、和の順に飛び降りる。
最後に澪が飛び降りようとしたその時、それは起きた。
澪「くっ……!」
機体が外からひしゃげてゆき、黒い何かが突き出て来る。
機体の外に出る事を諦めた澪は咄嗟に身を屈めて刀を床に突き立てた。
機体はみるみるうちに崩壊し、飛散してただの鉄屑となり、今の状況が露になる。
澪を囲むように突き出した何かは黒い牙で、鉄屑が流れ込む先には深い闇が広がっていた。
澪「食べられる一歩手前ってとこか……」
このまま停滞を続けていればいつか牙にその身を砕かれる。
だがこの闇の中に身を投じても無事で済まないのは同じ事だろう。
律「な……」
律は目の前の光景に息を飲む。
今までの自分の人生も普通とは言い難かったが、これはあまりにも現実離れし過ぎだ。
律「なんじゃこりゃああああああああっ!?」
律の眼前には鉄の竜がジェット機を食い荒らす光景が広がっていた。
全長一キロはあろうか、最早その漆黒の身体の全貌を視界に収める事など出来はしない。
瞳を象った水晶体は赤くてらてらと輝いている。
純「ちょっと大人しくして下さいって!」
この巨竜を相手にする前に乗り越えるべき壁がある。
遥か上空から飛び降りた純達は必然、このままだと地上に叩き付けられてしまうのだ。
どうしたものかと純はちらりと姫子の方を見た。
姫子「しっかり掴まっててね」
三花「はーい」
姫子は三花を腰から抱き抱え、螺旋を描くように落下している。
吹き荒れる風を上手く制御して滑空しているのだろう。
表情に焦りの色は一切無い。
純「なるほど……」
純もそれに倣って闘気を緑に切り替え、二人を抱えたまま滑空する。
始めは不安定だったものの、風の制御を繰り返しているうちにその軌道は安定してきた。
梓「どうするんですか!? このままだと私達死んじゃいますよ!!」
和「うろたえないの。これくらい今の澪と比べれば大した問題じゃないわ」
和は涼しい顔で刀を鞘から抜き、地上に向けた。
凍土から吸い寄せられるように光が集ってゆき、巨大な剣を形成する。
和「しっかり掴まってなさい。まぁ肩の脱臼は避けられないだろうけど、それくらいなら我慢出来るわよね?」
和の言葉で梓はこれから彼女が何をしようとしているかを悟った。
無謀過ぎるとは思ったものの他にこの状況を打破出来る策は無い。
梓「…………」
無言で頷き、差し出された和の手を取ると、温もりが梓の手を覆った。
刃が風を裂き、雪を切り、落下の速度が段違いに上がる。
地表に激突する直前でも、梓は目を逸らさなかった。
和「うぐっ───」
光の刃が雪に突き刺さり、とてつもない衝撃が走る。
鈍く嫌な音が二人の肩から聞こえた。
高度五十メートル、およそ学校の校舎ほどの高さだろうか。
一度だらりと刀の柄にぶらさがると二人はそこから飛び降りた。
梓「大丈夫ですか……?」
和「わりと平気ね。ちょっと待ってて、直ぐに肩入れてあげるから」
むくりと立ち上がり、和はだらしなく垂れた右腕を無理矢理矯正する。
その様子をひとしきり眺めると、梓は空を覆う黒い影に視線を移した。
梓「澪先輩……」
澪を助けたい想いと自分ではどうにもならないと思う理性が梓の中で葛藤していた。
不気味な呻き声を上げて空を泳ぐ巨影の名はタナトス。
ただそこに在る命を情緒も無く、配慮も無く、躊躇も無く刈り取る。ただそれだけの為に造られた兵器だ。
長い胴とは裏腹に歪に膨れ上がった腹部は鯨のようにも見える。
和「大丈夫よ」
いつの間にか肩の矯正を終えた和が梓に呼び掛けた。
和「あれがどういったものなのかは分からない。けど澪の方が怖いもの」
梓「怖い……?」
顔に疑問の色を張り付けて梓は復唱した。
和はふっ、と微笑むと梓の首元に手をかける。
和「怖い、という表現がそれであってるのかも分からないわ。そうね……あなたは憂を一言で表現する時、どんな言葉を使う?」
投げ掛けられた質問に対する明確な答えを、梓は持ち合わせていなかった。
梓「……それは」
和「怖い、黒い、歪、醜い。私ですらそう揶揄される事があったわ。けど今の澪はそんな私さえも遥かに凌駕してるの」
究極の更に奥。
人知を越えた力を人が目の当たりにした時、その口から紡がれる言葉は讃辞や尊敬の言葉ではない。
酷いほどに冷たく、悲しいほどに黒い言葉だ。
梓「つっ……」
肩に鈍い音が走り、思案に更けていた梓の意識は引き戻される。
和「あの黒いのには私から一言、怖いという言葉を送れるわ。でも澪は……」
和はそこで言葉を区切り、歩き始めた。
和「行くわよ。他の皆とも合流しなきゃ」
指を弾くと雪原に突き刺さっていた光の刃が散り、刀だけが吸い寄せられるように和の手元に舞い込んだ。
梓「…………」
また一瞬だけ空を見上げ、梓は和がつけた足跡を辿ってゆく。
その途中で一際大きな爆発音が鳴り響いたが、それでも梓は振り返らない。
今はただ自分に出来る、やるべき事を成し遂げよう。
せめて今自分の側にいてくれる和の足を引っ張らないように。
梓はそんな想いを抱き、歩き続ける。
澪「なんて力だ……!」
澪はタナトスの口内で必死に耐えていた。
上顎と下顎の圧力は鋼鉄さえも一瞬で砕く威力を持っている。
そんな過酷な状況下を刀のつっかえ棒のみで耐えている澪の力もまた言うまでもないだろう。
澪「……っ!」
喉の奥から不気味な呻き声が鳴り響き、何かがせり上がってくる。
それが砲台だと気付いた澪は瞬時の判断で刀を引き、視覚不可能の速度で後退した。
澪「うわっ──!?」
空へと身を投げ出される直前で下顎の装甲の節目に指を引っ掛けると、手元に強烈な熱が伝わってきた。
爆発音を轟かせながら射出されたそれは極太のレーザーだ。
雲を、雪を焼き払い、地平線の彼方まで突き進むとそれは消えた。
澪「レーザー……なんてちゃちなものじゃなさそうだな。となると……」
自分の目でさえ射出の瞬間を見切れなかった。
となるとこの光線は限り無く光速に近い速度で放たれている。
澪「荷電粒子砲か……。まさか実物を生きてるうちに見られるなんてね」
それは再現可能な理論はあってもそれを起動する為の電力が膨大である為、実用化されなかった架空兵器だ。
タナトスは澪を嘲笑うように不気味な呻き声を漏らしている。
策士の知略、財閥の科学力を総結集して造られた究極の兵器が澪に牙を剥いた。
澪「この……! 暴れるなったら!」
澪はタナトスの腹の部分にしがみつき、振り落とされないよう必死に耐えていた。
タナトスは耳を劈く咆哮を発しながら空中を縦横無尽に旋回している。
澪「まずいな……」
先程から掌を介して冷気を送り続けているのだが一切手応えが無かった。
この過酷な状況下で自由に飛行しているのだ。過度の冷気に対する何らかの防御法は持ち合わせているのだろう。
それだけならまだ良かった。
水氷、冷気を操る力だけが澪の強さではない。
圧倒的な身体能力から放たれる鉄を穿ち、大地を裂く斬撃。
その他にも勝負出来るカードは幾らでもあった。
澪は刀を握る左手に力を込め、装甲の節目の部分を突いた。
澪「やっぱり駄目か……」
まるで暖簾を突いたような不快な手応えが腕に伝わる。
試しに刀をしまい、素手で殴り付けてもそれは同じだった。
澪「うわっ──!?」
タナトスの巨体が急激に揺れ始める。
ドリルのような激しい回転で澪を弾き飛ばそうとしているようだ。
最初の数回転は何とか耐えていた澪だが、片手の、しかも人指し指と中指だけでしがみついていた身体は呆気なく空に投げ出された。
澪「…………」
狼狽することなく意識を研ぎ澄まし、両腕を横に広げる。
すると澪の身体を受け止めるように地上からわき出た水の柱が澪を守った。
水の柱は緩やかに噴出を抑え、澪を地上へと送り届ける。
タナトスは残虐な意志が込められた赤い瞳でその様子を見つめていた。
澪「…………」
向こうに追撃の意志が無いことを悟ると澪は即座にその思考をフルスロットルで回転させる。
敵の全長は一キロメートル強。
その装甲には何らかの防御システム、所謂不可視のバリアのようなものが張られており、こちらの攻撃は完全に防がれる。
攻撃用兵器には荷電粒子砲。或いはそれ以上の兵器が搭載されているかもしれない。
澪「……不透明な点が多過ぎるな」
勝負出来るカードは今のところ一枚も無い。
決着を急ぐのはまだ早計だと判断した澪は暫く見の姿勢を取ることにした。
斎藤「完全自律型駆動兵器タナトス。想像以上の猛威を振るっていますね」
いちご「
秋山 澪があそこまでの力を手にしているのも想定外だけどね。まぁそれを踏まえても中々の出来でしょ」
若王子機関本部の中枢。生命の実がなる禁断の樹の元。
そこに斎藤といちごが居た。
十メートル足らずほどの高さの樹の上部には鉄の杭で胸を穿たれた唯がはりつけられている。
その根元で蔦に絡まっているいちごは外の様子を映像化しているモニターを見てくすりと笑った。
いちご「まぁ三十分持てば良い方かな」
斎藤「では標的を殲滅し次第タナトスをこちらに戻しますか?」
いちご「いや……」
いちごは言葉を区切り、身体を捩らせた。
頬をうっすらと赤く色付いており、はだけた衣服の間から見える柔肌には汗が伝っている。
いちご「タナトスじゃああの子は食い止められないよ。多分あのアンチエネルギーフィールドの穴も見破られるだろうし」
斎藤「し、しかし……。あれの穴を看破したところで破る手段など……」
いちご「成るように成るんじゃない? どの道あれは試作品だし、大した愛着も無いよ」
狼狽する斎藤に対していちごはぴしゃりと言い放った。
肩を震わせながら甘い吐息を漏らし、糸が切れた人形のように頭を下げた。
いちご「分かったら……席を外して貰える? 持ち場は、んっ……第五研究室で良いから」
いちごは苦しそうではあるもののどこか恍惚とした表情を浮かべている。
斎藤「しかしエネルギーの抽出が終わるまでは此所ががら空きに……」
いちご「良いから」
有無を言わせぬきつい目付きに斎藤は思わずたじろいだ。
斎藤「…………」
いちご「早く行って。恥ずかしいよ……」
絡まる蔦が身体を這い、その度に甘い声を漏らすその姿は、いたいけな少女が凌辱されているようにも見える。
後藤がこの場に居ればきっと目を細めて下卑た笑みを浮かべるだろう。
そんな事を考えながら斎藤は部屋を後にした。
いちご「んっ……」
眉を顰め、襲い来る快楽の並に耐えていたいちごだが斎藤が去った事によってその理性は崩壊した。
全身から汗がどっと吹き出て、漏れる嬌声の音も大きくなる。
いちご「やっ……あんっ……そこは……っ」
身体を締め付ける蔦の力が強くなり、一層激しく動く蔦は遂にはいちごの秘部に潜り込もうとしていた。
膝ががくがく震え、下腹部がじんわり熱くなる。
いちご「駄目……だよ……おかしくなっちゃう……っ!」
歪に歪んでゆくいちごの頭上で唯は安らかに眠っていた。
いちごの太股を伝って零れた愛液に、穿たれた唯の胸から滴り落ちた血が交ざり合う。
和と梓はひたすら駆けていた。
後ろを振り返ることなく、ただ眼前に迫る敵の本拠地に向かって。
和「多分皆もあそこに向かってる筈よ。先に入口を突破して中を掻き乱すわよ」
梓「はい!」
走りながら制服の袖口、首から下を覆う耐寒スーツの下から銃器の部品を取り出し、即座に組み立ててゆく。
その一連の動作に一切の無駄は無い。
その道を知る者ならばそれを見てただ溜め息をつくだろう。
和はそれを横目で捉えて薄く微笑むと、桜花を勢い良く鞘から抜いた。
桜花に光が収束し、巨大な剣を形成する。
目標は数十歩先の反り立つ塀。
和は渾身の力を込めて光の刃を塀に叩き付けた。
梓「凄い……!」
梓は感嘆し、頬を弛める。
ほんの一瞬だけ気を緩めた梓の首を和が掴みあげた。
和「油断しないの!」
そのまま大きく跳躍し、瓦礫と化した塀を飛び越える。
目まぐるしく動く視界の中で梓が見たのは、つい先程まで自分達が居た場所に放たれた一筋の炎だった。
炎は一瞬で雪を溶かし、熱風を撒き散らして辺りの風を食い荒らす。
「つーかよぉ……」
やけに間延びした声が和達の前方から聞こえた。
粉塵と雪が入り交じって視界が混濁しているが、何かが来ている事は分かる。
「もうすぐ一生働かずに旅する資金が貯まるってのに、どうしてこうも面倒事が多いかね?」
粉塵の先の男が腕を振るうと、熱風が粉塵を吹き飛ばした。
和「後藤……?」
和は今対峙している男が先日画像で見た男とその容姿が一致している事に気付く。
後藤「気安く呼び捨てにしてんじゃねーぞ。後藤『様』だ、豚が」
後藤が翳した掌に赤い光が収束してゆく。
何か来る。
それを肌で感じた和は梓を突き飛ばして自分も大きく転がった。
そのすぐ隣を真紅の炎が駆け抜けてゆく。
後藤「へぇ。そっちのロリな嬢ちゃんはぼんくらだが、お前は中々楽しめそうじゃん?」
後藤は無言の怒りを込めて放たれた梓の弾丸をまるでピーナッツでもキャッチするかのように掴み取る。
和「……女帝の前で道化となって媚びるのは誰なのかしらね」
後藤「おー怖いねぇ……。媚びたところで一切容赦しねーのが女王様なんだろ?」
目を細め、下卑た笑みを浮かべる後藤。
対峙する敵をゴミ屑のように見下す和。
そしてその和に寄り添い、明確な意志を胸に抱いた梓。
たった今、一つの戦いの火蓋は切られた。
例えば同じ力同士がぶつかりあったとする。
責めぎ合う二つの力の優劣を決めるのは、均衡を崩すのは一体何だろうか。
相殺することもなく責めぎ合う二つの力が完全に同じものだとしても、その均衡は永遠に続く筈も無い。
澪「はぁ……はぁっ……」
雪原で暴れ回るタナトスの体躯を擦り抜けるように、澪はひたすら駆け回っていた。
どんな技や力を以てしても傷一つつけられないタナトスの防御力に、澪は成す術がなかった。
澪「きゃっ──」
雪に足を取られて盛大に転ぶ。
幸いタナトスがその隙を突くことは無かったが、自分の体力が確実に削られてきていることが澪を焦燥感に駆らせた。
澪の攻撃がタナトスに通用しないのと同じように、タナトスの攻撃も澪には通用しない。
大き過ぎる身体から繰り出される攻撃は範囲こそ広いが動作が緩慢だ。
最悪被弾したところで闘気を纏っておけば死にはしない。
唯一殺傷能力があるのは荷電粒子砲だが、それもエネルギーの収束を察知すれば容易く躱せる。
澪「…………」
しかしそれはあくまで澪が健全な状態を保つ事が出来ればの話だ。
どれだけ鍛えたところで人間の身体は永劫機関ではない。
ましてや足に纏わりつく雪、視界を遮る吹雪。
この場は体力の減少を促す条件に満ち溢れた環境なのだ。
再びタナトスの口内から砲台がせり上がり、光が集束してゆく。
澪は咄嗟にタナトスの顎の下へと潜り込み、荷電粒子砲の攻撃範囲外へ身を潜めた。
澪「う……ぐぅ……!」
大気中を流れる水分を一点に集めて瞬時に凝固させるが、砲台のほぼ真下という位置に襲い来る余波は尋常なものではない。
氷の壁が音を立てて崩れると同時に、澪は衝撃を殺す意味も兼ねて大仰に飛び退いた。
澪「……?」
何かがおかしい。
地球の磁場の影響を受けて軌道を曲げてゆく粒子砲を眺めながら、澪は思った。
何もおかしくなどない筈なのに、そもそも自分が今こうして苦戦している事すら何かおかしく思える。
澪「はっ!」
下半身に力を込め、身体全体を上手く利用した一閃を宙に放つ。
するとその直後、その剣撃に呼応したかのように降り積もった大量の雪が舞い上がり、雪崩と化してタナトスを飲み込んでゆく。
全長一キロメートル強、その気になれば空母ですら易々と食い尽くしてしまうであろう巨体が自然の猛威に飲み込まれていった。
澪「一点集中型の荷電粒子砲……。全身を覆う不可視のバリア……」
雪崩がタナトスを覆い、雪山を作り上げた。
山の内部に閉じ込められたタナトスはぴくりとも動かない。
吹き荒れる吹雪の音だけが響く清閑としたその場所の中央で、澪はうわ言のように何かを呟いていた。
澪「……こいつ。私を殺す気が無いのか?」
得体も知れない猜疑心は澪の思考を本来ならば辿り着かないような答へと導いた。
殺す気が無い、という表現には語弊がある。
ただ荷電粒子砲という空想科学兵器を現実のものとしたその攻撃力を持ちながら、何故この竜には他にもっと手っ取り早い、例えば広範囲を巻き込む爆弾の類のものを搭載していないのか。
そんな疑問が殺す気が無いという判断を暫定的に下させたのだ。
澪「……っ!」
澪が思案に更けている間に雪原が大きく揺れ始めた。
まだ終わりではない。
黒い夢、タナトスは標的を殲滅するまではその純然たる殺意を絶やしたりはしないのだ。
耳を劈く咆哮と共に大気が震える。
殺戮の権化は大量の雪と純然たる殺意を撒き散らした。
澪「……確率は五分五分。もう一つくらい確証が欲しいところだな」
その殺意に物怖じすることなく悠然と立ち向かうのは水氷の女王。
澪は見の姿勢を取り続けて洞察したタナトスの動向から、その鉄壁の致命的な穴を見出したのだ。
澪「他にそれらしいところ……。尚且つ私が斬ってないところは……」
大きく後ろに跳躍し、タナトスの全体を見渡す。
そして該当する箇所を瞬時に把握した澪は、刀の柄を握る力を強めた。
読みが外れていれば十中八九即死だろう。
それでも澪は、見出した一縷の活路を強く見据えた。
最終更新:2013年03月04日 20:10