後藤「はっはーっ! 甘い甘いぜぇっ!!」

 繰り出される後藤の裏拳を和はすんでのところで受け止めた。
闘気を纏っているにも関わらずその威力を完全に殺す事は出来ない。

後藤「だから甘ぇっつってんだろーが!!」

 ぎりぎりと押しつけられる右手の指がぱちりと鳴った。
その瞬間紅蓮の炎が和の髪の毛先を僅かに焼き、その背後を駆け抜けてゆく。

和「しまっ──!?」

 振り返ったその先には反応すら出来ずに棒立ちでいる梓。
和は咄嗟に桜花を積もった雪に突き刺し、闘気を操る。

梓「きゃっ!?」

 梓の足元から筒状の岩がせり上がり、その小さな体躯を空中へと投げ出す。

 梓はそのお陰で何とか事なきを得たが、無防備となった和は鳩尾を思い切り殴りつけられる。

後藤「ボディがお留守だぜっ……と!」

 更に追撃の蹴り上げが同じ箇所を捉えた。
僅かに吐血しながらも和は耐える。
宙に浮いた不安定な体勢で後藤の首筋目掛けて一閃を放った。
 その一閃すらも見切って和の懐に潜り込もうとしていた後藤だが、頭上から降り注ぐ弾丸の気配を察して大きく後退する。

後藤「ちっ……。ちょこまかうざってぇ鼠だなぁおい!」

 後藤は更に後転して和から距離を取るが、絶好のチャンスを格下に潰された事に苛立ちを隠せていなかった。

和「助かったわ……。ありがと」

梓「いえ……。元々私のせいですから」

 互いにフォローし合い、二人が格上の後藤相手に大した負傷も無く渡り合っているのは奇跡と言えるだろう。
 高度な連携だけでは説明出来ない、俗に言う運さえも二人の味方をしていた。

後藤「ちっくしょお……苛々すんぜ。この俺を差し置いて仲良く女子高生やってんじゃねーぞ三下ぁ!」

 長い黒髪、スーツに纏わりついた雪を払うと後藤は地団駄を踏んだ。
 和と梓は更なる後藤の猛攻に備え、腰を低く落として身構える。
だが後藤の口から紡がれた言葉は二人の闘志を著しく殺ぐものだった。

後藤「てめぇこのスーツ上下合わせて八十万すんだぞ!? 八十万だ! お前ら女子高生を何回抱ける値段だよ!? ちゃんとそこんとこ分かってんのかこら!!」

 憤る後藤とは対照的に二人の目は明らかに冷めていた。

梓「馬鹿ですね……」

和「ええ、馬鹿ね」

 後藤と対峙してから今に至るまで、二人はこれと全く同じ掛け合いを四回繰り返していた。
後藤の方もそれでやる気が殺がれた隙を狙うなどという阿漕な真似はしないので、それが余計に対処に困っている。

和「ねぇ……。これから私がする事を何も言わないで見ててくれる?」

梓「え? あ、はい……」

 ありがとう、と呟くと和は後藤の方へ数歩前に寄った。

後藤「なぁにコソコソやってんだよ?」

 露骨に不機嫌な顔をしながらもいきなり攻撃してくることは無い。
この人はどこまで律義なんだろうか、梓は呆れつつそう思っていた。

和「後藤『さん』」

 しゃりしゃりと雪を踏み鳴らして歩きながら、和は桜花を鞘に収めた。

梓「──っ!?」

 無謀過ぎる。
 空いた口が塞がらない梓は口を金魚のようにぱくぱくさせていた。
 だが和が次に紡いだ言葉は、そんな行動よりも更に梓を驚愕させた。

和「私達、降伏します」

後藤「降伏、だぁ……?」 

和「ええ、まぁ正確には取引といったところかしら」

 普段の和とは違い、のんびりとした話口調だった。

後藤「……聞くだけなら聞いてやんよ」

 後藤は(本人曰く)八十万のスーツが濡れることも厭わずにどっかりと雪の上に座り込み、シガレットケースを取り出した。

和「…………」

後藤「どうした、取引するんじゃねーのかよ?」

 後藤は訝しげな表情を浮かべて和の顔を見上げた。
和はその視線に気付いて我に返ったかのように肩を震わせる。

梓「……?」

 梓には何が何だか全く理解出来なかった。
というより、理解する気にもなれなかった。

 闘いの場であるにも関わらず和は得物を鞘に収め、後藤は丸腰で座り込んでいる。
互いにその状態から臨戦態勢に移るのには一秒と掛からないだろう。だがそれは守りにおいても同じ事だ。

梓「意味分かんないよ……」

 仏頂面で銃を構えてその銃口を後藤に向けてみたが、後藤はそれをちらと見るだけで何事も無かったかのように煙草に火を点けた。

和「単刀直入に言います。私達に協力してくれませんか?」

 梓は今度は腰を抜かしそうになった。

後藤「は、ははっ……」

 後藤も後藤でその提案は予想していなかったのだろう。
頬をひくつかせながら苦笑いを浮かべている。

後藤「……聞いといてやるが、お前らに協力して俺に何かメリットでもあんのか?」

和「あるわ」 

 和は即答する。
彼女が何を以てこうも自信満々に取引をしているのか、後ろで見ていた梓にはさっぱり分からなかった。

和「私達に協力してくれるなら、貴方が望む願いを一つだけ叶えてあげます」

 和の提案は後藤を揺らがせるには充分過ぎるものだった。
しかしそこは流石プロと言うべきか、暴れ狂う心臓の鼓動を潜めて後藤は静かにほくそ笑んだ。

後藤「……へぇ、まさかこんなとこにシェンロンが居たとはなぁ」

 蛇のような視線が和に突き刺さる。

 後藤の願い、夢は一流のバイクで一流の自分が一流の世界を見て、学び、旅する事だ。
言うまでもなくそれには莫大な資金が掛かる。

後藤「…………」

 和の目を舐めるように見つめる後藤は思考をひたすら働かせた。
 目の前で不敵に立ち尽くすこの女のパトロンは琴吹財閥だ。
確かにこの女の言う通り、自分の願いを叶える事などほんの些事でしかないのかもしれない。
 だが少し待て、と後藤はそんな自分の解釈を改めた。
 こうもあからさまに敵意が無い事を示されると逆に勘ぐりたくもなる。
 取引の隙を突いての攻撃、或いは抱えた策の為の時間稼ぎ。
疑い始めればその意図は枚挙に暇が無い。

 和の意図を読み取る上で何か確証めいたものが欲しい。
そう思っていた矢先だった。

和「そうね……。五分、五分だけ考える時間をあげます。それまで私達は貴方の視界ぎりぎりのところに居ますから」

後藤「──っ!」

 今の後藤にとっては千載一偶と称しても足りないような発言だった。
思わずポーカーフェイスを装っていた表情が緩む。

和「……? 別に逃げたりするつもりはないから。どの道逃げたところで無駄でしょうしね」

後藤「くくっ、ちげーねぇや」

 渾身の皮肉を込めて後藤はそう返した。
そして警戒しながらもゆっくりと遠ざかってゆく和をにやにやと見つめる。

 語りかけるには遠過ぎるがその気になれば一瞬で詰め寄ることが出来る。
和と後藤の間にある隔たりはそんなものだった。

後藤「さて、と……」

 シガレットケースから再び煙草を取り出し、火を点ける。
吐き出した紫煙が後藤の笑みを覆った。

後藤「ガキにしちゃあ賢い、というか賢しい策だがな……」

 子供の幻想を打ち崩すかのように鼻で笑う。
 こうも嗜虐に駆られたのは幼い紬にサンタクロースは居ないと断言した時以来だろうか。
そんな下らない事を考える余裕が、今の後藤にはあった。
 それもその筈だ。
 和が提案した取引は蓋を開ければ刃が飛び出すチープトリック。自分はその事に気付いたというアドバンテージを有しているのだから。

 恐らく時間さえ稼げばどうにかなるあてがあるのだろう。
だからこそ一刻を争うこの状況下でも、五分という明確な区切りをつけてきたのだ。
つまりその五分を後藤が反故にしてしまえば……。

後藤「やっぱ詰めが甘いな。五分ってのは禁句なんだよ……」

 それならば、と後藤は考える。
今から五分の間の何時に奇襲を仕掛ければ確実に二人を潰せるか。

後藤「一、二……。三……」

 残り三十秒となればあちらの気も引き締まってしまうだろう。
ならば最後の一分に入る直前。

後藤「残り三分と三秒か……」

 三分五十九秒。
 それが後藤が決めた殺戮の時間だった。

和「やれるわね?」

梓「……はい」

 無謀過ぎる。
 和が梓に打ち明けた策はそう評しても足りないくらいに無謀な策だった。
 十全に事が上手く運ぶ可能性など皆無に等しい。
たとえ相手が和の意図の通りに動いたとしても、はたして自分の力量がその無理を通すまでに至っているかは疑わしいものだ。
 だが梓が心中で渦巻くそんな疑念を吐露することは無かった。

梓「私がやらなきゃ、ですよね」

和「よく分かってるじゃない。その通りよ」

 そう言って固く結んだ口、険しく吊り上がった両目。
普通ならば物怖じしてしまう気迫を前にして、梓は何故か安心すら出来ていた。

 あんなに遠くにあった筈の絶対を越えた力。
それが何故か今は朧気ながらも感じ取れて、手を伸ばせば届いてしまいそうな距離にある気がした。

和「大丈夫。きっと上手くいくから」

 和は左手をそっと梓の方へと差し出した。
何の確証も無い気休めのようなその言葉はこれ以上にない程梓の心を鼓舞する。

梓「…………」

 梓は差し出された手を握り返し、視界の奥で佇む後藤をきつく睨んだ。
 立ち憚るは紅蓮の徒。
 全てを焦土と化す炎の意志が立ち込めるこの空間に、吹雪と共に一際強い一陣の風が駆け抜けた。

後藤「ひゃは──」

 短く嬌声を発すると、後藤は指の骨をばきばきと鳴らす。
距離を置いてから後数秒で四分になる。その瞬間だった。

後藤「──」

 一瞬の煌めきと共に後藤の右腕が発光、発火する。
 そしてその腕をそのまま地面へと叩き付け、凍土を焼き払いながら和達の元へと加速した。

後藤「甘ぇ甘ぇ甘ェ!! 何から何まで甘ぇつってんだよおおおおおっ!!」

 後藤と和達の間にあった距離はみるみるうちに縮められてゆく。
後藤の右腕に纏わりついた炎は膨れ上がり、一つの形を成していた。

梓「鳥……?」

 空すらも覆い尽くさんとする紅蓮の鳳凰がそこにいた。
 熱風が吹き荒れ、極光が迸り、爆炎が飛来する。
 始めから和が持ち掛けた交渉など意味を成していなかったのだ。
そしてそれは、和自身が一番分かっていた。

和「これが私のありったけよ」

 梓の手を握る左手に力を込め、右手で素早く抜刀した桜花を雪の中に突き刺す。

後藤「なっ──!?」

 その瞬間、凍土が跳ね上がった。
 まるで地面そのものを強大な何かが下から持ち上げたかのように。
和の爪先からほんの数寸先が山と化したのだ。

和「さしずめ山崩し、いや……」

 天を衝かんとする氷山を見てほくそ笑み、和は訂正する。

和「『天崩し』ってとこかしら」

 四分、実際には三分弱という短い時間の中で和は自身が持ち得る闘気のその殆どを練り上げ、奥義へと昇華させた。
 大地そのものが呻き声を上げて鳳凰を掬い上げ、搦めとる。

梓「これが……」

 大地を流れるエネルギーと術者の闘気を呼応させ、意のままに操る黄色の闘気使いの究極の技、世界が軋み、崩れてゆく。
 だがそれでも、舞い上がる炎が絶えることは無かった。

後藤「だぁらあああああああああっ!!」

 起伏した凍土がみるみるうちに溶けてゆく。
後藤がその右腕に宿した鳳凰は絶えずその命を燃やし、肥大した。

後藤「それがてめーの奥の手かぁ!? ちゃんちゃらおかしいったらないぜ!!」

 天を衝く山々が崩れ落ち、鳳凰が再び翼をはためかせる。

後藤「知ってっかぁ!? 鳳凰ってのは何度でも蘇るんだよ! ゾンビみてぇになぁっ!!」

 夢の為に、そしてそれの為に捨て去ったモノの為に、後藤は何度打たれようと立ち上がる。

後藤「俺は鳳凰だ! 刮目しろっ! そして死ね! その名が最強である事を此所に証明してやらぁっ!!」

 天崩しが破られたというのに、何故か和の表情は何かを成し遂げたかのような安堵感を滲み出していた。
突き立てた刃から手を離し、未だ握ったままの梓の手を更に強く握り締めた。

和「強がったところで結果は決まってるのよ。不滅なんて存在しない、そんな幻想は私達が殺してあげる」

 全力をぶつけた。
それで駄目ならば後は託せば良い、自分と肩を並べる仲間に。

和「後は任せたわよ?」

梓「はいっ!」

 力強く答える梓の右手に握られているのは殺戮、力の象徴。
込められた弾丸の数は零だ。
空の銃口から打ち出されるのは一つの弾丸が織り成す物語。

 静粛に、厳粛に、けれども力強く、梓はその鍵語を呟いた。

梓「エピソード」

 刹那、撃ち出されたのは風の咆哮だった。
不可視の銃弾が不可視の速度で駆け抜け、それが後藤の胸を貫くのにはコンマ一秒も掛からなかった。

後藤「あ──?」

 相手の持ち得る究極の力を打ち破った筈なのに、自分が持ち得る究極の力を発現させた筈なのに。

後藤「な──。何が──」

 胸に残る異物感と共に崩れてゆく自分の身体。
それでも後藤は自分の身に何が起きているのか分からなかった。

 否、分かりたくなかっただけなのかもしれない。
ぼんくらだと評した無力な少女の手によって、自分が地に膝をつけられているという事を。
 大きな咳が漏れる。
精神力だけで溜め込んでいた血液がそれと同時に噴き出した。

和「撃ち出される軌跡の物語、エピソード……か」

 後藤は朦朧とした意識の中で、和がそう呟くのを聞いた。

和「この胸糞悪い話を終わらせる鍵となれば良いのだけどね」

 ざまぁねぇな、と後藤は心中で呟いた。
 和が身も蓋も無い案を持ち掛けてから天崩しを発動するまでの一連の流れ。それは後藤を欺く為のフェイクでしかなかった。

 勝って兜の緒を締めろ。古い人間はよく言ったものだ。
 どれだけ鍛練を積んでも自分の勝利を確信した瞬間の気の緩みを払拭することは難しい。
その一瞬の隙を、和は欲していたのだ。

後藤「くくっ……。くははははっ……!」

 エピソード。何と皮肉な命名だろうか。
 有って無いような一瞬の隙が命取りとなって、自分の理想は遥か遠くの夢物語になってしまった。

後藤「……お前の勝ちだよ、ロリな嬢ちゃん。俺を負かしたからには、俺みたいな屑な大人になんじゃねーぞ?」

 胸に残る強烈な痛みに耐えながら、後藤はしたり顔でそう言ってみせた。

梓「屑な大人……。はたしてそうでしょうか?」

 主君を裏切り自分の利益を優先した後藤を、何故か梓は罵倒する事が出来なかった。

梓「ムギ先輩が貴方達従者衆の名前を呼ぶ時、とても悲しそうな顔してました」

 自分の想いを押し殺してかつての従者の殲滅を決意した彼女の表情が梓の頭を過ぎる。

後藤「…………」

梓「せめて最期だけは、道を見誤らないでください」

 そうだ。俺の夢はバイクで世界を旅する事なんだけどよ、お前がこのくらい大きくなったら後ろに乗っけてやんよ。
 かつての言葉が後藤の頭に響いた。
込み上げる何かを抑え切れなくなって、後藤は寝転んで顔を手で覆う。

後藤「なんてザマだよ……。なぁ俺……ふざけてんじゃねぇよ……!」

 求めていたものは近くにあった筈だった。
壮大な夢を語る後藤の真の望みは、籠の中の鳥に世界を見せてあげたかっただけなのだ。
 側にある朧気な理想を見限ったのは、他でもない自分自身だった。

後藤「……俺はどうすりゃいい? どうすりゃ許されるんだ?」

梓「そんなの……」

 神に懺悔するかのように狼狽する後藤に梓が下した言葉は、何よりも厳しく、しかし真理である言葉だった。

梓「自分で考えてください」

 後藤の物語の意味は後藤にしか分からない。
消えゆく意識の中で彼が何か一つでも見出せたのなら、物語に意味はあったのだろう。

 荒い息遣いを背にして梓は和の元へと戻ってゆく。

梓「…………」

 一つの意志をこの手で刈り取ってしまった。
それは途方もなく罪深く、愚かな行為なのかもしれない。

和「やれば出来るじゃない、とでも言っておこうかしら」

梓「私一人じゃあれは撃てませんでしたよ。意外と意地悪な人なんですね」

 妖しく微笑む彼女の雰囲気は、その小さな体躯とは正反対なものだった。
 梓は決意する。
 信頼する者の為ならどんな咎も背負おう。
 そして自分の物語が終わる時、そんな自分を盛大に誇ろうではないか。

 全ての『オチ』がつく頃に。





 地を穿つは漆黒の爪。
 天を裂くは破滅の咆哮。
 永久凍土に舞い降りた死を纏う龍は終焉の鎮魂歌を奏でていた。
 真っ白なステージの上で終焉の舞を踊るのは澪。
時に荒々しく、時に優雅に刻まれてゆく剣閃は人の域を越えた者にしか出せない閃きだ。

澪「……っ!」

 腹部に力を込めて唐竹割りを放つ。
刃はタナトスの尾の付根に衝突したかと思うと、暖簾を打ったかのようにぬるりと擦り抜けた。
 その瞬間を狙っていたかのように黒塗りの腕が澪の身体を薙ぎ払わんとする。

澪「滅陣──」

 水の輪が澪の身体を囲み、その中に無数の閃きが走る。
その一つ一つは澪の腕から放たれる神速の残撃。それは一粒の雨粒、空気中の僅かな塵の侵入すら許さない。

澪「くっ……!」

 言わば難攻不落の要塞であるその領域の中に、タナトスの爪はあっさりと侵入してきた。
澪は咄嗟に刀を盾にし、それを中心に氷の壁を形成する。
だがそれでも澪の身体の数十倍はある爪の勢いは消えず、力任せに大きく押し出された。

澪「うっ……ぐうぅうっ……!」

 爪の表面は研磨された鑢のような質感になっており、数十メートルと押し出されてゆく間に澪の身体はずたずたに引き裂かれていった。
 運動エネルギーが減少していき、身体が静止すると澪はふらふらと刀を地に突き立てる。

澪「はっ……はっ……」

 餌をねだる犬のような息遣いは次第にその声色を変える。

澪「ははっ……はははっ!」

 避けた服から覗く白い肌は血で汚れており、長めの横髪は俯いた表情を黒く覆っている。
傍から見れば気でも触れてしまったかのような狂乱具合だが、澪の心はまだ折れてなどいなかった。

澪「…………」

 胸元から滲み出た血を指で掬い取り、恍惚とした表情でそれを舐めた。
悩ましげに髪を掻き上げるその姿は一介の女子高生では決して出せない妖艶な雰囲気を醸し出している。

澪「……やっと確信が持てた」

 地に突き立てた刀を引き抜き、タナトスにその切っ先を向ける。
タナトスはそれをじろりと見つめると、耳を劈く咆哮を上げた。

澪「負け犬の遠吠え、だな」

 喉を鳴らして笑うと澪は両目を細めた。
 死という残酷な運命を撒き散らす龍と対峙して全く気圧されていない。

澪「私が負ける運命ならそこを退け。私が通るからな」

 その瞬間、澪の身体は誰にも認識されない速度で移動を開始した。
 たちまち切り付けられてゆくタナトスの両腕。
だが言うまでもなくその残撃に効力など無い。

澪「よっと……」

 澪は腕から肩を駆け上がり、牙を乗り越えてタナトスの鼻先に足をかけた。

 不安定な足場はタナトスの身震いによって更に不安定となる。
やがて呻き声を上げたタナトスは首を大きく震わせ、澪の身体を宙に投げ出した。
 赤い瞳が妖しく輝く。
 大きく開いた口からは巨大な砲台がせり上がってきた。

澪「…………」

 空中に投げ出された澪にそれを察知する事は出来ても、それから逃げる術は無い。
どれだけ鍛練を積んだところで、二段ジャンプが出来る人間など居る筈が無いのだ。
 それなのに……。

澪「……それを待っていた」

 澪が放った一言は、まるで自分がこのシチュエーションを作り上げたかのような発言だった。





 その身に風を纏い、敵の牙城を駆け抜ける。
立花 姫子と佐伯 三花は順調にその歩を進めていた。

姫子「待って。そこは右に曲がって」

三花「うわっとと……」

 三花は突き抜けようとした三叉路を重心を傾けつつ右に曲がった。
後ろを走っていた姫子が自身の真横に到達すると、感心したように見上げる。

三花「初めて来た場所なのによく道が分かるね?」

姫子「来る前に地図貰ったじゃん。私じゃなくても分かるってば」

 地図の内容はおろか、それを貰った事すら忘れていた三花はほえー、と間抜けな息を漏らす。

姫子「……っ!」

 そうこうしている内に視界の奥で数名の人影が蠢き出した。
それぞれの手には重々しい銃器がある。

三花「卑怯だよねぇ。いたいけな女子高生に大の大人が武器持ち込むなんて」

 走る速度を上げ、姫子より前に躍り出た三花は両腕を広げた。
若干長い爪が飛躍的に成長して鋭利な刃物になるのは、銃弾の雨が降り注ぐのと同時だった。

三花「えいっ!」

 筋肉のバネを利用して床を蹴ると三花の身体は天井に向かう。
更に天井を蹴り、壁、床、壁、とまるで制御不能のバネ細工のような動きで銃弾の雨を掻い潜る。

 怒号を上げてトリガーを絞る男達が一人、また一人と倒れてゆく。
鋭利な爪が貫くのは足、手の甲、どれも急所ではなく、しかし動きを抑制するには充分な箇所だった。

三花「しかも歯応え無いし──」

 無いしさ、と呟こうとした時、不意に何処からともなく断続的な電子音が鳴り響いた。
三花がそれが今し方倒れた男達から発せられている事に気付いた頃、姫子は脇目も振らずに三花に飛び掛かっていた。

三花「へ──?」

 直後にポップコーンが弾けたような小規模な爆発が巻き起こる。
大した威力こそ無いものの、それは周りにあるものを吹き飛ばす程度の威力はあった。

 爆発音、男達の悲鳴、飛び散る血が阿鼻叫喚の地獄絵図を造り上げる。
 抱き合うように倒れ込んだ姫子と三花はその光景に思わず身震いした。

三花「なに……これ……」

姫子「…………」

 防衛に当たった男達が真っ向に闘って姫子達に傷を負わせる事など不可能だ。
ならば狙うのは意識の穴を突いた一撃。
警備に当たった者一人一人に小型の爆弾を埋め込み、何かの契機に発動させる。
恐らく本人達にも知らされていなかったのだろう。それは先程の悲鳴が物語っている。

姫子「人を将棋の駒とでも思ってんのかな……」

 姫子は奥歯をぎりぎりと噛み締めた。

 大方本人達に知らされてなかったのは自爆ありきの特攻でそれを悟られないようにする為だろう。
 十個の歩兵で一個の金将を落とす。
姫子はまるで将棋盤の上に立たされているような感覚に陥った。

姫子「直ぐ此所から離れるよ」

三花「え? どうし──きゃっ!?」

 姫子は口を開こうとした三花の腕を掴み、来た道を引き返した。
次の瞬間更に大きな爆風が二人の背後に巻き起こる。

三花「…………」

 何で分かったのかと言いたげな顔をしている三花に姫子は答えた。

姫子「そりゃ二年とちょっと同じ学校に居たんだもん。それくらいは分かるよ」

 相手がどのシチュエーションでどんな行動を取るか、いちごにはそれが全て分かっている。
 例えば桜高の全校生徒が購買を利用するとして、彼女にかかればその全員が何を買うかも分かるだろう。
極端な話、いちごは姫子達の眼球の動きすら把握出来るのだ。

姫子「胸糞悪過ぎるよ……!」

 姫子は奥歯をぎりぎりと噛み締めた。
 無残に爆ぜてゆく男達を見て足を止める事を予測、そしてその地点に本命の爆弾を仕掛ける。
戦いをゲーム感覚で楽しむ者がやりそうな事だ。

三花「でもどうするの? このままじゃまた入口に戻っちゃうよ」

姫子「…………」

 三花の言葉を無視し、姫子は三叉路で足を足を止めた。

姫子「ねぇ、小銭かメダルとか持ってない?」

三花「小銭?」

 突然の問い掛けに三花は訝しげに首を傾げた。

姫子「いや、この際平たくて裏表があるものなら何でも良いや。何か無いかな?」

三花「んー……」

 眉を顰めつつも三花は一応ブレザーのポケットをまさぐってみた。
そして手に当たったものを見て思わず苦笑する。

三花「おやつに食べたクッキーの残りが……」

姫子「それで良いよ、貰うね」

 おずおずと袋に包まれたクッキーを差し出す三花。
姫子はやけに冷めた目で、特に感慨も無くそれを受け取った。

三花「そんなので何するの?」

姫子「こうするんだよ」

 クッキーを壊れない程度に優しく指で弾き、手の甲で受け止める。

姫子「右に行くよ」

 クッキーに描かれた模様を確認すると姫子は即座に移動を開始した。
三花も慌ててそれに着いてゆく。
 それから姫子は道が別れる度に同じ事を繰り返した。
二回目にそれをした時には三花も姫子の意図に気付いたのだろう。
表情を曇らせながらもどこか納得したように頷いていた。
 こちらの意図が見透かされているなら自分の行動を天に任せれば良い。
そう思ってのコイントスならぬクッキートスだったのだ。

 こちらの行動が全て見抜かれているのならばその動きを運否天賦に任せれば良い。
無論行く手全てに罠を仕掛けられている可能性もあるが、何もしないよりかはマシだろう。

姫子「良い目が出てると良いけどね……」

 クジ運が良いかと言われると自覚出来るほど良いとは言えない。しかしこのまま自分の意志に任せて進むにはあまりにも心許無かった。

三花「行き止まり……」

姫子「…………」

 最悪だった。
 数あるパターンの中で最も引きたくなかったのがこのパターンだった。

「おやお嬢さん方、こんなところでどうなさいましたか?」

 二人の背後から大仰に背伸びしたような声が響いた。

姫子「……っ!」

 振り向くとそこに居たのは、眼鏡をかけた少し背の低い、初老の男だった。

「ふぅむ……。やはり良いものですねぇ現役の女子高生は」

 放たれた言葉はこの場にはあまりにも不釣り合いなものだった。

「お二方が履いているのはタイツですか。こうやって見るとなかなか良いものですねぇ、黒は脚線を美しく彩ってくれます。まぁ……私個人としては太股は露出してくれた方が嬉しいのですが」

 つらつらと語る男を尻目に三花と姫子は顔を見合わせ、ぽかんと口を開けた。

「おっとそうだ、大事な事を聞き忘れていました。失礼ですが……お二方は処女ですか?」

姫子「~~っ!」

 三花は一瞬だけ顔を歪ませて一歩身を引いただけだったが、姫子はその問いに対して露骨に動揺した。

「ほぅ、なかなか遊んでいそうな容姿なのにそっちはまだですか。良いですね良いですねぇ、勃起に値しますよ。提案があるのですがどうでしょう、私の子を孕んでみてはどうですか?」

 姫子の頭の中で何かが切れる音がした。
そのまま男に飛び掛かろうとしたその時、男は片手を翳してそれを制する。

「申し遅れました。私は従者衆が一人、加藤と申します」

 英国紳士のような大仰なお辞儀をすると、加藤は醜く目を細めた。

加藤「以後お見知りおきを」


23