終末の舞はその幕を降ろそうとしていた。宙に投げ出された澪とそれを駆逐せんと最終兵器を以て対峙するタナトスは、その刹那の間見つめ合っていた。
 黒曜石とガーネットがきらりと瞬く。
 宙で逆さになった澪を受け止めるように、氷の礫が寄り合って足場を形成した。

澪「さて、と……」

 手の内で器用に刀を回しつつ、慣れた様子で氷に着地して受け身を取る。
空中に居る人間が二段で跳躍出来ないのならば、空中に足場を作れば良い。
そんな当たり前だが実現不可能な事を、澪は無感動にあっさりと実現してしまう。

 落ちゆく氷の足場からタナトスの砲台が完全にせり上がったのを確認すると、澪は良い頃合だと心中で呟いた。

澪「楽しかったよ。次に生まれる時はお互い普通だと良いな」

 澪はそのまま一気にタナトスの砲台へと跳躍した。
 死と対峙して澪は一つだけ気付いた事があった。
それはタナトスが完全な機械などではなく、何かをベースに造られた『生命体』だという事だ。
 赤く輝く瞳の色がまるで感情を持っているかのようにころころと変化している事がそれを証明している。
 ただ終焉を彩る為だけに生み出された運命がどれ程辛いのか。
間違った力を手にしてしまった澪には少なからずそれが分かった。

 能動的に力を手にしたのと受動的に力を手にしたのではその罪深さの度合いは比べるまでも無いのだが、『存在そのものが危うい』という点で共通しているタナトスを澪はひたすらに憐れんだ。

澪「お疲れ様」

 そんな在り来たりな労いの言葉をかけて、澪は目の前に迫る砲台の穴に刃を突き立てた。
それにおくれて砲台内部から眩い光が漏れ始める。
だがそれすらも包み込む青色が砲台の先から広がった。
 タナトスの呻き声が咆哮に変わり、そして悲鳴となる。

 全ての力をシャットアウトするアンチエネルギーフィールドの唯一の穴。
それは自身の体内で作り出したエネルギーの通り道となる砲台だったのだ。
 それが分かれば後は早い。
その穴からタナトスの内部へと、溢れんばかりの力を注いでやるだけだ。

澪「暴れるなったら! お前はもう終わってるんだよ……!」

 打ち上げられた魚のように暴れ狂うタナトスにしがみつき、澪はありったけの闘気を冷気に変えて注ぎ込む。
 そして遂に……。タナトスの身体が爆ぜた。
 肉片と化した胴から済し崩しに身体のパーツが爆ぜてゆく。

 崩れ落ちる肉片、飛び散る血、弾ける臓物。
目に映る全てのものが落下してゆく中で、澪は悲しい光を放つ紫を見た。

澪「唯……?」

 それは瞬きをする毎に目の前に近付いてきて、掛け替えの無い友の面影を映し出してゆく。
 薄く発光している掌がそっと澪の頬を撫でた。
澪は何となく、それの真似をして目の前の光に手を翳してみたが、血に塗れた手は虚しく宙を掴む。

「……アリガトウ、澪チャン」

 頭の中に直接語りかけてくるのは唯の声だった。
だがその言葉を覚えたばかりの赤児のような片言は、唯の声ではあるものの唯のものではない。

澪「唯……じゃない。お前まさか……!?」

 ふと下を見ると大地が迫って来るのが見えた。
澪は止まっていた時間が動きだしたかのような錯覚に陥る。

澪「おい待て! 待ってくれ!」

 冷静な思考能力が欠如してしまい、無駄だと分かっているのに身体を捩らせて足掻いてしまう。
無情にも光は遠ざかってゆき、吹雪と共に消えていった。
 澪がそれを見届けると同時に、地面に激突しかけた身体を水が受け止める。

澪「何で最期に、そんなこと言うんだよ……」

 決して理解などし合える筈が無いと思っていた。
それなのに、死を纏う龍は最期に告げたのだ。
まるで人の心を持ったかのように、ありがとうと。

 それなのに自分は歩み寄れた筈の存在を斬り捨ててしまった。

澪「ふざけるなよ……。感謝なんてされたって気分が悪いだけだ……!」

 言葉とは裏腹に、唯の姿を模した光を追う自分がもどかしかった。
 刀を手放し、両腕を空に翳す。
耐寒スーツの裂け目から入り込む冷気が身体を舐めても、澪は虚ろに空を仰ぐだけだった。

澪「…………」

 翳した手を覆う黒い生地の向こうで肌が透けて見えるのが、生きている実感を与えた……のだが。

澪「つっ……」

 ピンポイントに狙ったかのように、手首に細い針のようなものが突き刺さった。

 澪は首だけを針が飛んできた方に向ける。

江藤「初めまして」

 その豊富な起伏を持つ身体を包むにはやや窮屈な正装を身に纏った女が居た。
 従者衆が一人、江藤。
毒を以て実質しずかを死に追いやった張本人だ。

澪「一難去ってまた一難か……。まったく、一息入れる暇も無いな」

 気怠くも身体を起こそうとした。
そして澪は自分の身体を蝕む異変に気付く。

江藤「ふふっ、安心して。一息どころか何時間でも付き合ってあげるわよ、リラックスしてちょうだい」

 獲物を狙う蛇のように静かに、だが着々と江藤は澪に近寄ってゆく。

 澪の腹に跨がり、少しだけ腰を捩らせて衣越しに秘部を擦りつけると、江藤は澪の耳朶に舌を這わせて囁いた。

江藤「天国に連れてってあ げ る か ら」


 細い指で澪の顎を掬い取るように持ち上げ、妖艶な瞳で澪を居抜く。
それに対して澪の眼光は不気味なまでに冷たかった。

澪「参ったな……。身体が動かない、というか動かそうとするのも億劫だ」

江藤「あはっ、そーゆーお薬だからね。だってこうでもしないと皆素直にならないんだもの」

 澪は試しに目の前で卑しい笑みを浮かべている江藤の顔面に拳を捩じ込んでやろうと試みた。
腕は痙攣しながらも何とか自分の意志で動かせたが、それだけだった。

江藤「うふふっ、きれーな身体してるのにこんなに汚しちゃって。直ぐに綺麗にしてあげるわ」

 江藤は避けた衣服の胸の部分を大きく広げ、現れた豊満な双丘に滲む赤色に舌を這わせてゆく。

江藤「良いわ……。澪ちゃんの味とっても美味しいわよ」

澪「……どうして私の名前を?」

 普通ならば激しい嫌悪感に身を悶えさせるのだが、澪は自室で音楽を聴いている時のような落ち着きを払っていた。
それを見た江藤は僅かに苛立ちを覚えた。
そしてそれと同時に嗜虐本能をふつふつと駆り立てられる。

江藤「……そんな事どうだって良いじゃない。貴女はこれから死ぬまでの間ずっと私に犯され続けるんだから」

 冷たく蹴落とすような物言いだった。
だがそれでも澪の瞳は冷めたままだ。

澪「…………」

 澪は特に感慨も無さげに閉口する。
このままではつまらないと判断したのだろう。
江藤はスカートのポケットから一本の注射器を取り出した。

江藤「ねぇ、これが何か分かる?」

 澪の眼に針先を突き付け、江藤は口角を醜く歪めた。

江藤「ふふっ、簡単に言えば超強力な媚薬なの。これ打つとね、どんなに強情な子でもすっごく可愛くなっちゃうのよ」

 猫撫で声で恐怖心を煽る。
だが澪は全く物怖じしない。それどころか深く溜め息を吐いて。

澪「だったらやってみろよ色情魔」

 不敵に微笑んでみせたのだった。

江藤「…………」

 江藤は驚きのあまり目を大きく見開いてしまっていた。
だがその驚きは数秒と待たずに憎悪へと変わっていく。

江藤「……後悔しても遅いわよ」

 そう言うと澪の首筋に針を刺し、中の液体を躊躇なく注ぎ込んだ。

澪「つっ……」

 澪は僅かな痛みの後に身体の中を何か得体の知れない物が駆け巡るのを感じた。
 瞼が重くなり、全身が蕩けてゆく。
下腹部がじんわりと疼き始め、まるで身体中を虫が這っているような気分だ。

江藤「どこからして欲しい? 壊れるまで責めてあげるわよ」

 大股を開いてよがり狂いたい気分であるにも関わらず、澪はそれでも声を潜めていた。
 そんな彼女の抵抗をそっと振りほどくように澪の口内に江藤の舌が潜り込んできた。
 塗り潰すように深く、深く──。





律「うわああああっ! 無理無理ムリ!!」

 弾丸の雨を掻い潜り、斬撃の嵐を押し退ける。
無鉄砲に単独で突っ込んでいった律はまだ闘気をコントロール出来るまでに至っていない。
 律のスタイルが一対多数で相手を掻き乱す事に特化しているとはいえ、蟻のように群がる戦闘員を前にしては些か肝を冷やしていた。

律「やっべ──!」

 跳躍して着地したところで足を捻ってしまう。
刀を持った男がその隙を突いて切りかからんとした時、歪な体勢のまま盛大に吹き飛んだ。

紬「気持ちは分かるけど、ね?」

 紬は律の気持ちを鎮めるように微笑んだ。

 律の気持ちが急いてしまうのは嫉妬心、或いは焦燥感のせいだった。

純「さぁて、どうしたもんですかね」

 後ろから優雅に歩いてくるのは純だった。
道中で敵から奪った粗末な刀を玩具のようにくるくると弄びながら、溜め息混じりに敵達を見据える。
 自分達より一つ下の純が悟ったように落ち着いているのが律の負けん気を煽っていたのだ。

律「…………」

純「ああ、ちょっと避けてた方が良いですよ。こういうのは慣れないから巻き込んじゃうかも」

 律のそんな気も知らずに純は府抜けた声で呼び掛けた。
そして刀を腰の辺りで構え、居合いの要領で振り抜く。

純「七閃──!」

 刹那、爆風が螺旋状に吹き荒れた。
それをなぞるように七つの閃きが扇状に床を這う。
目にも鮮やかな淡い緑が駆け抜けた。

純「っと……」

 刀を振り抜いてから元に戻す頃にはずたずたに引き裂かれた再起不能の人間の山が築かれていた。

純「行きましょうか」

 純は何事も無かったかのように再び歩き出す。
その後ろを律が舌打ち混じりで不機嫌そうに追い、紬はそんな律を慮るように見据えていた。

紬「りっちゃん……」

律「分かってるよ。それくらい馬鹿な私でも分かる」

 恐らく純のペースに合わせる事が今出来る最善なのだろう。
しかしそんな理性と責めぎ合う感情があった。

律「でもよ──っ!」

 報われない自分の努力と、溢れる才覚を飄々とした言動で打ち消している純の態度が律の感情を煽り続ける。

律「お前さっきからやる気あんのかよ!? のうのうと歩いてる場合じゃないだろ!」

 目を険しく細めて純の背中を睨み付ける。
背後からの声にそっと振り向いた純はその眼圧を受けてなお、気怠そうに溜め息を吐いた。

純「ここまで来てまだ分かんないんですか?」

律「は?」

 純の諭すような口調は律の思考を一瞬だけ掻き乱した。
 律が本気で自分の意図、否和の意図を理解していない事に純は歯痒そうに頭を掻く。

純「あー……なんて言えば良いのかな。まぁ要は私達は遊撃隊みたいなもんなんですよ」

紬「遊撃?」

純「そう、遊撃です。あくまで私が勝手に先輩の意図を読んだ仮の話ですけどね」

 くるくる刀を回してそれを軽々しくナイフでも投げるように放った。
刃物が肉に刺さる鈍い音と共に律の背後で男が倒れる。

純「はなっから澪先輩ありきの潜入なんですよこれは。唯先輩を救出するのも此所を壊すのも、全部澪先輩に任せて私達は目の前の敵を相手にだらだらしてれば良いんです」

 律と紬には純の言い分に対する反論は幾らでも有った。
しかし彼女達は口を開かない。

純「そうですねぇ、現状は『沼』の罠も見越して迂闊にでしゃばらないようにってとこかなー」

律「でも澪は……」

純「あの化物に喰われたとでも? それは幾ら何でも今のあの人を見くびり過ぎですよ。ぶっちゃけると今の澪先輩は憂よりも怖いですから」

 純の言葉を聞いて律は思わず息を飲んだ。
 想像してしまう事すら罪深い平沢 憂という少女の羅刹のような力。
今の澪はそれすらも凌駕しているのだ。
 身に纏う闘気は森羅万象を凍て付かせ、放つ閃きは有象無象を虚構に還す。
 その彼女こそがこの戦いにおける桜高サイドの切札なのだ。
切札がナンバーカードに負ける事など断じて無い。

「なるほどな。彼女がそちら側の切札という事か」

紬「っ!?」

 背後から響いた声に紬は胸を跳ねさせた。
条件反射で振り向くもそんな事に意味などない。
それは振り返った先に居る者が視覚される前に姿を眩ましたとか、その容姿を隠す為に仮面を被っていたなどという小難しい理由じゃない。
ただ単純に、振り向く前に解ってしまったから。

紬「……斎藤」

 仮に他の従者衆全員と対峙する事になっても、彼とだけは戦いたくなかった。
 だがかつての従者、慕っていた男は紬から目を逸らさずに立ち尽くしている。

斎藤「しかしそれならば事を起こすにはあまりにも早過ぎたな。いや、遅過ぎたとも言えるか……」

 ぶつぶつと独り言を呟きながら、斎藤は一歩一歩踏み締めるように全身してゆく。

律「……先ずは中ボスか。やってやんよ!」

 自身を鼓舞し、勇んで地を蹴ったのは律だった。
力量の差は痛い程に理解していた。だが彼女には先陣を切らなければならない理由があったのだ。

斎藤「…………」

 律は真っ向から突っ込むような真似はせず、狭い廊下の壁や天井を使って縦横無尽に駆け巡った。
だが斎藤はそれを目の前を飛び交う蚊を見るような目で見ている。

 やはり子供騙しの生半可なスピードでは相手にならないのだろうか。律は心中で毒づきながら紬の方を見た。
 皆殺しにするとは言ったもののやはりかつて慕っていた男と対峙するには精神が幼過ぎたのだろう。
敵前であるにも拘らず、ただ拳を作って目を伏せていた。
ならば頼れるのは彼女しかいない──。

律「だぁらああああっ!」

 背後に回っての頸椎を狙った足刀が炸裂する。
意外にも斎藤はそれに対して何のリアクションも起こさなかった。
蹴りがクリーンヒットした時の心地良い痺れが律の足に伝わる。

律「やっちまえ!」

 だが律はあくまで布石でしかない。
見ると純が滑り込むように斎藤の懐に入っていた。

純「刹那──」

 二つの眼でしっかりと標的を捉え、錬磨した闘気から打ち出されるのは全てを打ち砕く打撃。

純「五月雨打ち──!」

 刃は零れ、斬る事よりも殴打する事に特化した刀からは幾千、幾万もの暴力が放たれる。

斎藤「甘い!」

 殴打の嵐を掻い潜るなどという女々しい策は使わない。
斎藤はただ力任せに純の鳩尾を殴りつけた。

純「んぐっ──!?」

 衝撃に耐えようと思ったのはほんの一瞬だった。
次の瞬間には既に得物は手から離れ、その身は宙に投げ出された。

斎藤「ふん、貴様クラスの者にでしゃばられると厄介なのでな。だから……」

 斎藤がそう呟いている内に純は空中で身を翻し、追撃を放たんとしていた。

斎藤「跪け」

 不屈の闘志を折ったのは、そのたった一言だった。

純「──っ!」

 斎藤が直接手を下すまでもなく純の身体は床に叩き付けられる。
まるで膨大な重力の力場が一瞬で発現したかのように、理不尽の鉄鎚が純を捉えた。

斎藤「……どれだけ鍛練を積んだところで人の域を外れる事など出来やしない。それはあの龍の片割れも、青の闘気の女も例外ではない」

 斎藤は床に吸いつけられている純をサングラス越しに冷淡な瞳で見下し、おもむろに片足を上げた。

斎藤「だがそれは恥ずべき事ではない。人の身から人の身を持って生まれたのなら、せめて人のまま死ね」

 斎藤の革靴の底が何故か純には大きく見えた。
このままいけばまるで熟れたトマトを踏みつぶすように、純の頭部は粉々に粉砕されるだろう。

律「ちっ……!」

 その傍ら、斎藤の背後で律は顔を引きつらせていた。
今動かなければ純は死ぬ。それはつまりここに居る三人のゲームオーバーを意味する。
頭では解っているのに、それでも律の身体は動かない。
 たとえどれだけ速く動ける身体を持っていても、零から一歩目を踏み出す速さには限界があるのだ。

 二人が半ば諦めていた時、絶望を照らすように彼女の金色の髪の毛が舞った。

紬「止めてっ!!」

 倒れ伏す純を横切り、紬は力任せに、単調に、握り締めた拳を斎藤の鳩尾に捩じ込んだ。

斎藤「ぐっ……」

 ただでさえ強烈な威力を持つ紬の拳を片足立ちの不安定な体勢で受けたのだ。
たとえ闘気を纏っていたとしても、その力は容易に緩和出来るものではない。
 一瞬だけ身を浮かせ、両の足でしっかり床を踏み締めるも、そのまま大きく後退してしまう。

律「余計な心配だったな……」

 のけ反る斎藤を背後で迎え撃つは律。
彼女は少し微笑みながらそう呟いた。

 斎藤と対峙した時、恐らく紬は使い物にならないだろうと律は踏んでいた。
 ならば先陣を切って低下した士気を底上げしてやるのが軽音部部長の自分の役目だろう。
先の特攻はそう思っての策だった。

律「さぁて、人の心配してる場合じゃないなっ──」

 腰を落とし、右腕を振りかぶる。
放たれるのは速さの限界を越えた一万の拳だ。

斎藤「っ──」

 振り返って衝撃に耐えようとした顔面が無理矢理押し返される。
サングラスは一瞬で粉微塵になり、斎藤の視界を遮った。

純「なーんか三日ぶりに身体動かす気分です。一瞬どうなるかと思いましたよ……」

 腰を落としつつ、斎藤の懐に潜り込む。
両腕は真横に広げており、平手を作っていた。

 軽音部対他の部活の抗争の際に彼女が颯爽と現れ、まるで大仰な顔見せのように放った技。
それの上位互換となる技が放たれんとしていた。

純「暴飲暴食──」

 一喰い─イーティング・ワン─。
 ただの平手打ちであるその技はそれ故に強い。
極限まで追及した単純動作は他の追随を許さない破壊力を持つのだ。
 そして暴飲暴食は一喰いを両の腕から放つ技。
何千トンもの圧力を持つ掌に挟まれると、赤児ならばその存在自体が消えて無くなる。
 だが暴飲暴食に対して斎藤が取った行動は、その場において最も適したものだった。

斎藤「ぐぅ……っ!」

 脇を固めて両腕を盾にし、暴飲暴食を真っ向から受け止める。

多大な衝撃を受けた手首からは噴水のように血が噴き出した。
 斎藤はそのまま力なく膝を折り、両手を床につける。

純「土下座したって許してあげませんよーだ!」

 純はサッカーボールを蹴り上げる要領で爪先を斎藤の頭に捩じ込もうとしていた。だが……。

純「うっ……?」

 斎藤は夥しい量の血を流す手でその蹴りを受け止めた。
そしてのっそりと立ち上がり、純達より頭二つ分程高い目線から言う。

斎藤「……これで満足か?」


 例えば人としての個体を持ちながらにして人の域を越えるとする。
この際の『人の域を越える』事の定義は曖昧なままで良い。
学問、武術、芸術。その他諸々において何か一つでも神域まで到達したとしよう。
 人という器に注がれた神の叡智はそれに収まる筈もない。
ならばキャパシティーの限界を越えて力を垂れ流し続けるその個体は、神を名乗ることなど出来るのだろうか。
或いは、人を名乗る事すらおこがましいのかもしれない。

斎藤「神の真似事をした事はあるか?」

 夥しい量の血を流し、傍から見れば既に満身創痍にしか見えない。
それでも斎藤ははっきりとそう口にした。

 だが三人に斎藤の問いの意図など分かる筈も無い。
この世に存在しないものを理解する事など出来やしないのにそれの真似事と言われて明確な答など出せない。

斎藤「辛酸を舐め、血の雨を浴び、渇きで飢えを誤魔化したその先に見えるもの。私はそれこそが神の力だと信じていた」

 つらつらと語る斎藤を横目に純は舌打ちした。
たとえ相手が敵でなくとも、純はこの手の人間が嫌いだったのだ。

斎藤「肉親をこの手で屠り、修羅の時を駆け抜けてようやくそれを手にした私は罰を受けた」

 純の苛立ちを知ってか知らずか、斎藤は声色を変えずに語り続ける。

斎藤「振り返った先には何も無かった、罪深い人生だったよ。手にした力は神を模した紛い物で、上ばかり見続けた私は何も掴めなかった」

純「で、何が言いたいんですか?」

 痺れを切らした純が遂に斎藤に食って掛かった。
逆にここまで何もせずに居ただけでも彼女にしては辛抱強かった方だろう。
相容れない思考を持つ人間と妥協しながら対話する事など純には出来ない。

斎藤「…………」

純「いろいろムカつくんですよね。そうやって悟ったみたいに自分が選んだ道を悲観する人って」

 愚か者だ、と純は腹の中で斎藤を一蹴した。 

純「強くなるのに理由なんて要らないのに、カチカチの頭で自分の首を絞めて『私は苦労してきました』って言いたいんですか? そういうのって逃げでしかないと思うんですよね」

 片足で強く床を踏み付け、体内を流れる闘気の色を切り替える。
次の瞬間、舞い上がったのは赤色の闘気だった。

斎藤「逃げ、か……。確かにそうかもしれない。神域から逃げて紛い物の神の力を使う私は真の意味で人を辞めた者から見れば弱いのかもな」

 自嘲染みた笑みを浮かべると斎藤は純の闘気に合わせるように右手を翳した。

斎藤「だがこれだけは覚えておけ。理由無き強さに意味など無い。人は誰かの為に闘う時、本当の意味で強くなれるのだ」

 斎藤は横目でかつての主人を一瞥し、厳かな口調で呟いた。

斎藤「修羅道──」

純「──っ!?」

 何の前触れもなく、純の身体の至るところから血が噴き出した。首から上の外気に触れる部分には無数の切り傷が出来ていることから、耐寒スーツの下の肌も引き裂かれているのが分かる。

純「なん……で……?」

 有り得る筈が無い。
斎藤の身体は指一本とて純に触れてはいなかった。
先の不可思議な圧力攻撃の事もあって彼女は斎藤の闘気の動きに目を光らせていた。それなのに──。

 闘気の動きは一切観測していない。
つまりこんな不可思議な現象は起こせる筈が無いのだ。人間である限りは。
 純はまともに立つ事すらままならず、ふらふらと膝を折り、額から床に顔を伏せた。

純「が……はっ……!?」

 解らない。それがどれだけ恐ろしいかを純はこの時身を以て実感した。
傷口自体はそう深くはないものの、痛みは精神的苦痛も相俟って増大してゆく。
手足は震え、全身の毛穴からは嫌な汗が噴き出した。

斎藤「緑から赤……。闘気の色を塗り替えられるのか?」

 訝しげに目を細めつつ、斎藤は純の髪の毛を乱暴に掴み上げた。

律「やめとけ」

 苦痛に歪む純の顔をしげしげと見つめていた斎藤。
その背後で怒気を含んだ律の声が鳴った。

律「そいつは確かにムカつくやつだけどよ。それでも唯を助ける為に来てくれた仲間を放っておくほど……」

 避けようと思えば楽に避けられた。
だが斎藤は静かにほくそ笑むだけでその場から動こうとしない。

律「人間出来ちゃいないんだよ──!!」

 渾身の力で拳を振り抜く。
たったそれだけの事を容易にはさせない空気を醸し出す斎藤の覇気を、律は見事越えて見せた。
 律の拳から腕を伝ってくる確かな手応えは、彼女の勇気の賜なのだろう。

斎藤「良い拳だ」

 だが斎藤は崩れない。
 衝撃を受けて血が吹き出る側頭部を庇おうともせずに律の足首引っ掴み、身体を軽々しく振り回した後に頭から床に叩き付ける。

律「~~っ!?」

 律は悶絶するしかなかった。
しかし斎藤の追撃、破壊が目の前に迫って来ている。

斎藤「誰よりも正しくあれ。そうすれば自ずと力はつく」

 純の頭から手を離し、斎藤は律の足首に手を掛けた。

律「──おい! まさか……!?」

 自分の右脚に掛かる力の動きから律は斎藤が何をしようとしているのか悟った。
だがどうする事も出来ない。身体を動かそうにも足首を固定されているので抗う術など無かった。

律「やめっ、止めろ──っ!!」

 ぼきり──。
 律だけでなくその場に居た全員にはっきりとその嫌な音が聞こえた。
それに遅れて声にならない悲鳴が斎藤の耳を劈く。

斎藤「今は邪魔だ。そのまま寝てろ」

律「はっ……はっ……」

 目に涙を滲ませ、右足を庇いながら這いずる律を見下し、斎藤は躊躇無く彼女の左足を踏み砕いた。
 律は短い悲鳴を上げると床に顔を埋め、静かに唸る。

斎藤「さて……。途中だったな」

 斎藤の目からは律への関心の色は消え失せており、視線は倒れ伏す純の方へと向かっていた。

斎藤「さしずめマルチタイプと言ったところか……。確かに便利な力だが、容量を削ってやれば何と言うことも無いな」

 戦意を叩き折られて瞳を濁らせた純の頭を掴みあげ、眉間にそっと指を当てる。

斎藤「餓鬼道──」

 一瞬だけ純の身体は跳ね、そのまま動かなくなった。
目は虚ろ。口はだらしなく開かれており、涎が垂れている。
 少しふらつきながら立ち上がり、斎藤はスーツのポケットから煙草を取り出して火を点けた。

斎藤「威勢が良いのは最初だけですか? 紬お嬢様」

 紫煙を吐き出し、傍らで立ち尽くす紬の方を見る。

紬「…………」

 紬は何も答えない。肩を震わせて俯き、斎藤と目を合わせようとすらしなかった。

斎藤「仲間の危機を目の当たりにしながら指を咥えるような子に育てた憶えはありませんがね……」

 斎藤は明らかな失望の色を隠そうともしなかった。
煙草の火はじりじりと葉を焦がしてゆく。

紬「……どうして貴方と闘わなきゃいけないの?」

斎藤「私は貴女の敵だからです」

 斎藤は紬が絞り出した言葉に被せるように即答する。
そして短くなった煙草を大きく吸い、指で弾いた。

紬「解らない……。どれだけ憎んでも憎み足りないくらいなのに……」

 固く握り締めた拳からは血が滴り落ち、頬を伝った涙が顎先から床に吸い込まれてゆく。

紬「闘いたくないの……!」

 仲間を捻り潰された恨みと未だに根付く斎藤への敬愛の想いが紬の中で責めぎ合う。

斎藤「……及第点には達していませんでしたか。ならば致し方ありませんね」

 斎藤はスーツを脱ぎ捨て、詰襟のシャツの第一ボタンを外した。

斎藤「再教育です」

 袖をたくし上げ、露になった太い腕を二、三度回す。

紬「…………」

 紬はそれをただ虚ろな瞳で見つめていた。

斎藤「六回死になさい。六道を巡ればその府抜けた根性も少しはまともになるでしょう」

 かつて死の淵に力を見出し、六道を統べる力を手にした男がかつての主君に牙を剥く。


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最終更新:2013年03月04日 20:14