加藤「良い攻撃ですねぇっ!」
加藤は老いた見た目とは裏腹に機敏な動作で相手の技を捌いてゆく。
それだけでこの男がかなりの達人である事が解る。
何故ならば今現在加藤の相手をしているのが姫子だからだ。
姫子「苛々するなぁもう──っ!」
加藤が少しは真面目に対峙していれば姫子はここまで苛立つ事も無かっただろう。
飄々とした態度とは裏腹に加藤の動きには一切の無駄、澱みがなく、その道に聡い者ならば数秒打ち合うだけで敬意を抱かせるほどの凄味があった。
加藤「なかなかどうしてしつこいですね。そろそろ無駄だという事に気付きませんか?」
姫子「うるさいっ!」
姫子は加藤の態度が先の変態発言を抜きにしても気に食わなかった。
力を持ちながらにして努力を怠る者、真面目に取り組まない人間こそが彼女が嫌悪する対象だからだ。
初対面で純の事を嫌いだと言い切ったのもその根本からきている。
加藤「ふぅむ……。あまり強がらない方が自分の為だと思うんですがねぇ。その方が孕んだ後の自己嫌悪も少なくて済みますし」
冗談じゃない。姫子は腹の中でそう毒づいた。
三花「ねぇ、やっぱり私も手伝った方が……」
姫子「駄目!」
傍らで退屈そうに欠伸をする三花を一蹴し、姫子は更に眉間に皺を寄せた。
汚ならしい小男に自身が努力と慎ましい生活からこつこつと培ってきたプライドを足蹴にされたと思うと、それだけで姫子の中から何か熱いものが込み上げてくるのだ。
姫子「この──っ!」
軸足を捻り、腰の回転を乗せたしなやかかつ強靱なる上段回し蹴りを放つ。
それは加藤の首筋を打ち、一撃の元に沈める威力を持っていた、だが。
加藤「あぁ……たまりませんねぇ。この程よい肉付き、曲線。見ているだけでリビドーに呑まれてしまいそうだ」
蹴りが来る事を予め予測していたかのように、それが放たれる頃には加藤の首筋には掌という盾が添えられていた。
言わずもがな姫子の足は加藤の手にがっしりと掴まれる羽目となった。
加藤「爪先から内腿まで丹念に垢を舐めてあげましょうか。ああ、もう想像しただけで──っ!」
加藤は口を半開きにして身体を震わせた。
その身悶えは排尿の直後に来るそれとよく似ていた。
姫子「ひっ──!?」
姫子は短い悲鳴を上げると、固定された足首を無理矢理振りほどいて大きく後退した。
加藤「ふふっ、これは失礼」
加藤はインテリの貴婦人のような仕種で眼鏡をかけ直し、長い舌で唇を舐めた。
加藤「少々……。先走り過ぎたようですね」
加藤の下腹部には服越しに見ても中の状態が直ぐに分かる膨みが出来ていた。
雄々しく聳え立つそれが、今の姫子の目にはこれ以上なく汚らわしいものに映る。
姫子「あの人……。気持ち悪過ぎだよ……」
口元を抑え、込み上げる吐き気を堪える。
直接脳内に最悪のイメージを浮かばせる加藤の発言、言動は目には見え難いものの、確実に姫子の精神を摩耗させてゆく。
三花「だったら私が……」
姫子「それだけは駄目!」
守らねばならない。
観点を変えれば只のエゴとも取れるその思いが姫子をつき動かしていた。
人とは違う体質を持つというだけで蓋を開けてみれば闘気の扱いもままならない少女である三花をこの男とぶつけてはならない。
姫子の判断は理に適っていると言えば確かにそうなのだろう。
先の打ち合いで観測した限りでも加藤は要所要所で闘気をコントロールしている節があった。
回避、防御に当てられている闘気は勿論攻めに転じる事も出来る。
そうなれば三花程度の実力者では歯が立たないだろう。
姫子「…………」
そしてその先に待っている結末。
それは死すら生温いと思える地獄の折檻だ。
姫子はがちがち震える奥歯を無理矢理噛み締める。
だが女にとって最も苦痛な仕打ちをイメージしてしまった姫子に最早自分を鼓舞する事は出来なかった。
加藤「怖いのなら逃げても構いませんよ?」
姫子の胸の内を見透かすように加藤がほくそ笑む。
姫子「…………」
そんな発想は最初から無かった。
無事生きて帰れる補償は無いと知りながらここまで来たのだ。逃げ出してしまえばそれこそ本末転倒な話だ。
加藤「イメージしましたね? 敗北、逃走、絶望。
その他ネガティブな末路を」
図星だった。
しかしそれは今姫子が最も見透かされたくなかった感情だ。
まるで取り繕うように姫子は目を細め、眉をつり上げて敵意をむき出しにする。
加藤「ふふっ、今更そうやって敵意を取り繕わなくてもよろしい。私には貴女の感情が手に取るように分かる、何故なら──」
とん、と床を蹴る音と同時に加藤の姿が姫子の視界から消える。
加藤「私は貴女の全てを知っている」
ぞわりと姫子の背筋に虫が這った。
傍らで棒立ちになっていた三花は勿論の事、背後に回り込まれていた姫子でさえも隙を突かれたと気付いたのは、なまめかしい手つきで胸を揉みしだかれてからだった。
姫子「────」
思考回路が一瞬でショートする。
本能的に汚れた手を振り払おうと裏拳を放つが、それも鼻歌混じりで躱された。
三花「姫子──っ!」
遅れて反応した三花が瞬時に爪を伸ばし、下卑た笑みを浮かべる加藤に飛び掛かる。
加藤「ちっ……!」
今まで関与していなかった三花からの反撃に反応が遅れたのだろう。
加藤は咄嗟に腕を交差して腰を沈めた。
加藤「……興ざめですねぇ。『何も考えていない』女は嫌いなんですよ──!」
深々と腕に食い込んだ爪は肉の繊維の一つ一つをずたずたに引き裂く。
加藤「この……! 離せ! 離せっ! 股座にゴキブリを詰めてやろうか!」
加藤は執拗に三花の鳩尾に膝を捩じ込む。
だが三花の爪は抜けず、それどころか肉と骨、血管の壁を抉りながら暴れ狂う。
流石にこれ以上は不味いと悟ったのか、加藤は無事な方の手に闘気を込めた。
三花「──っ!」
加藤「離せえぇぇええっ!!」
加藤は闘気を込めた殺人的な握力を秘めた手で三花の手首を躊躇なく握り締めた。
熟れたトマトを潰すかのように三花の手首から先が爆ぜた。
赤い花火が鳴り終えると同時に三花に襲いかかるのは気が遠くなるような痛み。
右手から伝わる痛みに全身が痺れを以て応える地獄のような苦しみの中で、三花は悲鳴を上げるでもなく仲間を鼓舞した。
三花「立って、姫子!!」
だが姫子は涙ぐみつつ、床に座り込んで胸を抑えている。
姫子「やだ……。やだ……」
思考回路はパニックを起こしており、うわ言のように否定、拒絶の言葉を呟いている。
寒くもないのに姫子の身体の震えは止まらず、それどころか更に酷くなっていった。
『貴女の全てを知っている』
先のこの囁きが姫子の胸に纏わりついて離れなかった。
それだけ聞けばただの戯言染みたはったりにしか聞こえない言葉なのだが、姫子にはこの言葉が真実であるという確信があった。
姫子「やだ……。見ないで……!」
実を言えば姫子はその少し前に猜疑心を抱えていた。
それは渾身の蹴りをぴしゃりと受け止められた時だ。
たとえ闘気を発現させている者でも姫子の技を完璧に見切る事は難しい。
条件反射の助けを受けて漸く避ける事が出来る。姫子のスピードはそのレベルにまで昇華しているのだ。
だが加藤は初撃を交えてから一度も被弾していない。それに加えてあの時の見切り。
『加藤はもしかしたら自分の思考を読めるのではないか?』
一度そう思ってしまってからの全てを知っているという発言。
言動の不気味さも相俟って姫子の心はあっさりと、硝子のように砕けてしまった。
姫子「触らないで……! 乱暴しないでよぅ……」
加藤は今三花の方に意識を向けており、誰も姫子に干渉はしていない。
しかし姫子には見えていた。
泣きじゃくる無力な自分に舌を這わせ、暴力で身体を征服せんとする何かが。
加藤「ふふふっ……」
盛大に壊れてゆく姫子を横目で見ると加藤は満足げに笑った。
三花「この……っ!」
三花はそこにすかさず切り込んでゆくも、逆にがっちりと首筋を取られてしまう。
加藤「紳士の嗜みを邪魔するのは頂けませんなぁ」
三花の鳩尾に掌底が捩じ込まれる。
直後に三花の身体に広がったのは痛みと、波だった。
三花「~~っ!?」
波が痛みを乗せて身体中を無差別に犯し尽くす。
三花には直接見る機会は無かったが、それは闘気を発現させたばかりの澪が純との小競り合いの際に放った技とよく似ていた。
加藤「どうですかぁ全身の血を掻き乱される感覚は!」
三花の滲む視界に映る加藤の身には青色が纏わりついていた。
これ以上は不味い、そう思いつつも三花は自分の身体が思うように動かない事に苛立ちを覚えた。
この痛みの種は分かっているのにそれに対応する気力は痛みに殺がれていたのだ。
三花「水流……操作……?」
加藤「よく出来ましたねぇ! ご褒美に後でたっぷりと注いで差し上げますよ!」
駄目押しに更に一発。
再び襲い来る痛みの波に三花はとうとう床に伏せた。
水流操作。それは青色の闘気を持つ者の大半が得意とする技術だ。
達人の域に立つ者ならば更に凝縮、気化といった水の状態変化を任意に起こす事も出来る。
加藤はその域には達していないものの、打ち込む全ての技に水流操作を組み込むという事はそれだけで術者の戦闘能力を増幅させる事を意味する。
三花「かっ……はっ、はっ……」
掌底を介して対象の中を巡る水、つまり血液を震わせてやる。
数発で生身の人間ならば致命的なダメージを負うだろう。
一切の規律を乱す事無く動いている人間の身体はそれを乱されると悲しいほどに脆いものなのだ。
姫子の精神を壊し、三花の肉体を壊した。
二つの征服感が加藤の汚れたリビドーをたぎらせる。
加藤「さて、後は私のモノが無ければ生きていけないように、じっくりと調教してあげましょうか」
強者の悦び。今までそうして来たようにその余韻に浸ろうではないか。
加藤の脳内は今やメフィストフェレスと契約する際のファウストさながらに心躍らせていた。
僅かに頬を紅潮させながら座り込む姫子に擦り寄ってゆく。
姫子「やだ……。何でもするから……中だけは……」
うわ言のように呟き続ける姫子の頬は濡れており、瞳は最早黒以外映していなかった。
加藤「くくっ、気が早いですねぇ」
爪先で軽く腹を蹴ってやると、姫子の身体は人形のように仰向けに倒れた。
すかさずそれに覆い被さると、女性特有の淡い香りが加藤の鼻孔を突き抜ける。
加藤「覚えておきなさい。『言葉』を軽んずる者の末路には崩壊しか待っていない事を」
無秩序に無遠慮に無責任に、無我夢中で姫子の衣類を毟り取ってゆく。
ブレザーの釦は弾き飛び、ブラウスと耐寒スーツもぼろ切れのように引き裂かれ、下着に包まれた程よい膨みが露になった。
姫子「何で……? どうして意地悪するのぉ……?」
呂律の回らない口調は姫子の壊れ具合を顕著に現していた。
加藤「ふふっ、言葉弄び『チープトリック』がここまで効いた方は貴女が初めてですよ。余程辛いものを抱えていたんでしょうねぇ……」
加藤は栗色の長い髪を一束手に取り、咀嚼するように香りを楽しんだ。
言葉弄り『チープトリック』
その単語が何を意味するのか考える余裕など姫子には無い。
絶望のイメージによって自らが誇大化していった加藤の暴力に耐え、せめて行為が早く終わるように祈るばかりだ。
三花「姫子……」
傍らには身体を壊された少女。
そして彼女もその精神を壊されるのだろうと予感していた。
加藤「私は女性の身体の部位で一番太股が好きでしてね。先ずは肉が蕩けるまでそのけしからん脚を頂きま──」
加藤が下卑た笑みを浮かべて唾液を含んだ舌を垂らしていたその時、室内であるにも拘らず一際大きな風が吹く。
加藤「む?」
事に不信感を抱いた加藤は顔を上げ、皺が刻まれた眉間を更に皺寄せた。
刹那、まるでそれを見計らったかのように鈍色の光が加藤の頬を掠めた。
加藤「な……何が──」
「動かないで」
加藤の自分の顎の下、つまり首筋で冷たい金属音が鳴るのを聞いた。
頬に出来た真新しい傷口から血が滴り、汗と混じって床を濡らす。
江藤「ほぉら見てごらん。タイツ越しでも分かる程濡れてるわよ?」
澪「うぅ……ぐっ……」
極寒の地での情事はまだ続く。
胸から腹部にかけて執拗に愛撫を続けていた江藤はとうとう澪の秘部に手をかけようとしていた。
澪「やめ──」
澪は止めてと口走ろうとした自分に喝を入れた。
唇を噛み締め、拳を握り締める。
澪「いっ……!?」
片方の手に鋭い痛みが走った。
意識が飛んでしまいそうな快楽のせいで忘れていたが、澪の手には神経毒を仕込んだ針が刺さっているのだ。
江藤「どうしたのぉ澪ちゃん?」
眠たそうにも見える蕩けた目付きは澪の顔を舐めた。
その間にも抜かり無く澪の乳房の突起を弄ぶ。
澪「……下手くそ過ぎて痛いんだよ、オバサン」
眉を顰めつつ放った言葉は傍から見ても強がりである事が分かる。
それでも心の芯を保つにはそんな下らない強がりこそが重要なのだ。
身体中を色に染めらられ、犯し続けられても澪の心は純潔、己の意志を映す深い青で満たされている。
江藤「……不細工なしたり顔してんじゃないわよ!」
ヒステリック気味な金切声を上げると江藤は澪のスカートを引きずり下ろした。
江藤が澪の秘部に触れようとしたその時、澪は遂に行動に出た。
澪「調子に乗るな……っ!」
力が入らない腕に鞭を打ち、手に刺さった針を乱暴に引き抜く。
鋭い痛みはほんの少しだけ薬がもたらした脱力感を緩和した。
そして澪は血の糸を引いててらてらと輝く針を江藤の首筋目掛けて突き立てんとする。
江藤「あら残念。動きまでとろとろになってるわよ?」
とは言ったものの咄嗟の反応だったのだろう。
致命傷には至らなかったものの針は澪と同じように掌に深々と刺さった。
澪「……言ってろ。その針の毒がこれほどの効力を持ってるんなら、お前だってただじゃ済まない筈だ!」
澪の狙いはそこにあった。
運良く首筋に刺されば儲け物、本命は針に仕込まれた即効性の毒だ。
江藤「…………」
江藤は突き刺さった針をまじまじと見つめた。そして大きく溜め息をつく。
江藤「ふぅん……。少しは考えたみたいだけど何か忘れてない?」
まるで痛覚など無いかのように乱暴に針を引き抜き、江藤は澪の方に自身の血を擦り突けた。
澪「何を──」
江藤「貴女にこの毒を盛ったのは私なのよ?」
下着の中に手を入れ、湿り気の元を指でなぞり、指先に付着したモノを舐める。
そして澪の耳元に息を吹き込むように囁いた。
江藤「毒の使い手が自分の毒にやられちゃ笑い話にもならないでしょ? 勿論何千種類もの毒に対する抗体は作ってあるわ」
澪の顔が一瞬で青褪めた。
江藤「正確には打ち込んである、かしら。紬お嬢様に仕えてた時は専属の医者をやっててね、こういう事には詳しいのよ」
目を細めて笑い、袖を捲って露になった手首を澪の眼前に突き付ける。
そこには数えるのも億劫になるような無数の注射痕があった。
澪「じゃあこの毒は……」
江藤「勿論坑剤摂取済みでぇす。残念でした、可哀相な澪ちゃんはこれから『下手くそなオバサン』によがり狂わされるのでした!」
短く笑い、再び秘部をなぞる。
いや、なぞるというよりは擦っていると言うべきか、今までの愛撫は序の口だと言わんばかりに指の動きを早めた。
澪「あっ……やっ…だめ……っ」
掌の痛みは再び麻痺してゆく。
代わりに押し寄せるのは今までの比ではない快楽の波。
遂に澪の声色に艶めきが混じる。
江藤「良いわぁ、今の澪ちゃんすごく女の子してると思うの。もっと素直になったら?」
肉と肉が愛液というクッション越しに触れ合う音が次第に大きくなる。
自然と澪の腰は浮き、爪先に力が込められた。
澪「もう駄目……っ! これ以上は…やめっ……」
江藤「素直になったら考えてあげる。言ってごらん、此所が気持ち良いの?」
二本の指で中を責めながら親指で突起をなぞる。
澪「いい……です…っ。だから……これ以上……っ」
言いながらも澪の腕は覆い被さる江藤の背中に回されており、股はだらしなく開かれている。
女性の身体の扱いに慣れている江藤がそれに気付かぬ筈が無かった。
江藤は卑しく口角を歪め、澪の口元に近付ける。
江藤「しないで欲しいの? 今澪ちゃんが本当にしたい事してごらん。いっぱい応えてあげるから」
澪の吐息が江藤の鼻先を濡らす。
そして江藤の後頭部に澪の細い指が這ってきた。
江藤「んっ……」
そっと澪の首が浮き、二人の唇が重なる。
口内に入ってくる舌を江藤は我が子のように愛しく受け止めた。
澪「んっ……ふっ……」
深く閉じた澪の瞼は時折ひくついており、快楽の色が滲み出ていた。
対する江藤も澪に負けじと舌を絡ませて澪の口内に捩じ込んでゆく。
その瞬間澪の舌が急に引っ込んだ。
江藤「~~っ!?」
舌先に突き刺さった強烈な痛みに江藤は目を見開いた。
だが時すでに遅し、頭部に絡み付いた澪の腕は江藤の離脱を許さない。
澪「んっ……」
澪は江藤の舌から滲む血を丁寧に舐めとりながらそっと歯を江藤の唇にあてがった。そして……
江藤「い"っ……!?」
唇の肉を噛み砕かんばかりの勢いで食らいつく。
澪の口内に鉄の味が広がった。
本来ならば嫌悪すべき対象である赤い液体を音を立てて舐め取ってゆく。
江藤「このっ! はなひなさい……!」
江藤は呂律の回らない間抜けな声で叫ぶ。
筋肉が緩み切った状態で江藤の全力の抵抗に適う筈もなく、澪の身体はそのまま二、三度横転した。
雪に沈む澪の視界に入ってきたのは一振りの刀だった。
澪「…………」
血に塗れた口元を拭い、刀を杖にして立ち上がる。
手足が震え、腰が立たない状態でも澪は諦めなかった。
江藤「…………」
今まで取り乱しこそしたものの圧倒的優位を保っていた江藤は、この時初めて恐怖した。
本来ならばこの状況は有り得ないのだ。
最初に打ち込んだ毒はしずかに打ったものよりも数倍強力な毒であり、その時点で普通の人間ならば指一本動かせない。
江藤「ありえないわ……」
その毒だけならば澪の気力が上回ったという、苦しいながらも理由は出来る。
だが問題は二本目の薬だった。
あの薬の本来の効力は人間のあらゆる感覚を研ぎ澄ますものだった。
それには性的刺激は勿論、毒の苦痛も含まれる。
澪「はぁっ……はぁっ……」
澪は怖じ気づいてへたりこんでいる江藤の元へ一歩ずつ迫っている。
刀を振るう力など残されてはいないのに。
江藤「駄目よ……来ないで! 来ちゃ駄目!」
血混じりの唾を飛ばしながら江藤は叫んだ。
目の前の人外に直接手を下す事は恐怖が許さない。
代わりに江藤は祈った。
恐怖、狂気を孕んだ厄災が目の前から過ぎ去るのを。
江藤「死んで! お願いだから……! 早く死になさいよ!」
面と向かって投げ掛けられる呪詛の言葉を聞いて澪は大きく口角を歪めた。
澪「ははっ……酷い話だな。もう一回『愛して』くれ──」
今まで地を這っていた視線が上がり、江藤を捉える。
江藤「ひっ……!?」
時間が止まった気がした。
眼球の動きさえ気取られて殺される。そんな征服の時が……。
澪「よ──」
音を立てて終わった。
江藤「へ……?」
江藤は間抜けな声を上げて目を見開いた。
そして目の前で繰り広げられた現実をゆっくりと脳で処理する。そして悟った。
江藤「あはっ」
ざまぁみろ、可愛げの無い女だ。
過ぎ去った厄災に抱く感情は恐怖ではない。
江藤「あははははははっ!!」
雪に沈む澪の身体はぴくりとも動かなかった。
江藤「ホント、ゴキブリみたいにしぶといんだから。でも残念、力だけじゃあ知恵ある人間には適わないってわけよねぇっ!」
爛々とステップを踏みながら澪の元へ詰め寄ってゆく。
江藤はそのまま置物のようになってしまった澪の頭を踏み下した。
そうする事で厄災を征した達成感を得られる気がしたからだ。
江藤「最っ高ねぇ! 澪ちゃん、今どんな気持ち? お姉さんに教えてくれない?」
親の敵を目の当たりにしたかのように半ば狂乱気味に、江藤は澪を何度も踏みつける。
されるがまま微動だにしない澪の身体は江藤の脚が突き刺さる度に跳ねた。
江藤「あんな無茶しなきゃもう少し長生き出来たでしょうにねぇっ! あっははははは!!」
ぶつり──。
何かが何かに刺さったような鈍い音が江藤の笑い声を遮った。
江藤「は?」
身体の何処かが痛いわけではない。厳密に言えば澪に噛み切られた唇が痛むがそれは今はどうでも良い。
問題なのは何故自分の顔に血が舞ってきたのか、ということだ。
澪「……最高の気分だよ」
長い黒髪を垂らしてまま澪が顔を上げた。
その手には鈍色に輝く刀。その刀身の半ばまでが澪の太股に突き刺さっていた。
澪「うっぐ……!」
一切の躊躇なくそれを引き抜く。
湧き水のように溢れ出す赤色の血は雪を溶かし、澪の周りを彩る。
血の流れがある程度緩くなるまでそれを眺めていると、不意に澪は見下ろす江藤と目を合わせた。
澪「ははっ……。やっぱ痛いな、これ」
江藤「~~っ!?」
江藤は言葉が出なかった。
事もあろうか澪は自分に刃を突き立て、更に敵に向かって微笑んでみせたのだ。
常人ならば、いや常人でなくとも今の研ぎ澄まされた感覚の状態で刃を突き立てられればショック死は免れない。
なのに何故笑える。何故笑う気になれるのか。
江藤の脳内で疑問と否定が入り交じった。
澪「悪い血が抜けたからかな。何となくだけど頭だけはスッキリしてるんだ」
顔面は蒼白、いつ倒れてもおかしくない状況下で澪はこの時、生きる事を諦めていなかった。
そっと出血部分に掌をあてがう。
すると傷口が白い蒸気を上げて凍り付いていった。
澪「テスト前日で徹夜してる時に手の甲にシャーペン刺してたの思い出してさ……。やっぱり気怠さの一番の薬は痛みだよな」
刺した太股を庇うように座り込んだ姿勢のまま、澪はそっと手を翳す。
江藤「ひっ──!?」
澪と江藤を取り囲むように水の円が現れた。そして円の向こうには無数の氷柱が浮かぶ。
澪「さっきはよくもやってくれたな。私だって痛いものは痛いんだゾ?」
力を手にして以来一度も見られなかった純真無垢な笑みを浮かべ、澪はそっと指を鳴らした。
────。
結論から言うと江藤はまだ生きていた。厳密には生かされたというべきか。
全身を氷で穿たれてなお、彼女は死ぬ事を許されてはいなかった。
江藤「うぐっ──!」
脇に刺さった氷柱が乱暴に引き抜かれ、江藤の身体がびくりと跳ねる。
出来たばかりの真新しい傷口にすかさず澪が覆い被さった。
澪「んっ……」
赤い湧き水に唇をあてがい、外気に触れる前に少しずつ飲み下してゆく。
傷口を舐められるむず痒さと全身を貫く痛みが相俟って、江藤の精神は着々と摩耗していった。
江藤「おっ……おに……!」
澪「大丈夫だよ。死なない程度の血は残しておいてあげるから」
口元に塗れた血を拭い、手の甲を伝った血に舌を這わせる。
瞳はどす黒く濁り、かつての面影があるとすればその冷たさだけだった。
江藤「やだっ……! はやくごろじで……っ!」
澪「ははっ、そんなに死に急ぐなよ。命が勿体ないだろ」
江藤の嘆願を一蹴して澪は再び傷口に顔を埋めた。
江藤の血に宿った抗体を求めて澪は血を啜り続ける。
他人の血に宿ったワクチンが効力を持つかどうかは疑わしかったが、今の澪には関係無かった。
死にたくても死にきれない。死よりも辛い絶望を振り撒く醜悪なる鬼。
『活人鬼』が此所に産声を上げた時だった。
最終更新:2013年03月04日 20:15