過去は変えられないが未来は変えられる。大切なのはこれから何をすべきかだ。
 政治家も芸術家も学者も皆が口を揃えてそう言う。
 だが過去を斬り捨ててまで守りたい未来は果たして存在するのだろうか。
 紬は考える。もう過去の主従関係には戻れないのか、少しだけ、ほんの少しだけ過去に甘えられればどれ程気が楽になるだろうかと。

斎藤「現実から目を背けたところで何も解決しませんよ。望めば思い通りになった昔とは違うのですから」

 目を背けたくなるような現実は地に伏せた紬を踏み躙る。

紬「あぐっ……!」

 鈍痛が骨の髄まで響き渡り、紬は胃の中のものをぶち撒けそうになった。

斎藤「何故私を憎まない? 友を傷付け、金に目が眩んで貴女を裏切った私にかける情がどこから沸いてくるのですか?」

 奥歯を噛み締めて眉間に皺を寄せる。
懺悔にも似た斎藤の言葉とは裏腹に、彼の表情は怒りに満ちていた。

紬「……解らない。でも……」

 口元を手で覆い、涙目になりながらも紬は答える。

紬「それでもまだ……貴方達の事が大好きなの」

 紬が出した答は斎藤が望むものとは真逆だった。
斎藤の表情はこれ以上に無いほどの怒りと、哀しさを滲み出していた。

斎藤「……下らない。未来を行くよりも過去に縋る事を選ぶのですか」

 下らない、その一言で自分の想いを一蹴された事に紬は更に心を痛める。

紬「過去に縋る事は、いけない事ですか?」

 無機質な床の冷たさに身を委ね、紬はつらつらとわき出る想いを吐き出してゆく。

紬「今の私がこうやって未来を共にゆく友達と巡り逢えたのは、きっと過去に私と一緒に居てくれた貴方達のお陰だと思うの」

斎藤「…………」

 斎藤はそっと紬の身体から足を退けた。
紬の言葉を引き金に、斎藤の脳裏には紬を見守り続けた十八年間が走馬燈のように駆け巡る。

紬「両親が忙しくて学校行事に来てくれなかった時、いつだって伊藤が代わりに来てくれました」

 その場に不似合いな黒スーツを皺くちゃにして父兄に混じる男が頭を過ぎる。

紬「武術の稽古で怪我しちゃった時、江藤は泣いてる私を抱き締めてくれました」

 自分も将来こんな優しい女性になれるだろうか。そんな憧れを江藤に抱いていた事を思い出す。

紬「加藤はどんな悩みでも親身になって聞いてくれました。誰にも言えないような悩みも、あの人になら何でも話せた」

 寂しさに押し潰されそうな時に加藤が何も言わずに淹れてくれた紅茶の味は、今となっては紬の目標だ。

紬「後藤は私がお父様に怒られる時、いつも一緒に怒られてくれました。たまに大人気ないところもあったけど、そんなところも大好きです」

 怖いものなど一つも無かった。
いつも自信に満ち溢れた後藤と居ると、何だって出来る気がした。

斎藤「何を世迷い言を……。貴女は現実を知らないだけだ!」

 無垢な少女の思い出である従者衆も蓋を開けてみれば醜いものだ。
 加藤、江藤は異常な性癖の持ち主。伊藤は琴吹家に仕えるまでは浮浪者だった。
 それに後藤が一緒に怒られていたのは紬に悪戯を唆すのが決まって彼だったから。
正しく訂正するならば『後藤が紬に一緒に怒られてもらっていた』が正解だ。

斎藤「私を含めてどうしようもない人間だ。一つの事に特化するばかりで他は欠陥だらけだった……!」

紬「ううん、そんなことないよ」

 普段の彼女からは決して出ない、甘えたような柔らかい口調だった。

紬「少なくとも……。私の中の貴方達はいつだって大きかったよ?」

斎藤「だから貴女には現実が見えていないんだ! 貴女が望むような大人などこの世には居やしないんだよ……っ!」

 冷たい床を力任せに殴り付ける。
固いものが爆ぜる音が虚しく響いた。

紬「それは違うわ。私が望んだ、私がなりたい大人は……」

 ぼろぼろになりながらも紬の表情は何処か晴れやかだった。

紬「こうやって、子供の為に涙を流してくれるような人なの」

 斎藤の頬を熱いものが濡らして、零れ落ちた。
今更馴れ合う気は無い。
自分の目的を果たす為ならば修羅にでも畜生にでもなろう。そう決めた筈なのに。
 訳も無く斎藤の目から溢れ出たのは悲しみでも妬みでもなく、愛だった。

斎藤「紬お嬢様……っ!」

紬「一緒に帰ろう? この世の中取り返しのつかない事なんて殆ど無いんだから」

 堪えても堪えても尽きる事なく溢れるものを斎藤は鬱陶しく感じた。
幾つになっても情は枯れるものではない。斎藤はこの年で初めてそれを実感した。しかし……。

斎藤「……それでも私は、貴女の敵を止めません」

 斎藤の胸の中で何かが蠢いた。
それは中から宿主を突き破らんとし、痛みを伴う猛威を振るい……。

斎藤「ぐっ……!?」

 溢れ出た。
 口の中に広がる鉄の味、鼻孔を突き抜ける生臭さ、全身から吹き出る嫌な汗、歪む視界、震える肢体。
 様々な症状が重なり合い、直結して死に結び付く。

紬「何を……?」

斎藤「……私には時間が無い。お願いですから……」

 突発的な痛みの波と共に斎藤は吐血した。
床にぶつかって跳ねた赤の滴が紬の頬を濡らす。

斎藤「私を憎まなくてもいい……。だがせめてこの老いぼれを、貴女の手で葬って下さい」

紬「何で……っ!? 患った事なんて一度も無かったじゃない!」

 紬は鈍痛で軋む身体に鞭を打ち、斎藤の肩に触れようとした。だがその手は非情な意志を以て払われる。

斎藤「狐に噛まれましてね……。あの子を此所の監視の目から遠ざけるにはこうするしか無かった」

 斎藤は江藤に貰った『一人分』の薬を思い出した。

紬「あの子……?」

斎藤「時間が無い。貴女が嫌だと言ってもやらせてもらいます」

 震える手でそっと紬の双肩を抑える。

斎藤「今から私は貴女を殺す気で六道の術を放ちます。どうか耐えて下さい、そして乗り越えて下さい」

 紬が口を開く前に鍵語は呟かれた。

斎藤「修羅道──」

 紬の中で無数の刃物が暴れ回った。
目には見えない、だが確かに存在するそれは一つ一つの威力は低いものの着々と紬を傷付ける。

紬「──っ!」

 逃げ出す事は容易だった。
だがそれでも紬は身体を裂かれるような痛みに耐えた。
斎藤の言葉を繋ぎ合わせても彼女には今の状況は解らない。
それでも……。

斎藤「人間道──」

 斎藤は何も変わってはいなかった。その事だけは分かった。
たとえこの身が押し潰されようとも、昔と同じ斎藤を信じてみよう。
紬はそう思ったのだ。

斎藤「畜生道──」

 鍵語と共に肩を抑える力が強くなった。
その力はやがて紬の肉体の耐久力をあっさりと越え、白い肌を挽き肉のように握り潰す。

紬「ひっ──!?」

 制服が肩から袖にかけて一瞬で湿ってゆく。
痛みで一瞬視界が混濁したが、それでも紬は前を、斎藤を見続けた。

斎藤「……餓鬼道」

 痛みに耐えていた気力が削られてゆくのが分かった。
それだけでは無い。全ての生き物が本来持つ筈の闘気、生命力そのものが削られているのだ。

紬「────」

 何か言いかけて紬は斎藤の肩に顔を埋めた。
身体の何処にも力は入っておらず、爆ぜた肩の部分が時折震えている。

斎藤「これが最期です。私にとっても貴女にとっても……」

 斎藤は紬の肩からそっと手を離した。
そして無機質の床に両の掌を添える。

斎藤「私達を乗り越えて下さい。それが貴女を我が子のように思ってきた『親』の望みです」

 床に怪しげな幾何学模様の陣が展開された。
血のような深い赤色に輝くそれは甲高い音を立てながら更に強く発光してゆく。

斎藤「地獄道」

 次の瞬間、空間は音もなく崩れ去った。
世界を取り巻くあらゆるモノが硝子細工のように散っては爆ぜ、やがて肉体という器は意味を成さなくなり、そこには剥き出しの精神力だけが残った。

 底の無い闇に沈んでゆくような、或いはただあても無く浮かんでいるような奇妙な感覚。
痛みという枷から開放された紬はこの世では無い此所で一人の男が歩んだ世界を見た。

紬「こんなのって……」

 目を背けたくなるような現実、消えゆく理想、終わる世界と残る痛み。
言葉の限界を越えた感覚は紬に何かを与える。

『乗り越えて下さい』

 心に染み渡る声に紬は静かに頷いた。

紬「天界道」

 漆黒の空間に星達が瞬く。
 目が眩む光を放つ星々は砕け、音を立てて墜ちてゆく。
 負の因果を終わらせる光が目に映る全てのものが白く塗りつぶされた。

 がちゃん──。
 紬の意識が引き戻されたのは重々しい音が鳴り響いた時だった。

紬「ここは……?」

 紬の前に広がった光景。それは見慣れた軽音部の部室だった。
何となく戸棚に収まったティーカップを眺めていると、突如それらが一人でに動き出した。

『はじめまして』

 幼さを含んだ可愛らしい声が紬の背後で響く。

紬「唯……ちゃん?」

 紬が振り返った先に居たのは唯だった。
柔らかそうな栗色の髪の毛。お世辞にもあまり上手とは言えない手入れがされた眉。円らな瞳。柔和な口元。
 彼女を唯と断定する要素は幾らでもあったが、紬は得も知れない不信感を駆り立てた。

『残念ながらお前らが大好きな唯ちゃんじゃないんだな。「何処かの誰かさん」とでも呼んでね!』

 ぎゃは──。と汚い笑い声を上げると彼女は我が物顔でソファの上で胡座を掻いた。

紬「はぁ、そうですか……」

 唐突な事に紬の意識が混濁し始める。
或いは今も混濁した意識を彷徨っているのだろうか、そこまで考えたところで紬はそれを無駄だと判断した。

紬「何処かの誰かさん、此所は一体何処なんでしょうか?」

 紬の問いに対して彼女は目を細め、首を伸ばして紬の顔を覗き込んだ。

『ひゃはっ、お前ら揃いも揃って同じ事聞きやがんのな。同じ事を繰り返してると心が荒むんだぜ? 何千年もだらだらしてる私が言うんだから間違いない』

 腕を組んで一人納得したように首を縦に振る彼女を紬は少し滑稽に思った。

『と、質問に対する返事は答えであってしかるべし、だな。お前の質問に答えてやるよ』

 宙を漂って彼女の手元にやってきたティーカップを掴み、彼女は自分の首に爪を立てた。
 噴水のように血が噴き出し、ティーカップに赤い液体が注がれてゆく。
彼女はそれを躊躇する事なく一口で飲み干した。

『此所は全てと繋がる場所。お前ん家でもあり、唯ん家でもあり、学校でもある。全ては此所であり、此所は全て』

 彼女は空になったティーカップを放り投げて両手を広げ、天井を仰ぐ。

『まぁそんなところだ』

紬「……どんなところでしょう?」

 理解されようとすらしていない彼女の口振りに紬は更に不信感を覚えた。
鸚鵡返しのように再び投げ掛けた質問は彼女の逆鱗に触れる。

『あぁ? お前理解する気あんのかよ? 折角私が質問に答えてやったのに理解出来なかっただと!?』

 突如まくし立てた彼女の剣幕に紬は思わず気圧された。

『禁忌に触れてここに来たお前に折角優しくしてやったのに! 本来なら問答無用で引き裂いてやるところなんだぞ!?』

紬「ごっ、ごめんなさい……」

 禁忌に触れたという言葉の意味を理解出来なかった紬には、彼女がそこまで怒り狂う理由が分からなかった。 何度か紬の制服の襟首を揺すると満足したのか彼女は紬から手を離して大きく息を吐く。

『ふぅーっ、何でお前が怒られてんのか分かるか?』

紬「いえ、全然」

 彼女は再び目を血走らせた。

『……っ、まぁ良いや。じゃあ優しい私が教えてやるから理解しろよ?』

紬「はぁ……」

 眉を八の字にして頬を掻く紬の鳩尾を彼女は乱暴に殴り付けた。

『お前が天界道と銘打って放った技。ありゃこの世界においての反則技なんだよ』

紬「うぐっ……」

 痛みに苦しむより先に紬は狼狽した。
斎藤が命を投げ捨ててこの身に教えてくれた六道術、それがそれほど罪深いものとは思わなかったのだ。

『あれのメカニズムは自分の闘気じゃなくてこの星の闘気を引き出すものでね。こう言えば分かるか? 人の物を勝手に使ってんじゃねーよってこった』

 そこまで言って彼女は大きく溜め息を吐いた。

『そういや三十年くらい前にもこんな愚かもんが居たな。私は神域に立ちたいなんて言ってたっけ?』

 目を細めて放った彼女の言葉に紬が食いついた。

紬「それって……。斎藤の事ですか?」

『そんな名前だっけな。その時私はあいつをボコって言ってやったよ。「一生自分が作った神に縋ってろ」ってな。ぎゃははははっ!!』

 どの琴線に触れればそれほど笑えるのだろうか。
そう思えるほどに彼女の笑い声は狂っていた。

『まぁ良いや。私も最近は色々と忙しいから今の一発で許してやるよ。ボディがお留守だよ! ってな、きゃはっ──』

紬「…………」

 これ以上何か口走って殴られるのは御免だ。紬はそう思って口を閉ざした。

『今日のお説教のまとめ。過ぎた力を使うんならそれなりの覚悟を以て使う事、お姉さんとの約束だよ?』

 下卑た笑い声を上げて彼女は紬の額をつついた。

紬「あ……」

 麻酔を打たれたように意識がまどろんでゆく。
視界の端の黒い部分が徐々に触手を伸ばして……。

『もしかしたらまた直ぐに会えるかもしんねーな。ま、そんときは宜しく頼むわ』

 脳内に響く彼女の声はどこか楽しげだった。

『今はもうおやすみ。目が醒めれば嫌な事も良い事も全部元通りだから』

 親が子をあやすような口調で彼女は言う。
それが何故か心地良く思えて、紬は静かにはい、とだけ呟いた。
 起きたらまた頑張ろう。
許してくれた何処かの誰かさんへの感謝も忘れずに。
 ゆっくり墜ちてゆく。
何処までも、或いは此所までも。

紬「──っ」

 浮遊感が無くなったのを感じて紬は目を開いた。
 彼女が言った通り、良い事も悪い事も元通りだった。

律「ムギ……。勝ったのか……?」

 傍らで倒れていた律が足を庇うようにして立ち上がる。
そこから少し離れたところで純が膝を立てて寝転んでいた。

紬「ええ、勝ったわ」

 床に顔を伏せた斎藤を一瞥し、紬が立ち上がる。
 ありがとう、過去の自分を守ってくれた人達。
 ありがとう、共に未来を歩いてくれる人達。
 両腕で新たに手にした力を抱きながら紬は目を閉じる。

紬「ホントに……。ありがとうございました……っ!」

訳も無く紬の目から溢れ出たのは悲しみでも妬みでもなく、愛だった。





 彼女は護る為に傷付ける覚悟を決めた。
 どれだけ鍛練を積もうと弱冠十七、十八歳の少女が人を殺める覚悟を決めるのは容易ではない。
 それでも彼女にはやらなければならない理由があった。
死の淵から自分を救ってくれた先人の為に、これからを共に歩く仲間の為に、絶望を切り裂いて光を見出す。

しずか「動いたら刺す。喋っても刺す。私の反感を買ってもその瞬間刺す。」

 それだけを矜持として彼女はナイフの柄を絞った。
加藤の首筋に赤い線が出来る。

しずか「私の質問にイエスかノーかだけで答えて。イエスなら右手を前に、ノーなら左手を前に、それ以外の行動は認めないから」

加藤「…………」

 女子高生の戦闘集団の中にこれほどえげつない伏竜が潜んでいたとは思わなかったのだろう。
加藤は身震いを抑える事に必死だった。
 奇襲の手際、気配の隠蔽、どれをとっても超一流の使い手である事は直ぐ分かる。
だがそれよりも加藤が恐れたのは、自分の後ろに居る人間は自分にかける情など一欠片も持ち合わせていない事だった。

しずか「貴方は従者衆の加藤、それは間違ない?」

 加藤の右手が浮く。
それと同時に加藤の首の辺りで何かが蠢いた。

しずか「次、姫子がこんなになってるのは貴方の言葉弄り『チープトリック』のせい?」

加藤「……っ!」

 表情、動作には現れなかったものの後藤は驚愕した。
自身の青の闘気を操る力の裏に隠していた切札が筒抜けになっている。
それは自分の敗北を意味していた。

加藤「…………」

 右手を浮かせ、膝の上に降ろす。
その動作は一回目よりも鈍く、ぎこちなかった。

しずか「……この状況で私に言葉弄り『チープトリック』を仕掛けられる?」

 加藤は左手を上げかけてそれをためらった。
 質問に正直に答えるならば左手を上げる、つまりノーだ。
だがそれで良いのか、相手は言葉弄りの効果は知っているもののそれの本質自体は把握していない。

 この質問に対する答えによって加藤がしずかに与えるものは大きく変わる。
 右手を上げてしずかに与えるのは信用。
自分がしずかにとって取るに足らない相手である事を吐露する事と同義なのだ。
 左手を上げてしずかに与えるのは恐怖。
忍ばせた毒は確実に敵を殺す引き金になるだろう。
 与えられているのは数秒にも満たない僅かな時間、その中で加藤が選んだ答えは……。

しずか「…………」

 浮いた加藤の左手をしずかはじろりと見据えた。
そして思考する。この男をこの場で殺めるべきか、利用価値を見出して生かしておくべきかを。

 姫子を想うと今直ぐ加藤を殺してやりたい衝動に駆られる。
 唯を想うと最善を追おうとする理性が働く。

しずか「何で……」

 俯いた彼女の目は煤けて広がった前髪に覆われる。

しずか「何で……。こんな酷い事が出来るの……っ?」

 自分と加藤の前で仰向けに倒れている姫子は両腕で肩を抱き、静かに震えていた。
何をすればあれだけ強かった彼女がここまで壊れる事が出来るのだろうか。
そのイメージはしずかの心をそっと押し上げた。

しずか「……これで最期だよ。貴方はこれから先生き残れたとして、改心する気持ちはある?」

加藤「…………」

 加藤は口角を歪めて目を細め、舌を出して微笑んだ。
その醜悪な笑みはしずかには見えない。
それが滑稽に思えて加藤は更に顔を歪める。
 恐怖が無いからこそ格下の敵を見逃そうとする余裕が生まれる。
自分の選択が正しかった事を確信した加藤の脳内は既に歪んだ色欲に溢れていた。
 自分の目覚めと共に奉仕を開始させ、自分の排泄、食事の際は自慰を強要、自分が床につく時は全身を拘束して玩具で弄ぶ。
飽きれば男を募って輪姦するのも一興だろう。
最低でも一日に百回は中に注いでやる。
壊れて壊れて、更に壊れるまでは発言権も与えない。
そして完璧に壊れた頃に山にでも棄ててやるのだ。

 腕を震わせながら右手を上げる。
そして加藤は遂に口を開いた。

加藤「……すまなかったと思っています」

 首筋に突き付けられたナイフは離れなかったが刺さりもしない。

加藤「こうして自分が命の危機に立たされて、ようやく自分の過ちに気付けました。おこがましいと分かってはいますが、一つ教えていただけますか?」

しずか「なに……?」

 しずかの声色が最初よりも穏やかになっている事に気付いた加藤は自分の勝利を確信した。
口が開ける、言葉を使えるならば後は言葉弄りの独壇場、文字通りしずかの心を壊す事も容易い。

加藤「どうすれば……。私は罪を償えるのでしょうか?」

 そっと頭を後ろに逸らすと童顔の可愛らしい少女が加藤の視界に映った。
少女は固く結んだ唇を緩ませ、そっと目尻を下げて微笑む。

しずか「死ね」

加藤「え──」

 肉を貫く鈍い音がした。
不思議と加藤は痛みに悶えたりはしなかった。
 その代わり彼は目の前で微笑む少女をひたすらに憎んだ。
 何故あんな質問をした。何故生半可な希望を持たせた。何故ためらうふりをした。
 何故────。
 何故──。
 何故、何故! 何故!?

しずか「私が貴方を逃がすと思った? そんなの絶対あり得ないよ」

 しずかの頬に涙が伝い、加藤の額に落ちた。

しずか「女狐、人でなし、鬼畜生、好きなように呼んで良いよ。だって私は……」

 加藤の視界からしずかの姿が消えた。
超スピード、幻覚、そんな陳腐なものではなく、言葉通りその場から消え去ったのだ。

「詐欺師だから」

 加藤は首から顎にかけて刃が動くのを感じた。
視界が赤く染まりぼやけてゆく。

加藤「か──ひゅ──」

 呪詛の言葉を吐き捨てようにも喉を切り裂かれて言葉を紡げない。
その代わり加藤は心の中でしずかに呪いを投げ掛ける。

『孕ませろ』

 加藤の人生で最期の言葉弄り『チープトリック』
それはあまりにも乱暴で、単純で、陳腐なものだった。

しずか「姫子……」

 しずかは変わり果てた姫子の横に座り込んだ。
そっと明るい髪の毛を撫でると姫子はびくりと跳ね上がった。

姫子「ひっ──!? やだよ……いじめないで……」

 しずかの手を払い除けて耳を塞ぐ。
しずか以外の人間が今の姫子を見れば彼女が姫子である事さえも疑うだろう。
 だがしずかは知っていた。
姫子だって誰かに甘えたい時もある。
たまに空を見上げて深呼吸をする事は誰にだって必要なのだ。

しずか「一人で抱えちゃ駄目って言ったじゃない」

 怯える姫子を抱え上げ、強く抱き締める。

 高く塗り固めた壁が弱点となる事もある。
それは風使いの少女も雪の女王も同じだ。
或いはその強さこそが強者の唯一の弱点なのかもしれない。

しずか「我慢しないでね。これからはずっと一緒だよ?」

 君が弱いところを見せたくないなら私がそこを埋めてあげるから。
 無くしたものが恋しいなら私が見つけてあげるから。
 そうして胸の中で言葉を連ねている内に姫子を抱く力が強くなっていった。
しずかの肩に頬を預ける姫子の目に光が宿ってゆく。

姫子「しずか……怖かったよ……」

 姫子も強くしずかを抱いた。
よしよし、と溜め息を吐きながらしずかは姫子の頭を撫でる。
 傍らで見ていた三花が朦朧とした意識の中でぼそりと呟いた。

三花「私重傷なんですけど……」


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最終更新:2013年03月04日 20:17