見えない鎖がいちごを縛り付ける。
偉大なる名前を紡ぐ事すら適わない。
 動け────。
 動け──。
 動け!
 上辺でどれだけ自分の心に鞭を打っても芯が凍り付いたように動かない。

唯「だんまりか? んじゃ私から行くぜ」

 紫電の筋だけを残して彼女はいちごの視界から消える。
直後、いちごは自分の頭に何かが添えられるのを感じた。

唯「ビリビリすっから歯ぁ食いしばれよ?」

 彼女が言い終える前にいちごは全身を駆け巡る衝撃に悶えた。
理不尽な暴力が肉を焦がし、骨を震わせ、脳髄を焼き尽くす。

いちご「ひっ──ぎっ──!?」

 意識を手放す事は許されない。
焼かれた身体は時間を遡るように修復され、再び焼かれる。
いちごは絶える事の無い苦痛のループに叩き落とされた。

唯「我ながら厄介な身体だよなぁ……。殺す手段は無きにしも非ず、けど面倒だし……」

 眉を顰めて空いた手で頭を掻く。

唯「それにあいつも望んでないしなっ!」

 紫電を放つ手を離したかと思うと彼女はいちごの懐に潜り込み身を翻すと、再生したばかりの顎に踵を捩じ込んだ。

いちご「あっ……」

 がくんと脳を揺らす衝撃の後にいちごの身体は天井を突き破り、巨大な穴を作って空高くまで浮上した。

 そして恐怖に恐怖を重ねて萎縮した感覚が麻痺している事に気付く。
今ならやれる。
偉大なる名前を以て龍に一泡吹かせられる。

いちご「……私と龍の位置を変換、此所を水で満たした後に液体を硫酸に転換」

 言霊を一瞬のタイムラグも無く実行される。
宙に浮いていた筈のいちごが地に足をつき、地に足がついていた筈の彼女が空に投げ出された。

唯「へ?」


 素頓狂な声を上げると共に彼女の身体は現れた水泡に閉じ込められる。
続けて彼女に襲いかかるのは……。

唯「にっ、ぎゃああああああああっ!?」

 雷に撃たれるよりも遥かに辛い苦痛が彼女の身を焼く。

 硫酸の水泡は彼女の身体を濡らす水と反応して牙を剥く。
衣を溶かし、爛れた皮膚を焼き続け、眼球を壊し、喉から流れ込む酸は臓器を焼く。

姫子「逃げよう……。今直ぐ此所から」

 現状の理解に苦しみ、ただただ戦慄する皆の中で姫子が水を差すように言った。

梓「っ! 何言ってるんですか!? それじゃあ唯先輩は──」

姫子「私達が此所に居て何が変わるの?」

 真っ先に食ってかかった梓を一蹴する。
他に姫子の意見に反論出来る者は居なかった。

いちご「逃がさないよ、せめてあなた達だけでも道連れに──」

唯「逃がすんだよ、この巻き糞ツインテール」

 ぞわりといちごの背筋に何かが這った。
彼女はまるで慣れ親しんだ友人にそうするように、いちごの背中から覆い被さって腕を回す。

和「唯、じゃないのよね……?」

 幼少時から唯を見続けた和には今の唯が唯じゃない事に薄々気付いていた。
恐る恐る彼女に尋ねると彼女は気怠そうに顔を上げる。

唯「それは追々説明するからさ、取り敢えず今はそっちのギャル崩れの言う通り逃げとけ」

姫子「ギャッ──!?」

 辛辣な一言に姫子は顔をしかめた。

唯「なーんかこう首の後ろんとこがちりちりすんだよ。最後に会ったのは何千年前だっけな」

 震えるいちごの頬をなぞりながら彼女は巨大な空洞が出来た天井から空を仰ぐ。
不気味なほどに黒く曇った空から舞い散る雪は美しい幻想を創り上げていた。

いちご「…………」

 つられて見上げた空に突如歪みが現れた。
何も無い空間に走った一筋の亀裂はたちまち拡がってゆく。

律「何じゃこりゃあああああっ!?」

 律が指差した先、空間の亀裂から黒い稲妻が放出された。
無尽蔵に溢れ出す稲妻は一つの巨大な影を造ってゆく。

いちご「龍の……片割れ……?」

 漆黒の稲妻で形成された悍ましい龍、その頭部には桜高の制服に身を包んだ、唯と同じ容姿の少女が立っていた。

憂「お姉ちゃん」

 凜とした声が響いた。
憂の周囲の空間は蜃気楼に覆われたようにぼやけている。
空間という概念すら憂の闘気の前には自壊するしかないのだ。

唯「病んでんな……」

 いちごの髪の毛を弄りながら憂を見つめると彼女は呟いた。
深い闇に塗り潰された憂の瞳に何を見たのか、それは彼女にしか分からない。

憂「そこを離れて。そいつ殺せない」

 刹那、黒い靄がかかった禍々しい波動が空に拡がった。

唯「やなこった」

 彼女はんべっ、と声に出して舌を出すと下卑た笑みを憂に向ける。

いちご「…………」

 彼女に抱かれたいちごは密かにほくそ笑んだ。
『あれ』を使うなら今しか無い、世界の終わりを終わらせる最終兵器を。
 一対の龍の威圧と禁忌に触れた人間の思惑が交差しようとしていた。



 この世界が始まって以来これ程の力を宿す者が一同に会する事はほぼ無かっただろう。
 人知れず世界に在り続けた一対の龍。そしてその龍の力を掌握せんとする者。
決して滅びる事の無い三人がぶつかり合った時に何が起こるのか、それは三人にも解らない。

憂「どうして言う事聞いてくれないの? お姉ちゃん私の事嫌いになっちゃったの?」

 眉を八の字にして悲しそうに顔を伏せる憂の足元には禍々しい黒龍。
あまりにも不釣り合いなその対比は不気味なほどに様になっていた。

唯「お姉ちゃんはどうか知らねーけど私はお前みたいな奴が大嫌いだね」

 彼女は鼻を鳴らして床を蹴った。
途端に律達の足元に光が浮かび上がり、床が爆ぜる。

律「なっ──!?」

 全員が大きく後退して距離を取った。
飛散して積み重なった瓦礫の山が傍観者と闘う者を明確に区切る。

唯「存在ごと消し飛ばされたくなかったらとっとと失せな。死ぬのとはわけが違うからな」

 冷たい瞳で律達を見据えると彼女は再び空を仰いだ。

憂「やっぱりお姉ちゃんは優しいね。でもどうして私の事嫌いになっちゃったの? 私何かお姉ちゃんにいけない事した?」

 黒龍が雲散してゆき、黒い霧になる。
空に放り出された憂は二、三度回転しつつ音も無く着地した。

憂「私謝るよ。きっとお姉ちゃんは私がいけない子だから怒ってくれてるんだよね? ごめんね、お姉ちゃんも辛いよね。本心じゃないのに仕方なく怒ってるのは私には分かるから、だから私はそれでお姉ちゃんの事嫌いになったりなんかしないよ。だって私はちゃんとごめんなさいが言える子だもん。早くその女を殺して家に帰ろう? お姉ちゃんの為にお姉ちゃんの好物いっぱい作るから。あっ、勿論今日はアイスも好きなだけ食べて良いよ。お腹冷やしてお腹壊さないように私がずーっと温めてあげるから──」

唯「気持ち悪い、黙れ」

 抱いたいちごの胸に爪を立て、彼女は憂を一蹴した。

唯「唯はお前の所有物じゃない。笑ったり、泣いたりもするし怒ったりもする、れっきとした人間だ」

憂「知ってるよ。お姉ちゃんの泣き顔も怒った顔も一番知ってるのは私だもん。お姉ちゃんの事はなんでも──」

唯「知ってるなら何で分かんねーんだよ。怒ったり泣いたり出来る人間は人間の思い通りになんかならねー事をさ」

 お前にも言える事だけどな、と付け加えて彼女はいちごの頬に舌を這わせた。
いちごは一瞬だけ身を捩らせると険しく眉を顰める。

いちご「……思い通りにならない事なんて何も無いよ。世界はそんなに楽しくないもの」

 ぎりぎりと歯噛みすると、いちごは淡々と口を開いた。

いちご「私は生まれたと同時に人生の攻略本を渡されたの。先が見えたイベント、気が遠くなるような単純な作業の繰り返し。簡単過ぎて退屈で……」

 語り始めは淡々としていたものの、声には怒気が含まれてゆく。

いちご「こんな簡単な世界相手に皆四苦八苦してるの。私にはそれが見てられない。だから……」

 刹那、床から純白の光線が幾筋も空に舞い上がる。

いちご「考える時間をいっぱいあげるの。世界を解き明かす為の時間をね」

 空に伸びた光の筋から白い羽根が舞い散る。
小さな羽根は敵を貫く光の槍と化して降り注いだ。

唯「──違うだろっ!」

 彼女はいちごを強く抱き締めた。
全身の骨が砕け、内臓を押し潰すといちごは血の泡を吹く。

いちご「痛覚の抹消。敵の周囲空間を固定、力の属性を永劫に変換」

 降り注ぐ光の雨が憂の元に集束してゆく。
唯「零から唯までズレまくりだっつーの! そんなのが通用するわきゃねーだろ!!」

 彼女はぼろ雑巾同然の姿になったいちごを放り、憂を狙う光の元へ跳躍した。
 陳腐な紛い物の力で迂闊に憂を刺激してはならない。
そんな思いはかえって裏目に出る羽目となる。

憂「やっと退いてくれたねお姉ちゃん」

唯「あ……」

 この時彼女は初めて動揺した。
どうにかしてやると約束した、その決意が揺らぐ。
 憂が右手を翳すとそこを中心に幾何学模様の陣が広がった。
黒い光が集束し、白い光を飲み込もうとしている。

憂「此所に居る皆が邪魔だから照れてそんな事言ってるんだよね? そんなお姉ちゃんも可愛いよ」

 奔流する力の流れから彼女は悟った。
憂は防衛の為の力を展開しているのではない。
目に映る全てのものを駆逐せんとしているのだ。

唯「だあらああああっ!!」

 彼女は吠えた。
唯の大切なものを傷付けない為に。

 憂が展開した陣と真反対の模様が刻まれた陣が憂の手に重なるように拡がる。
 力と力は反発し合い、崩れてゆく。
大気すら震わせる力の奔流は白い光と共に緩やかな風となって鎮まった。

憂「つっ──!?」

 憂は衝撃から手を引いた。
だが真っ向から手を突っ込ませた彼女の腕は内部から風船のように膨らんでゆき……。

唯「いってええええっ!?」

 血の花を咲かせた。弾け飛んだ肘から先の肉塊が放物線を描いて律達の方へ飛んでゆく。

梓「ひっ──!?」

 目の前で生々しい音を立てて床に衝突した肉塊を見て梓は身を引いた。
中枢から離れた肉塊は意志を持っているかのようにうねっている。

和「離れましょう。私達が居たら足を引っ張るだけよ」

 皆が無言で頷く中で梓だけが肩を震わせて押し黙っていた。

律「梓!」

梓「行くんなら勝手にして下さい! 私は絶対に嫌です!!」

 癇癪気味に梓が叫んだ。
そして太股に吊ったホルスターから銃を抜き、マガジンを入れ替える。

梓「覚悟は出来てる、なんて宣いながら結局それですか。そんな生き方しか出来ないなら死んだ方がマシですよ!」

 床を蹴って前に躍り出ようとする梓の襟首を純が引っ掴んだ。

純「梓、ごめん!」

 そのまま力任せに床に叩き付ける。
梓は直ぐに立ち上がろうとしたが、その半ばで気を失った。

律「……私達の覚悟って、何だったんだろうな」

 律は拳を作って掌に爪を食い込ませた。
細い指を伝う血はここに居る全員の無念を具現化するように流れ出て、床に落ちた。

紬「……せめて私達に出来る事をやろう?」

 横になった梓の髪をそっと撫でて、紬は梓を背負った。

和「出来る事?」

 鸚鵡返しのように反復する和に紬は直ぐ切り返した。

紬「ええ。唯ちゃんは長い間此所に閉じ込められてたでしょ? きっと寂しい思いしてたと思うの」

 何が言いたいのか解らない。
和はそう口に出す代わりに目を細めた。

紬「唯ちゃんって人懐っこいでしょ。だから独りで寂しい思いしてるときっとわんわん泣いちゃうと思うの。そして次に……」

和「寂しさを紛らわせる何かを見つけようとする。まぁそんなところかしら」

 背負った梓の太股の辺りをしっかり支えつつ紬は頷いた。

紬「アテは無いけどきっとこの施設の中にあると思うの。せめて唯ちゃんが無事戻ってきた時の為に、私はその何かを探したい」

 全員異論は無かった。
せめて何も出来なかった自分達の贖罪に。
皆の想いは一つに重なる。

律「此所も何時までもつか解らないしな。そうと決まれば早く行こう!」

 だんっ、と床を蹴る音と共に律達は散開した。

唯「くそ、いってぇ……」

 弾け飛んだ右腕は大方修復されてはいるもののまだ完全ではない。
無傷の右腕の内部では肉が修復されて蠢く。
それには激しい痛みが伴った。

憂「あ……あ……」

 憂の顔面蒼白で、よろよろと彼女に近付く。

憂「ごめんなさい! 私お姉ちゃんに酷い事……」

 黒塗りの瞳から大粒の液体がぽろぽろ零れ落ちる。

いちご「…………」

 狂っている。
 彼女等を見たいちごの感想は実に率直的だった。
芯となる部分、つまりこの二人の明確な目的がいちごには掴めないのだ。

 憂はいちごを殺すと宣言しておきながら自分で姉を傷付けて狼狽している。
 名前の分からない彼女はいちごに明確な敵意をぶつけて敵対しておきながら決定打を与えようとはしない。

いちご「やれる……」

 その中で一つだけ分かる事は彼女が憂の味方ではないという事だ。
憂の方は歩み寄ろうとしている節があるが空回りしている。
 つまり調和しない二人が触れ合っている今が好機。

いちご「指定座標に聳え立つ壁を。高さは一キロメートル!」

 二人を包むように筒型の壁が空へ伸びた。

いちご「指定空間の存在する物質の時間を逆行」

 服の襟に手を添え、小型のチップの様なものを取り外す。
この物体は先程彼女に電撃を浴びせられた際に破壊されていたのだが、その痕は無かった。
 チップの中央の小さな突起を押す。
それに遅れていちごの口角は醜く歪んだ。

いちご「滅龍槍『ブリューナク』」

 内側から聳え立つ壁を打つ音が鳴る。
どっちが鳴らしているのだろうかと考えたがいちごは直ぐにその思考を破棄した。
そんなものはほんの些事でしかない。
 勝利は確約された。
 人が造り出した神の裁きによって。

 壁が内側から発光する。
それから数秒のタイムラグがあっただろうか。
空を貫く塔が崩れ、宙を舞う瓦礫は地に着く前に雲散し、消え失せた。
 視界を遮る粉塵の奥には二つの影。
あれだけの衝撃を受けていながら立ち尽くしている。

いちご「無力の感想はどう? 何も持ってないのってどんな気持ち?」

 冷笑を浮かべるいちごの声色に先のような恐怖は無い。
畏怖の対象だった一対の龍は掌中の虫のような存在と化す。
 滅龍槍『ブリューナク』。
 舞い落ちたこの光の裁きこそが世界の終わりを終わらせる最終兵器なのだ。

唯「……そんな感覚、何千年と味わい尽くしたさ」

いちご「私が聞きたいのはそんな下らない精神論の話じゃないの」

 鼻で笑って彼女を一蹴するといちごは悠然と歩み寄ってゆく。

いちご「あなた達の存在そのものと言っても過言ではない龍の力。それを奪われた感覚はどう?」

唯「…………」

 彼女は胸の奥で暴れ狂いたい衝動に駆られた。
憂に気を取られている隙に閉じ込められ、状況を把握する間もなく謎の光を浴びせられた。
目立った外傷は無いものの、いちごの言う通り力が全く湧いてこない。
身体の中枢の蛇口を止められたような気分だった。

唯「……分かってねーな」

 彼女は修復途中だった腕を抑え、現在持ち得る最大の力を放出した。
しかし滅龍槍の効力は彼女の想像以上に及んでおり、僅かに発光する程度の紫電しか現れない。

憂「何? 何なの? 力が全く湧いてこないよ……。お姉ちゃん怖いよ……助けて……」

 彼女の後ろで憂が蹲った。
歯はがたがた震えており、大粒の涙が頬を濡らしている。

唯「てめーは引っ込んでろ。間違っても私の邪魔はするんじゃねーぞ」

憂「分かったよ。だから私の事嫌いにならないで……。お願いだから、お姉ちゃんがいないと私──」

 呆れたように溜め息を吐くと彼女はいちごと相対する。

唯「少しは考えたみたいだが、それでも私には及ばないな」

 不敵に口角を歪めると彼女は続けた。

唯「龍の力を抑制する光線、大体のところまで解析出来たのは褒めてやる。だけど私のは一筋縄ではいかねーんだよ」

 腕の痛みに耐え、全身の力を振り絞って紫電の勢いを高める。
それでも溢れた力はほんの少しだった。

唯「どうする? これ以上私を暴れさせるつもりかよ?」

 嘘八百、舌先三寸の猿芝居だった。
徐々に高めていった残り少ない力は果たしていちごの目にはどのように映ったのか。
彼女の心臓はそれを考えると激しく脈打った。

いちご「…………」

 いちごは唇に指を添え、考え込むように彼女を見据える。

いちご「知ってる? 状況の優劣によって人に見えてくるものは変わるの」

唯「…………」

 彼女の頬に一筋の汗が流れた。

いちご「早口、流暢な喋りは嘘を吐く人の典型的なミス。それに集中してるのかな? 気付いてないだろうけど瞳孔が若干開いてるよ」

 化物染みている。
 彼女は人がここまでの境地に達する事が出来るのかと驚いた。

いちご「……神懸かってると言って欲しいな。さっきから不自然な程手が動いてないのはそこに意識が働いているから。嘘を吐く時に声と表情の次に意識が向くのは手だからね」

 いちごは悪戯を隠す子供を見て呆れる母親のように、穏やかにほくそ笑んだ。

いちご「決定的なのは一言喋るのにあれだけ大仰な手振りをしてたあなたが今は直立不動な事」

唯「……マジかよ」

 穏やかな笑みは消え失せ、動揺する彼女を見据えるいちごの視線は矢のように鋭くなる。

いちご「小癪に人間の真似をしないで。虫酸が走るの」

 右手を真横に伸ばす。
するといちごの腕から視覚可能な力が溢れ出した。
霧のようなそれは徐々に連なり、重なってゆき、鱗に覆われた龍の腕となる。

いちご「あなたよりそっちの龍の方が扱いやすそうだし、心置きなく死んで良いよ」

唯「──っ!」

 彼女は薙ぎ払われた腕を真っ向から受け止めた。
力の残滓を振り絞ってその全てを防御に回すも、彼女の身は大きくのけ反る。

いちご「効力は一時的なものか……。まだまだ改良の余地がありそうだね。最期まで親切にありがとう」

 伸びた腕を鞭のようにしならせ、頭上から彼女を叩き潰そうとする。
振り下ろされた腕が彼女を蹂躙する直前、それは起こった。

いちご「──え?」

 痛覚を抹消しているので痛みは無い。だが違和感はあった。
 いちごの腕がフリスビーのように弧を描き、宙を舞っている。

「状況が理解出来ないんだけど……」

 か細く呟かれた声は冷たかった。
いちごは振り返った先に居る人物を見て思わず息を飲んだ。

いちご「…………」

 彼女の身に何があったのか。それはいちごにも解らない。
ただ彼女を決定的に壊す何かがあった事は確実だろう。
ボロ切れ同然となった制服。その隙間から見える血で滲んだ肌。
そして渇いた血がこびりついた唇と氷のような瞳。

澪「まぁ、どうでも良いや」

 澪は笑った。周囲に悪寒を伴う冷風を撒き散らしながら。
 絶対なる強者に唯一赦された感情、それは途方もなく狂気染みた狂気だった。


 人知を越えた力の闘いに介入した氷の女王。
かつての彼女の面影は一片も残っておらず、その身に宿しているのは理由無き力、暴力だけだった。

澪「次は左腕を貰う」

いちご「──っ!」

 向けられた殺気を感じ取り、即座に闘気の障壁を展開する。
だがあらゆる力を捩じ伏せる不可視の壁は一瞬で破られた。
宣言通りいちごの左腕は宙を舞う。

澪「……? 痛くないの?」

 両腕を切り落とされたにも関わらず平然としているいちごを見て澪は首を傾げた。
だがそこに恐怖は一片も無い。
 チャンネルを変えるとお気に入りの番組がある筈なのに特番が組まれていた時のような、気に留める必要も無いような疑問だった。

いちご「……退いて。あなた如きが介入していい場じゃないの」

 不機嫌そうに舌打ちをしつついちごは切られた両腕を再生させた。
コンマ一秒にも満たない僅かな瞬き、その間に澪の姿はいちごの視界から消える。

澪「なるほど、そういう身体か」

 耳元で囁く冷たい声、胸を貫く血塗られた刃。
いちごがそれらを認識するよりも速く、体内から皮膚を食い破り、氷の華が咲く。
白い華に赤き蜜を。纏わりついた肉塊の上に羽化した蝶のように無傷のいちごが降り立つ。

いちご「対象の全感覚神経を破か──」

 偉大なる名前は紡がれず、床を突き破って襲いかかる氷柱に首から上を貫かれる。

澪「脆いな」

 刀を真一文字に薙ぐ。
無数の斬撃、全次元を断つ光の刃が飛び交った。

いちご「……っ!」

 いちごは半分だけ残った頭を修復し、両手を交差して斬撃に備える。

澪「悪手だ。そうじゃないだろ」

 澪がかつん、と軽く床を蹴ると斬撃によって生まれた空間の亀裂が更に拡がった。
いちごの周囲に展開される無数の穴、そこから黒い霧のような腕が伸びる。
それはいちごの四肢を掴み、腕をもぎ取り、足を引き千切り、虚構に引き摺り込んだ。

いちご「…………」

 喉が焼けるように熱い。
吐き気、目眩が脳を揺さぶる。
空間が割れてからのほんの数瞬でいちごは観測し得ないイレギュラーを再認識した。

いちご「なに……これ……」

 解らないものなど一つも無かった。
だが今はその逆、自分は何一つ知らない矮小な『人間』だという事を痛感する。
瞬く間にもぎ取られた両手、右脚、それらを再生するといちごは崩れるようにしゃがみ込んだ。

唯「おお……」

 彼女は目の前で猛威を振るう化物染みた人間に戦慄し、期待した。

唯「……すげーぞ澪ちゃん。熾天使格、或いはそれ以上か……?」

 失われた力は徐々に回復の兆しを見せていた。
首筋を伝うか細い紫電ははっきり視覚出来るようになっており、死人のように青褪めていた表情には生気が宿ってる。

唯「頑張れ澪ちゃんっ!」

 今は無力である彼女は一縷の希望を託して澪に声援を贈った。
それは人外たる彼女にはあまりにも不釣り合いな、人情に溢れる言葉だった。

澪「頑張れ、か。随分簡単に言ってくれるよね」

 澪は刀を肩にかけて颯爽と歩く。
表情は氷のように無表情から動じておらず、一寸の同情もそこには存在しない。
どうやっていちごを倒すか、澪の思考はそれに尽きる。

いちご「……秋山さん」

 顔を上げたいちごの眼には涙が溜まっていた。
それはやがて表面張力の限界を越えて零れ落ちる。

澪「なに?」

 いちごの胸に刃を突き立て、ぐりぐりと内臓と肉を抉りつつ澪は答えた。
痛みは無い。だが全身を刺す恐怖にいちごは嗚咽を漏らす。

いちご「おねがい……もう止めて。これ以上やったら死んじゃうよ。私まだ死にたくないよ……」

 大粒の涙がいちごの頬を濡らす。
涙が一粒床に落ちると同時に澪の手が止まった。

澪「……殺したりなんかしないよ。私は別に殺人鬼になりたいわけじゃないし」

 再び刀の柄を絞り、手持ち無沙汰にいちごの身体をなぞる。
薄皮を裂き、生々しい切り傷が出来ては癒えていった。

澪「でもさ、そうやって生きたいと思った人が何人居たのかな? こんなろくでもない研究のせいで死んだ人達の中に」

 滑らかにいちごの首を跳ね、宙に浮いた生首が床に着く前に三等分に裂く。
互いが無傷であるにも関わらず、辺りに散らばった赤黒い肉片は血腥い香りを漂わせていた。

いちご「もう悪い事はしないから……。もう止めて、あの怖いのは出さないで……!」


澪「はあ……」

 困ったように頭を掻き、澪は名前の無い彼女を見た。
彼女も事があまりにも拍子抜け過ぎて、少しばつが悪そうに頬を掻く。

澪「……じゃあこうしよう。これからどんな苦痛が伴っても、挫けずに罪を償うって誓える? それが出来るなら生かしてあげる」

 澪が下した条件にいちごは何度も首を縦に振った。
澪の足に縋りつき、生まれたての小鹿のように震えるいちごに最早一片の悪意など残っていなかった。

澪「よし、じゃあ刑の執行だ」

 いちごが纏わりついた足を振るい、蹴り上げる。
そして宙に浮いたいちごの真下を真一文字に薙払った。

いちご「え──?」

 空間が割れ、いちごの手足を連れ去った黒い腕が現れる。
今度はいちごの全身を搦めとり、次元の裂け目に飲み込もうとした。

いちご「やだよおぉぉおおおっ──!!」

 一瞬だけ安堵から緩んでいた表情は崩壊する。
泣き叫ぶいちごを見て澪は満足げに微笑んだ。

いちご「もう止めて! もうやめてよぉっ! もう怖いの見せないで!!」

 絡み付く腕を振り払うも身体は徐々に裂け目に飲まれてゆく。

澪「そんな身体なら死にはしないよ。約束しただろ? 殺しはしないって」

 澪は無数の腕の中心、いちごの元へ歩み寄ってゆく。
腕は術者である澪すら取り込もうとするが、澪の身体に触れる直前で飛散し、消え失せた。

澪「その代わり未来永劫消滅と再生を繰り返す事になるけどね。そこに一寸の猶予も無い、ただそこに居るだけ」

いちご「あっ……。やだっ助けてっ、助けて!!」

 取り乱し、狼狽し、狂乱するいちごに抱く感情など今の澪には無い。

澪「良かったじゃないか。次元の狭間に居る限りたとえこの星が滅んでも生き残れるよ。まぁ羨ましくはないけどさ」

 頬を伝ういちごの涙を拭い、耳元で囁く。
 冗談じゃない。永遠の苦しみなんか望んでない。
心の中でそう毒づき、いちごは澪の腕を掴んで必死に堪える。

いちご「嘘吐き! こんなの酷いよ! はやくたすけてよぉっ!」

澪「非道いのはどっちだよ外道」

 いちごの下唇を指先でなぞり、澪は諭すような口調でいちごに語りかける。

澪「特別な自分は裁きを受けなくて良いと思った? 大義名文があれば罪は赦されるとでも思った?」

 抜き身の刀をそっと振るい、自分の腕を掴むいちごの手を切断した。
いちごは黒い腕の力に抗えずにみるみるうちに引き摺られてゆく。

澪「甘いよ」

 生きながらにして地獄に落とされる。
その感覚を澪は考えすらしなかった。
弱者は苦しみ、自分は苦しまない。それが世界の真理であるから。
 褪せた葉が冬の風に流されるように、燻る火がやがて消えゆくように、ただ当たり前のものとして弱者の苦しみを観測する。

いちご「──っ! ──」

 黒い腕は言葉を紡ごうとするいちごの口内にも潜り込み、一切の猶予すら与えない。

 黒の中から伸びた白い手、今にも霞んで消えてしまいそうなそれに何かが飛び付いた。

澪「唯──っ!?」

 救うべき者が自分が生み出した闇に躊躇なく飛び込んでいった。
澪は焦躁と共に激しい憤りに駆られる。

澪「その手を離せ! 何でお前が飛び込むんだよ!?」

 自然と口調は荒くなる。怒号と共に澪は引き摺られる唯の肩を掴んだ。

唯「こんなの駄目だよ! いちごちゃんも澪ちゃんも、皆笑えてないと駄目なんだよ……!」

 眼は真っ赤に充血しており、顔面は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
それでもなりふり構わない。
『唯』は『唯』らしく、ただ自分が望むままに動いた。

 纏わりつく黒が守りたかったものすら飲み込んでゆくのを見て、澪は一瞬息を飲んだ。

澪「唯っ!!」

 咄嗟に我に返り、引き千切らんばかりの勢いで唯の肩を引く。
肉の繊維がぶちぶちと裂ける嫌な音が鳴り響き、二人分の影が宙を舞った。
 自らの下半身に別れを告げ、臓物と血肉を撒き散らすいちご、そして見ただけで嗚咽を漏らしてしまいそうなそんな彼女を強く抱き締める唯。二人を逃すまいと黒い腕が鞭のようにしなり、伸びてゆく。

澪「この……っ! 閉じろ!!」

 澪は腕の束の中に刀を突っ込んで次元の割れ目に青の闘気を注ぎ込んだ。

 やがて黒い腕は絶命寸前の芋虫のようにのたうち回り、氷の華となって飛散する。
それを待っていたのか、次元の裂け目は眠気に委ねた瞼のように閉じていった。

澪「なんでだよ唯……」

 崩れるように床に激突し悶える二人。
澪は彼女等に背を向けたまま呟いた。

澪「……そいつが唯に何したか全く知らないわけじゃないだろ。なのになんでそんな事が出来るの?」

唯「…………」

 いちごの下半身が再生してゆく。
だが彼女の瞳は澱んでおり、闘うどころか生きる意志すら感じられない。
人形のようになってしまったいちごの頬を撫で、唯は無言で肩を抱いた。

澪「そんなんじゃ私達何の為にここまでやってきたのか分からないよ……。なぁ唯」

 くるりと踵を返して唯と向き合う。
眼を合わせた唯は怯えたような、しかしそれでいてどこか恨めしそうな表情を浮かべていた。

澪「……何でそんな悲しい顔してるんだよ!」

 澪の怒号が鳴り響き、吹き抜けの天井から空へと流れて消えた。

唯「澪ちゃんじゃない……」

 悲しそうに目を伏せ、澪を視界の中から外す。
伸びっ放しでなんの留め具もしていない唯の髪は表情を覆い隠した。

唯「澪ちゃんじゃないよ……。私が知ってる澪ちゃんはこんな酷い事しない、こんな怖い顔しない」

澪「…………」

唯「真面目でしっかりしてて、でも実は怖いものが苦手で……」

 澪もつらつらと語る唯から目を逸らした。
蓋をしていた臭いものに顔を突っ込まれたような感覚に陥る。

唯「たまに厳しかったりもするけど実は皆と離れるのが怖い甘えんぼさんで……」

澪「──っ! 止めろ!」

 澪はまるで親の敵でも見るような眼で唯を睨み付け、髪の毛を掻き毟る。

澪「いつまでもそうやって甘えられるわけないだろ! 現実が非情なんだから……。異常になるしかないんだ!」

 刀を床に当てて打ち鳴らす。
直後、幾重にも重なって氷柱が床を食い破って突き出してきた。

唯「そんなのやだよ──」

 大きく首を振って反論しようとした唯の真横を何か熱いものが通り抜けた。
咄嗟に振り返ると頑強な壁に精密にくり抜いたような穴が空いている。

澪「え──?」

 澪が振り返った先で憂が黒い靄を纏い、もがき苦しんでいた。

憂「お姉──ちゃん──っ!」

 しゃがみ込んで頭を抱えており、その表情を鑑みる事は出来ない。
声色から滲み出ているのがつい先程まで放っていた威圧ではなく、純粋な恐怖だった。

憂「熱い……っ! 熱いよ……!」

 何かにのし掛かられているようなぎこちない四つん這いの体勢になり、憂は姉の元へと手を伸ばす。

 唯はいちごを床に寝かせ、一目散に憂の元へと駆け出した。だが……。

唯「つっ……!?」

 後ほんの数歩で憂に届くような距離、そこで唯の手は不可視の壁に遮られた。
手が触れた空間には水のような波紋が浮かんでおり、黒い稲妻が走っている。

唯「あつっ……!」

 憂の身体から発せられる鬼火のような光が唯の肩を掠めていった。

澪「離れて!」

 行き交う鬼火を掻い潜りつつ、澪は不可視の壁に向けて刀を薙ぐ。
力と力が責めぎ合い、光が集っていった。

澪「────っ!」

 破れないものなど無い、斬れぬものなどない。
そう自負していた彼女の心が初めて揺らいだ。

 何故斬れないのか、それが単純に自分の力量不足である事を瞬時に悟る。
目にも止まらぬ速度で飛び交う鬼火が澪にはやけに遅く見えた。
一際大きな光が憂の身体から放出され、それは最悪の軌道を描きながら肥大してゆく。

澪「──唯!」

 唯はそれに全く反応出来ていない。
光が自分に向かっている事も分からずに呆然と立ち尽くしている。
 たとえ全闘気を防御に回したところで致命傷は免れないだろう。
澪の目に映る唯は何の色も纏っていない状態だ。
言うなれば猟奇的な通り魔の前に放置された裸の赤児のようなもの。

澪「────っ!」

 咄嗟に澪の身体が動く。
極限状態で彼女が見た世界は静止しており、ただ光だけが無情に迫ってきていた。


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最終更新:2013年03月04日 20:22