律「と、私は思うんだよ」
純「はぁ、そうですか……」
人外の闘いの場から散開した律達は各々が唯のメンターを探し求めて施設内を闊歩していた。
その中で律と純は行動を共にしており、純は気絶した梓を背負っている。
律「それでさ……」
散開してから律はずっとこの調子だった。
明らかに場にそぐわない取るに足らないような話をしきりに続けたがる。
純はそれが不愉快だとは思わないものの、キャビアと称したランプフィッシュの卵を食べさせられたような不信感を覚えた。
純「……珍しくよく喋りますね」
純は足を止めて静かに呟いた。
律「え?」
純「私の事嫌いだと思ってたんですけどね。そうじゃないなら良かったんですけど、違いますよね?」
少しだけ哀しげな表情を一瞬だけ浮かべて純はいつもの気が抜けたような表情に戻った。
律も足を止め、眉を顰める。
律「……別に嫌いってわけじゃないよ。そりゃたまに空気読めよって思う事はあるけど」
純「ホントにそうですか?」
純は覗き込むような上目遣いで律を見つめた。
心の中を見透かされているような悪寒に律は思わず身を退く。
律「…………」
たとえこの心の中の蟠りを説明したところで何かが変わるわけでもない。むしろ虚しくなるだけだ。
そう思った律は閉口した。
純「私が軽音部の外から見てた律先輩はそんなに大人しい人じゃなかったですけどね」
律「……どういう事?」
肩からずれ下がってきた梓をもう一度背負い直し、純は呆れたような溜め息を吐いた。
純「惚けないでください。心配なんでしょ? 澪先輩の事が」
律の自分の心臓の上の方が締め付けられるのを感じた。
自然と震える指先を拳を握って誤魔化すが、瞳に擦り込まれた悲哀は隠せない。
律「……言っても仕方ないよ。もう最近のあいつは私じゃさっぱり分かんねーし」
純「私は大丈夫と思いますけど。まぁ心配したところで今のあの人は私達がどうこう出来る次元じゃないですし」
純の発言は一瞬だけ律の琴線に触れたようで、彼女は僅かに眉を顰めた。
律「だからだよ。もしあの場に澪が来たら、あの化け物にも勝っちまいそうな気がするんだ」
純「? なら良いじゃないですか。私は元からそのつもりでしたけど……」
律の意図が分からずに純は難しい表情を浮かべた。
対する律の表情は見るに堪えない。
普段の彼女なら何があっても見せない辛さを全面に押し出したような歪な表情。
純は思わず気圧され、生唾を飲んだ。
律「……あれに勝っちまったらもう澪はお終いだ。あいつは多分人を傷付ける事を何とも思わない人間になっちまう」
澪が絶対の彼方を越えてから律は密かに独り悩んでいたのだ。
今まで変わらずに側にいてくれた人が終わってしまう。
闇に墜ちてゆく自覚も無いまま、何処で間違ったのかも分からぬまま。
それを見ている事しか出来ない自分が恨めしく、妬ましい。
律「かと言って負ける事も出来ないよ。仮に生きてたとしても駄目だ、あいつは壊れる。そんでただ強くなる事しか考えなくなるんだ」
終わるか壊れるか。
その苦渋の選択は当事者ではなく周りを苦しめる。
たとえどちらを選んだとしても。
純「必ずしもそうなるとは……」
律「なる」
律は即答した。
律「なんでかな。分からないけど解っちまうんだ」
解らなけりゃ良かったのにな、そう呟いて律は痛々しく微笑んだ。
純「…………」
足手まといだと思った事が無かったと言えば嘘になる。
何故この人はこんなに弱いのだろうか。
生まれ持ったセンスのみで強くなった純には凡人の葛藤など理解出来なかったのだ。
だが自己の慢心にも似たその感情はこの瞬間崩れ去った。
田井中 律は強い。
軽音部の、桜高の他の誰よりも。
純「……私いろいろ勘違いしてたみたいですね」
律「へ?」
純は額を掌で押さえつつ、照れたようにはにかんだ。
純「大丈夫です。私馬鹿だから上手には言えませんけど……。律先輩が居れば何とかなりますよ」
きっとこの先何が起きてもぶれる事は無いのだろう。
恐らくこの先律が手にする真直ぐな力に敬意を払い、純は力強く頷いて駆け出した。
律「はあ? ちょい待てよ、何の根拠があって言ってんだよ!」
純「あははっ、分からないけどなんとなく解るんですよ!」
後を追うように律も駆け出した。
ほんの少しだけ分かり合えたような気がして、彼女は胸の奥がほぐれてゆくのを感じる。
律「……ありがとな」
律の呟きは誰に届くでもなく、宙を舞って消えた。
鉄壁。完全生命体。氷の女王。活人鬼。絶対無敵。天下無双。
彼女の強さ、恐ろしさを表す単語を挙げるとするならば枚挙に暇が無い。
だがそれらの言葉の大半が強さの最上級を表す事から、彼女の強さが途方もない領域に達しているのは分かるだろう。いや、強さという凡人の物差しで彼女を測ろうとする事自体おこがましいのかもしれない。
澪「あ……ぁ……」
その彼女、秋山 澪は今この瞬間、生まれてこの方一度も味わったことのない絶大な恐怖に怯えていた。
彼女の左腕は唯を庇うように真横に伸びている。
その手に握っているのは多くの血を啜り続けた愛刀、だったもの。
刀身の半ばから真っ二つに折れているそれは既に輝きを失い、ただの鉄屑と化していた。
剣士の誇りを折られた澪を奮い立たせるものなど何も無い。
憂「折れちゃいましたね、刀」
四つん這いの姿勢のまま呟き、憂は後ろで結わえた髪を解いた。
唯「うい……?」
左手は胸に、右手は口元に添えて唯は憂を見据えた。
その動作から不安が滲み出ているのはその道に聡くない者でも一目で分かるだろう。
憂「怖がらなくても良いですよ。今は殺しません、貴女達が何もしないならね」
操り人形のような歪な動作で立ち上がり、憂は二人を見据えた。
憂「初めまして、秋山 澪さん。平沢 唯さん」
唯と瓜二つの容姿でも憂から放たれる禍々しいものはあまりにも唯とかけ離れていた。
だがそれが唯の中に居る彼女のものと似ているわけではない。
禍々しいという点のみで共通し、それ以外はむしろ真裏、対極に位置すると言っても良いだろう。
澪「来るな……!」
一歩踏み出そうとした憂を制し、澪は折れた刀を出鱈目に振り回した。
その光景が滑稽に映ったのか、憂は唇に指を添えて控え目に微笑む。
憂「貴女には何もしません。だから私を恐れないで下さい、邪魔をしないで下さい」
澪はすっとのし掛かっていた重圧が取れたのを感じた。
その一瞬の気の緩みの間に、憂は澪の真横に立っていた。
憂「どれだけ強いフリをしようが貴女は世界から見ればどうでもいい人間なんですから」
嘲るように鼻で笑い、憂は唯の頬に手を伸ばす。
憂の視線が自分から唯に移ってゆく光景が澪にはやけにスローに見えた。
強さ、冷たさこそが今の自分のアイデンティティー。
それを否定されるという事はそれ即ち、存在を否定されるという事だ。
澪「ふっ──」
自己の否定。存在の揺らぎ、心の崩壊。
澪を支えていた芯は脆く崩れ去った。
澪「ふざけるなあああああああっ!!」
憂の足元が煌めき、巨大な氷柱が空を衝くように伸びる。
巻き込まれた憂はそのまま成す術なく空に投げ出された。
澪「私がどうでも良いだと? 私が強いフリをしてるだと?」
ぎりぎりと歯を食いしばり、鬼のような形相で憂を見据える。
澪は不思議と堪忍袋の緒が切れかかっているのが分かった。
澪「……もう一度言ってみろ! 言ってみろ!! 言ってみろ!! その薄汚い口を引き裂いて次元の狭間の藻屑にしてやる!!」
かつての澪の面影も無ければ先までの洗練された強さも無い。
ただ赤児が我を通す為に駄々をこねるように、目に付く全ての空間を破壊せんと澪は折れた刃を振るった。
空間が裂け、斬撃が飛び交い、氷柱が飛散する。
だが怒りのままに振るった刃が憂に到達する筈もなく、逆に澪の視界を濁らせるだけだった。
憂「何度でも言いましょう」
澪「っ!?」
自分の背後で響いた声に咄嗟に反応し、澪は振り向かずに刀を後ろに突き立てた。
無論手応えなどある筈もなく、折れた鉄屑は宙を刺す。
憂「どうでも良いんですよ貴女なんて。何でそうまでして苦しい道を選んで強くなろうとするんですか?」
瞬きの間に憂は澪の眼前に移動していた。
そして澪の顎を掴んで耳を自分の口元に引き寄せて言った。
憂「死んじゃえば?」
空いた手で澪の胸を円を描く様になぞった。
澪「んぐっ──!?」
澪は身体が一瞬で熱くなるのを感じた。
見るとなぞられた胸の辺りが歪に膨れ上がっている。
人体がゴム風船のように膨れ上がる光景、ましてやそれが自分の身体なのだ。
怒りに満ちていた澪の顔が一瞬で青褪める。
澪「ひっ──!?」
終わる。
そう感じたと同時に温かい感触が澪の背を押した。
そして前のめりになる澪を唯が横切る。
唯「ぎりっ……ぎり、セェーフ……!」
唯、いや彼女は息を荒らげながらがっしりと憂の手首を掴んだ。
憂「お姉ちゃん……?」
漆黒の瞳で彼女を見つめ、驚きの表情を浮かべる憂。
唯「……おうよ、原初を駆ける黒龍。その姉は世界中の何処探したって私しかいねーだろうが……よっ!」
振りかぶった拳を中心に幾何学模様の陣が発生する。
彼女は紫電を纏ったその拳を憂の頬に捩じ込んだ。
憂「つっ……!」
憂は何とか踏み止どまろうとするも衝撃が強過ぎて大きく後退してしまう。
それと同時に彼女は振り抜いた拳をしまわずにそのまま地に膝をついた。
唯「やっべ……。MPゼロだ。HPも三ミクロンぐらいしか残ってねぇ……」
肩で息をする彼女は傍から見ていても辛いものがあった。
澪「唯……?」
胸の歪な膨みが消えたのを確認すると澪は彼女の肩に手をかける。
憂「お姉ちゃん……? 本当にお姉ちゃんなんですか!?」
殴られた頬を撫でながら憂は叫んだ。
唯「……あんまぁい声で叫びやがって。頭に響くんだよコンチクショウが……」
四つん這いの体勢で悪態を吐き、彼女は粘っこい唾を吐き出した。
十七歳の少女には似合わないその動作を見て憂は眼を輝かせる。
憂「……お姉ちゃん? お姉ちゃん! お姉ちゃんだ!! 良かった……。ずっと会いたかったんだよ?」
俯いた状態で彼女は大きく舌打ちをした。
唯「私は会いたくなかったよ……」
憂「お姉ちゃん! 私とっても良い事思い付いたの! きっとお姉ちゃんも喜んでくれるよ!」
唯「聞いてねーし……」
話が噛み合わない事に彼女は更に苛立ちを覚えた。
本来ならば憂の顔面に一発捩じ込むところなのだろうが、彼女を襲う悪寒と倦怠感がそれを邪魔する。
澪「なにこれ……。どうなってるの?」
一瞬で当事者から傍観者に成り果てた澪。いや、最初から相手になどされていなかったのだろう。
信じていた力を否定された澪はその象徴である折れた刀を遂に手放す。
拠り所を求める矮小の現れなのか、澪は彼女の肩を更に強く掴む。
澪「唯? お前は唯じゃないのか!?」
滑稽な事は重々理解していた。
だが澪は知りたかった。触れたかった。守られたかった。
その感情の根源、それは澪が久しく感じていなかった恐怖という感情だった。
澪「いやこの際誰でも良い! 教えてよっ、何でこんな──」
唯「やかましい! 耳元でキーキー喚くな!!」
彼女は澪を一蹴し、手を払い除けた。
澪の瞳に絶望の色が滲み出す。
憂「あははっ、人間風情がお姉ちゃんとまともに会話する事自体おこがましいんですよ!」
両手を広げ、憂はつかつかと歩み寄ってゆく。
青褪めた顔を上げると彼女は憂をきつく睨み付けた。
唯「……テメーが出張る理由は何だ」
重々しい彼女の呟きに憂は首を傾げた。
憂「決まってるよ。お姉ちゃんから全てを奪ったこの世界を壊すんだ」
声に抑揚は無く、事務的に喋っているようにも聞こえる。
だが澪と彼女にはひしひしと伝わっていた。
憂、否、憂の中に眠っていた原初を駆ける黒龍が抱く世界に対する強い恨みが。
憂「やっとだよ、永かった。もう永遠にこの時はこないと思ってた。辛かった。苦しかった。妬ましかった。悲しかった……」
人形のような歪で色が無い表情が悲哀の色に変わる。
憂「でももうそれもお終い。この器には私の力を受け入れるだけの容量があるからね」
黒い稲妻が瞬く。
その光が止むと憂の背後に見るも悍ましい黒塗りの門が現れた。
一対の龍が輪になる様を象った蝶番がしゃらんと鳴る。
唯「まだ復讐だのなんだの言ってんのかよ……。私がこうなったのは私が望んだからだ、誰のせいでもないよ」
彼女は震える膝を抑えながら立ち上がった。
唯「私達が育てた人間が今こうして生きてる、それだけで充分だろ? 中には真直ぐ生きてくれてる奴もいる、万々歳じゃねーか」
力を使い果たした彼女には虚勢を張る余裕も無い。
穏やかに聞こえる口調の中には弱々しさが入り交じっていた。
唯「そんな感情に縛られるのはもう止めてくれよ……。お姉ちゃんは復讐なんて望んでないからさ」
憂「…………」
吹けば消し飛んでしまいそうな脆弱な意志の炎を、憂は無言で見つめていた。
火の光の方へ進むか、光に背を向けて別の道を行くか。
世界を巻き込むその選択肢で憂は……。
憂「やだ」
闇を選び取った。
彼女は拳を強く握り締め、肩を震わせながら顔を伏せる。
唯「…………」
憂「お姉ちゃんは優し過ぎるからそんな事言えるんだよ。そうやって自分を押し殺して、お姉ちゃんだけが傷付く世界がどれだけ続いたの?」
再び蝶番が鳴り、重々しい門が勢い良く開いた。
扉の奥に拡がっているのは黒い稲妻が満ちた色の無い空間だった。
憂「今直ぐ滅ぼしたりはしないよ。お姉ちゃんが味わった苦痛を世界にも教えてあげて、じっくりじっくり壊すんだ」
色の無い空間から黒い腕が伸びる。
憂はそれに身を委ね、虚無の中に片足を入れた。
憂「終わってみればきっと解るよ。お姉ちゃんは少し『つかれてた』だけで、幸せなのは滅んだ世界なんだって」
虚無の中に消えゆく憂を彼女は引き止めなかった。
嫌な汗で濡れた前髪のせいでその表情を鑑みる事は出来ない。
憂「大好きだよ、お姉ちゃん」
黒塗りの門は姿を消した。
残ったのは憂が最期に放ったその言葉の残響だけだった。
唯「…………」
彼女は両手で自身の双肩を抱き、何かに怯えるように屈み込む。
唯「澪ちゃん……」
しばしの沈黙の後に彼女は口を開いた。
まさか自分の名が呼ばれるとは思っておらず、澪は一瞬肩を跳ねさせた。
澪「……なに?」
恐る恐る彼女の顔を覗き込んで、澪は更に驚いた。
唯「私じゃ駄目みたいだ。あいつの事は何でも知ってるつもりだったのに……。あいつは私の事は何でも知ってるつもりだったのに……」
彼女は泣いていた。
大粒の涙を零して、可愛らしい顔をくしゃくしゃにして。
澪には彼女の震える肩を抱く事しか出来なかった。
唯「お願いします……。私達を……助けて下さい……っ!」
全てを駆逐する力を持ちながらにして。
全てを抹消する力を持ちながらにして。
全てを蹂躙する力を持ちながらにして。
彼女は何も持たない赤児が欲しがるように、希望だけを求めた。
唯「この世界まで無くなっちまったら、私は──」
何か言いかけて彼女は糸が切れた操り人形のように澪の胸に倒れ込んだ。
澪「…………」
彼女は一瞬だけ眉を顰めると安らかな寝息を立て始める。
澪「分かんないよ……」
いっそ全て投げ出してしまえば楽になれるのだろうか。
そんな考えが澪の脳裏を過ぎった。
本能が奮い立たせる彼女を救おうとする心と、理性が囁く自棄の心に苛まれ、澪は強く彼女の肩を握る。
これで全て元鞘に収まると思っていた。
だが現実は何も終わっていない、始まってすらいなかったのだ。
最終更新:2013年03月04日 20:23