闘いの爪痕は大きい。
それぞれの想い、覚悟はいとも容易く崩れ去った。
彼女らが唯を取り返した代償として胸に刻まれたのは、自分の無力、矮小さだったのだ。

梓「私はそれでも良いと思ってるんです」

 消毒液の匂いがつんと香る病室。
梓は果物ナイフを器用に操り、林檎の皮を剥きながらそう呟いた。

梓「どうぞ」

唯「ありがと、あずにゃん」

 綺麗に八等分された林檎の一つを頬張り、唯は顔を綻ばせる。
その無垢な笑顔を見る度に梓は少し自分の心が救われたような気がした。

梓「ホント、脳天気ですよね。ちゃんとギターの練習もして下さいよ?」

唯「あはは……。私達全然軽音やってないもんね」

唯「で、何の話してたんだっけ?」

梓「もう! しっかり聞いて下さいよ。南極から帰ってきてからの一週間の近況報告です!」

 目を三角にして怒る梓の剣幕に唯は思わずたじろいだ。
喉に詰まった林檎を汲んであった麦茶で流し込むと彼女はほっと一息吐く。

唯「そんなに怒らないでよぉ。あずにゃん分補給するのだってずっと我慢してるんだから」

梓「当たり前です、此所は病院なんですから!」

唯「でもここ個室だし。誰も見てないし良いでしょ? お願いだよ」

 上目遣いで見つめてくる唯に一瞬だけどぎまぎした梓だが、そこは流石手慣れているというべきか、腰を上げようとする唯をそっと制した。

唯「ちぇー、あずにゃんのいけず」

 口を尖らせて横になる唯を見て梓は悟られぬように微笑んだ。
 日常の何気ない会話でころころ変化する唯の表情は梓の心の拠り所となっていたのだ。
 時に悲しむ表情ですら愛しい。
唯が唯のまま自分の元に戻ってきてくれた。
それだけで中野 梓はどんな苦難な試練にぶつかっても頑張る事が出来る。
それは梓だけではない。
少なくとも軽音部の他の部員もその気持ちは同じだ。

唯「あ、そうそう。ところで何話してたんだっけ?」

梓「もう知りません!」

 前言撤回。梓は踵を返してそそくさと部屋から出ていった。
ドアが強くしまる耳障りな音だけが病室に残る。

唯「…………」

 唯はドアからスタンドに立て掛けられたチェリーサンバーストのギターに視線を移した。
ここ最近ろくなメンテナンスも出来ていないせいか、ネックの傷は目立っており、ピックアップ部分の隙間には埃が溜まっている。
 ごめんねギー太、唯はそう呟いて深く溜め息を吐いた。

唯「あずにゃんも、ホントにごめん。我儘だとは思うけど……」

 自分が惚けたふりをして現実から目を逸らす事が彼女の望むだったのだろうか。
無論そんな事は考える事すら馬鹿らしい、火を見るよりも明らかだ。
それでも唯は自責の念を駆り立て、自分を苛める事しか出来ない。

唯「私……何も考えたくないよ……」

 逃げたかった。目を逸らしたかった。破棄したかった。忘れたかった。
 ──壊れてしまいたかった。

唯「ごめんね……。私、全部覚えてるんだ……っ」

 名前の無い彼女が唯の身体を依り代として降臨した際、唯の人格は覚醒したままだったのだ。
だのに身体は自分の言う事を聞かない、人知を越えた力を行使して猛威を振るう。
そうして自分が人の身から離れてゆくのを唯は指を咥えて見ている事しか出来なかった。

唯「誰か助けてよ……っ!」

 彼女が澪にそう嘆願したように、唯は独りの部屋で声を振り絞った。
応える者は居ない。
自分の胸の中で皮肉な笑みを浮かべて佇んでいる彼女も、この時は痛いほどに静かだった。

梓「──っ」

 病院から外に出た梓は瞳を刺す夕日の輝きに目を伏せた。
本来ならば院内の独特な香りから解放されてほっと一息吐くところだがそうはいかない。
梓、そして桜高のトップランカー達はある問題に苛まれているのだ。

梓「下剋上、か……」

 梓は赤々と輝く夕日をどこか恨めしそうに見つめた。
 人類が生まれる前から絶えず同じ動きを繰り返してきたあの太陽のように、ありがたみすら感じなくなるような平凡で平坦な日々を送る事が出来ればどれ程楽だろうか。
 考えても詮無き事だと知りつつも梓は悩む。
そして南極から帰ってきて今に至るまでの出来事に思いを馳せた。

エリ「ごめんね、私達が不甲斐無いせいで……」

和「いや、気にしなくて良いわ。私の判断ミスよ」

 生徒会室では重苦しい空気が漂っていた。
会長席に腰掛ける和と長机を挟んで立ち尽くすエリとアカネ。
その光景は上司から叱責を受ける部下のようだった。

梓「…………」

 申し訳なさそうに顔を伏せるアカネとエリを見て梓はいたたまれない気持ちになった。
純に誘われたので何となく、物見遊山程度の気持ちで生徒会室を覗いてみたのだがそれは失敗だったのだろう。
梓を誘った当の純は机に突っ伏して寝息を立てている。

和「一筋縄ではいかない人ばかりだもの。やっぱり統率力を持つ人間を一人残しておくべきだったわ」

 黄ばんだパソコンのディスプレイと睨み合いをしつつ、和は自身の短髪をがしがしと掻いた。

アカネ「これからどうしよう……。多分また此所が無法地帯になるのかも」

和「法なんて有って無いようなものだったけどね」

 和は二、三度マウスをクリックしてディスプレイから目を切った。
 状況が理解出来ていない梓は自分が蚊帳の外に居るような気がして、何か発言しようと口をもごもごさせている。

梓「あの……。何か問題でもあるんですか?」

 室内の空気が水を打ったように変わった。
エリ、アカネ、和の三人が一斉に梓の方を見たので梓はたちまち萎縮してしまう。

梓「あ……ご、ごめんなさい」

和「…………」

 和の視線が槍となって梓に突き刺さる。
何かタブーにでも触れたのだろうか。
動転してしまった思考回路で何が悪かったのかを考えるが思考の糸は縺れてゆくだけだ。

和「あらごめんね。別に怒ってるわけじゃないから。そうね……」

 細い指を口元に添え、和は何か考え込むように目を細めた。

和「まぁ良いわ。取り敢えず状況を説明するわ」

 椅子に座り直し、空いていた席に座るよう梓に呼び掛ける。

和「単刀直入に言うと今この学校は荒れてるの。個人の力じゃ収拾がつかないほどにね」

 荒れているのはいつもの事だろう。
梓は内心そう思ったが口には出さなかった。

和「生徒全体の出席率は半分を切ってるし生徒間の諍いがかなり増えたわ。そして極めつけなのが上位ランカーの行動の活性化ね」

梓「活性化……?」

 鸚鵡返しのように返した言葉の語尾は上がり調子だった。

和「ええ、一年と少しこの学校で過ごしたのなら薄々気付いてはいるだろうけど」

 和は頬杖をついてマウスを弄り、ディスプレイに図表を映し出した。

和「群雄割拠のこの学校で起こる争いは統計的に予測する事が出来るの。群雄割拠なのによ? 面白いと思わない?」

 梓に視線をディスプレイに送るよう促し、図表を拡大する。
そこには何本かの横線と無数の黒い点が映っていた。

梓「分布図……ですか?」

和「まぁ簡単に言えばそうね。戦闘を引き起こした生徒が特定出来次第逐一記録してるの。上から下に行くにつれて序列が下がるわ」

 一定間隔で区切られた横線は序列五十位ずつを隔てていた。
戦闘を引き起こした生徒を表す黒い点は下にゆくにつれて増えており、最下層は黒じゃないところの方が少ない。

梓「トップランカー辺りは大人しいんですね。気付きませんでした」

和「大人しい、というには少し語弊があるわね。これを見て」

 キーボードを叩き、別の図を開いた。
そのグラフは先程のグラフとは対照的に上位の方が黒い点に覆われている。

梓「これは?」

和「さっきと逆で戦闘による被害を被った人よ。端的に言えば喧嘩を売られた側、この中には返り討ちにした分も含まれるわ」

 梓は頭の中で二つの図から導き出されるこの学校の状況を整理した。
序列の低い者が高い序列の者に闘いを挑み、のし上がってゆく風潮は……。

梓「まるで下剋上ですね」

和「まさにその通りよ」

 和は湯飲みに注がれた渋い茶を飲み干し、深く溜め息を吐いた。

和「そういう風に出来てるのよ。誰に教えられるでもなくこの学校はそうやって回ってきたの」

 傍から見れば気を休める暇も無いような下剋上の風潮。
それは桜高の歴史に歪な平穏をもたらしてきたのだ。
その最たる理由とは……。

和「まぁ当然よね。格下がトップランカーに挑んだところで勝ちの目は薄いもの。それに気付けずに擦り込まれたように上を目指す人間が絶えない。それが今までの安定の理由よ」

 確かにそうやって格下が挑み続けて薄い勝ちの目を掴んだとしてもそのランクの変動などほんの些事でしかない。

梓「何だか、質の悪い詐欺に引っ掛かってた気分です……」

和「そこの二人も同じ事言ってたわね。分かってる側からしたら滑稽だったけど」

 種明かしをする奇術師のような大仰な動作で掌を振り、ほくそ笑んだ。
梓がジト目で見つめるとエリとアカネは二人揃って苦笑いを浮かべた。

梓「これまでの状況は分かりました。じゃあ今はどういう風に荒れてるんですか?」

和「はい」

 和は待っていたと言わんばかりに強くキーボードを叩いた。
続けて映し出された図には黒い点が不規則に、そして先程見た図とは比べ物にならないくらい点在している。

梓「……群雄割拠、なんてレベルじゃないですね」

和「無法地帯ね。上位ランカーが下位の生徒を無差別に襲ってるのが目立つわ。元々トップランカーだった二人が絶対の彼方を越えたのが原因よ」

 和はパソコンのディスプレイに向き直り、両手でタイピングした。
ディスプレイを中心で二分割するように二人の生徒の顔写真が映し出される。
その瞬間後ろで立っていたエリとアカネの肩が跳ねた。

梓「この人達って……」

和「ええ、二人ともトップランカーに名を連ねる生徒よ。辻斬りと死神、確かにこの二人が絶対の彼方を越えたとあっては貴女達じゃあ役不足かもね」

 桜高生徒序列八位。『辻斬り』木村 文恵。
 二つ結びにしてある赤茶けたセミロングの髪と花飾り、そして見る者を朗らかな気持ちにさせる温厚な微笑みがトレードマークの生徒だ。
 澪が絶対の彼方を越えるまでは実質桜高の剣術使いのナンバーツーだった。

梓「噂だけは聞いてました。理由無く人を刺し、躊躇無く人を斬り……」

和「容赦無く人を殺める。この子が辻斬りと呼ばれる所以ね。可愛い顔してるけどやってる事はある意味沼よりもエグいわよ」

 貴女の心臓が見たいから斬らせてね。
そんな事を言いながら文恵が自分に切りかかってきた事を思い出して和は眉を顰めた。


和「こっちも聞き覚えがあるんじゃない? 死神、高橋 風子よ」

梓「ええ、デスサイズ使いなんてこの学校にこの人しか居ないでしょうし……。でも確か生徒会とも繋がってませんでした?」

 風子は和と行動を共にする事がちらほらあった。
人の上にルールを置くその根っからの役員気質から生徒会の仕事の手伝いを引き受けていたのだ。

和「そうね……。悪い子じゃないんだけど少し頭が硬くてね、大方前の抗争の時みたいに唆されたんでしょ」

 高橋 風子があの抗争に参加していた事は直接彼女を屠った純と一部の人間しか知らない。
無論梓がそれを知る筈も無く、要領を得ずに首を傾げるだけだった。

和「さてと、説明はこれぐらいにして折り入って頼みがあるのよね」

 眼鏡の縁を軽く指で持ち上げ、和は蛇のようなまなざしを梓に送った。
文字通り蛇に睨まれた蛙のように梓は畏縮する。

梓「……なんですか?」

 嫌な予感しかしなかった。
しかしここまで踏み入って聞いてしまった以上、頼みを簡単に足蹴にする事など出来ない。

和「貴女の手でこの二人を倒して欲しいのよね。なんならそこで寝てるモップも使って良いし」

 和は何食わぬ顔でお茶が注がれていた湯飲みを手に取り、机に突っ伏した純の頭目掛けて投げた。

純「ぎにゃ──っ!?」

 尻尾を踏まれた猫のような悲鳴が上がる。
時折梓は思う。この人は前世で純に親でも殺されたのだろうかと。
 こんなやり取りもコミカルに見える事もあれば可哀相に思える事もある。
しかし梓がそれを考えたところで詮無き事なのだが……。

梓「でもそれって私じゃなくても他のトップランカーの先輩方の方が適任なんじゃないですか?」

和「在るべき姿を思い出させる。そういう意味も兼ねているのよ。貴女の下剋上で再生の先陣を切る、これ以上の適任は居ないでしょう?」

 梓が断るとは塵ほども思っていないのだろう。
和は不敵に微笑んでみせた。

 はあそうですか、と二つ返事をした後に梓は何の手柄も残せないまま今に至る。

梓「澪先輩はふらふら出回ってるし律先輩は学校に来ないし……」

 なるべく普段通りに、何かが歪んでしまう前のまま振る舞っては見るものの何かが違う。
 居なくなった人間、消えてしまった感情を埋めるものが何なのかは梓には分からない。

梓「人が一生懸命やってるってのにわけ分かんない仕事押し付けるし……っ!」

 胸を痛めて悲しみに耽りたいわけではない。
誰かに頭を撫でて欲しいわけではない。
だが彼女はこの単純な苛立ちを吐き出さずにはいられなかった。

梓「こんなんじゃ駄目ですーっ!!」

 金切声が黄昏の景色に溶けていった。


律「ゆいー、入るぞー?」

 夕日が差し込む病室に活発な声が響いた。
部屋の主は入ってきた律を見ると目を点にして肩を震わせる。

律「なんだぁ? くしゃみでもしたそうな顔して──」

唯「りっちゃあああんっ!」

 唯は大仰な動作でベッドから身を乗り出し、両手で宙を掻いた。

律「はいはい、おっこちるぞ」

唯「あう……」

 律が嘆息し、唯の鼻を軽く小突くと唯は照れたようにはにかみながら身を引いた。
目が合って二人は含み笑いを浮かべ、やがてそれは軽快な笑い声に変わる。

律「ゆいー、入るぞー?」

 夕日が差し込む病室に活発な声が響いた。
部屋の主は入ってきた律を見ると目を点にして肩を震わせる。

律「なんだぁ? くしゃみでもしたそうな顔して──」

唯「りっちゃあああんっ!」

 唯は大仰な動作でベッドから身を乗り出し、両手で宙を掻いた。

律「はいはい、おっこちるぞ」

唯「あう……」

 律が嘆息し、唯の鼻を軽く小突くと唯は照れたようにはにかみながら身を引いた。
目が合って二人は含み笑いを浮かべ、やがてそれは軽快な笑い声に変わる。

律「ちゃんと戻ってきてくれたんだな……。やっと実感が湧いてきたよ」

唯「えへへ……。お騒がせしました」

 律がベッドの横に置かれた椅子に腰掛け、唯の栗色の髪を撫でると彼女は子犬のように目を細めた。

律「お見舞い行けなくてごめんな。その代わり今日は良いもの持ってきてやったぞー」

唯「ははーっ! 光栄であります、りっちゃん隊員」

律はしたり顔で持参した手提げ袋を漁りつつ、面を上げい、などと茶化した。

唯「あ」

 袋の中から姿を表した赤い球体を見て唯は思わず声を漏らす。
律の好意を無駄にするまいと咄嗟に口を塞いだ唯だが、律はあざとくそれを見抜いた。

律「ん、もしかして林檎嫌いだったか? でも前にムギが持ってきたアップルパイ食べてたよな?」

唯「嫌いじゃない、嫌いじゃないよ! 食べたら歯茎から血が出たりなんかしないよ!」

 慌ててフォローするも言っている事はちぐはぐだ。
無論律が唯に対して歯周病の有無を聞いているわけではない。

律「はいはい、大方こんなとこだろうよ」

 律が約一メートル四方の戸棚を開くと、そこには可愛らしいデザインのバスケットがあった。
中に盛られているのは綺麗な赤色を放つ林檎。先日梓が持ってきたものだ。

律「怪我人が余計な気ぃ遣うなって。他に何か食べたいものないの? まだ時間もあるし買ってくるよ」

唯「良いよ! 私林檎好きだからこれぐらい食べられるよ」

律「だから気ぃ遣わなくて良いって。ちょっくら行ってくるよ」

 律は呆れたような笑みを浮かべて立ち上がろうとした。
しかし唯が彼女の袖を掴んでそれを遮る。

律「ん?」

 訝しげに唯を見ると何やら頬を赤らめている事に気付いた。

唯「何も買わなくて良いからさ……。うさぎさんの形に切って欲しいな。あずにゃんには馬鹿にされちゃったし」

律「…………」

 律は馬鹿にしようなどとは微塵も思わなかった。
だが少し、ほんの少しだけ引いた。

唯「あ、あれ……?」

 一瞬にして静まり返った空気が自分の発言が生み出したものとは気付けない。
唯は不安そうに首を傾げるだけだった。

律「あのー……。つかぬ事をお聞きしますが平沢さんは現在お幾つでしたっけ?」

唯「華の十七歳でっす!」

 ふんすと擬音が聞こえてきそうなほどに何故か誇らしげに胸を張る唯。
律の心中から『慮る』という単語が消し飛んだ。

律「くっ……くく……」

唯「……?」

 唯が顔を伏せる律を訝しげに覗き込んだと同時に何かが切れた。

律「あっははははっ!! うさぎさんって! 高校三年生にもなってうさぎさん……っ。はははははっ!」

 唯の表情がみるみるうちに陰っていった。

律「いきなり飛び掛かってくるこたねぇじゃん……」

唯「……りっちゃんの馬鹿」

 数分の一悶着の後、律は嘆息しつつ林檎を剥いていた。
器用な手捌きから赤い兎が量産されてゆく。
唯は唇を尖らせて目を線にしている。

律「まぁそれだけ元気なら身体の方は大丈夫そうだな」

 律は苦笑いを浮かべて微かに痛む後頭部を掻いた。
まさか唯にひっぱたかれる日が来るとは夢にも思わなかったのだろう。
驚きの中に新鮮さから来る奇妙な喜びが入り交じっていた。

律「ほい、出来上がり」

 紙皿の上に兎が円を描くように並べられた。
今の今まで不機嫌そうな顔をしていた唯がぱぁっと目を見開いた。

唯「ん~、おいひ~」

 噛んだ瞬間に口内を満たす蜜の香りに唯は再び目を細める。
鼻孔を突き抜ける爽やかな風味からそこらのスーパーに陳列されているような安物では無い事は唯にも分かった。

律「…………」

 律は扱い易いやつだな、と心中で呟いた。
無論言葉には出さない。

律「んで、退院はいつになんの?」

唯「一週間後だよ! 明日からは外出許可も出るんだ」

 そう言う唯の表情はどこか晴れやかだった。
南極に拉致されて以来自由に行動する事など皆無に等しかった。
行きたい場所ややりたい事も山のようにあるのだろう。

律「そっか。退院しても身体には気をつけろよ?」

唯「そんなお別れの前みたいな事言わないでよ。学校も一週間後からはちゃんと行くし」

 林檎を囓りながら悠長に笑う唯を、律はどことなくばつが悪そうに見ていた。

律「いや、その事なんだけどさ……」

唯「ほぇ?」

 意を決して律は切り出した。
今日此所に来た本当の理由を伝える為に。

律「私明日からちょいと北海道に行かなきゃいけないんだ。ほら、親の都合とかでさ」

 囓りかけの林檎が唯の手から落ちた。

唯「……え?」

 唯の表情がみるみるうちに強張ってゆく。

律「あっ、別に転校するとかじゃないんだ。目処は立ってないけどそんなに長くは居ないからさ」

唯「……なーんだ。びっくりさせないでよ」

 一瞬だけ過ぎった別れのヴィジョンは否定され、唯はそっと胸を撫で下ろす。

律「はは、悪いな。そういうわけだから唯が退院した後まで長引くかもしれないんだ。私の留守を任せたぞ唯隊員!」

唯「分かりましたりっちゃん隊員!」

 気取った動作で互いに敬礼し、顔を合わせると二人は笑った。

律「うっし! 伝える事も伝えたし、そろそろ帰るとしますか」

 唯の言葉、動作を待たずに律は逃げるように去って行った。

律「取り敢えず誤魔化せたかな……」

 逃げ出すように後にした部屋を背に、律はそっと胸を撫で下ろした。
 要らぬ心配はかけたくない。
そんな思いやりから生み出されたのは優しい嘘だった。
律には唯に隠している事が二つあった。

律「……筋違いなのは分かってるけどさ。尻拭いくらいはしてもらうよ」

 そう呟いて律の脳裏に過ぎったのは親友が変わり果ててしまう引き金を引いた張本人。
 親の都合などでは無い。
自分の意志で、自分の足で律はもう一つの戦場に赴くのだ。
そして二つ目の秘密は……。

律「必ず……。必ずそこから出してやるからな」

 誰かが力だけを矜持としたように、自分に言い聞かせるよう律は呟いた。

 木下 しずかは青白く輝く月を仰ぎ、憂いを含んだ溜め息を吐いた。
時計の三本の針が丁度真上で重なりあった頃、彼女は何故か桜高校舎の屋上に居る。

しずか「…………」

 呼吸を抑え、眼前で佇む少女をきつく睨むと手に持っていたナイフを逆手に構え、振りかぶった。
 しずかの眼前に居る少女はそれに気付いていない、いや気付けないのだろうか。
鼻歌混じりに月を見上げて二つ結びの赤茶けた髪を撫でるだけだ。

しずか「──っ」

 最期まで呼吸を乱さず、しずかは振り上げた刃を少女の背中に向けて振り下ろした。

しずか「えっ!?」

 直後、驚きのあまり声を漏らす。
瞬きすらしていなかった今の一瞬で、しずかが標的としていた少女が目の前から消えていたのだ。

「このままやれると思った? こっちは笑い堪えるのに必死だったんだから。あなたがここに来た時から気付いてたよ」

 宙を切ったナイフをしまい損ね、バランスを崩したしずかの首に冷たいものが突き付けられた。

「ジャスト一分、良いユメは見れた?」

 しずかは僅かに首をずらし、月明りに照らされた少女を見た。
煤けたような赤い髪が青白い月光と対比を生み出している。

 首筋に添えられた刃はただそこにあるだけでしずかの動きを制限する。
一発必中の辻斬りの刃。
彼女、木村 文恵の刃が生き血を啜るのは一度きりだ。

文恵「一度はあなたに負けた私だけど今回は私の勝ちね。そして次は無いよ、何故なら……」

しずか「…………」

 文恵の勝ち誇ったような笑みが露になる。
妖しげな光を放つ刀の柄を絞り、彼女は一息溜めて喜々とした声を上げた。

文恵「今日で五体満足な日々とはお別れだからよ!」

 刹那、目が痛くなるような血の色の闘気が文恵の身体から流れ出る。
属性は爆炎、全てを飲み込む破砕の力だ。

 辺り一帯を細い筋のような炎が舐めた。
熱が空間を焼くその光景がしずかにはやけにスローで、滑稽に見えた。

しずか「……おちおち夢なんか見てたら詐欺師は名乗れないよ。悪夢『ユメ』を与える人間はどこまでも現実主義じゃないといけないんだから」

 小さな体躯、中学生にも見える童顔とは不釣り合いな気取った台詞を吐く。

文恵「あら、とてもじゃないけど現実と向き合ってる人間の言葉とは思えないね。これから自分がどうなるか分かってるの?」

しずか「分かってる、解ってるよ。だけどその未来が私にとって不都合なものとは思えないんだ」

文恵「…………っ!」

 文恵は醜く歯ぎしりをした。
誰がどう見てもこの状況はチェックメイト。
どちらが勝つか賭けたとしても百人中百人が文恵が勝つ方に賭けるだろう。
それなのにしずかは不敵に微笑む。まるで今までのやり取りが茶番であったとでも言いたげに。

しずか「……そろそろだね」

文恵「っ! 次喋ったら真っ二つにするわ!」

 言いつつ文恵はしずかから目を逸らさないよう意識を集中させた。
間違いない、この女はこの状況をひっくり返す何かを持っている。
 文恵はそう感じてしまったが故に首を跳ねる一瞬の動作すらためらってしまった。

しずか「ジャスト一分、悪夢『ユメ』は見れたかな?」

文恵「……っ!」

 文恵を引き止めていた何かが消え失せた。
彼女は全神経をしずかの首に突き付けた刀の切っ先に集中させる。
だが肉と密着した刃が始動するまでのほんの一瞬、彼女に約束された勝利という幻想は打ち砕かれる。

キミ子「見てるこっちが……」

よしみ「……ヒヤヒヤする」

 炎が照らしていた闇の更に奥。
塗り潰された闇の向こうから二人が躍り出た。
 二人は丁度文恵を挟むように位置を取り、互いの手を結ぶ屈強な鎖で文恵の刀を縛り付けていた。

文恵「……っ! 嵌めたわね!!」

 詐欺師に向かって嵌めたわね、とは酷く滑稽な捨て台詞だ。
しずかは内心ほくそ笑みつつ、この場に来たるべき切り札を迎えようと立ち上がった。

しずか「今のところ計画通り。やっぱり成るように成るもんだね」

 文恵の方へと向き直り、勝ち誇った顔で呟く。
それが自分に向けられた言葉だと思った文恵は反射的に食ってかかろうとしたが……。

文恵「んぐ……っ!?」

 背後、いや頭上から降り注いだ途方もない衝撃に文恵は成す術なく倒れ伏す。

姫子「ども、私達『星の観測者』でっす」

 柄にもなく羽目を外しつつ、姫子が文恵の背中を踏み下した。


30
最終更新:2013年03月04日 20:24