辺りを照らす帯のような炎は一陣の強い風に流されて消えた。
青白い月の光が闇に差し込む中、彼女の長い髪は艶めいて栄える。

姫子「話は色々聞いてるよ。私達が居ない間に随分好き勝手やってくれたみたいだね」

 文恵の首を掴み、そのまま海老反りになるように引き上げる。
背骨に掛かる負荷に文恵は顔を歪めた。

文恵「……っ。私はこの学校の在り方に従ったまでだけど? それとも……あなたは今まで一人も傷つけずに今の序列に立てたの?」

姫子「…………」

 姫子は対した反応も示さずに、ただ文恵を掴む手に力を込めた。

姫子「序列一桁のトップランカーが下位の生徒に手を下すのが此所のやり方なのかな? 弱い者いじめにしてはやり過ぎだよ」

 骨が軋む音が強くなる。
あとほんの少し力を加えれば文恵の背骨は真っ二つになるだろう。

文恵「力を衒うのはスマートじゃないとでも? 誇る為の力、使う為の力じゃない。あなたもこっち側の人間なら分かるでしょ?」

 超えようと考える事すら馬鹿らしく思える力の壁。
その先に見出だされるものは必ずしも正しい道ではない。
格下のしずかに敗れた後に掴んだその力はこれから頭角を現すであろう才気の芽を摘む為に使われていたのだ。

文恵「それよりもそれだけの力を持ちながら何故あなたが三位という序列に甘んじてるのか、その方が理解に苦しむよ。この力さえあれば後はやり方次第でこの学校の頂点にだって立てるのに……」

姫子「悪いけど興味ないよ。私如きに止められてる人間がどうやって頂点に立つのかは少し気になるけどね」

 姫子は皮肉混じりにほくそ笑んでみせた。
文恵に頂点に立つ器量は無い。
それどころか自分すら打ち破れない事を確信しているから故の笑みだった。

文恵「やり方次第、だよね」

 文恵は姫子に背を向けた体勢のまま、彼女と同じようにほくそ笑んだ。

しずか「っ! 姫子後ろ!!」

姫子「っ!?」

 塗り潰された闇からその刃は忍び寄っていた。
黒に溶け込む黒いそれはまさに死神の鎌。気付いた時には既に遅い。
姫子の肩口から背中にかけて死神の裁きが駆け抜ける。

風子「流石……速いね」

 一瞬の瞬きの間に姫子は屋上の隅の手摺に寄り掛かっていた。
姫子が居た場所には夥しい量の血痕が残っている。

姫子「やるねぇ……」

 斬られた背中をなぞると痛みとは別の感覚が走る。
姫子は関節の節々がやけに重たくなってゆくのを感じた。

風子「強がって笑ってられるのも後せいぜい四、五分よ」

 鎌の先から滴る血を甘美の表情で見つめながら、風子はずれかけた眼鏡の縁を持ち上げた。

風子「こちら側の人間でも毒には抗えない事は解ってるわ。何だかんだ言っても人間だもんね」

しずか「毒……?」

 しずかは恐る恐る文恵達から姫子の方へと視線を移し、風子の言葉の意味を悟った。
ほんの数十秒前まで普通だった姫子の顔色が今こうしている間にもみるみるうちに青褪めていっているではないか。

文恵「ダーメダメでしょ? 倒れてない敵から目を逸らすなんて」

しずか「──っ!」

 声がした方へと向き直るが遅かった。
文恵の袈裟斬りがしずかの目の前まで迫っている。

文恵「……またまた面倒な事して」

 文恵の刀に絡み付いた鎖はちょっとやそっとでは断ち切れない。
捕縛という一点に置いて二人の力は澪さえも上回る。

キミ子「……私達じゃあどう足掻いても勝てないけど、こうやって時間稼ぎするくらいは出来るからね」

よしみ「…………」

 キミ子が目配せするとよしみは無言で、だが力強く頷いた。
 袈裟斬りの目標地点に居たしずかの姿は跡形も無く消えている。視覚、聴覚による察知は適わない。

風子「探れる?」

文恵「集中して一分てとこかな……。こっちは任せるよ」

 文恵が鎖に絡めとられた刀を手放すと間を入れずに風子が二人の間合いに割って入る。

しずか「…………」

 しずかは息を顰め、奥歯を噛み締めた。
自分達の考えがどれ程浅はかだったか、それを考えると彼女は途方もない悔しさに苛まれた。
 ここ最近目に余る暴走を続ける二人の生徒。それがかつて拳を交えた事があった生徒だとしても、安易に首を突っ込むには早計過ぎたのだ。
 行動を起こすにはそれに相応しい理由、動機が必要だ。
この二人にとってのそれが闘気の発現だったと、何故想定出来なかったのか。

キミ子「危ない!」

 キミ子が鎖を乱暴に手繰り寄せるとよしみの身体が宙を舞う。
それに遅れてよしみが居た地点に風子の大鎌が突き刺さった。

しずか(どうする……?)

 ステルス能力を用いて貯水タンクの上に身を顰め、しずかは自分が成し得る策を探す。
だが思考のピースは噛み合うどころか疑念の糸に絡み取られてゆく。

文恵「完全な迷彩能力なんて無いのよ。生きてる限りは何らかの形跡を残すものなんだから」

 文恵は丁度しずかに背を向ける形でそう呟いた。
確かにしずかは自身の能力に文恵の言葉を否定出来るだけの自信は持っていない。
ステルス能力の基因がどういうものなのかはしずか自身にも解らない。
だがこれだけは解っていた。
全ての生物に宿るエネルギー、即ち闘気だけは消す事が出来ないのだ。

しずか(このままじゃやられる……)

 今はできる限り気を鎮めて闘気を抑えているもののそれが零になるわけではない。
文恵がその微量の闘気を気取った瞬間、事はお終いだ。
 ならばどうする?
 自分に問い掛けたところで返って来る答えは否定、或いは不鮮明。
唯一めぼしいやり方であろう手はまだ感付かれていない今の内に文恵にとどめを刺す事ぐらいなのだが。

しずか「…………」

 果たしてそんな安直な考えをあちらが見越していないだろうか。
それを考えるとしずかは足を動かす事が出来なかった。

 絶対安心だと解ってはいても脈打つ心臓の鼓動を気取られそうで不安に駆られる。
そしてその不安は更に鼓動のテンポを早める。最悪の循環だ。

しずか「──っ!」

 乱れた呼吸のせいで喉が震え、顎から一粒の汗が流れた。

文恵「みーつけた」

 文恵が言い終える前に本能でステルスは無駄だと悟ったしずかは即座に緑の闘気を纏い、応戦体勢を取る。
 闘気の相性は最悪。だが同じこちら側の人間ならば差し違える事くらいは可能だろう。
しずかがそう考えた矢先に、彼女は現れた。

「こんな時間に何してるの?」

 凜と鳴る鈴の音のような声の後に冷たい風が吹き抜けた。
その場に居た全員が声の主の正体を察知する前に無数の氷柱が降り注ぐ。

文恵「……真打ち登場ってわけね。そうまでして私達を潰したいのかな?」

 苦笑いを浮かべつつも文恵は右手から豪火を発し、降り注ぐ氷柱を全て溶かしていた。
そして直ぐに仄かにかかった白い靄の向こうの人物を睨み付ける。

澪「知らないよ。たまたま通り掛かっただけだし……」

 澪は困ったように目を伏せ、トップ付近で一つ結びにした髪を撫でた。

澪「んー……」

 まじまじと辺りの光景を眺め、澪は状況を整理する。
 鎖を伸ばして風子と対峙しているキミ子とよしみ。
手摺にもたれて苦しそうに俯く姫子。
そして血気盛んに噛み付いてくる文恵と意気消沈したしずか。
 澪はそれらから自分がすべき行動を悟る。

澪「手、貸そうか?」

しずか「お願い!」

 しずかは間を置かずに腹の底から叫んだ。
此所に澪が来たのは偶然なのだろうが利用しない手は無い。
 しずかの頬が次第に緩んでゆく。
何処を探しても澪ほど仲間に回って手放しに安心出来る者は居ないだろう。

澪「じゃあ立花さんをお願い。そうだな……終わるまでグラウンドで待ってて」

 しずかは力強く頷き、貯水タンクから飛び降りた。

澪「あ、ちょっと待って。ついでにこれも……」

 澪は控え目に持っていたレジ袋をしずかに投げ渡そうとしたが、その手を直前で引き止めた。

しずか「……? どうしたの?」

澪「いや、何でもない。行っていいよ」

 しずかは訝しげに首を傾げると変なの、と呟いて姫子の元へと駆け寄って行った。
彼女の足取りは軽い。放っておけば鼻歌混じりにスキップでも踏むだろう。
意気消沈していた彼女がここまで安心しきっているのも、偏に澪の強さのお陰だと言える。

文恵「逃がすと思う?」

澪「逃げてもいいよ。個人的な恨みがあるわけでもないし、むしろそっちの方が助かるな」

 安い挑発に文恵が澪をきつく睨むと、死神の鎌が這い寄った。
背後から迫る黒鎌と前方から迫る豪火に澪は全神経を集中させる。

澪「避けるのは無理か……」

 右手でレジ袋を強く握り締め、左手の指を鳴らす。
刹那、コンクリートの足場が煌めき、それを食い破って幾つか巨大な氷柱が伸びた。
澪を周囲を取り囲み、守るように現れたそれは背後から迫る黒鎌を防ぎ、燃え盛る豪火を遮る盾となる。

 氷が急速に溶けてゆき、文恵の視界を埋め尽くさんばかりに白い靄が広がる。
自分の掌すら視覚出来ないほどに靄が広がるまでにそれほど時間は掛からなかった。

文恵「…………」

 文恵は冷静に最善を選択しようと考える。
 迂闊にこの場を離れようものならば直ぐに存在を気取られるだろう。
視界不安定のこの状況では二対一という数の利は機動力という一点で逆転される。

文恵「……やる事は一つ、だよね」

 文恵は声に出したかも怪しいほど小さな声で呟いた。
 目が利かないという点ではあくまで公平。
ならばこの靄がかかる前に澪が居たポイントから今のポイントを推測し……。

文恵「進む!」

 退くのではなく進む。
たとえ攻撃が当たらずともそれは敵の動きを抑制する枷となる。
だがそれはあくまで視界不安定という条件が平等ならばの話だった。
 文恵が思考を始めて結論を弾き出すまでに要した時間は三秒足らず。
行動にはそれからほぼノータイムで移した。
だがそれよりも速く、澪の掌底が文恵の腹を捉える。

文恵「あ?」

 そう声を出した頃には文恵の身体は宙を舞い、靄を抜けた先の貯水タンクに叩き付けられていた。
それに続けて煌めく硝子片のようなものが文恵の制服の袖やスカートに穿たれる。

文恵「氷……?」

 鏡のように煌めく鋭利なそれは触れずとも分かるほど冷気を放っていた。
氷ならば溶かせる、そう思って炎で溶かそうとしたその時、耳障りな音が靄の奥から響いた。
 肉を殴打する音が断続的に鳴り、それと付属で風子の短い悲鳴が聞こえる。

文恵「ちょっと……。風子?」

 自然と顔が強張る。
一際大きな音が鳴った後、靄の奥から風子の身体が投げ出された。

文恵「──っ!?」

 文恵は言葉を出せなかった。
成す術なく床と激突した風子の身体はこの短い時間の間にぼろぼろになっており、微かに痙攣している。

 血が溜まっていたのだろうか、風子は大きく咳き込むと吐血した。
四つん這いの体勢になり、呼吸を整えている彼女の真横に靄の中から飛んできた鎌が突き刺さる。

澪「大人しく逃げてれば追いかけもしないのにさ」

 靄の中から澪の声が聞こえた直後、見えざる手に振り払われたかのように靄が消える。 再び文恵の前に現れた澪は呆れたように溜め息を吐いた。
普段着のショートパンツとシャツ、その上に羽織った薄手のカーディガンには乱れた形跡すら無い。

文恵「何で……」

 越えられない筈の壁を越えた自分が二人がかりでも尚圧倒されている。
その事実は驚愕から憤りを生む。

文恵「何で倒れてないの!? トップランカーにも立てない格下なんかに……私達が負ける筈無いじゃない!」

澪「…………」

 澪は再び困ったような顔をして頬を掻く。
既に澪の意識は文恵達よりもこの間一度も手放さなかったレジ袋の中身にあり、しずか達を助けようとする気持ちよりも早く終わらせて家に帰りたいという気持ちが先行していた。

澪「……越える前の私でも流石にこの状況なら良い勝負出来るよ。一番得意なシチュエーションだしな」

 そう言って目の下を指で抑え、邪気を含んだ笑みを浮かべる。
文恵はそれを見てようやく、澪が入学当初から持っていた眼力を思い出した。

文恵「……覚えてて。今は退くけど必ず、必ずその首取ってやるから」

澪「そんなに値打ちのある首でもないけどなぁ。建前上序列も二桁だし……」

 どうでも良さそうに欠伸をする澪に更なる憤りを覚えたが、文恵は辛酸を嘗める想いでその怒りを噛み殺した。
 文恵が赤の闘気を放つ前に氷は澪の意志に呼応したかのように溶けてゆく。

文恵「風子、立てる?」

風子「う……うぅ……」

 呼び掛けられて立とうと踏ん張るが身体がついて来ない。
みかねた文恵は少し乱暴に風子を背負い、既に背を向けて月を仰いでいる澪を睨み付けた。

澪「忘れ物しないようにね。じゃあまた明日、学校で」

 文恵を見ないまま落ちていた刀を拾い上げ、そのまま放り投げる。
素直に受け取ってしまえば自分がどこまでも惨めに思えてきそうで、文恵はそれを受け取るのをためらった。

文恵「うるさい!」

 捨て台詞を吐いて引きかけた手を伸ばし、宙を舞う刀を掴む。
それとほぼ同時に二人の姿は消えた。

澪「……ふぅ」

 大きく溜め息を吐くと澪はレジ袋の中身を確認し、少しだけ顔を綻ばせた。
中に入っていたのはカフェオレとプリン。
澪が終始これを手放さずに持っていたのは何かの拍子でプリンが型崩れするのが嫌だったからだ。

 しずかに渡すよりも端に置いておくよりも、二人を相手にする自分が持っていた方が良いという判断は文恵が知れば直ぐに引き返して怒り狂うようなものだろう。
 だがそれを実現する力が澪にはある。
絶対の彼方を越えた武人を二人相手にする事など、今の澪にとっては昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わりは無いのだ。

澪「アフターケアまでしたくないんだけどな……」

 のっぺりとした動作で手摺から身を乗り出し、グラウンドの中央で姫子を抱き抱えるしずかを見る。
 首突っ込んだのは私だしな、澪はそう呟いて屋上から飛び降りる。
 彼女の姿は闇に溶けてゆき、その軌跡に冷たい光の粒が舞った。


 夜の病室に月の光が差し込む。
部屋の主は窓から望む月に何を思うのか、憂いを含んだ笑みを浮かべていた。
 ここに運ばれてきた時には煤けていた長い黒髪も今では艶を取り戻しており、傷だらけの身体も回復の兆しを見せている。

「こんな時間にお見舞いなんてちょっと非常識じゃない?」

 彼女は扉に目を映し、皮肉混じりに溜め息を吐いた。
それと同時に扉が勢い良く開く。

「それとも親しき仲にも礼儀ありって習わなかったのかな?」

澪「親しい? 流石の私でも寒気がするよ」

 露骨に機嫌が悪そうな顔をした澪がそのまま中に入って来た。
その後を追うように姫子を抱えたしずかが入って来た。

しずか「っ!?」

 しずかはベッドの上に佇む者を見て思わず抱えていた姫子を落としかけた。
 毒に犯された姫子の身体を癒せる人が居る。
そう聞いて澪に着いて行った先に居たのは……。

江藤「あら狐ちゃんまで居るじゃない。嬉しいわ、ずっと一人で退屈だったの」

 従者衆が一人、江藤。
彼女は獲物を物色する蛇のような目でしずかを見た。

しずか「……知り合い、だったの?」

 しずかは助けを求めるような視線を澪に送った。
不機嫌な表情を貼り付けたままの澪が何か言おうとしたのを江藤が遮る。

江藤「知り合いどころか吹雪の中で身体を重ね合った仲よ。ねぇ澪ちゃん?」

 それを聞いて澪は更に眉間に皺を寄せた。

澪「法にお前を縛る力があるなら直ぐにでも訴えるよ。それともまさかあれが互いの同意の上の行為だったとでも言うのか?」

江藤「あら、私の全身に濃ゆ~いキスマークつけたのは誰だったかしら?」

 江藤は胸元をはだけさせ、包帯の端から見え隠れする生々しい傷を見せつけた。

澪「……あれが良かったんならまたしてあげようか?」

江藤「……遠慮しとくわ。これでもまだ夢に出てくるんだから」

 江藤は両手で肩を抱き、大きく身震いした。
澪はまだ不機嫌な顔をしたまま、カフェオレを取り出す。

江藤「と、そんな事よりも……」

 江藤は咳払いをしてしずかを、正確にはしずかが抱えている姫子を見た。

江藤「用があってここに来たんでしょ? 大方そこで寝てる子絡みかしら?」

澪「話が早くて助かるよ。どうも毒にやられたみたいでさ、何とか治療出来ないかな?」

 ようやく澪の仏頂面が変化を見せた。
だが間に挟まれたしずかは気が気ではない。
親友の身体をかつての敵に委ねる決断など、ほんの数分で下せる筈もないのだ。

しずか「私……普通のお医者さん探すよ。その人だけは信用したくない」

澪「…………」

 澪の表情が一瞬だけ曇った。

江藤「賢明な判断ね」

 艶めいた黒髪を弄りながら江藤は言った。
半分は澪に対する呆れ、半分はしずかに対する感心を込めて溜め息を吐く。

江藤「昨日の敵は今日の友、なんて言うけれどそんなのよっぽど稀有な例よ。手放しに私を信用するなんて正気の沙汰じゃないわ」

 江藤は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、澪の頬に手を伸ばす。

澪「……また私とやり合うつもりか?」

江藤「まさか。どうせ勝敗が決まったところで殺してくれないんでしょ? あんな苦痛はもうまっぴら御免だわ」

 官能的な動きで細い指を這わせ、澪の下唇をなぞる。
二、三秒それが続いたところで澪は江藤の手を払った。

澪「結局お前はどうしたいんだ? この子を助けてくれるのかくれないのか、どっちなんだ」

江藤「あら、助けないとは一言も言ってないわよ? 狐ちゃんが認めるなら直ぐにその子を治してあげる。ただこれだけは頭に入れておいて」

 少し間を置いて江藤は舌を出した。
南極で澪に噛み千切られかけた舌は若干歪な形になっている。

江藤「私は世界で誰よりも、貴女の事を憎んでるわ。出来ることならその両目を抉り取って臓物を引き摺り出したい。それくらいにね」

 口角は上がって微笑んでいるようにも見えるが眼は笑っていない。
彼女の澱んだ瞳に映る澪は殺意と憎悪の対象でしかなかった。

江藤「ケダモノみたいな闘気に充てられて全身に穴を開けられて……。生きたまま血を啜られる感覚、あの時の痛みは足の先までも思い出せるわ」

しずか「…………」

 しずかの胃の中を冷たいものが通り抜けた。
僅かに震えて怯える江藤も、得体の知れない何かを孕む澪も、今の彼女には直視出来なかった。

澪「……自分だけが被害者みたいに言うなよ。あの時は私だって──」

江藤「いいえ。私は被害者で貴女は加害者、他の誰が何と言っても変わらないわ」

 先程までの誘うような目付きとは一変し、彼女の眼光が鋭くなった。

澪「……痛いのも苦しいのも、全部引っ括めて闘うって事じゃないのかな。私は……」

 予測していなかった江藤の反応に澪は口ごもった。
その様子は、彼女が江藤に対して萎縮しているようにも見える。

江藤「人間みたいな態度取らないで。分かってるわ、貴女何も感じてないんでしょう?」

 更に追い討ちをかけるように糾弾する。澪は……。

澪「…………」

 何も答えなかった。
無言でカフェオレにストローを刺し、啜りながら席を離れる。
この場所には何の興味も無いとでも言いたげに、澪は部屋を後にしようとする。

澪「表で待ってるから」

 勝手に話をつけてくれという事なのだろう。
澪はしずかとすれ違いざまに、冷たく呟いて部屋を後にした。
叩き付けるように閉めた扉の音だけが残った。

しずか「…………」

江藤「…………」

 重々しい空気が流れる。
江藤にはこの空気を打破する事が出来ないのか、或いはするつもりがないのか。
外方を向くように外を眺めている。

しずか「…………」

 何も言えないのはしずかも同じで、彼女はただこの居心地の悪い時間をやり過ごそうと押し黙った。
 そうして数十秒、数分が経ってようやく、沈黙は崩される。

江藤「で、どうするの?」

 外方を向いたまま江藤が呟いた。
それでもなお数秒ほど押し黙り、しずかはようやく口を開く。

しずか「正直あなたは信頼出来ないけど……。秋山さんを恐れるあなたは、信用しようと思う」

江藤「…………」

 ゆったりとした動作で江藤は身を起こす。そしてしずかの方へと向き直った。

しずか「この子を……。姫子を治してあげてください」

 長い前髪が顔を完全に隠してしまうほどに、彼女は深々と頭を下げた。
彼女の小さな背中にしがみつく姫子は苦しそうな呼吸を繰り返している。

江藤「良いわよ」

しずか「えっ……?」

 江藤が大した間も置かずに即答した事にしずかは思わず肩を揺らした。

江藤「えっ、て……。そのつもりで頭下げたんじゃないの?」

しずか「……そうだけど」

 未だにためらうような態度のしずかに痺れを切らしたのか、江藤の目付きが自然と鋭くなってゆく。

江藤「だったら早くしなさい。どんな毒か解らない以上処置は早いに越した事は無いわ」

 まだ癒えてない身体を労るようにそっとベッドから降りると、江藤は再度しずかを見据えて言った。

江藤「あの子を恐れる私を信用するんでしょう? 多分正解よ、もう一度言うわ。早くしなさい」

 治療過程は語るものでもなかった。
姫子の顔色、傷口、痙攣などの症状から彼女に盛られた毒をほんの数分で見抜くと、江藤は一本の血清を打った。
ただそれだけだった。

しずか「すごい……。お医者さんみたい」

江藤「元お医者さんだもの。これくらいは出来て当然よ」

 姫子の顔色は呼吸の音が重なる毎に生気を取り戻してゆき、今では安らかな寝息を立てるほどにまで回復した。

江藤「まぁほっといても一日も立たない内に回復するんだけどね。これで少し仮眠を摂らせれば良くなってるでしょ」

しずか「え? 大した毒じゃなかったの?」

 拍子抜けしたしずかはぽっかりと口を開いた。

江藤「……毒を扱うには多くの知識と経験が必要なのよ。それこそ貴女達の本分の武術と同じようにね」

 腕を捲り、無数の注射痕をしずかに見せる。
そして彼女は物憂げな面持ちで溜め息を吐いた。

江藤「でもその知識と経験を積んだ私達従者衆は壊滅。二人は死んで一人は捕虜、まともに生き残ったのは私の他に一人だけ」

しずか「…………」

 彼女とてその道のプロだったのだ。戦場で肩を並べる者が居なくなる事は覚悟していた。
そんな彼女を苛ませるのは仲間を失った後悔ではなく……。

江藤「結局のところ、力と比例するものは努力じゃなくて才能なのかもね」

 積み上げたものが壊される喪失感だった。

しずか「……才能の違いが秋山さんを怖がる理由なの?」

江藤「才能? あの子と私の差を才能の差と称するのは少し違うわね」

 江藤は自嘲染みた笑みを零して口元を手で覆った。

江藤「そうね……。たとえば貴女は空を飛べないけれど鳥は空を飛べる。それを才能の違いって言うかしら?」

 何とも突飛な例えだ。
しずかは一瞬だけそう感じたがすぐに納得した。
 彼女の強さに向かう視線は恵まれた才能に対する羨望などではない。
もっと根本的な、無理に対する妬みに近いものがある。

しずか「そうだね……。正直私もあの子を敵に回したら同じ事考える気がする」

 物憂げに顔を伏せ、ベッドに横たわる姫子の頬をそっと撫でるとしずかは大きく溜め息を吐いた。

江藤「ふふっ」

 その様子を見て江藤は含み笑いを漏らす。

しずか「何がおかしいの?」

江藤「いや、随分的外れな事言ってるなと思って」

 やたらと機嫌の良さそうな、それでいて少し皮肉めいた面持ちのまま窓から外を眺める。
江藤の視線の先には手持ち無沙汰に立ち尽くす澪の姿があった。

江藤「誰が敵とか味方とか……そんなの関係無いのよ。結局のところあの子の行動理念は自分が楽しめるか否かに帰結する。そう感じるわ」

 言いながら江藤は服の下の包帯を器用に解いてゆく。
少し変色したそれが床にかさ張ってゆくのを見てしずかは眉を顰めた。

江藤「自分を死の近くに置いてそれを打破する事に喜びを感じるのか。敵を生かさず殺さず、自分の手の内で弄んで悦びを感じるのか。付き合いも無い以上深くは知らないけれど……」

しずか「ひっ……」

 江藤は釦を毟るように上着を開き、下着だけを付けた上半身を露にする。
彼女の身に刻まれた凄惨な刻印からしずかは目を逸らした。

江藤「今の立場に甘んじてると、明日こうなるのは貴女かもしれないわよ?」

 生々しい傷は果たして痕を残さず消え去るのだろうか。
その答えはしずかにも江藤にも解らない。だが二人ともこれだけは理解している。
弱者の証として刻まれたその刻印には背負う者を一生苛ませる力があるという事を。
たとえ、その傷が消えたとしても。

しずか「可哀相、だね……」

 しずかは思ったまま呟いた。
江藤はそれに対して憤るでもなく、むしろ心地良さそうに目を閉じている。

江藤「ええ、可哀相でしょ? 自分から首を突っ込んで痛い目に遭った私が」

 釦を二つほど締め直し、胸の辺りだけを隠す。
それから再び短い沈黙が訪れた。

しずか「…………」

 恐らく次の一言が自分と江藤が交わす最期の言葉となるだろう。
理屈ではなく本能がそれを察し、しずかはそれを聞き逃すまいと意識を集中させた。
江藤はまるで死にゆく武人のように力強く、どこか安らかな目をしずかに向ける。

江藤「ふふ、こうして身を以て貴女にあの子の怖さを教える事が、私の物語のエピローグなのかもしれないわね」

 いつか物語の因果を越えて笑い合える日が来るだろうか。
 強い人も、弱い人も。
 善い人も、悪い人も。
 人も、人外も。
 そんな渇望にも似た感情を、しずかは噛み殺した。

江藤「どうか気をつけて。それが無力なオブザーバーの最期の言葉よ」

澪「遅かったね」

 姫子を背負って病院から出て来たしずかに澪は優しく微笑みかけた。
先の江藤との会話が原因だろうか、今のしずかにはその邪気一つ感じられない笑顔が不気味に思えた。

しずか「……うん。ごめんね、こんなに待たせちゃって」

澪「良いよ。それより私が背負おうか? そろそろ疲れてきたんじゃない?」

 ごくごく自然な動作で姫子を指差し、上目遣いでしずかを見る。
気に留める必要も無い動作の一つ一つが全てうさん臭く感じて、しずかは言い様の無い不安感に駆られた。

しずか「ううん。姫子は私が連れて帰るから、秋山さんは先に帰ってて。色々ありがとね」

 しずかのよそよそしい反応に気付いたのか、澪は人の良さそうな笑みを貼り付けたまま僅かに首を傾げた。

しずか「ごめんね。今ちょっと頭の中がぐるぐるしてて……。一人に、なりたいんだ……」

 遮二無二に頭を振り、しずかは澪の側を横切った。
澪の斜め後ろ三十センチほどの僅かな距離。
彼女は澪に一縷の望みを賭けて囁く。

しずか「あなたは……。私達の敵になんかならないよね?」

 その言葉に澪は振り向く。
しずかの眼を見る彼女の眼は、底の方から笑っているようにも見えた。

澪「勿論さ。むしろ守りたい、そう思うよ」

 一陣の風が流れた。
しずかは何も答えなかったし、澪も何か言及する事も無い。
 重たい足音が風の彼方に消え去るまで、澪は何をするでもなく立ち尽くしていた。

澪「……っ!」

 澪は突如苦しそうに胸を抑える。
痛みに耐えるというよりは込み上げる何かを抑えようとするその動作は悩ましげで扇情的だ。
 服ごと乳房を引き千切ってしまうのではと思えるほどに手に力を込め、そのままやや内股気味に座り込む。

澪「馬鹿……! 何考えてるんだよ私は……」

 全身が焼けるように熱く、よがり狂ってしまいそうになる。
湧き上がる醜い欲望を抑えようとした澪は遂に暴挙に打って出た。

 翳した左手の内で氷のナイフを生み出す。
そして彼女はそれを自分の右手の甲に突き刺した。

澪「止まれ……。止まれ……!」

 何度も何度も突き刺す。
その度に肉が裂かれ、押し潰される不快な音が木霊した。

澪「はぁ……っ。はぁ……」

 ナイフで刺すだけでは足りなくなったようで、今度は出来たばかりの真新しい傷口に爪を突っ込む。
中で肉を掻き毟る度に鮮血が零れ落ちてゆく。

澪「よし……良い子だ。もう出て来るんじゃないぞ……」

 自分の胸に血塗れの手を添え、深く息を吐きながら呟く。
 敵味方など関係無い。
 衝動的な殺意に向けて。


31
最終更新:2013年03月04日 20:26