紬「こんにちは。唯ちゃん」

唯「わおっ。今日はムギちゃんだー」

 日が沈みかけた頃に紬は唯の病室に訪れた。
日付は律が此所を訪れた次の日、そして澪達と文恵らが刃を交えた次の日でもある。

紬「ふふっ、今日は唯ちゃんが好きなお菓子持ってきたのよ」

 朗らかな笑みを浮かべつつ、紬はそれだけで高そうなGODIVAの紙袋から魔法瓶を取り出す。

唯「ムギちゃん、もしかしてそれって……」

紬「ストレートティーだけどね」

 紬の含み笑いを見て唯の表情が弾けたように明るくなる。
もう何日紬のお茶を飲んでなかっただろうか、それを考えただけで唯の心が満たされた。

唯「ティータイムだーっ!」

 両手を上げて眼をきらきら輝かせる。

紬「喜んでくれて嬉しいわ。本当は部室で五人一緒が良かったんだけどね」

唯「入院ティータイムもまたおつなものですよ。なかなか粋な計らいですなぁ」

 したり顔で揉み手をしつつ身を乗り出すと、鼻孔を甘い香りが突き抜けた。

唯「んー。良い匂いだねぇ、今日のおやつはなっにかな~」

 紙袋の中には可愛らしいリボンで包装された容器があった。
手に取るとそれはほんのりと温かく、つんとした何とも言えない甘い香りを漂わせていた。

唯「開けても良い?」

紬「うん、一緒に食べよ」

 紬が言い終える前に唯は既に包装に手をかけている。
紬は苦笑いしながらも、そんな唯を愛しくすら思っていた。
 たとえ周りがどれだけ苦しい思いをしても彼女は決してぶれない。
だがそれは決して悪い事ではない。むしろ唯のその揺るがない優しさ、明るさは多くの人間を勇気づける。
 紬自身、自分も唯に惹かれている事に気付いていた。

紬「それって……。とても凄いことなのよね」

唯「ほぇ?」

 優しい瞳と無垢な瞳が向き合う。
唯はそれに気付くと少し照れたようにはにかんだ。

唯「えへへ……。ずっと見られたら恥ずかしいよぉ」

 ずっとこの笑顔が見たいから。
紬にとっての闘う理由はそれだけで充分だった。
だからこそ紬は唯を奪還した今となっても決して気を抜かない。
あの現世とも常世とも言えない曖昧な空間の中で出会った彼女が、未だに頭の片隅に巣くっているから。

紬「ゆーいちゃん」

唯「なあに?」

紬「ふふっ、呼んでみただけ」

 仔犬のように無垢な心を持ち続けた唯はきっとこれから色んな物を見て、色んな事を聞いて、色んな決断を下して学んでゆくのだろう。
そんな純粋なる種を見捨てる事は人を殺す事よりも罪深い。
親心にも似た感情を、紬は抱くのだった。

唯「変なムギちゃん」

 怪訝な言葉を吐きながらも唯はとても嬉しそうだった。
紬が唯に他の者には無い癒しを感じるように、唯も紬に対して同じ感情を抱いていた。

紬「ごめんね、じゃあお菓子食べよっか」

唯「うん!」

 待てを解かれた犬のように一目散に箱に手をかけると、唯はその隙間から漏れるシナモンの香りに顔を綻ばせた。

唯「う~ん、良い匂い……」

 言いかけて箱の中身を見た瞬間唯の表情が一変する。
箱の中には二人でようやく食べ切れるかどうか分からないほど大きなアップルパイが入っていた。

唯「林檎……」

 紬の朗らかな笑みが今の唯には心苦しかった。


純「ようはこの二人を片付ければ良いんでしょ? サクッとやっちゃおうよ」

 純はからからと笑い、紙コップに入ったオレンジジュースを啜った。

梓「もうっ、そうやって油断してると足元掬われるよ?」

 じとりとした眼で純を一瞥し、梓は控え目にハンバーガーを囓る。
 時刻は午後八時。部活帰りの学生や柄の悪い若者達の喧騒に満ちたファストフード店にて、純と梓は和から頼まれた上位ランカー二名の殲滅について話し合っていた。

純「……この二人が、かぁ。イマイチピンとこないんだよね」

 純はテーブルの上に並べられた二枚の写真を穴が開くほど見つめる。

梓「純はそういうのに疎いからね。こっちの人は使う武器が同じだけあって澪先輩も一目置いてたみたいだよ?」

 文恵の写真を指でなぞり、額の部分を小突く。

純「今となっては、って感じだけどね」

 純は空になった紙コップを咥え、退屈そうに椅子に背を預けた。
かつてこの二人が純に倒された事を知らない梓は純の態度が持ち前の物臭から来ているものだと思い、呆れたように溜め息を吐く。

梓「それにしても私達二人で、なんて理由が分からな過ぎるよ。序列が下でも良いなら澪先輩やムギ先輩でも良いわけだし……」

純「よく分かんないや。そーゆー事考えるのはパスね」

 取り留めの無い会話が数分続いた頃だろうか。
彼女は何の前兆も無く、あまりにも自然な形で現れた。

純「っ!」

梓「っ!?」

 二人して息を飲む。
店の自動ドアが開くと同時に入って来たのは、二人が標的とする人物の片割れだった。

梓「……噂をすれば、だね」

 テーブルに置いた顔写真を回収し、梓は出来る限り平静を装った。
この喧騒の中で自分の僅かな気の乱れさえも察知されそうな恐怖がそこにある。

純「…………」

梓「純?」

 なるべく眼を合わせないよう心掛ける梓とは対照的に、純は口をぽっかりと開けて標的の木村 文恵を眺めていた。

純「あはは……。凄い、凄いよ梓。何であの人あんなになってるの?」

 戦慄と歓喜が入り交じった複雑な表情。
一人で受付に注文する文恵の後ろ姿を見ながら、純は拳を震わせた。

純「正直センス無いと思ってたよ。でも凄いや、なんかビリビリ来る」

梓「……なに? どうしたの!?」

 平静を保つ事など出来なかった。
それは文恵が目の前に現れたからではない。
物臭でことなかれ主義の友人が、突如状況を大きく揺るがす起爆剤と化してから。

純「ねぇ梓。今から私がする事、何も言わずに見ててくれない?」

梓「っ! 絶対駄目! 一歩でも動いたら絶交だから!!」

 純は間違いなくこの場で闘いを始めるつもりだ。
瞬きの瞬間にこちらに背を向けている文恵に一発しかける事すら辞さないだろう。
 梓はそれを何としてでも避けたかった。
闘気という概念をまだ朧気にしか把握していない彼女でも分かる。
何の考えも無しに文恵に挑むのは余りにも早計過ぎる事を。

梓「ちゃんと考えてよ! 自分勝手な事してちゃんと後で責任取れるの!?」

純「その時はその時だよ。だから言ってるじゃん、考えるのはパスだって」

 次の瞬間、中身が氷だけとなった紙コップが純の手から離れ、綺麗な放物線を描いていった。

梓「あ……」

 外れろ──。
 その一瞬の間に何度心の中で呟いたことだろうか。
しかし現実は無情にも梓の願いは聞き入れず、紙コップの中の氷は丁度文恵の頭上で撒き散らされた。

純「……ナイスキャッチ」

 投げた純自身、ここまで上手く命中するとは思ってなかっただろう。
氷が文恵の頭を濡らし、筒状の紙コップはまるで帽子のように文恵の頭に被さった。
 茹るような喧騒が一瞬にして静まり返る。
文恵は何も言わずに赤白の縞模様の帽子を手に取り、握り潰した。

文恵「……喧嘩売ってるの?」

純「日頃のご愛闘に感謝して九十パーセントオフとなっておりまぁす」

 純の砕けた口調に眉一つ動かさない。
文恵は純と梓を暫く見つめると、レジに向き直った。

「こ、こちら……三点で六百三十円になります」

 顔を引きつらせた店員が恐る恐るトレイを持って来ると、文恵は何事も無かったかのように千円札を取り出す。

文恵「ありがとうございます。お釣りは募金箱に入れといて下さい」

 愛想の良い笑みを浮かべて両手で札を渡すと、文恵は即座に視点を切り替えて純達の元へ向かった。

梓「こっち来てるよ……。どうするの?」

 梓は条件反射で太股に吊ったホルスターに手をかけ、一秒以内に発砲出来る体勢を整えた。

文恵「ここ、良いかな?」

純「どうぞ」

 文恵の呼び掛けに純は椅子を引き、文恵の方に向けた。

梓「…………」

 あまりにも自然な、ハンバーガーショップで『親しい友人』と会ったような二人の態度に梓は違和感を覚えながら固唾を飲んだ。

文恵「久し振りだね。軽音部殲滅戦以来かな?」

純「そんな事もありましたっけ。印象に残るほど強い人もいなかったし、よく覚えてないです」

 空気が固まって、再び平静に流れ始めた。
安い挑発に乗る気は無いという事だろう。
文恵は純から目を逸らし、黙々とハンバーガーを囓る。

 梓は間近で木村 文恵という人間を観察してみて、『辻斬り』という通り名はあまりにも不釣り合いだと思った。
 体格に恵まれているわけでもなく、容姿も辻斬りを連想させるような恐ろしさは無い。
二つ結びにしてある赤茶けた髪と幼い容姿が相俟って、むしろとても可愛らしく見える。

文恵「……私の顔に何かついてる?」

 あまりに熱心に見つめていたせいか、文恵は訝しげに梓に訪ねた。

梓「いや……」

 当り障りの無い言葉を探したがそれ以上の言葉は出なかった。
いつ血が流れてもおかしくない一触即発の空気。
梓はそれが流れ過ぎてゆくのをただひたすら待つしか出来なかった。

純「…………」

 純は忙しなく身体を動かし、しきりにテーブルを指で小突いている。
 いつでも来い。
 そんな純の心の声は梓にも伝わった。
小さな口で少しずつハンバーガーを胃に詰めている文恵にはどう伝わったのだろうか。

文恵「…………」

 文恵は静かに腰に差した長刀を鞘ごと抜いた。
梓と純はそれに呼応して身構える。
だが次に文恵が取った行動は、二人の予想の真裏を行くものだった。

文恵「そんなにピリピリしないでよ。なんだか緊張しちゃうじゃん」

純「え?」

梓「はい?」

 文恵は刀を鞘ごと壁に立て掛けた。
つまり二人に対する武装、敵意を破棄したという事だ。
 二人揃って狐に化かされたような顔をした。
紡ぐべき言葉が見付からずに口を開閉させているのを余所に、文恵は変わらぬペースで食事を続けている。

文恵「何? そんなに見つめないでってば」

梓「あの……。えっとぉ……」

 梓がしどろもどろになっている内に文恵は何か納得したように手を叩き、呆れたような笑みを浮かべた。

文恵「もしかして先輩からたかろうって思った? 勘弁してよ、持ち合わせ少ないんだからさ」

 さっき釣り銭丸ごと募金してただろうに、純はそう思ったが口を閉ざした。

梓「純、ちょっとトイレ行かない?」

純「っ! 行こう! 直ぐ行こう今直ぐ行こう!!」

 ナイスタイミングと言わんばかりに勢い良く立ち上がると、純は逃げるようにその場を後にした。
それに遅れて梓も立ち上がる。
歩き始める直前に文恵と目が合ったが、彼女は温厚な笑みを浮かべて手を振るだけだった。

梓「…………」

 梓も無言で頭を下げる。
テーブルからトイレまでの短い距離の間、梓はしきりに太股のホルスターを触っていた。

純「何あれ?」

梓「私が知りたいよ。ていうか純は後先考えずに動き過ぎ」

 トイレのドアを閉めると同時に純が口を開き、梓はいつもの呆れた調子で答える。
互いに鏡に映った自分の顔を見るが酷いものだった。
無実の罪で一週間ほど監禁されたかのように精神的な疲れが顔に出ている。

梓「前評判とも全然違うし、何だかすっかり毒気抜かれちゃったよ……」

純「私も……。でもさ、むしろああだからこそ思う事があるんだよね。何だと思う?」

梓「奇遇だね。私も思う事があるんだ。せーので同時に言ってみようよ」

 間延びした掛け声の後に二人の声が狭いトイレに木霊した。

「目茶苦茶怖いよ!!」





 二人でトイレに引き籠もって十分ほど過ぎただろうか。
未だに状況は何も進展していない。

純「なんかお腹痛くなってきた……」

梓「トイレ行ってきたら? ……ってここがトイレか」

 梓は結わえていた髪を解き、手櫛で梳いている。
何かしていないと落ち着かないのだろう。
鏡と向き合う頻度は時間を重ねる毎に増えていた。

純「梓だったらどう? 出会い頭に物投げ付けられてニコニコ出来る?」

梓「怒るに決まってるじゃん」

純「ですよねー……」

 漠然とした恐れはあるのだが恐れる対象が何なのかが分からない。
 解らないから怖い。
五里霧中の中彷徨い歩くような状況は精神に響いていた。

 一人取り残された文恵はハンバーガーを食べ終え、携帯電話で通話していた。

文恵「出会い頭に水かけられたよ。正直殺してやろうかと思った」

 空いた片手で器用に紙ナプキンを折っている。
少し歪な形ではあるものの、それは徐々に鶴の形に近付いていた。

文恵「あははっ、大丈夫だって。そこまで見境なく見える?」

 からからと笑いながら翼が萎れている紙ナプキンの鶴を指で愛でる。
電話越しの人物がまくし立てているのだろうか、甲高い声が僅かに漏れた。

文恵「分かってるよ。だからこの私が我慢してるんじゃない。それにしてもあの二人が真鍋さんが送ってきた刺客とはねぇ……」

 文恵は鶴を翳して汚い天井を仰ぎ、目を細めた。
背もたれに身を任せるその姿には微塵の覇気も感じられない。

文恵「うん。そっちもはやく身体治してね。待ては出来るけど餌を見過ごすほどお利口さんには躾られてないんだから」

 もう一度からからと笑い、携帯電話をしまった。
文恵の細い指先から落ちた鶴は宙を舞いながら音も無く燃え、目に見えぬほどの塵となって消える。

文恵「待っててよね。必ず全員八つ裂きにしてあげるんだから」

 恋人の肩を抱くように立て掛けておいた刀に手をかけた。
頬は微かに赤く染まっており、息遣いは若干乱れている。

 見据えた天井の先に思い描くのは先日見えた澪の姿。
 正しく、強く在ろうとした末に残った力への飢え、勝利への渇きを宿した貪欲なる瞳が文恵の脳裏を過ぎる。

文恵「……絶対、殺してやる」

 力を求めて貪欲に食らい続けて今ここに居る自分と澪の姿が、文恵には鏡越しの自分同士に思えた。
瓜二つ、同位体、擬似体。
そんなチープな言葉では表せない自分と澪の限りなく浅く、深い関係。
その絆は同じ価値観を共有しているという事だった。
 鏡の中の自分に打ち勝ち、誰にも邪魔される事のない平坦な景色を造る。
その為に文恵は辻斬りという自身の本質を捨てて此所に居る。

梓「あの……」

 背後から肩を叩かれて文恵は我に返った。
物思いに更けて本来の自分を出してしまいそうになった事に対して心の中で悪態をつく。

文恵「あっ……。遅かったね? もしかして私邪魔だったかな?」

純「邪魔も何もうっぷ──」

 喋ろうとした純の口を梓が無理矢理塞ぐ。

梓「……純は馬鹿なんだから喋らない方が良いよ」

 文恵には届かないようにそっと囁き、梓は純の口から手を離した。

梓「いえ、邪魔なんてとんでもないです。ただちょっとビックリしちゃって……」

 控え目にお辞儀をし、自分の分と純の分の荷物を椅子からひったくるとそそくさと距離を置く。

梓「じゃあ私達これから用事あるんで……。お先に失礼します!」

 若干顔を引きつらせ、梓は文恵から逃げるように駆けていった。

純「ちょっ!? 待ってよー!」

 二、三度出口と文恵の間を行き来して、純も梓の後を追う。
去り際に文恵を訝しげに見つめるも、文恵は梓にそうしたように優しく微笑むだけだった。

文恵「あちゃー、避けられちゃったかな?」

 二人の姿が完全に消えた事を確認し、文恵も重い腰を上げた。
彼女の身体には不釣り合いな長刀を一度しゃらん、と鳴らすと、喧騒が一瞬だけ鎮まる。

 梓は息を切らしながら夜の街を駆けた。
心臓が破れるまで、全てを風に変えて、まるで自分がメロスにでもなったかのように。

梓「……つか……れた」

 有り余った運動エネルギーが地に足を着いても収まりきれず、なお梓の身体を全身させようとする。
梓は爪先を浮かせて踵に力を込め、ブレーキをかけるように自身の身体を制した。

純「ちょっ、速いって……!」

 民家の屋根から猫のように無音で着地し、純は梓の肩をがっしりと捕まえた。
額には汗で濡れた前髪が張り付いている。

梓「純……」

 ゆっくり息を整えている内に梓は違和感を覚えた。

梓「……何でバテてるの?」

 自分と純では身体能力という点では天と地の差がある。ある筈だった。
闘気という概念を理解している者とそうでない者とではそうなる事は必然だ。

純「何でって……。梓が思い切り走るから……」

 南極で一瞬だけ闘気を扱ったが自在に使いこなせているわけではない。
本当ならばここまで来る途中で純に追いつかれている筈なのだ。

梓「純の百メートルのタイムって幾らだっけ?」

純「一秒三二だけど……」

 梓の百メートル走のベストは六秒台、自堕落な純が体力測定で全力を出す事は無いのを考えると彼女の全力は恐らく一秒を切るだろう。

純「あ……」

 考え込む梓を見てようやく純も気付いたようだ。
目に見える異常な身体能力の向上。梓の完全な闘気の発現が近付いている事に。

梓「これって……」

 感覚を確かめるように拳を握り、解いた。
微弱ではあるものの小さな風の渦が流れる。
先程までの疲れは嘘だったかのように梓の頬が綻んでいった。

梓「やった! やったよ純! これで私も先輩達みたいに強くなれるんだよね!?」

 普段の妙に斜に構えたような冷静さは無い。
新しい玩具を与えられた赤児のように、梓は身体を跳ねさせた。

純「…………」

 逆に純は呆れたような笑みを浮かべて溜め息を吐いた。
 文恵を見た瞬間血がたぎるような高揚感を味わえたかと思えば、その文恵の態度に気味悪さを感じて恐怖を味わった。
 そして今、蟻のように矮小な力しか持たなかった友が自分と同じ場所に立とうとしている事に小さな喜びを感じている。

純「……何か今日は疲れちゃった。もう私帰るね」

梓「あ、うん……」

 踵を返して来た道を引き返す純の後ろ姿を、梓はふと冷静になって見据えた。

純「先走っちゃってごめんね。次からはあんな事しないから」

梓「純……?」

 梓に背を向けたまま手を振り、調子外れな鼻歌混じりで純は去って行った。
つるみだして以来ここまで聞き分けが良い純を見た事があるだろうか。
それを考えると梓の心に妙な靄がかかってゆく。

梓「まぁいっか。お腹痛いのが治ってないだけだよね」

 考えても解らない事は考えても詮無き事。
梓も純に倣い、帰路に着こうとした。その時だった。

梓「…………」

 ぞわりと、梓の首筋を何かが這い巡った。
何かが居る。そう確信した梓はホルスターから銃を抜き、震える手を制する。

 近くに街灯は無い離れの道。
それなのに背後から火を灯されているような奇妙な明るさがあった。
振り向かずともその存在を認識出来る明りはかつかつと音を立てて歩み寄って来る。
 一瞬とも、永劫とも思える時間が過ぎ去った。
数歩分の距離を置いて光の足跡は鳴り止む。

梓「……っ」

 振り向いて引き金を引かなければ。
その想いが実現される事は無かった。

梓「え?」

 銃口を忍び寄る者の眉間に突き付けたつもりだった。
だが梓の目の前に広がるのは光一つ無い空虚。

「こっちだよ」

 直後に声の主は梓を背後から抱き締めた。

梓「に"ゃっ!?」

 猫のような悲鳴を上げてしまい、梓は思わず赤面する。
 細い指、華奢な腕、物腰穏やかな声。
梓を抱き締めた人物は先程まで一緒に居た文恵だった。

文恵「ふふっ、猫みたいだね」

梓「ちょっ、離して下さい!」

 小さな体躯を振るわせて文恵の手を振りほどく。
文恵の方は対した抵抗もせず、誘うような上目遣いで梓を見るだけだった。

文恵「そんなに露骨に避けられたらちょっと傷付いちゃうよ。もしかして私の事嫌い?」

 文恵は指で下唇を抑え、小動物のような円らな瞳を滲ませた。

梓「嫌いじゃないです。でも……っ」

 目の前で可愛らしい仕種を見せる文恵は辻斬りだ。
 理由無く、躊躇無く、遠慮無く弱き者に刃を振るう危険人物に好意を抱けというのも無理な話だろう。

梓「辻斬りなんか……」

 見る限り一切の敵意を向けていない文恵に言っていいのか、梓はそう考えて一瞬だけ口ごもった。
しかし吐き出しかけた言葉は逆戻りする事はなく、無情にも言霊となって羽ばたく。

梓「辻斬りなんか信用出来ません!」

 嫌いじゃない。だが信用出来ない。
二極化された感情に板挟みにされ、梓は心の底から同様した。

文恵「…………」

 文恵は一瞬だけ面食らったような顔をしたが、直ぐに温厚な笑顔を浮かべる。

梓「貴女がここ最近でどれだけの事をしてきたかは知ってます。弱い者苛めが過ぎる人にトップランカーでもない私が言い寄るわけないじゃないですか!」

 銃口を文恵に向け、引き金を絞る。
だが引けなかった。
うっすらと微笑む文恵の頬に、一筋の涙が伝っていたから。

梓「え……?」

 その涙の理由が梓には分からなかった。
こうして会い見えるまで、血も涙も無いような人間だと思っていた。
 何故泣く? 何故悲しい?
 考えたところで分かりはしない。
理屈で語れる涙など存在しないのだから。

文恵「そう……だよね。今までいっぱい悪い事しちゃったもんね」

 大粒の涙が堰を切ったように溢れ出す。
涙の数と比例して増大してゆく胸を締め付けられるような感覚が梓を苛ませる。

文恵「言い訳になるけどさ……。だって仕方ないじゃん! どんなに我慢しても、身体が勝手に動いちゃうんだよ?」

 文恵は神に懺悔する罪人のように、胸の上で両手を結ぶ。

文恵「傷付けたくなんかないのに、いつも気付いたら誰かが倒れてる……。私だってこんなのもうやだよ……」

梓「…………」

 文恵は忌み嫌うように腰に差した長刀を放り投げた。

梓「……今までしてきた事が自分の意志じゃなかったって事ですか?」

 訝しげに文恵を睨み付けたまま梓は問うた。
握りしめた銃は未だに文恵に向けたままだ。

文恵「都合が良過ぎるよね……。でも嘘じゃないの、信じてくれる?」

 文恵の本質である辻斬りがアンコントローラブルなものだとしたら。
 何かの拍子に目覚めた辻斬りの人格が自分の周りの人を傷付け、自分自身はそれをどうする事も出来ない。
文恵の話が本当ならば、それはとても悲しい事なのだろう。だが……。

梓「それでも信用出来ません」

 心に掛かる靄を振り払うように、梓はきっぱりと言った。

梓「それが本当だとして。今日会ったばかりなのに何で私に話すんですか? 普段の貴女が真っ当な人格だとしたらそういう話も私の耳に入る筈です」

 まくし立てるように、梓は更に言葉の追い討ちをかける。

梓「でもそんな話は無かった。トップランカーの貴女の噂は常に残虐なものばかり。全身の骨を折られてごみ捨て場に捨てられた人、見せしめのように一昼夜屋上から吊るされた人、まだ聞きます? 全部貴女がやった事ですよ?」

 糾弾は止まらない。
思慮深さが目立つ梓に疑わしきは罰せずなどといった生温い心は存在しない。
自分が悪と認識した悪は何処までも悪、絶対悪なのだ。

梓「一応聞いておきます。何が目的なんですか? 私を籠絡しようたってそうはいきませんよ」

文恵「…………」

 明らかな敵意を向けられ、文恵は梓から目を逸らした。
そして躊躇するように怖々と口を開く。

文恵「……こんな私でも、好きな人と笑ってみたかったんだ」

 弱々しく吐き出された言葉に梓は眉を顰めた。

文恵「手を繋いで街を歩きたかった。二人きりになってキスしてみたかった。こんな私でも、全部解った上で愛してほしかった」

 ぽつりぽつりと吐露されてゆく想いは何という事もない、年頃の女子なら誰でも抱く恋心だった。

 だからこそ梓には解せなかった。
それならば尚更、何故自分にそんな事を言うのか。

梓「恋愛なら余所でやって──」

文恵「だから貴女に否定されるくらいなら、いっそその引き金を引いて下さい」

 文恵は澄んだ瞳で梓を見据えた。
二人の間の時が止まったかのように、一瞬だけ静寂が空間を支配した。

梓「それって……」

 梓の頬に汗が流れる。
文恵は強がったような笑みを浮かべた。

文恵「中野 梓ちゃん、ずっと前から見てました。貴女の事が大好きです」

 文恵に向けた銃口が、ここに来て初めて揺らいだ。


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最終更新:2013年03月04日 20:28