文恵の告白の翌日。
カーテンを閉め切った仄暗い空き教室で二人は佇んでいた。

風子「で、返事は何だって?」

文恵「さぁね。面食らったような顔して逃げちゃったよ」

 黒板に落書きしては消してを繰り返す風子と、六十八点と何とも評価し辛い点数が書かれたテスト用紙を折っている文恵。
会話こそ成立しているものの互いに目を合わそうとはせず、深いコミュニケーションは求めていない事が分かる。

文恵「……そっちの具合はどう?」

風子「死ぬほど手抜きされてたみたいね。外傷らしい外傷は打ち身だけ。二、三日で良くなるよ」

文恵「そっか」

風子「うん」

 それきり二人は黙り込んだ。
チョークがかつかつと黒板と触れ合う音、紙擦れの音がやけに大きく聞こえる。

文恵「でーきた」

 テスト用紙を折って作った紙飛行機を見て、文恵は無邪気に微笑んだ。
それは直ぐに文恵の手元から離れ、緩やかに宙を滑ってゆく。
翼の部分に点いた小さな火種が燃え広がり、夢を書いていないテスト用紙は塵となって消えた。

風子「証拠湮滅?」

文恵「そんなに悪い点取ってませんよーだ。風子は何点だったの?」

風子「九十点」

 文恵は居心地の悪そうな顔をして黙り込んだ。

 風子は落書きに飽きたのだろうか、粉がついた手をはたくと教卓に座り込んだ。
文恵も文恵でやる事が無いようで、手持ち無沙汰に髪の毛を弄っている。

文恵「……暇だね。もっとこうスカッとするような方法は無いの?」

風子「スカッとやられたいなら好きなだけ暴れれば? 貴女も見たでしょ、秋山さんの力を」

 苦虫を噛み潰したような顔をして、文恵はそのまま机に突っ伏した。

文恵「にしても今のやり方だって付け焼き刃で考えた方法でしょ? そもそもあの二人が私達を狙ってるなんて情報もうさん臭いし」

 刀を親指だけで器用に抜き差しする。
かちゃかちゃと小気味の良い音が鳴り響く。

風子「それに関しては間違いないよ。情報ソースは他でもない生徒会役員なんだから」

文恵「ガセネタ掴まされて骨折り損でしたー、って事は考えられない?」

 つまらない現状に納得がいかない文恵の意見は自然と否定的になる。

風子「そんな事するメリットなんか無いでしょ。下手に警戒心を煽るよりもこないだみたいに予告無しで来られた方が、こっちとしては厄介なんだから」

 文恵を諭す事にもうんざりしてきたのだろう。
風子の口調が次第に投げやりになっていった。

文恵「あの会長さんがこんな大事な事を、それこそ私達に密告するような末端の人間に喋るかな」

風子「さっきからやけに否定的ね。喧嘩売ってるの?」

文恵「買ってくれるの? らっきー、売ってみるもんだね」

 文恵は勢い良く起き上がり、長刀の柄を握った。
爛々と輝かせた瞳に映る風子は人ではなく、餌だった。

風子「残念、高い喧嘩を買うほど馬鹿じゃないの」

 馬鹿、という単語を強調し、風子は片手を翳して文恵を制した。
露骨に苛立った表情を浮かべ、背もたれに身を預ける。

風子「……さっき言った密告者の件だけど、その子は決して末端なんかじゃないわ。あの生徒会長が両手を上げて信頼を預ける人間よ」

 風子の言葉には話半分でしか耳を傾けていなかった文恵だが、その言葉を聞いて彼女は妖しくと笑った。

文恵「へぇ、煮ても焼いても食えそうにない人だけどね。そんな人が居るんだ」

 生徒会の中の主要人物。
そして尚且つ和の信頼を勝ち取るに足る力を持つ人間。
 文恵は決して察しが良いタイプの人間ではないが、その文恵でも内通者のヴィジョンは容易に想像出来た。

風子「いちごちゃんには及ばないけど、私のやり方もなかなかでしょ?」

文恵「ゴキゲンだね。それなら恋愛ごっこもまだ我慢出来そうだよ」

 控え目に膨らむ自分の胸に手をかけ、文恵は悶えるように身震いした。

 軽音部と他の面々が南極に赴き、各々が違った成長を遂げた。
 漠然とした出口の無い霧の中で力への糸口を見つけた者。
 過去の自分と決別し、人としての情を捨てて鬼となった者。
 心を預けるに足る友と、再び相見える事が出来た者。
 闇に沈んでゆく想い人を正しい道に引き摺りあげる決意を固めた者。
 それぞれの葛藤、進歩、経験を全てあげようものならばそれこそ枚挙に暇が無い。
 その中で一人、抜きんでて成長した者が居る。
彼女は六道輪廻を司る神の叡智に限り無く近い力を、かつての師の死を乗り越えて掴み取った。

和「で、私にその力を見定めて欲しいと」

紬「忙しいのにごめんね? 最近皆バラバラだから他に頼める人がいないの」

 桜高校舎の屋上にて二人は対峙していた。
二人を取り囲むように一般生徒が凡そ一クラス分が固唾を飲んで立ち尽くしている。

和「まぁ最近の事務仕事は下の子達に任せてるから良いんだけど……。ちょっとギャラリーが多過ぎるんじゃない?」

 呆れたように嘆息しつつ、和は辺りを一瞥した。
だがギャラリーは誰一人としてこの場を離れようとはしない。
『鬼殺し』琴吹 紬が『女帝』真鍋 和と衝突する。
誰もがその瞬間を見届けたいと望んでいるのだ。

和「にしてもこれで負けちゃったら笑えないわね。ムギは一気に序列暫定トップじゃない」

 暫定トップ、という単語を聞いて誰もが憂の姿を思い浮かべた。
一部の生徒の軽音部殲滅作戦以来忽然と姿を消した彼女の名前は自然と桜高のタブーとなって風化していった。
もっとも、和達の間で今まで彼女について触れていないのは恐怖からではない。
 幼い頃から憂と寄り添い続けた唯の事を憂いての事だった。

和「……こんな時だからこそ湿っぽいのはナシよね」

 一人ごちて和は腰に差した刀を抜く。
刀身に桜の花びらが彫られた桜高生徒会に代々伝わる銘刀『桜花』。
歴戦の血と誇りを帯びた輝きが紬に向けられる。

和「見定めてあげる。今まで何をして、何を得てきたのかを」

 対峙する二人。
周囲を取り巻く空気が震える。
和を桜高の王たらしめる膨大な闘気が溢れ出した。

紬「……行きますっ!」

 聖母のように朗らかな微笑みを浮かべていた紬の表情が一変し、意志を刃に変えた鋭い顔付きになる。
 その場で重心を低くし、右手を大きく薙ぐと疾風の刃が飛び交った。

和「風……じゃないわね」

 和は大気の振動、違和感だけを感じ取って不可視の刃をいなしてゆく。
一瞬で全ての刃を見抜く事は難しいが、躱さなければならない急所などは上手く避けていた。

紬「まだまだ!」

 右手、左手と紬は立て続けに宙を掻いた。
六道の一つである修羅道。
その無限の剣閃は標的を切り刻むまで現れ続ける。
 対する和もいつまでも防戦一方ではない。
念じ、現れるのは桜花を媒体とした巨大な闘気の霊刀。
一振りで修羅の刃を巻き込み、蹂躙してゆく。

和「あら、こんなものだったの?」

 光の刃が鞭のようにしなる。
その規模の大きさから巻き込まれる事を恐れた一般生徒達は散り散りとなって離れていった。
伸縮自在の刃が鉄の手摺を砕き、コンクリートの床を削りながら紬に襲いかかる。

 しかし自分が持っている知識だけではあの力に説明がつかない事に和は歯噛みした。

和「どこから来てるのよあの力は……」

 本来闘気を扱う者がその力を攻撃に用いる時、闘気の性質を表す色が見られる。
だが先の紬の技からはどの色も見受けられなかった。
それだけではない。生物ならば皆大小は異なれど備わっている筈の闘気、その存在すらも紬からは発せられていない。

和「…………」

 まるで死人のようだ。
和は心の中でそう揶揄した。
生気を持たず、人知を越えた力で敵を食らう力。

和「あの世にでも行ってきたのかしら……」

 皮肉混じりにそう呟くと同時に和の首筋を何か冷たいものが這った。

和「っ!?」

 即座に刀を構えて空を仰ぐ。
和の視線の先には冷笑を浮かべて落ちてくる紬の姿があった。

紬「畜生道──」

 鍵語と共に紬の身体が落下速度を増す。
和は瞬時に察した。あれと正面にぶつかってはならないと。
身構えて腰を落としていた身体を無理矢理捩らせ、半ば転がり回るようにその場を離れる。
それに遅れて耳を劈く轟音と共に大量の土砂が舞った。

和「闘気でもなければ生身の力でもない。凄い力ね……」

紬「大切な人から貰った力だもの。弱いなんて思われてたら申し訳が立たないわ」

 紬は地面に深くめり込んだ腕を引き抜き、砂埃を払う。
彼女を中心に出来たクレーターは凡そ百メートルにまで及んでいた。

和「……大したものよ。でもそんな馬鹿正直な攻撃じゃ私は捉えられないわよ?」

 全身のバネを用いて地面を蹴る。
刹那、紬と和の間にあった隔りは一瞬で縮められた。

紬「っ!」

 紬は僅かに見えた袈裟斬りの軌道から身を逸らし、一歩後退する。
だが瞬きした瞬間和の姿は目の前から消えていた。

和「こっちよ」

 振り向いて体勢を整える余裕など無い。
風を斬り、襲い来るは無情なる背中刺す刃。
それでも紬は動じなかった。

紬「人間道──」

 指も触れず、敵意さえも向けず、ただ周りに在るものを地に平伏させる力。
六道が一つ、人間道の不可視の圧力が和を襲う。

和「──っ!?」

 息が詰まり、言葉を紡ぐ事が出来ない。
和が地に膝をつけた瞬間ギャラリーのざわめきが大きくなった。
 片足を軸に紬の身体が回転する。
その勢いを殺さぬまま、岩をも容易く砕く回し蹴りが和の眼前に迫った。

 躱そうにも和の身体は鉛がのしかかったかのように重く、びくともしない。
ギャラリーの息を飲む音と紬の足が和の頬を捉えた音が同時に鳴った。
人間道によって縛られた和は衝撃に身を委ねる事すら許されず、その意識を切り離されかける。
だが……。

和「温いわよ!」

 鉛のような腕を動かすのは女帝としての意地。
桜花は妖しく輝き、紬の両足を刈り取らんとする。

紬「くっ……」

 紬は表情を歪め、大きく後退した。
その瞬間和を縛る圧力は消え失せ、女帝の力が解放される。

紬「凄いわ。ノーガードであれを受けてまだ動けるなんて……」

和「羽根生やしたばかりのひよこには負けられないわよ。そこは経験の差よね」

 和は立ち上がり、軽くおどけてから口の中に溜まった血を吐いた。

和「畜生道、人間道。……大方六道の名を冠した技術かしら? まぁ多く見積もってもその手品は七つ八つ辺りで打ち止めね」

 ひび割れ、歪んでしまった赤縁の眼鏡を投げ捨てる。
その直後、彼女の頬が不気味に綻んだ。

紬「…………」

和「先ずは二つ、貴女の力は見切ったわ。次はどんな手品を見せてくれるのかしら?」

 闘いは始まったばかりだ。
その場に居た全員が一同に心の中で呟いた。




 紬の拳が地を砕き、和の斬撃が大気を切り裂く。
紬の一撃が和を捉えてからおよそ十分間、力の均衡は保たれていた。

和「さっきの手品はもう使わないのかしら?」

 伸縮自在の闘気の刃を作り出し、紬の側に振り降ろす。
グラウンドの深い層にある硬い岩が砕け散り、飛礫となって紬を襲った。

紬「同じ手品ばかり続けてたら飽きちゃうでしょ?」

 地に深く食い込んだ闘気の刃に手を添え、無力化する。
六道が一つ餓鬼道、貪欲に闘気を食らい尽くす悪鬼の力だ。
餓鬼道の前ではあらゆる闘気も渇いたスポンジに垂らした水のように吸い尽くされてしまう。

 光の刃を打ち消した右手をそのまま引き、和目掛けて飛び掛かる。
人間離れした驚異の脚力、そして振り降ろされるのは脅威の鉄鎚。
 避ける事は許されない。
この衝撃の余波を無防備の状態で受けるなどそれこそ自殺行為だ。
同じ倒れるなら前向きに倒れよう、和はそう考えた。

和「──止める!」

 彼女にしては珍しく声を荒らげた。
腰を落とし、桜花の刀身にありったけの闘気を込めて盾にする。
 シンプルな答えだった。
逃れようの無い巨大な力が迫っているのなら、それを上回る力で応えてやれば良い。

 拳と刃が触れ合い、とてつもない衝撃が巻き起こされる。
衝撃はやがて熱に転化され、熱波となって拡がった。

和「く……うぅ……っ!」

紬「六道が一つ、畜生道。読めたところで躱せなきゃ意味無いでしょ?」

 地についた和の足が爪先から地面に沈んでゆく。
多くの血を啜り続け、多くの栄光を打ち立ててきた桜花。それに闘気を込めている限り、桜花は最強の盾と成り得る。
だがそれゆえに畜生道の力は全て和の腕を容赦無く襲う。
 次第に手の感覚が薄れてゆき、自分のものではないような錯覚に陥った。

 刀を手放した先に見える未来は何色だろうか。
和の瞳に負の色が滲み始めた瞬間、紬の拳は刀身から離れた。

和「な……っ!?」

 決して紬が根負けしたわけではない。
次に放たれるのは勝敗を決めんとする一撃なのだ。
和は理屈ではなく、本能でそれを悟っていた。
 痺れる両手に鞭を打ち、懇親の力を込めて振り抜く。

紬「人間──」

和「させないわ!!」

 鍵語が紡がれるよりも和が放った刃は速かった。
地面を踏み締めていた紬は咄嗟の反応で後転し、それを躱す。
 そして再び戦況は均衡を保つ。
両者共に一寸の隙も無い鋭い目で敵を見据えていた。

和「…………」

 紬は確実に強くなっている。
それも女帝の名を欲しいままにしてきた和と対等に渡り合えるほどに。
ここまでの決して多いとは言えない鍔競り合いの中で和はそれを嫌というほど理解していた。

和「なるほどね……」

 だがそこで朽ち果てる女帝ではない。
和は大多数の生徒が一筋縄ではいかない武術を持つ桜高を一手に束ねあげてきたのだ。
彼女を形成しているものは単純な武力だけではない。
 要所要所で的確な判断を下す為の知識。
 逆境に立たされた際に不可能を可能たらしめる知恵。
そして今そのあらゆる力を総結集させて、六道の力と向かい合っている。

和「ここまでの手品は全て理解したわ。今まで通り上手くいくとは思わない事ね」

 和は桜花の刀身を指でなぞる。
指が通った部分は砂埃が綺麗に取れ、妖しい輝きを取り戻した。

紬「…………」

 肌を刺すような空気に、紬は自ずと脇を絞る。
紬を含む真鍋 和をよく知る人間は駆け引きに置けるブラフを得意とする人間と聞いて真っ先に彼女を連想する。
 恵まれた才覚、神域に到達している剣術。時には鬼にもなれる冷酷さ。
そのどれにも依存せず、常に戦場を自分だけのキリングフィールドたらしめる狡猾さを彼女は持っていた。

 そんな彼女の本質を知りながらにして紬は彼女の言葉を真直ぐに受け止めた。
薄っぺらな嘘などではない。ここから先、自分が優位に立つには一度のミスも許されないだろうと。

紬「……それでも、やれる事をやるだけだから」

 先の見えない闘いの海の中を深く潜ってゆく。
この闘いの敗者とは即ち、苦しみから逃げて先に顔を上げた者だ。
紬も、そして和もそれをひしひしと感じていた。

和「じゃあ一つずつへし折ってあげるから、死ぬ気で這い上がってきなさい」

 和はどこか楽しそうな面持ちだった。
荒れた地面を軽く足で慣らし、その上から刀を突き刺す。

紬「……っ!」

 紬の足元が一瞬だけ煌めいたかと思うと、次の瞬間地を食い破って岩の槍が突き出してきた。
紬は身を翻してそれを躱し、闘気によって造り出された岩の槍を打ち消そうとする。

和「甘いわね。私の剃刀は二枚刃よ」

 刹那、紬は身体の中の臓器が全て下ってゆくような錯覚に陥った。
痛みは無い。だがとてつもない衝撃は紬を混乱させる。
 彼女は自分が宙に投げ出されている事を認識するのに数秒を要した。
では何故紬が宙に投げ出されているのか。
答えはあまりにもシンプルだ。比喩でも何でもなくそのままの意味で、地が跳ね上がったのだ。

和「また人間道で私を叩き付けてみる? そしたらこの状況も打破出来るんじゃない?」

 紬の眼前に皮肉めいた笑みを浮かべた和が迫っていた。
振りかぶった桜花の切っ先が妖しく輝く。

和「出来ないわよね。だって地に足がついて無いんだもの。種さえ分かればこんなものよ」

 紬の肩口から鈍い音がした。
斬られてはいない。ただの峰打ちだ。
しかしその一撃は紬に致命的なダメージを与えた。
闘気の加護も受けていない峰打ちが何故致命傷と成り得るのか。
その理由は、紬が現時点で「闘気という概念を微塵も理解していない」からだった。

 逆に地に叩き付けられた紬は息を詰まらせた。
ほんの一瞬だけだが脳が陥落しまう。
常人にとってのそのほんの一瞬は取るに足らないような時間だが、この二人にとっては勝敗を決し得る時間だ。

和「チェックメイトね」

 仰向けに倒れた紬に覆い被さるように、和は紬の喉元に刃を突き付けた。
 勝ち誇ったような笑みを浮かべる和は勝利を確信しながらも一寸の油断もしていない。

和「今まで貴女が放った技の中にこの状況を打破出来るものは無い筈よ」

紬「……どうかしら」

 紬は苦し紛れに声を搾り出すが、それは逆に和に自信を与える。

和「認めないなら一つずつ説明する? 最初に放った鎌鼬には私を引き離す殺傷力は無い。あくまで目眩ましのようなものよね」

 和は修羅道が発動された時、紬が緑の闘気に目覚めたのかと思ったが一度鎌鼬を受けてみてその考えを否定した。
風、大気を司る緑の闘気の能力者の技ならば真面に受けて掠り傷程度で済む筈が無いのだ。
 紬から緑の闘気を感じられない事。初撃の威力の小ささ。
この二点から和は修羅道の力が取るに足らないものだと判断した。

和「次に私の闘気を打ち消した技と畜生道。この二つは二つで一つ。どちらか一つを抑えれば無力化される。そうでしょ?」

紬「…………」

 紬は押し黙った。
発言の一つ一つから何を気取られるか分からないからがゆえに。

和「やっぱりね。これはあくまで確信に近い推測だけど、畜生道は相手の闘気に触れないと使えないんじゃない?」

 術者の身体能力を飛躍的に増幅させる畜生道の力。
一度発動してしまえばたとえ和と言えども継続的に見切り続ける事は難しい。
それは紬から見ても火を見るよりも明らかだ。
だがそれならば何故その力をフル活用しないのか。
和はまずそこに着眼した。

和「貴女が畜生道を使ったのは二回。そしてその二回とも私の闘気に触れた後だったわ」

 それだけならば偶然という線が濃厚だろう。
だがそれならば説明出来ない点が出てくる。
 二度目の畜生道を使う前に紬は地から突き出た岩の槍に触れてそれをかき消した。
しかし普通に考えればその行動にメリットなど一つも無い。
危険はほぼ零と言って良い停止した岩の槍にわざわざ触れに行く時間。
言うまでもなくその動作が生むタイムラグは時には致命的な敗因と成り得る。
そこから考えられるのは……。

和「畜生道の前に使った力は闘気を打ち消すじゃなくて闘気を吸収する力。そしてそれが成功して初めて畜生道を使う事が出来る」

 紬の肩がびくりと跳ねた。
一瞬だけ驚いたような表情を浮かべる。

和「人間道についても説明出来るわよ。あれは自分が地面に触れていないと──」

紬「もう良いわ」

 表情が驚きから一変し、穏やかなものとなる。
それを見て和は紬の首に突き付けた刃を離そうとした。

紬「もう出し惜しみはしない。次の技が私の切り札よ」

 紬が言い終えるよりも前に和は刀の柄を握る手に力を込めた。
勝敗自体は既に決まってはいるものの、和は思った。
純粋に、単純に、紬の本気を見てみたいと。

和「切り札はゲーム中に切らなきゃ意味無いわよ。実戦では出し惜しみしないようにね」

 和も紬もどこか楽しそうな顔をしている。
互いが互いに自分の技の方が優れているという確信があった。
だからこそ戦況的には優劣があるものの、精神面ではどちらも劣っていない。

和「…………」

 生唾を飲んで刀の柄を絞る。
その後に二人の視線が交錯した。

紬「地獄道」

 まるでそれを契機にしたかのように鍵語は呟かれる。
 移り世に蔓延する全ての物質は停止し、音も無く常世の門が開かれた。

和「これは……!?」

 和は光景が移り変わる事すら認識出来なかった。
彼女は目の前にそびえ立った門を見て驚愕する。
美術に聡い者でなくとも一度は映像、或いは写真などで見た事があるであろう。
ロダンの地獄の門がそこに現れたのだ。

 静止した闇の中で和は言葉を失っていた。
自身の心臓の鼓動すら警鐘に思えて、彼女の心を落ち着かせるものなど一つも無い。
 この状況をどのようにして説明付けようか。
脳は無意味に足掻くも思考の糸は絡まるばかりだった。

紬「ようこそ地獄へ」

 疑念でごった返す和の脳内が紬の一声で水を打ったように静かになる。
いつの間に抜け出したのだろうか、紬は和の手元を離れて彼女の真後ろに立っていた。
不敵に微笑む紬の肌は不気味なほどに青白く、まるで死人のようだった。

和「ここまで来るともう……なんだか、ね」

 空間そのものを造り替える能力。
或いは本当に地獄が存在すると仮定して、地獄を召喚する能力か。
どちらにしてもこの現象は和の理解の範疇を越えている。
 紬はこの力を大切な人、かつての師斎藤から譲り受けたと言っていた。
六道の力を自在に行使する兵が敵の中に居たと思うと和は内心ぞっとする。
 物語を根本から覆せる力を持ちながらにして敢えて自らフェードアウトする事を選び取った男。

和「私には理解出来ないわね……」

 二つの意味を込めて和は呟いた。
そして同時にとんでもない狂言回しだ、と今は亡き斎藤に向けて毒づく。

紬「理解する必要は無いわ。ここでは思考するという行為が無駄にナるから」

 紬の身体に目に見えるほどの変化が起きる。
目の回りが急速に窪んでゆき、死人のような白い肌にどす黒い斑点模様の痣が浮かび始めた。

和「ちょっ……。身体が……っ!」

紬「思考だけジャないわ。呼吸モ、運動も、悲哀モ、憤慨モ、歓喜も……」

 言いながら和に向けて翳して腕が黒いゲル状の肉塊となって爛れ落ちる。
連鎖反応のようにその勢いは増してゆき、紬の身体が原形を留められなくなるのは直ぐだった。

紬「人ノ無力さを痛感シナさい。それが貴女が出来ル──」

 言い終えるよりも先に紬の身体は完全にゲル状の液体となった。
そして地面と呼んで良いのかも分からない、そこに立つ者を墜ちてゆく錯覚に陥らせる黒い足場に染み込んでゆく。

和「ムギ……!」

 咄嗟に手を伸ばすが既に遅い。
得も知れない恐怖に苛まれる暇もなく、翳した腕の肩口を背後から叩かれた。
 背後に居る人物から逃げるように和は振り返りつつ大きく後退する。
だが和は目の前に佇む人物を見て、驚愕のあまり目を見開いた。

和「……どうして」

 理解不能な状況は和の精神を摩耗させ、その影響は肉体にも現れ始める。

 込み上げる吐き気を堪えながら和は声を振り絞った。

和「どうしてアンタがここに居るのよ!?」

 自然と声が荒くなる。
だが和の前に佇む少女は皮肉な笑みを浮かべるだけだった。

澪「失礼だな。まるで私が幽霊か何かみたいじゃないか」

 生気を感じられない白い肌。色素の薄い唇から紡がれるのは冷たい声。
何をしても不安感を煽るその容姿で、澪の姿をした何かは軽くおどけて見せる。

澪「ほら足だってちゃんとあるよ。触ってみる?」

和「……いや。遠慮しとくわ」

 にじり寄ってくる澪を制し、眉間に皺を寄せる。
澪はそれに気付いたのか、悲しそうに目を伏せた。

澪「……何でそんな顔するの? 私の事嫌い?」

和「…………」

 上辺だけの言葉で取り繕えばどうとでもなるのに、何故か和は何も言えなかった。
それは和が自発的に押し黙ったわけではない。
自分の身体が見えない何かに支配されているような感覚が和を押さえ付けているのだ。

澪「そっか……。やっぱり嫌いなんだな。前々から気付いてたよ、変なところで妙に他人行儀だし……。他にもいろいろ──」

 両手で頭を抱えて蹲る澪の身体が溶けてゆく。
和が瞬きする毎に澪の姿は紬と同じように黒い地面に染み込み、消え失せた。

澪「私は大好きなのに……。何で皆そんなによそよそしくなっちゃうの? ねぇ、どうして?」

 背後で響いた声と共に和に覆い被さるのは澪の身体だった。
反射的に押し退けようとする和だが、触れた先に衣服の感触は無く、柔らかい肌の感触が指を伝って身を固まらせる。

和「服ぐらい着なさいよ……」

澪「ほらやっぱり素っ気無い。触ってよ、触らせてよ。じゃないと淋しいよ」

 澪は胸に触れて固まったままの和の腕を掴み、自分の秘部をそっとなぞらせた。

和「離しなさいっ!」

澪「やだ」

 澪は和と向かい合う形で身体を擦り寄らせ、求めるように腰をよがらせた。

和「……好き合ってるとしてもこんなのおかしいわよ。普通じゃないわ」

澪「嘘だ! 本当に好いてくれてるなら私の全てを受け止めてくれる筈だろう!!」

 何とか手を振りほどこうと身を捩らせる和だが、澪の化け物染みた力の前では成す術無く押し倒された。

和「ちょっ……止めなさい! その首切り落とすわよ!」

澪「やってみろ。私に敵う人間なんて居ない事ぐらい、和なら分かるだろ?」

 口元は微笑んでいるものの目は据わっていた。
這い寄る強烈な死のイメージが和の脳内を徐々に浸食してゆく。

和「……っ」

 胸の奥で蠢く恐怖という魔物は和の視界を霞ませ、強者としての芯をいとも容易く叩き折る。
靄がかかった視界に映る光景が和にとって最も辛辣なものだったから。

「和……ちゃん……っ」

 声がした方に首を回すとそこには見慣れた少女の姿があった。
いつもと変わらないふんわりとした茶色の癖毛。幼さを残す柔和な声色。
そして、今まで和が一度も見た事がない、彼女の絶望に打ちのめされた表情。

唯「たすっ……助けて……!」

 両手両足を泥を固めたような人型の何かに押さえ付けられ、唯は苦悶の表情を和に向ける。

 唯が着ている制服は揉み合いの際に負荷がかかったのか、ところどころが破れている。
柔らかい肌を露出させて押さえ込まれている唯の上に跨がるのは澪だった。

澪「──っ! 〜〜っ!?」

 人語にすら聞こえない奇妙な呻き声を上げながら澪の形をした何かは唯の胸に顔を埋める。

唯「やっ──。和ちゃ……っ! たすけっ」

 手足の自由を塞がれて凌辱される唯と目が合った。
和の喉は自然と渇き、手足が僅かに震え始める。

『友達一人救えねーくせに何が生徒会長だよ』

 全身の神経を逆撫でる嫌な声が和の脳に直接響いた。


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最終更新:2013年03月04日 20:30