律が目を覚ますとそこは見知らぬ部屋だった。
こじんまりとした空間にはテーブルとベッドとテレビ、それに小さめのコンポやノートパソコン等の娯楽の道具が幾つか置かれている。
ありふれた若者の部屋。悪く言えば没個性的。律はそんな印象を覚えた。

「おはよう」

 柔和な声が聞こえたと同時に律は自身は喉元に注視した。
鈍色の刃が律の首に触れて妖しく輝く。
切っ先から柄までは視線でなぞり、その先に目をやるとそこには恵が居た。

恵「よく眠れた?」

律「目覚めは最悪ですけどね」

 押し当てられた刃を拒絶する事はなく、律は皮肉な呟きを放った。
恵を見据えるその瞳には敵意しか無い。

恵「五体満足でいられただけでも感謝して欲しいんだけどな。まぁそれもこれ以上暴れるつもりなら解らないけど」

 脅し文句としては充分だった。
闘気を開花させている者とそうでない者の力量の差など言うまでも無い。
互いに敵同士と認識している状態で恵が律に負ける道理などありはしないのだ。

律「……負けました」

恵「ん、よろしい」

 刺すような恵の視線は一変し、一歩身を退く優しい先輩の表情になる。

 恵は何故律が自分を襲ったのか、何故わざわざ長期休暇でもないこの時期にここまで来たのか、思う事はあったがなにも聞かなかった。
ただ一言お腹空いたでしょ? と言ってコンビニのレジ袋を律に手渡す。
中には菓子パンと紙パックの牛乳が入っていた。

律「…………」

 律は無言で菓子パンに齧りつき、作業のような食事に入った。
対して恵は律が居ないもののように振る舞い、テレビのチャンネルを回す。
一回りした辺りでバラエティ番組が放送されている局で手が止まったが、大して興味も無いのだろう。つまらなそうにテレビを切るとベッドに腰掛けた。

 形容しがたい不自然な沈黙が流れた。
黙っている事が苦手な律にとって今の状況は苦痛でしかない。
そんな彼女が沈黙を破るきっかけを作るのは不自然なほどに自然だった。
そう。それすらも見透かされているかのように。

律「何で何も聞かないんです?」

 造られた日常、均衡が破られる。
律の言葉に恵は妖しく目を細めて微笑んだ。

恵「聞いたら答えてくれるの?」

 自分を試すような口振りに律は気味悪さを感じていた。
 だが律は退くわけにはいかなかった。
間違った選択肢を選んだ親友を在るべき場所に戻す為にも。

律「単刀直入に言います、私と一緒に桜高に来てください」

 恵の表情は崩れない。

恵「会話が噛み合ってないわね」

律「噛み合わせますよ。拒否は許さないし、のんびりしてる余裕も無いんです。これで聞きたい事は無くなったんじゃないですか?」

 気が急いている。それが恵が抱いた印象だった。
確かに律が言った通りならば無謀な武力行使に打って出たのも頷ける。
ただあまりにも無計画過ぎやしないだろうか。
 仕種も挙動不審な点が多いし相手に理解させる気すらも疑わしいほどに言動も支離滅裂だ。
仮にも桜高軽音部を束ねる彼女をそこまで焦らせるものは……

恵「……澪ちゃんね」

 恵は呆れたように大きく溜め息を吐いた。
まるでこうなる事に気付いていたかのようなその態度に、律は一瞬眉を顰めた。

律「……分かってるなら話は早いや。澪をまた元の──」

恵「無理よ」

 聞く気など最初から無かったのだろう。
恵はあまりにも無情に、律の嘆願を拒絶する。

恵「あの子は全てを置き去りにする覚悟を以て強くなった。力だけ手にして元に戻して下さい、じゃああまりにも虫が良過ぎると思わない?」

 律は何も言い返せなかった。
逆恨みに過ぎないと分かっていたのに、いざ恵を目の前にすると自分がやっている事の不条理さが律には歯痒かった。

恵「それに今更澪ちゃんに何をしたって変わらないわよ。きっとあの子自身、私達に何も望んでないでしょうしね」

 全てを理解したような達観した物言いは律の怒りの琴線に触れた。
 一秒と経たない内に律は恵をベッドに押し倒し、胸倉を掴む。
ぎりぎりと噛み締めた唇から血が流れた。

律「……ふざけんなよ。なに澪の事全て知ってますみたいな面してんだよ……」

恵「気に食わなかった? でもりっちゃんよりかは知ってるかもよ?」

 律の無礼を歯牙にもかけず、恵は自分に跨がる律の頬を撫でた。

律「私達はずっと一緒だったんだ。あいつが今辛い想いをしてる事なんて見ただけで分かんだよ!!」

恵「そんなの思い上がりよ。なら貴女はあの子の唇の味を知ってるの? 肌の冷たさを知ってるの? ココの熱さを知ってるの?」

 にんまりと口角を歪めながら、恵は短いスカートを嫌らしい手つきでたくしあげた。

律はそれを見て嫌悪感よりも強烈な悲壮感を覚えた。
自分の中で何かが壊れる音がして、律は目を見開く。

恵「私は知ってるわよ。そして全て解った上で言ってるの。あの子はもう無理だって」

 観念と欲の狭間で揺らぐ律を叩き付けるのは無慈悲な言葉だった。

恵「最後に言った筈なんだけどね。決して『道』を間違えないようにって」

 そして彼女は頷いたのだ。
だが道を見誤った。どれだけ強くなっても付き纏ってくる心の揺らぎに負けて。

律「なんでだよ……」

 恵を押さえ付ける腕をだらりと下げ、律は放心気味に呟く。

律「なんで……。何でそこまで解ってたのに止めてくれなかったんだよ……」

恵「あの子がそれを望んだからよ」

 貫徹して余裕を保っていた恵の表情が初めて揺らいだ。

恵「私にとって澪ちゃんが白と言えば黒いものも白なの。たとえそれが間違ってると解っててもね」

律「分かんねぇ! 分かんねぇよ! 間違ってるって分かってんなら何で……」

 ぎりぎりと歯を食いしばり、怒りを露にするが、律は恵の顔を真面に見ていられなかった。
澪を盲信するあまりに自分の意志を失った者。
恵も、この物語の被害者なのだ。

恵「好きだから。それ以外に理由はいる?」

 律は何も言えなかった。
むしろそれだけあれば充分だという事は彼女も解っていたから。
どれだけ醜く歪もうとも、愛情に勝る感情など存在しない。

 半ば茫然自失となった律は不可解なものを見るような目で恵を一瞥し、ふらふらと身を退く。

律「じゃあせめて……」

 逃げ出したくなる気持ちを堪え、律はか細い声で呟いた。

律「私にも澪と同じように、あの化け物染みた力をくれよ……」

 恵は乱れた衣服を整え、のっぺりとした笑みを浮かべて言った。

恵「駄目よ。りっちゃんにはあの子ほどセンス無いもの。それにむざむざ暗い道を行く必要も無いでしょ?」

 手放しで澪を暗い道に放った事に対する矛盾。
或いはそれすらも必然だと、律にはそう思えた。

律「……さいですか」

 聳え立つ巨岩を砕く為に平手で岩を打つような無為の虚しさを抱きながら、律は黒の外套を頭まですっぽりと被る。

恵「もう行っちゃうの? まだ雨強いけど……」

律「はい、もうここに居ても意味無いし」

 ぶっきらぼうに言って律はもう一度だけ恵の方へと向き直った。
あまりにも勝手な物語の犠牲となった確固たる意志の残滓。
有り得たかも知れない自分と、自分を取り巻く者の末路に目を背けないように。
 そして自分の末路を隠さぬように、恵も律から目を逸らさなかった。

 静寂を崩さぬまま律は再び恵に背を向けた。

恵「待って」

 だがドアに手をかけようとしたその矢先、恵が引き止める。
律は振り向かないまま足を止めた。

恵「貴女の目には今の私はどう映ってた? そっち側の感想が聞いてみたいな」

 一瞬だけ律の心臓が跳ねた。
考えなくとも直感で分かる。恐らくここが自分という存在を物語に介入させるか否か、最後の分岐点である事が。
 歪な因果の外の平穏な日常を享受するか。どれだけの苦難が待っていようとも、物語の真実を目指すか。
 律は大きく息を吸い、吐き捨てるように言った。

律「退屈そうですね」

 扉が開き、そして閉まる音が部屋の中に木霊した。
一人残された恵にはそれが全ての終わりを知らせる音のような気がして、ほんの少し胸が締め付けられる。

恵「さて、と……」

 物語の終わりの後に訪れるのは毒にも薬にもならない日常。
非日常の渦中に居た過去の思い出はゆっくりと、自分自身も気付かぬように色褪せて消えてゆくのだろう。
だがそれで良いのだ。恵はそう一人ごちて窓から外を見下ろした。

 片側二車線の広い道路を大型のネイキッドバイクが自己の存在を主張するように荒れた蛇行運転をしている。

恵「危なっかしいなぁ」

 たとえばあのバイクに跨がる青年、或いは少女。はたまた老人かもしれない。名前も知らないあの運転手のように日常から非日常を求める人間が居る中で、既に非日常を否定した自分が物語に居座るのはあまりにも図々しいのではないか。

恵「……これで良かったんだよね」

 新しく物語に介入する者の為に綺麗な椅子を空けておこう。
恵はそれを矜持として、確かめるように何度も何度も呟いた。





 完全下校時刻を過ぎた桜高校舎。
その内の人が居る筈のない空き教室に艶めいた喘ぎ声が響いていた。

「あっ……。あっ……。あっ……」

 声からは生気すら抜けきっており、やつれてはいるものの辱めを受ける妖しい声色は隠しきれない。

文恵「ねぇ、今どんな気持ち? こんなみっともない格好でお露垂れ流してるの見られてるわけだけど」

「ごめんなさい……っ。もう許してぐださい……っ!」

 彼女はこんな諍いに巻き込まれるような人間ではなかった。
外の世界ではいざ知らず、桜高という狭い無法地帯の中では彼女は何の特異性も持たない没個性的な生徒だった。

 そんな彼女が凌辱の闇に囚われたのは突然だった。
辻斬りの少女に接触された時、彼女は再起不能を覚悟した。
だが彼女を待っていたのは再起不能などという生易しい地獄ではない。

文恵「あははっ、謝られても何て答えたら良いか解んないよ。貴女悪い事なーんにもしてないじゃん」

 全裸に剥かれ、四つん這いの体勢で無理矢理秘部を刺激され続ける。
一体この時間はどれだけ続くのだろうか、少女はそれすらも考えられなくなっていた。

文恵「でも悪い事したと思ってるんならお仕置してあげないとね。あはっ、私ったら優しー」

「ひっ──!?」

 直後、自分を辱める指が秘部の突起を摘んだ。
襲い来るのは単純な快感ではなく、鋭い痛みを伴う快楽だった。

「やだあああっ! 摘まないで、痛い痛い痛い──っ!!」

文恵「暴れちゃ駄目だよ、最初に言ったよね?」

 極上の愉悦を噛み締めるように文恵は口角を歪めた。
そして空いた手を少女の背中に向けて振り下ろす。
その手に握られたものが窓から差し込む月明りに照らされ、鋭く輝いた。

「いぎっ──!?」


 背中を貫く痛みに少女は短い悲鳴を漏らした。
絹のような肌には千枚通しが深々と刺さっており、薄く血が伝っている。

文恵「動くなって言ってんじゃん」

 反射による制御不能な身体の動きすら文恵は許さない。
抜いては刺し、抜いては刺しを繰り返し、時折肌に深く刺さった千枚通しを肉を抉るように押し込む。

「──っ! ──っ!」

 少女は両手で口を抑え、悲鳴を殺して痛みに堪える。
両面からは大粒の涙が零れ落ち、全身には嫌な汗が滲んでいた。

文恵「へぇ、結構我慢強いんだね。カッコいいじゃんソーユーノ」

 赤く染まった千枚通しを放り投げ、文恵は少女の顎を背後から掴んで海老反りにさせた。
だがそれは先程までのような痛みを与える為の乱暴な動作ではない。

「えっ……?」

 傷口をなぞるくすぐったい感覚に少女は恐る恐る首だけを後ろに回した。

文恵「ん……」

 文恵は無数の傷口から流れる血を愛しそうに舐めていた。
予測の範疇を越えた文恵の行動に少女の顔は強張る。
呆然とした少女の瞳と文恵の瞳が交錯した。

文恵「またやっちゃった……。やっぱ私って駄目だなぁ」

 自身の咎を拭うように文恵は傷口を優しく撫でる。

文恵「ごめんね? こんな酷い事しちゃって。許してはくれないよね……」

 文恵の瞳が潤む。
少女の頬を撫でると、赤い罪の色が細い指から頬に伝わった。

「っ! 許します! 許しますから……」

 許せるはずもない。だがそんな憎しみの感情よりも今は直ぐにこの場から離れたい気持ちで一杯だった。

文恵「ほんと? 怒ってない?」

 あまりにも無神経な文恵の発言に少女は苛立ちを通り越し、呆れすら感じていた。
感情を押し殺し、首を縦に振る。文恵の表情がぱぁっと晴れてゆくのが見えた。

文恵「じゃあもう帰って良いよ。飽きちゃった」

「え──?」

 少女は身体が押し上げられ、宙に浮くのを感じた。
直後、腹部に突き刺さる鈍痛と身体が壊れる感覚が少女を支配する。

文恵「あっはははっ! 風邪引かないようにねぇ!」

 文恵の足が少女の腹部に捩じ込まれていた。
肋骨が折れたなどというレベルではない。
身体の中で骨が原型を保てぬ程に打ち砕かれているのだ。
当然そんな規模のダメージを受けて臓器が無事である筈もない。
解りやすく例えるならば一般人がダンプカーに撥ねられたようなものだ。

 少女の身体は教室の窓を破り、三階の高さから外に投げ出された。
墜ちゆく絶望に満ちた表情は文恵に何の罪悪感も与えない。
むしろ彼女にとって他者の絶望は辻斬りという自分のアイデンティティーを保つ上で必要不可欠なものであり、この上ない愉悦であった。

「救いようのないクズね」

 冷めたような声が文恵の背後で響いた。
愉悦の余韻を残したまま文恵が振り返ると、古びた椅子に腰掛ける風子が居た。

文恵「私は自分がやりたい事を素直に実行してるだけだもん。私から見たら余計な気遣って生きてるそっちの方が哀れだよ」

 風子が嘲るように鼻で笑うと、文恵が露骨に表情を歪めた。
衝突は無い。歪な均衡が二人の間で保たれている。

文恵「それにそっちの気がある子の気持ちも知りたいしね。これから必要でしょ?」

風子「苛めたいだけでしょ」

文恵「まぁそうだけど」

 開き直ってブレザーを脱ぎ、ブラウスのタイを緩めて僅かに汗ばんだ身体に風を通す。

風子「……同じ自由奔放主義でもどうしてこうも差が出るものなのかな」

 風子は視線を滑らせ、教室の入口を見た。
そこに立ち尽くす少女は気怠そうに欠伸をしている。

「違いはあれど差は無いんじゃないですか? ここまでクズだと逆に見てて気持ち良いですし」

 からからと笑い、少女は真新しい血痕が残る床をじっと見据えた。

文恵「二人してクズクズ言わないでよ。まるで私がクズみたいじゃん」

風子「それこそ本気で言ってるなら抱き締めたくなるくらい哀れよね」

「まぁまぁ、面白ければ全て良しですよ。私は好きですよこういうの」

 少女が笑い、風子が頭を抱える。

風子「……お願いだから興味本位で裏切ったりなんかしないでよ。なんだか二人揃ってやりかねないわね」

 問題無いです、と少女は胸を叩き、風子の前へと躍り出た。

純「『夢幻』鈴木 純。モットーは面白きことなき世を面白く。こんな愉快な面子を裏切ったりなんかはしませんよ」

 歪な平穏は静かに崩壊していった。物語は再び加速する





梓「博物館が全焼だってさ」

純「どこの?」

梓「フランス」

 歯切れも悪く、悶々とした会話が続く。
普段ならば意識しなくとも他愛ない話で何十分と潰す事が出来るのだが今はそれも敵わない。
退屈な時に限って時間が長く感じるのは昔の人間も今の人間も変わらない、普遍の感性だ。

梓「……もう今日は帰って良いんじゃないかな」

純「完全下校時刻が過ぎない内に帰ったら次の日が酷いんだよ。覚えときなよ」

 それを聞いて梓の表情が引きつった。
あの自由奔放な純が生徒会、つまり和の言う事をここまで素直に聞いているのがおかしかったからだ。

梓「ちなみにそれ破ったらどう酷いの?」

純「部外者が居るところで話せないよ。もしあの人の耳に入ったらほんとに酷いんだって!」

 授業は終了したとはいえ教室内にはまだ生徒が数人残っている。
梓は苦笑いすると携帯電話のニュースサイトを閉じ、だらりと椅子の背もたれに身を委ねた。

梓「…………」

純「…………」

 再び会話が途切れた。
この居心地の悪い静寂は二人に三人で居た時の事を連想させる。
人類最強の彼女が今ここに居たのならばきっとこんな空気を味わう必要も無かっただろう。

 禍々しい毒のような闘気を持ちながらにして彼女の人格は例えるならば聖母のようだった。
誰よりも他者を慮り、間を取り持つ事に関しては天性の才能を持っていた。

梓「…………」

 梓は気持ちがネガティブな方向に進んでゆくのを感じた。
恐らく純も同じなのだろうと思い、脇目で純の顔を捉えたのだが……。

純「…………」

 彼女は違った。
目は険しく、一見隙だらけの体勢もよく見れば直ぐに臨戦体勢に移れるようになっていた。

梓「純……?」

純「しっ」

 梓は咎められて初めて異変に気付いた。
太股に吊ったホルスターに手をかけると鉄の冷たさが指を伝う。

梓「これってちょっと不味いんじゃないかな……」

純「少なくとも六人は再起不能になるだろうね」

 純と梓を除いて今この教室に居る生徒の人数は六。つまりはそういう事だ。
生徒達の談笑が響く中で耳を澄ませば聞こえてくる。
爛々と眼を光らせて歩み寄る辻斬りの足音が。

梓「……っ」

 梓の表情が一変して険しくなる。
太股に吊ってあるホルスターではなく机に手を手を突っ込み、グリップに小粒な宝石が光るショットガンを抜いた。

純「それもハンドメイド?」

梓「まぁね」

 伸ばした手に握られているのはショットガン。
その飛散する殺戮の母体は窓に顔を向けている

 引き金を引くと同時に耳を劈く銃声が鳴り響いた。
硝子が飛び散る音、生徒達の悲鳴。
銃声を皮斬りに始まった狂想曲は最初からピークを迎える。

梓「……関係ない人を巻き込むことないんじゃないです?」

 ぎりぎりと奥歯を噛み締め、迫る辻斬りの恐怖に備える。
だがそれは逆に自分の無力を実感させられる事になった。

文恵「何の事かな?」

 可愛らしい声と共に梓の首を絡めとるように細い腕が巻き付く。
殺傷目的ではないのは明らかだった。
かと言って友人同士のよくある馴れ合いでもない、一線を越えた感情から来る慈愛に満ちた何かが感じられた。

 文恵の行動は狂想曲を彩る休符を打った。
一瞬で静まり返る教室。次いで響いたのは驚愕ではなく恐怖の悲鳴だった。

「きゃああああっ──!?」

 生徒達は文恵の姿を認識した瞬間、世界の終わりが訪れたかのように焦燥し、逃げ惑う。
荷物も尊厳も投げ捨て、なりふり構わずに恐怖から逃れようとするその姿は弾圧される奴隷の様だ。

文恵「ここまで露骨に避けられたら……。逆に追いかけたくなっちゃうよねぇ」

 粘っこい蜜のような声と笑み。
梓の脳内に最悪のイメージが過ぎる。
認知、思考、打算。全てを凌駕して梓は反射的にショットガンの引き金を引いた。筈だった。

梓「え……?」

絞った人指し指が空を切る。
手に持っていた筈の得物がどこにも無い。
それに気付くにはあまりにも遅過ぎた。

文恵「だぁめだよ? 人に向けて撃つような玩具じゃないんだから」

 片手間で梓のショットガンを弄びながら、文恵は更に目を細め、舌を出して笑った。

梓「くっ……。純っ!」

 また純に頼るしかないのか、自分の無力さが歯痒かったが梓にそんな事を気にする余裕は無かった。
今文恵を抑制出来る可能性が高いのは純だけだ。
だが呼び掛けに対する合いの手は無い。
それどころか直ぐ側に居た筈の純は影も残さずに去り失せていたのだ。

梓「純……?」

文恵「あはっ、お友達はどうしても私と一緒に居たくないみたいだね」

 猫撫で声で言うと文恵は奪い取った銃を梓に返す。

文恵「梓ちゃんは、どうなのかな?」

 解らなかった。
 自分を好きだと言った文恵。
 普通が欲しいと嘆願した文恵。
 人を斬る愉悦に浸る文恵。
 その中のどれが本当の木村 文恵なのか、梓には解らない。
解らないものを好きになる事も嫌いになる事も出来やしないのだ。

梓「私には……。分かりません」

 ショットガンの銃口がまだ割れていない窓に向けられた。
刹那、噴き出した銃口から闘いの狼煙が上げられる。

梓「だから値踏みさせてもらいます。貴女がこちら側の信頼に足る人物かどうかを」

 砕けた硝子越しに幾重にも重なった殺意が滲み出す。
凡そ一クラス分の人数だろうか、少女達はそれぞれ得物を携え、臨戦体勢に入っていた。

梓「恐らく私というより生徒会に対する宣戦布告でしょうね。知った顔も何人かいますし私一人じゃあ手に負えないでしょう」

 残虐性で名を轟かす者、単純な戦闘能力で名を轟かす者、敵を欺く狡猾な知性で名を轟かす者。
本質こそ大きく事なれど序列五十位以内の強者もちらほら見受けられる。

梓「貴女はどう動きます?」

 梓の問いに対して文恵は不敵に微笑んでみせた。
そして腰に携えた刀を抜き、洗練された戦闘集団に切っ先を向ける。

文恵「ふふっ、梓ちゃんの仰せのままに」

 とん、と床を蹴る音と共に文恵の姿が消えた。

「──っ!?」

 集団の中の一人が自分達の過ちに気付く。
瞬時に消え、自分達の陣形を内面から崩すように現れたこの少女は……。

「辻ぎ──っ!?」

 少女が恐怖の名を紡ぐよりも速く、文恵は刀の柄を口内に捩じ込ませた。
砕けた歯、口内を満たす鉄の味を感じる前に少女は胸を拳で打たれて昏倒する。
 流れゆくスローな景観の中で文恵が捉えたのは雪崩のように襲い来る人の群だった。

文恵「良いね。興奮しちゃうよ」

 正面から鉈を持って襲いかかる少女を袈裟斬りで一蹴し、素早く持ち替えて脇の下から居抜くように後方へ一突き。

「かはっ──」

 真後ろで人が倒れる音を聞いて文恵は頬を緩めた。

 並み居る人の群の中から文恵を挟むように二人飛び出した。
二人が携えた刀は文恵の首筋目掛けて加速する。
丸腰の文恵がただ立ち尽くすのを見て二人は勝利を確信した。
だがその確信が幻想と化すのは至極当然の事だった。

文恵「ひゅー……。ちょっと焦った」

 両手を交差させ、二本の刀をそれぞれ二本の指で挟んで止める。すると鋭利な刃が瞬く間に溶け始めた。

「これは……?」

「熱!?」

 その力の本質は闘気の道に聡くない二人にも理解出来た。
概念をも具現化させる力が文恵にはあったから。

文恵「私を倒したきゃ核でも持ってこないとね!」

 文恵は背後で膝を付いた少女の身体から刀を抜き、大きく振りかぶった。

梓「──っ!」

 一歩退いて戦況を見ていた梓は真っ先に危険に気付いた。
教室の端まで一気に身を引き、襲い来る熱波に備える。
刹那、文恵の一振りは紅蓮の炎を撒き散らした。
途端に教室内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。
僅かに炎に掠められた自身の前髪を弄りながら、梓は錬獄の向こうの影を見据えた。

梓「規格外……ですね」

純「なんか色々人間辞めちゃってますねこれ」

風子「お互い様でしょ。私から見たら貴女も充分終わってるわよ」

 高みの見物を決め込んでいるのは純と風子の二人。
丁度梓が居る校舎の向かいの棟の屋上。かつて和と純が憂を止めようと闘った場所だ。

風子「しかも貴女はあの子と違って明確な目標も無く動いてる。質の悪さで言ったら貴女の方が上よ」

 眼鏡の奥の眼は険しく吊り上がっている。

純「……あんまり友好的じゃないですね。もしかして私居ない方が良かったですか?」

 純は手摺から身を乗り出し、風子に背を向けたまま呟いた。


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