聳え立つ二つの巨塔。
まさにそう表現するに相応しい二人は病院内で肩を並べて歩いていた。
和「悪いわね付き合わせちゃって」
澪「いや、これくらいならいつでも付き合うよ」
言いながら澪は和が腰に吊ってある得物にちらちら目を移している。
南極で刀を折られて以来雛鳥にチキンを食べさせているような、どうにも形容し難いむず痒い感覚が澪を苛めていた。
和「……あげないわよ?」
澪「……ワカッテルヨ」
擦れたような片言で返すと澪は大きく溜め息を吐いて。
それから二人の間に会話は無かった。
これから何をするのかを考えれば自然と口数が少なくなるのは頷けるが、和には澪が敢えて沈黙という選択肢を選び取っているような気がして気味が悪かった。
和「ここね」
個室棟の一角で和が足を止める。
ネームプレートに書かれた名前を見て澪は一瞬だけ眉を顰めたが、直ぐに何事も無かったかのような無表情に戻り、静かに腕を組んだ。
和「この後に及んで抵抗するようなら迷わず殺して。私の手には負えないだろうから」
澪「ん……」
部屋の主は静かに佇んでいた。
普段二つ結びにしてある髪の毛は乱れたまま放置しており、彼女の瞳はただ虚構だけを映している。
和「凄い変わり様ね……。アンタ一体この子に何したの?」
澪「覚えてないな。あれから色々あったし」
何をするでもなくただひたすらに惚けていた少女は蚊の鳴くような声で呟く。
いちご「……ここに来て初めてのお客さんね。コーヒーでも淹れようか?」
和「──っ」
和は何か言いかけたが澪がそれを片手で制す。
粗末なパイプ椅子に腰掛け、優しく微笑むと澪は言った。
澪「うん。お願いするよ」
小さなマグカップに注がれたコーヒーは泡がやけに窪んでおり、インスタント特有の饐えた匂いがした。
和「……酷い匂いね」
澪「辛辣だな。死人に鞭打ってるようなもんだぞ」
二人のやり取りなどどこ吹く風といった様子で、いちごは首を上下に揺らしている。
抜殻のようなその姿からはかつての天災的な風格は微塵も感じられない。
和「そういう澪も多少の罪悪感はあるんじゃない? あんなに早くこの子の壊れ具合に気付けるって事は、つまりそういう事なんでしょ?」
澪「掘り下げないでよ。人から出されたものにケチつけるのは感心しないって事。別に他意は無いさ」
澪は饐えたコーヒーに怖々と口をつけ、なるべく舌に触れないよう素早く飲み込んだ。
それでも鼻孔を突き抜ける不快な香りに澪は眉を顰める。
和「無理しなくても良いわよ。ただ見舞いに来たってわけじゃないんだから」
澪「良いよ、好きでやってる事だし」
和から差し出されたミントのタブレットを数粒受け取り、一気に噛み砕くとつんと舌を刺激した。
いちご「何の話してるの? もしかして私何か悪いことしちゃったかな……」
あどけない表情を浮かべるいちごを見て和は無性に腹が立ち、澪は哀れに思う。
和「……代わりに聞いてくれない?」
澪「……晩ご飯奢ってもらうよ」
和は澪に耳打ちすると窓際に腰掛け、片手でその表情を覆い隠した。
しっかりしてくれよ、と澪は内心呟く。だがいちごがこうなってしまった原因が自分に帰結する事を考えればそんな我儘は言っていられない。
澪「何から話そうかな……。取り敢えず、私の名前は分かる?」
いちご「……秋山さん」
訝しげに首をかしげつついちごは答えた。
いちご「……? 秋山さんは秋山さんだよ?」
いちごの表情が陰る。
硝子細工のように繊細な動きを見せる彼女の表情はきっかけさえあれば簡単に壊れてしまいそうだった。
意思疎通に若干の不具合はあれど気にするレベルではない。
いちごに他人をしっかり認識する能力が残っている事を確認した澪はいきなり核心に触れようとしていた。
澪「思い出せる限りでいいから答えて」
いちごの手を握り、澪は言う。
澪「君はここ一ヵ月、何をしてたんだ?」
澪の手の中でいちごの手が震えた。
いちご「…………」
視線は澪と和の間を行き来し、呼吸が徐々に荒くなる。
未開の地に一人取り残された子どものように、全ての挙動がぎこちなく変わっていった。
いちご「私は……。寒いとこで……っ」
偏頭痛のような不快な痛みがいちごを襲う。
いちご「あれ……? なんで……っ? 思い出せない、よ……」
いちごの頬が赤く染まり、眼に涙が溜まってきた辺りで澪がいちごを優しく抱いた。
澪「いや、無理して思い出さなくても良いんだよ。ほらゆっくり息吐いて」
背中を擦り、いちご掌を握る力を強める。
脇目で和を見ると、彼女は深く考え込むように顔を伏せていた。
着いて来るんじゃなかった。
澪は舌打ちしてしまいたくなる気持ちを抑えて再びいちごに意識を向けた。
澪「駄目だったな」
和「そうね」
ファミレスの一角で二人はちびちびとコーヒーを啜っていた。
澪「にしても……。まさかあんなに取り乱すとは思わなかったよ。やっぱり無意識にあの時の記憶を身体が拒絶してる、のかな?」
和「……脳震盪起こした事ある? 記憶が飛ぶレベルのやつ」
表情を変えないままの問い掛けに対し、澪は過去の記憶を整理する。
澪「……入学式の時と、去年の体育祭の時。うん、二回あるよ」
和「体育祭か。そういや、去年は唯と当たってたわね」
澪「唯は手加減を知らないからな。ここからここまでぱっくり割れてさ、あの時は大変だったよ。で、それがどうしたの?」
澪は眉尻から髪の生え際まで指でなぞり、からからと笑った。
和「脳震盪とかで飛んだ記憶って医者からは思い出そうとしたり人から聞いたりしてはいけないって言われるでしょ? 記憶が混濁してパニクっちゃうから」
澪「ああ、そういえば言われたかも」
和「つまり、何となく探り入れてみたけどあれは一番やっちゃいけなかったのかもしれないわね……」
それを聞いて澪の眉間に皺が寄った。
澪「私が悪いって言い──」
和「違うわ。深刻な状況だって分かっただけでも充分感謝してる」
澪の言葉を遮り、和は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
和「記憶が飛んだ原因が心因性か否か、後はそれさえ分かればあの子を元に戻せるわ。そうすればあの子の当初の目的も、胸の蟠りも全て晴れる」
澪「…………」
事は終わったにも拘らず胸の中を苛める蟠り。
それは和だけではなくあそこに居た澪以外の者全員の胸に潜んでいた。
澪「……心因性だな」
澪は極寒の地。人の理解の範疇を越えた者同士の闘いの場で何が起きたのかを、誰にも語らない。
澪「私はあの時あの場所で、あの子の心を壊したんだ」
人の闘いが終わり、一対の龍の世界すら巻き込まんとする闘いが始まろうとしている事など、知らない方が幸せだと思ったから。
和「そんなところでしょうね」
だが仮に皆がそれに気付いたところで澪は止めたりはしないだろう。
全ては脚本の導くままに、胸に蟠りを残した物語は綻ぶ事なく突き進もうとしている。
それに逆らうことなど、誰にも出来はしない。
最終更新:2013年03月04日 20:34