* * *
確か、この時、私は憂と話していました。
憂「へえ、あの大きな亀のぬいぐるみ取ってもらったんだ」
梓「うん。鈴木純っていう人にね」
憂「……鈴木、純……?」
この時、憂はとても困った顔をしていました。
憂「ねえ梓ちゃん。その鈴木純っていう人、どんな髪型だった?」
私は記憶に鮮明に残っている、その髪型を余すことなく伝えました。
ついでにモフモフしたい髪型であることを伝えました。
憂「間違いない、純ちゃんだ……」
梓「純ちゃん?」
憂「梓ちゃん、いい?その鈴木純っていう人はね」
憂がこれから何かを話そうとした時、教室に誰かが入ってきました。
その人は真っすぐこちらへ向かって来て、
純「憂、おはよー」
憂「同じクラスの人だよ?」
……えっ。
* * *
とまあ、こんな具合で鈴木とは意外な形で出会いました。
今まで接点が無かったわけではありませんが、名前までは覚えていませんでした。
……鈴木なんて、有り触れた名前すぎて。
純「それにしても、梓とは何だかんだで仲良くやれてない?」
梓「そう?」
純「ちょっとだけでも肯定してよ~、悲しいじゃん!」
いちいち言動や行動がオーバーなのが、この鈴木の特徴でした。
梓「わかったよ。友達だよ、鈴木」
純「純って呼べ」
折角認めたというのに、何が言いたいんですか、この鈴木は。
それしき、大した差でも無いように思えるのですが。
憂「あはは……。それで梓ちゃん、今日の放課後に昇降口で集合だって」
梓「うん、わかったよ」
しかし、水着ですか。……うーん。
梓「……私、泳いだことあったっけ……」
【Yi-side】
‐平沢家‐
‐唯の部屋‐
唯「えっ、泳いだことがない?」
梓「はい」
衝撃が走りました。だって、今日この子は、
唯「水着買ってたよね?」
梓「そうですね」
本格的に何やってるのかわかりません。
泳げないなら浮き輪を使えばいいとか、そんな次元の話ではありません。
この天使は、泳いだこと自体が”無い”のです。
唯「いきなり海には入れるのは、ちょっと危なっかしい気がするねえ……」
梓「どうしましょう……」
泳いだことのない子供を、初めて水の中に入れる。
私自身に、そんな経験はありません。子供側の経験ならありますが、それは関係ありません。
唯一必要とわかっているのは、やはり保護者や監督者の存在でしょうか。……それなら。
唯「よしっ!」
決めました。
唯「私があずにゃんの面倒を見ればいいんだよ!」
梓「えっ」
梓ちゃんは少し、それを遠慮したそうな顔をしました。
梓「それでは唯先輩に迷惑がかかりません?」
唯「そんなこと心配しなくていいんだよー。
それに、水の中に入らなくても、海では十分に遊べるからね」
去年のムギちゃんを思い出しました。凄かったなあ。
梓「ふむ」
梓「……では、お言葉に甘えさせてもらうことにします!」
唯「おーう、私に任せんしゃい!」
これでも部活の先輩やってますから!
‐翌日・音楽準備室‐
律「へえ、これが園芸部のやつがくれた花か?」
唯「うん」
園芸部の置いていった花瓶を指差しながら、りっちゃんが言いました。
花瓶には貰った日のまま、五輪の白いマーガレットが咲いていました。
紬「花がちょっとあるだけでも、部室の雰囲気が変わるね」
唯「ホントだね!」
澪「その雰囲気の変化で、練習する部活になってくれればいいんだけどな」
律「おいおい澪、この程度のことで変化を望めるとでも思ったかー?」
澪「自分で言うな!」
全くです。私が言うべきでもありませんけど。
梓「ダメですよ律先輩、練習しましょう」
律「くっそ~、梓までそっち側かよ~」
なんと梓ちゃん、普段の部活では練習を多くしたい人なのです。
(これが部員として当然の姿といえないこともないですが)
天使の世界でもギター(らしきもの)を弾いていたという話ですし、
きっとギターが大好きなのでしょう。私の部屋で、一緒に練習したりもします。
唯「まずは休憩しないと!」
しかし、あくまで私は休憩したい派。
毎日家での練習を欠かしたことはありませんが、部活での休憩も欠かしたくないのです。
律「そうだ、休憩だ!」
澪「練習!」
梓「練習です!」
澪「くっ、こうなればムギ!」
全員の視線がムギちゃんに集まりました。
私たちが見た先のムギちゃんは……
紬「お茶が入りましたよ~」
澪「ムギ!?」
お茶を入れていました。
* * *
唯「ふう、やっぱりこの一杯に限るねえ」
澪「あんまりだらけるなよ?」
律「大丈夫だって、明日には練習するからさー」
澪「明日の話をしてるんじゃない!」
うん、いつも通り。やはり私たちはこのお茶とともに、日常を生きているのです。
澪「全く……」
紬「まあまあ澪ちゃん、ケーキでも食べて落ち着きましょ?」
澪「それがダメだって言ってるんじゃないか……食べるけど」
何だかんだで、澪ちゃんも軽音部なのです。
唯「ケーキの種類、全部違うね」
梓「じゃあ私から選びますね」
どうして。
梓「ほら、私って唯一の後輩じゃないですか」
唯「皆でじゃんけんしよう!」
あずにゃんに好き勝手させてたまるもんですか。
* * *
じゃんけんの結果、私が一番最初にケーキを選べることになりました。
そこで私は苺のショートケーキを取ったのですが、
梓「あっ……」
と、その時、あずにゃんは露骨に残念そうな声を漏らしました。
私はそれを全力で受け流すことにしました。
梓「唯先輩」
……なんだい、あずにゃんクン。
梓「その苺を食べていいですか?」
いやダメだよ!?
どうやったら苺単体を許可できるのさ!
梓「じゃあ全部ください」
余計に訳がわからないよ……。一体全体、どういう理屈なの。
梓「仕方ありません、このバナナケーキと交換しましょう」
どうやっても私にしかデメリットがないんだけど。
梓「いえ、メリットならあります」
唯「それは?」
梓「私が喜びます」
それはあずにゃんのメリットでしかないよ……。
* * *
梓「あれ、意外とバナナケーキもいけますね」
結局、あずにゃんは自分のケーキを口にすることになりました。
こうあるのが当然なのですが、天使にとってそれが通用するかはわかりません。
まあ、口に合ったのなら、結果オーライですよね。
梓「苺の方が食べたいですけど、美味しいです」
根に持たれてるなー、私。
唯「わかったよ、帰りに苺ケーキ買って帰ろう?」
梓「え、いいんですか?」
その“してやったり”って顔を止めてから口を開こうか、あずにゃん。
紬「ふふ、微笑ましい光景ね~」
律「……そうか?って、あれ」
律「これなんだ?」
りっちゃんがテーブルの下に何かを見つけました。
それをりっちゃんが持ち上げたところを見ると、私には何かの花弁のように見えました。
唯「花弁?」
律「そうみたいだな」
その花弁は、白いものでした。……白?
梓「……マーガレット?」
梓ちゃんのその言葉で、他の四人の身体がびくっと震えました。
まさか、花瓶の……。
紬「……でも、数は五輪のままよ。花も散ってないし……」
紬「確かに貰った時も五輪だったのよね、唯ちゃん?」
唯「うん、確かにそうだったよ」
澪「だとすれば、全く違うところから運ばれた花弁?」
紬「でも、ここは三階よ?
窓も大体の時間帯は閉めているし、花弁が風に乗って入ってきたことは考えにくいと思うの」
誰かの体にくっついて、ここまで運ばれた可能性もあります。
ですが、そんな可能性よりも私が恐怖を覚えたのは、その花弁の形状でした。
……その花弁は、花瓶に咲くマーガレットと、全く同じ色形なのです。
つまり、その花弁はマーガレットのものであることが明らかでした。
律「……種類は全く同じっぽいし、何かの偶然とは考えにくいけどな」
そのことはりっちゃんも気づいていました。
やはり、白いマーガレットの花弁のようです。
律「もしかしたら、ここの花のうち一本が取り換えられたー、とかな」
りっちゃんは冗談っぽく言いました。……その可能性も否定できないのですけどね。
紬「何かの誤りで一輪だけ潰してしまったから、一輪だけ新しいものに交換したってこと?」
律「ま、そんなことないだろうけどな~」
紬「むしろ、その可能性が一番高い気もするんだけど……」
まあ、もしかしたら先生とかが誤って、何かしちゃった可能性もあります。
花弁一枚が落ちていたからといって、それほど深刻な問題ではないでしょう。きっと。
澪「……取り換えるって、そんなことあるわけないと思うけどな」
律「何で?」
澪「何となく、だ」
梓「……むう」
軽音部内の人間がお互いを疑う、なんてことにはなりませんでした。
それは、部外の人間のせいである可能性もあるから……、という理由もあります。
しかし何よりも、お互いがお互いを信頼しているから疑う必要が無い……、ということなのでしょう。
それでも薄気味の悪い空気を払拭することは出来ず、私たちはそのまま解散となりました。
‐外‐
帰り道。りっちゃんと澪ちゃん、ムギちゃんと別れ、
今はあずにゃんと並んで歩いていました。
空はどんよりと曇っていて、雨こそ降っていませんが、見ているだけで気持ちが沈んでしまいます。
梓「唯先輩」
あずにゃんが突然、私の名を呼びました。
唯「なに?」
梓「今日の花弁の話ですが……」
何か気づいたことでも、あるのかな。
梓「心当たりとか、あるんですか?」
……ああ、そっか。この子は。
唯「どうだろうねえ」
梓「悪い方向に考えるには、まだ早いですよ」
唯「うん、そうだね」
確かに、天使なんだね。
唯「ところでさ、あずにゃん」
梓「はい」
唯「あずにゃんも、だいぶ人の気持ちを読めるようになったよね」
梓「それは、どういう意味ですか」
唯「……もしかして私を気遣ってるの?」
そうだ……、天使みたいに、とっても優しい子なんだよね。
梓「いえ、何の事を言っているのか、さっぱりです」
唯「ふーん……。そっか」
それなら、今は……。
唯「……ねえ、お願い」
梓「はい?」
その優しさに、ずっと、ずっと。……甘えさせてくれますか?
梓「……はい」
唯「ありがと、あずにゃん」
私はあずにゃんにギュッと抱きつきました。
あずにゃんは、そっと私の頭を撫でてくれました。
あったかくて、気持ちいい。……時間がゆっくりと流れていくようです。
梓「唯先輩……」
―――空は厚い雲に覆われ。道に立つ人は、不安を覚える。
そうして不安に潰された人は、嫌なことしか考えられなくなっていく。
ついには、前に進むことを拒みたくもなったことでしょう。
しかし、私は救われた。天使は私のすぐ側にいてくれた。
不安から救い、道に光を示してくれる。
空に広がる厚い雲を突き抜け、越えさせてくれる。
私は、その天使の優しさに触れて。
そうして私は、その子の優しさを、温かさが……
梓「……唯先輩、いい加減暑苦しいんですけど」
唯「もうちょっとだけ……」
……いつしか、大好きになっていました。
第六話「雨のち曇り、時々温もり」‐完‐
―――第七話に続く
最終更新:2013年03月16日 21:25