* * *
純から散々抗議の声を浴びせられましたが、
最後には全く動じない私を見て、
純「……わかったよ。私たちの間では、
あずにゃん二号って名前にしてあげる」
と、肩を落として言っていました。
ふむ。これが根競べというものでしたか。
ひとしきりの文句を言った後、
純がなにか呟いたように聞こえたのですが、
もう一度言ってと頼んでも、純は小首を傾げるだけでした。
純「にしても困ったなあ……。目撃情報がここまで少ないとはね」
純は手振りを交え始めました。
純「もっとこう、さ。手掛かりとかを頼りに、
猫の辿ったルートを推理するー……、みたいなことしたかったのに。
それがまともないんじゃ、お手上げだよ」
最後、純は実際に両手を上げました。
果たして、本当にそうでしょうか。
目撃情報なら、あることはあります。
では、もしこの先、それが一つのままだとしたら……。
梓「まずさ、住宅街で猫は誰も見てないんだから、
誰も見れないルートを猫は通ったことになるよね?」
純「……まあ、そうだね。
そもそもあの住宅街が人通りがあまり多くない、
住宅街だからかもしれないけど」
梓「でも、この先はそうは行かないんじゃない?」
私は自分たちの立っている道、
そこからさらにその先へと指差していきました。
この道は先に行くと、大通りに出ています。
そこを右折すれば、ちょうど純の家の方角です。
そこは車通りは多く、歩行者用信号も設置されていました。
当然、人通りも多いです。
憂「純ちゃんの猫は、あの交差点を右折するわけだよね」
純「いや、あんな騒がしいところは通らないよ。
確か手前の公園から、フェンスを越えて……」
純はなんとか記憶を絞り出すように、
腕を組んで考え込みました。
純「そう、大通りに出る手前の、右側にある小さい公園見える?」
純に言われた方を見ると、確かにそこに、
木々に囲まれた小さな公園がありました。
よくよく目を凝らすと、ベンチに誰かが座っているのが見えました。
純「そこの公園に入って正面のフェンスを越えると、
丁度猫には丁度いい道になってるんだよ」
道と言いましたが、恐らくそれは建物の隙間か、
塀のことなのでしょう。それはともかく。
憂「じゃあ、公園に行けば、
その日に猫を見た人がいるかもね!」
純「期待出来るんじゃない?」
行かない手は、ありません。
* * *
純「じゃああの日、この時間帯にここにいたけども、
先輩は猫を見てないんですね?」
「そうだねー、見てないねー」
公園に行くと、遠くから見たとおり、人がベンチに座っていました。
どこかで見た顔でした。
思いだすと、その人は園芸部の先輩でした。
文化祭のとき、花壇の近くに立っているのを見たことがあります。
その人は犬を連れて公園に来ていました。
さらに驚くことに、純の猫がいなくなった日にも
この公園に犬を遊ばせに来ていたと言うので、
早速話を聞きました。
ですが、収穫はなし。純がはっきりと落胆していました。
園芸部B「まあ、力になれなくてごめんねー」
憂「いえ。すみません、時間を取らせてしまって」
園芸部B「いいのいいのー。じゃあねー」
相も変わらず、間延びした喋り方で別れを口にすると、
園芸部の先輩は犬を連れて公園を去りました。
小さな公園には、私たち三人だけが残りました。
憂「……どうする、純ちゃん?」
純「今日は一旦帰ろう。
一応、猫が通ったコースを掴めただけでも成果だよ」
純の表情は、全く言葉と対照的でした。
* * *
薄闇が広がり、街灯がちらほらと灯される時間帯。
私たちは公園から、来た道をそのまま戻っていました。
純「うーん、今日こそいけると思ったのにー……」
憂「また明日も手伝うよ、純ちゃん」
私は歩きながら、気になってることがありました。
純の話が本当なら、猫は確かにあの日、
あの公園を通ったはずです。
純の話が間違えているか、猫の気紛れが発動したか。
どちらもあり得そうといえば、あり得そうでした。
とはいえ、それよりも考えられるべきことが、
あるような気がしていました。
それは、
憂「……もしかしたら純ちゃんの猫、この道でいなくなっちゃったのかな」
ということ。
憂「公園を通ってないんだもん。だとすれば、この道で……」
純「猫が誘拐されるの?まさか?」
梓「か」
可能性は、ゼロじゃない。
そう言おうとして、私ははっとして、口を閉ざしました。
こんなこと言ってはいけません。
純を必要以上に傷つけてしまいます。
梓「……誘拐は、ないよ。猫だし」
純「ん。ありがと、梓」
なんだか恥ずかしくなって、私は顔を逸らしました。
私たちのすぐ横を、白い軽トラックが通り過ぎるのが視界に入りました。
左折すると商店街に繋がる角で、その軽トラックは停止しました。
なんとなく視線をそのまま、商店街の方へ向けていきました。
目撃談にあった、散歩道という名の塀。
そこから歩いて、この道へと出た先には。
梓「……荷台?」
まさか。
首を横に振って、その考えを吹き飛ばしました。
こんなこと言ってしまえば、
それこそ猫はどこに行ったのか見当がつかなくなります。
そもそもあの日、あそこにトラックが止まっているかどうかも、
私たちにはわかりません。
純が、突然足を止めました。
純「まさか」
まさか。私と、同じ考えを持った?
憂「純ちゃん?」
憂が心配そうに、純を見ていました。
軽トラックはすぐに走りだしました。
道の先へと進む軽トラックはまるで、
雲がかかる空へと走っていくようにも見えました。
純は立ち尽くしたまま、その道の先を、
ただ呆然と眺めていました。
【Yi-side】
‐平沢宅‐
‐唯の部屋‐
唯「あずにゃん、おかえり」
帰るとき、今日もちょっとだけ繋いだ、
澪ちゃんの手の温もりを思い出しながら、
部屋でベッドに座りながらギターを弾いていると、
あずにゃんが部屋に入ってきました。
梓「ただいまです」
唯「どうだった?」
梓「今日は少しだけ、進歩がありました」
そう言うあずにゃんの表情には、翳りがありました。
ギターを傍らに置いて、立ち上がり、
あずにゃんの顔を覗き込みました。
唯「……なにがあったの、あずにゃん?」
梓「いえ」
理由を聞こうとする私を、
あずにゃんはたった一言で拒否しました。
唯「話せないほど深刻な事情があるの?」
梓「そういうわけでは」
少しむっとしてしまいました。
唯「なら、どうして?」
梓「まだ決まったわけじゃありませんし、
それに、それ以上に……」
あずにゃんは段々と口数が減っていきました。
それにつれて、私の不満は溜まっていきました。
唯「あずにゃんは言ってたよね。悪い方に考えすぎるなって。
なら、今のあずにゃんはなんなの?」
梓「それとこれとは、話が別です」
唯「そんな言葉で、片付けないで……。
私、あれでもあずにゃんには何度も救われたんだよ?
どうして、自分を救ってあげられないの?」
自分でも激情が抑えきれていない自覚がありました。
しかし、どうしても自分を救ってくれた言葉を、
簡単に片付けられてしまうのは許せませんでした。
しかし。
梓「この件にも、そして私にも、事情は沢山あります。
唯先輩の知らないようなものも、沢山」
あずにゃんの言っていることは、抽象的すぎます。
全然。全然そんなんじゃ、伝わってきません!
唯「あずにゃんの言ってること、全然わからないよ……」
梓「私だって、自分の可能性を信じたいときだってあります!
力を試したいときだってあるんです!」
あずにゃんは初めて声を荒立てました。
それは悲痛な叫びに聞こえました。
今のあずにゃんの姿が、夏の私と重なって見えて、
それが余計に私の感情を煮え立たせていました。
唯「……だったら何でまず、自分を救ってあげられないの」
梓「自分より先に他人を救って、何が悪いんですか!」
唯「自分を幸せに出来なくちゃ、誰も幸せに出来るわけないじゃん!
あずにゃんはそれだから……!」
……言葉を吐き終えて、はっとしました。
あずにゃんは目を丸くして、こちらを見ていました。
その顔から次第に血の気が引いていきました。
梓「唯、先輩?」
薄く開いた口から出た、消えてしまいそうな声。
その目は虚ろで、生気がありませんでした。
梓「どうしてそれを……。
私が人を幸せしようとしていることを、知っているんですか……?」
あずにゃんは、人を幸せにしたい。
その願いを私は知る由もありません。
ただし、あずにゃんの中では。
梓「それに、それだから……なんですか?
まさか唯先輩は、私のことを、もう……知っているんですか?」
不幸を呼び込む黒猫の天使が、
幸せを与える人のもとへやって来た。
あの時の純ちゃんの言葉が脳裏に蘇りました。
あずにゃんは項垂れ、力なくぽつりぽつりと、
言葉を呟いていきました。
梓「……すみません。ちょっと今日は、疲れました」
唯「あずにゃ……」
梓「明日。明日、また話をしましょう。
今日は、そう、顔を合わさない方が、いいですね」
あずにゃんは自分の目を、手で覆いました。
梓「……もうずっと、なのかもしれませんけど」
私が次の言葉を繋ごうとする前に、
あずにゃんは突然、目の前から姿を消しました。
いえ、違います。黒猫の姿になっていました。
これが本来のあずにゃんの姿。
そして、あずにゃんは窓を器用に開きました。
一度、こちらへ振り向きました。
その目が一瞬輝くと、すぐに正面へ向き直り、
窓の外へと出て行ってしまいました。
唯「……」
部屋にはただ私一人が、突っ立っていました。
茫然自失としていました。
次に気が付いたのは、下の階から憂の呼ぶ声が聞こえたときでした。
やっちゃった。
私は膝から崩れ落ち、そしてベッドに顔を埋めました。
声を殺して、気付かれないように。私は泣き叫びました。
開いた窓から入ってくる冷気が、私の身体を震えさせました。
結局あずにゃんは、家に帰ってくることはありませんでした。
次の日も。次の次の日も。
あずにゃんが失踪してから、三日目。
“これはけじめです。ごめんなさい”と書かれた紙が、
私の部屋の机に置かれていました。
私はそれを見て、再び泣き崩れてしまいました。
あずにゃんは部活を辞めました。
―――例の悪夢が思い出されました。
あずにゃんは私へ、こう言い放ちました。
傲慢。
あずにゃんの本質を知っておきながら、
それでも一緒にいれるものだと、信じて疑わない。
今までの私のそれは、傲慢だったのでしょうか。
それだけではありません。あずにゃんと出会ったばかりの日。
私はあずにゃんを少し馬鹿にしていた一面があったかもしれません。
丁度、生まれたばかりの赤ちゃんが、
社会常識に精通していないところを笑っているような。
これは間違いなく、私の傲慢でしょう。
端から私は、あずにゃんとの距離を掴み損ねていたのです。
それが今になって、不注意に距離をゼロにしてしまった。
何故あずにゃんは事実を隠していたのか。
それを私は一度でも、考えたことがあったでしょうか。
これ以上踏み込んだ領域に達したら大変なことになると、
そのような懸念を、私は抱いたことがあったでしょうか。
そして。私は、あずにゃんのことを、
どれだけ多くわかってあげていたのでしょうか。
唯「ああ……」
……答えは、言うまでもありません。
第十五話「黒猫の失踪」‐完‐
―――第十六話に続く