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『地獄への道は善意で舗装されている』


誰の言葉か知らないけれど、
何処かで聞いた事のあるその言葉を、最近、身に染みて感じてる。
別に世を儚むほど年齢を重ねてるわけじゃないし、
世界全体を残酷な物と捉えて、あるのかどうかも知らない地獄を連想してるわけでもない。
この自分の考えが思春期の漠然とした不安から来てるって事も分かってる。
我ながら可愛げが無い性格をしてるなあ、と思わなくもないけど、
これが生まれついて以来、付き合って来た自分の性格だからどうしようもない。

小さく嘆息。
中学三年生の夏休みが終わって、少し経った秋口の空の雲を私は見上げる。
雲は茜色の空に普段通り浮かんでいて、私の考えなど知った事じゃないって様子に見えた。
雲と私の思考が連動してるわけじゃないんだし、
そんなの当然だったけど、それでも何だかやるせなくなって、私はまた少しだけ溜息を吐いた。

雲を見上げながら、夏休み前に友達に言われた言葉が脳裏に響くのを私は止められない。
あの日以来、期を見計らっては耳鳴りみたいに響くあの言葉。
私に何度も何度も溜息を吐かせてるあの言葉が、また私の脳裏に響いている。


『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね、梓』


あの日、一緒に音楽をやって来た友達は、
少しだけ残念そうな口振りで、苦笑しながらそう言った。
中学生になってからずっと一緒に音楽をやって来たのに、あの子は少しだけ残念そうに笑った。
ずっと一緒に音楽をやってたのに……。
ちょっと背伸びして難しいジャズを選んで練習して、
苦労しながら少しずつ確実な演奏が出来始めた頃だったのに……。
あの子は……、そう言って笑った。
少しだけ、残念そうに……。

あの日以来、私はあの子と疎遠になった。
夏休み、何度か息抜きの遊びに誘われる事もあったけど、
受験勉強で忙しいから、と返して、あの子からの誘いは全部断った。
学校で話し掛けられても、おざなりな返事を返す事しか出来ない。
そんな事しちゃいけないって分かってても、私はそんな反応をする事しか出来なかった。

裏切られた、と感じた。
ずっと一緒に音楽をやっていく仲間だと思ってたのに、
よりにもよってちょっと残念そうな顔しか浮かべてくれなかったあの子が恨めしかった。
私達の関係はその程度の関係だったの? って何度も問い詰めそうになった。
私は今まで通りの私達で居られれば、それだけで嬉しかったのに……。

でも、私だって本当は分かってる。
あの子はそんなに勉強が得意な方じゃない。
私だって勉強せずに受験に臨めるほど優等生なわけじゃない。
同じ高校に進学して、また二人で笑い合うためには、私達の練習は中断するべきだって事は分かってる。
夏休みから受験が終わるまでは我慢と雌伏の時だってあの子は分かってるんだ。
そう。あの子の言う事は全面的に正しいんだ。
こんな事で裏切られたと感じてしまってる私の方こそおかしいんだろう。

そんなの分かってる。
分かってるに決まってるじゃない……。
そんな事が分からないほど、私は子供じゃないんだから……!


「でも……なあ……」


分かってるはずなのに、私は苦々しく呟く事をやめられない。
もしかしたら、何も分かってないのは私の方なのかもしれない、って考えが私の脳裏を過ぎる。
あの子はこれからの自分の事を考えてる。私の事もきっと考えてくれてる。
だから、言いにくかったはずなのに、自分から切り出してくれたんだと思う。
これから勉強に集中しようって。
自分達の将来について真剣に考えようって。
それを分かりたくない私の方こそ、ずっとずっと子供なのかもしれない……。
何だか自嘲気味に笑いまで漏れて来た。
何もおかしくなんてないのに。

ただ一つ言えるのは、あの子は善意で行動してくれたんだって事。
私を傷付けるつもりも裏切るつもりも無かったんだって事。
それだけは私にも分かってる。
だからこそ、裏切られた、今のままで居たい、
って感じてしまってるのは、単なる私の我儘なんだろうと思うし、きっと現実にもそうだ。
あの子の善意を受け取れられなかった私の方が、恐らくは子供なんだ……。


『地獄への道は善意で舗装されている』


またその言葉が私の頭の中に浮かんで来る。
善意が、辛い。
善意をそのままに受け取れなくて、苦しい。
世界は悪意に包まれてるってよく聞くけど、もしかしたら違うのかもしれない。
本当はほとんどの人が善意から行動しているのに、
周囲に居る人達を幸福にしようと努力しているのに、
その行動が結果的に地獄に繋がってるだけなのかもしれない。
この言葉通りに。
私は最近、そういう事ばかり考えてる。


「……それはそうと」


私はこれまでと違った意味で嘆息しながら、周囲を見回してみる。
平日の夕暮れの公園。
防犯のためか、TVゲームで遊んでいるからなのか、
子供達の姿はほとんど見えなかったけど、それは別に珍しい光景じゃない。
自分が日焼けしやすい体質だって事もあって、
私も子供の頃は外よりも家の中で遊ぶ事の方が多かった。
単に公園の古い遊具で遊ぶ子供達が減って来たってだけなんだろう。

何故か私と同い年くらいのカチューシャをしたショートヘアの人が、
友達らしい長い黒髪の人を連れて、楽譜を見ながらドラムのスティックを振り回していたりしたけど。
位置的に丁度いいのか、ブランコの外柵をリズム良く叩いたりもして……。
まあ……、何をするのも、人それぞれって事だよね……。

楽譜……か……。
部活で音楽をやってる人達なんだろうか。
こんな夕暮れにも練習してるって事は部活帰りなのかもしれない。
いいなあ……。
羨望の気持ちが私の胸に湧き上がる。
私だって音楽がしたい。またあの子とセッションしたい。
自分の部屋で一人でギターを弾くのは寂しいよ……。
弾きたく……ないよ……。

夏休みに入って以来、私はギターを弾いてない。
受験勉強のために練習を中断したのに、あの子と距離を置いたのに、
それでもギターを弾くなんて、色んな意味で裏切りに思えて仕方が無かったから。
私達はただ中断してるだけ。
受験が終わればまた音楽を続けられる。
そう信じられるために、私は部屋の隅に置いたギターに視線を向ける事も避けるようになっていた。
だから、私は今はあまりギターを弾きたくない。
弾くのが……怖い……。
ギターを弾いていて孤独を感じて、ギターを嫌いになりたくないから……。

私が見つめていた事に気付いたのか、
カチューシャをしたボーイッシュな人が私の方に視線を向けた。
一瞬、私達の視線が交錯する。
まじまじと見つめるなんて、失礼な事をしてしまったかもしれない。
私は自分の顔が少し熱くなるのを感じながらも、その人に軽く会釈して公園の倉庫の裏手に回る。
別に公園の倉庫の裏手に行きたかったわけじゃない。
そこしかその人の目から逃げられる場所が見つからなかっただけだった。
そんな事をするくらいなら、公園から出て行けばいい……。
自分でも分かっていたけど、私には何故かそれが出来なかった。
何故だかここから離れちゃいけない気がしてるんだよね……。

大体、アウトドア派でもないのに、どうして私は公園に来てるんだろう?
特に外出する用事も無かったはずなんだけど……。
外の空気が恋しくなったってわけでもないし……。
喉が乾いたから、ジュースでも買いに行きたかったんだっけ……?
って、今お金持ってないじゃない、私……。
分からない……。
家で勉強をしていたら、気が付けば本当に衝動的に私はこの公園まで来てた。
テレパシーか何かで誰かに呼ばれたんだろうか?
前世から運命で繋がった光の戦士に……とか……?
まさかね……、そんなオカルトやファンタジーじゃあるまいし……。
そうやって自分の中学生らしい空想に自分で苦笑して、肩を竦めた瞬間、


「あのー……」


「ふにゃっ!」


唐突に後ろから声を掛けられて、私は変な声を出してしまった。
自分で出した声ながら、「ふにゃっ!」って何よ、私……。
そんな事だから「梓って猫っぽいよね」とか言われちゃうのよ、私……。
ううん、そんな事よりも……。

本当に光の戦士だったりして……、
ってちょっとだけ本気で考えながら、私は恐る恐る振り返ってみる。
そこにはまた私と同い年くらいの……、
でも、さっきのカチューシャの人とも黒髪の人とも違う女の子が首を傾げて立っていた。
まとめるには少し短めの柔らかそうな髪をリボンでポニーテールにした女の子。
家庭的な女の子っぽい服装や穏やかな表情から、何処か優しそうな印象を受ける。
多分、本当に優しい性格の子なんだろうと思う。

いやいや、そんな事は今は関係無かった。
光の戦士とか関係無さそうな子でよかったけど、私はこの子を知らなかった。
見かけた事もないはずだから、確証は無いけど同じ学校でもないと思う。
でも、だとしたら、知り合いでもないこの子が、私に何の用事があるって言うんだろう……。

瞬間、その子が急に私の両手を取って、急ににじり寄った。
拳二つくらいの至近距離で、私とその子は見つめ合う事になった。
な、何……?
どうしてこの子は私の手なんか握ってるの……?
気圧されて胸が強く動悸するのを感じながら、私はどうにかその子に訊ねてみる。


「な、何……? 私に何か用なの……?」


「よかった……」


「えっ?」


「やっと……、会えた……」


「何の話……?」


「あの……、すぐには信じてもらえないかもしれないんですけど……、どうか私の話を聞いて下さい。
いいですか? 驚かずに聞いて下さいね……。
どんな願い事でも一つだけ叶えられる一生に一度のチャンスが、貴方にやって来たんです……!」


「……はっ?」


私が若干呆れた声を出すと、そのポニーテールの子は恥ずかしそうに少し目を伏せた。
どうやらその子も自分が荒唐無稽な事を言ってる事には気付いていたらしい。
片方は事態を全く分かってなくて、もう片方は照れた顔で目を逸らしていて……。
冷静に考えなくても、何だかとても間抜けな出会いのシーン。
とても間抜けだけど、それが私とその子の始まり……。
これから私とその子の何かが始まるんだ、って、何故か私もそれだけは確信出来ていた。




「えっと……」


何かを言葉にしようとして口を開いたけど、上手い言葉が思い付かなくてすぐに閉じる。
私の手を握った子の方も照れた様子で新しい言葉を探してるみたいだった。
初対面なのに手を握られて二人で沈黙してるなんて、変な状況にも程がある。
どうしよう……、早くこの空気をどうにかしたい……。
本当に前世からの知り合いとかじゃないよね……?

でも、不思議とその子から逃げようという気は、私の中に湧き上がらなかった。
同い年くらいだからってのもあるけど、
その子の雰囲気が何故か私を落ち着かせてくれた。
きっと私だけでなく、その家庭的な服装に大人しそうな顔つきで、
普段から周囲に優しい空気を漂わせて、皆に温かさを振る舞っているんだろう。
もしもこの子が私のクラスメイトだったりしたら、
私も迷いなくこの子に気軽に話しかけていたに違いない。
私とは全然違うタイプの子なんだろうな、ってちょっと羨ましくなる。


「一生に一度のチャンス……って?」


私は少し苦笑してから、彼女の言葉を促してみる。
この子に困った表情を取らせたままだと、何だか私の方が居た堪れない。
どんな用件にしろ、まずはこの子の話を聞いてあげるのが一番だろう。


「は……、はいっ。
すみません、突然こんな事言われても、何が何だか分からないですよね……。
『対象者』の人にやっと会えたのが嬉しくて、私、つい舞い上がっちゃって……」


「『対象者』……?」


「はい、『対象者』と言うのはですね……。
……あっ! すみません、私、ずっと貴方の手を握ってしまってましたね……。
今から詳しい事をご説明しますから、あちらのベンチに座りませんか?」


その子は私から手を離して、倉庫裏から辛うじて見えるベンチを指差した。
確かに倉庫裏で女同士で手を握り合ってるだなんて、
クラスメイトにでも見られたらどう誤解されるか分からないしね。
友達の間では登下校手を繋いでる子達も居るけど、
残念ながら私はそういう事が出来るタイプじゃない。
その子に促されるままに脚を進めようと思った瞬間、ちょっと迷った。
まだ時間もそんなに経ってない事だし、カチューシャの人達がまだブランコ周辺に居るかもしれない。
あの人達の視線から逃げて倉庫裏に来たのに、図々しくまた顔を出すのはちょっと恥ずかしい。


「あの……?」


その子が首を傾げて、私の顔を覗き込む。
私が妙に躊躇っているのを変に思ってるんだろう。
ううん、もしかしたら、自分自身が不審に思われてるんじゃないか、って考えてるのかもしれない。
その証拠にその子はまた不安そうな表情を浮かべていた。
初対面なのに、その子にそんな顔をさせるのはやっぱり少し心苦しかった。
私は首を横に振って、足を一歩踏み出して口を開いた。


「ううん、何でもない。何でもないの。
一緒にベンチに行きましょう、えっと……」


「あ、ヒラサワです。
私、『ヒラサワウイ』って言います」


私がその子の呼び名に困ってるのに気付いてくれたらしく、訊ねる前に応じてくれた。
私の想像通り、細かい気配りの出来る子みたいだった。

『ヒラサワウイ』……。
『ヒラサワ』の漢字は平沢かな。
『ウイ』はどう書くんだろう?
初……、羽衣……、他に何か漢字あったかな……。
まあ、今はいいか。
私は軽く頷いてから、平沢さんがさっき示したベンチに足を進めた。


「ありがとう、平沢さん。
じゃあ、ベンチに座りましょう。
詳しい話はそれから……、って事でいいですよね?」


「はい!」


私が言うと、こっちが嬉しくなってくるくらい、平沢さんが笑顔で頷いてくれた。
私は友達が多い方じゃない。
自分でも自覚出来るくらい固い性格だと思うし、
そもそも友達が沢山欲しいって思うタイプでもなかった。
仲のいい友達がほんの少し居てくれれば十分だって思うタイプだ。
そんな感じで友達が多いわけじゃない私だけど、
平沢さんみたいな子と会って話をするのは初めてだった。
言ってる事は荒唐無稽なのに、どうしてか凄く信頼出来るって感じられる。
全身から滲み出る人柄の良さのおかげかもしれない。

ベンチまで歩いて行って、平沢さんより先に腰を下ろす。
少し待ってみたけど、平沢さんは私の隣に座らなかった。
突然居なくなったわけじゃない。
平沢さんはベンチ横に立ったままで、意外な方向を見つめていた。
平沢さんの視線の先では、カチューシャの人と黒髪の人がまだ楽譜を見つめていた。
幸い、カチューシャの人達は私の存在を気にしてないみたいだったけど、
そんな事より平沢さんが寂しそうな表情を浮かべている事の方が気になった。
穏やかな雰囲気を漂わせてる平沢さんのその表情……。
何だか今にも泣き出してしまいそうな様子にも思える。


「……お知り合いですか?」


訊ねるべきかちょっと迷ったけど、気付けば私は平沢さんにそう訊ねていた。
訊ねるべき事じゃなかったのかもしれないけど、
平沢さんにそんな表情をさせるものの正体を知りたかったんだと思う。
平沢さんは微苦笑を浮かべ、ゆっくり頷いてから私の質問に応じてくれた。


「はい。お姉ちゃんの同級生の方達です。
とっても楽しくていい方達なんですよ」


その言葉に嘘は無かったと思う。
でも、微苦笑を浮かべながらも、その寂しそうな瞳が変わらなかったのが気になった。
あの人達が本当に『とっても楽しくていい方達』なら、
どうして平沢さんはこんなに寂しそうにしてるんだろう……?


「そうなんですか……。
私待ってるから、声を掛けて来てもいいですよ」


「ううん、いいんです。
今は……、声を掛けられませんから……」


「今……は……?」


「そんな事より」


平沢さんが私の隣に腰を下ろして、急に笑顔になった。
もうその表情から寂しさは感じられなかった。
『今は』という言葉の意味が気になったけど、
初対面の相手に食い下がって深い所まで訊ねるのも失礼な気がしたから、私は口を閉じた。
平沢さんは笑顔のまま、優しい声になって続ける。


「もう夕暮れですし、お時間を取らせるのも申し訳ないので、すぐ説明しちゃいますね。
あ、でも、それより先に……、
失礼ですけど、貴方のお名前をお訊ねしていいですか?」


言われて初めて気付いた。
そう言えば、私はまだ名前を名乗ってなかった。
平沢さんの名前を教えてもらっておきながら、これは失礼な事をしてしまったみたいだ。
私は軽く頭を下げてから、小さく口を開いた。


「ごめんなさい、平沢さんには名前を教えてもらってたのに……。
私は中野梓って言います。
よろしくお願いします、平沢さん」


初対面の相手に名前を名乗るなんて不用心だったかもしれない。
だけど、私は何の抵抗も無く、平沢さんに自分の名前を名乗っていた。
大好きってわけじゃないけど、決して嫌いじゃない私の名前。
この世界に生まれて以来、ずっと付き合って来た私の名前を。
何故かこの初対面の平沢さんに知ってほしい気分だったんだと思う。

平沢さんが笑顔のままで頷いてから続ける。


「教えてくれてありがとうございます、中野さん。
素敵な名前ですね。中学一年生くらいですか?」


「中三なんですけど……」


「えっ? そうなんですかっ?
実は私も中三なんですよ。
同級生だったんですね、中野さん!」


私の言葉に平沢さんが驚いた声を上げた。
自分で鑑みるのも嫌なんだけど、私は小柄な方だ。
女性的な曲線ってやつにもまだ乏しいし、
実年齢より幼く見られる事なんて日常茶飯事なんだよね、悲しい事だけど……。
でも、中学一年生って言ってくれただけ、まだよかったのかも。
酷い時なんて、小学生に間違えられる事もあるもんね……。
確かに小六で私より大きな子なんて沢山居るしね……。

でも、驚いたのは私の方も同じだった。
同級生くらいだと思ってはいたけど、
平沢さんがまさか本当に同級生だなんて思ってなかった。
落ち着いた雰囲気もあったから、てっきり高二くらいだと思ってたんだよね。

私達が同級生……。
そう考えた瞬間、私はつい軽く笑ってしまっていた。
何だかとっても滑稽な気がしたからだ。
抑え切れず、私は笑い声を漏らしてしまう。


「あははっ」


「えっ、えっ?
どうしたんですか、平沢さん?」


「あははっ、だって……、
同級生で気を遣い合って敬語で話し合うなんて、何だかおかしくて。
私の方はいいよ?
平沢さんの事、二歳くらい年上だって思ってたんだもん。
でも、平沢さんったら、自分より二歳は年下だと思ってた子に敬語使ってたんでしょ?
律儀と言うか丁寧と言うか……、あはははっ」


「え、でも、初対面の人ですし……」


私がどうして笑ってるのか分からないって様子で、平沢さんが真顔で呟く。
多分、平沢さんの言っている事の方が間違ってないんだろう。
年下とは言え、初対面の人間には敬語で話し掛ける方が確かに普通だ。
でも、そう分かってても、年下の子に丁寧な敬語で話し掛ける人なんてほとんど居ない。
それを律儀にやっちゃうのが平沢さんって子なんだろう。
やっぱり今まで私の周囲には居なかったタイプの子だ。
新鮮で、何だか楽しい。


「中野さん……?」


平沢さんが戸惑った表情を私に向ける。
その平沢さんの様子を見て、私はまたこの子の事をよく知りたいって思った。
『一生に一度のチャンス』って言うのが何なのかまだ分からないし、物凄く胡散臭い。
でも、それを抜きにしても、私は平沢さんにとても興味を持った。
まだ確証は無いけれど、平沢さんが嘘を言ってないって気までしてる。
だから、私はもっと平沢さんの事を知りたくて、笑顔で言った。


「ごめんね、平沢さん、変に笑っちゃって……。
でも、うん、もう大丈夫。
それより平沢さん、私達が同級生って事が分かったわけだし、敬語はやめない?
私も敬語を使うのやめるから……、どう?」


「えっ、でも……。
……うん、分かった。そうだよね、同級生なんだもんね。
これからは普通に話すよ、中……ううん、梓ちゃん。
これでいいかな?」


「うん、それでお願い」


返事をしながら、私は本当はちょっとだけ戸惑っていた。
敬語をやめようと発案したのは私だけど、まさか呼び名まで変わるとは思ってなかったから。
堅苦しい口調はやめたかっただけなんだけどな……。
でも、それもいいかな、って不思議とそう思えた。
平沢さんにとっては、名前の呼び方も含めて、敬語と普通の喋りの線引きがあるんだろう。
私の方はまだちょっと照れ臭いから呼べそうにないけど、
その内に平沢さんを名前で呼ぶのも悪くないかもしれない。


「……それで本題に戻るけど、平沢さん。
『一生に一度のチャンス』って何なの?
……宗教とかじゃないよね?」


「うん、宗教じゃないよ、梓ちゃん。
誰が呼び始めたのかは私も知らないんだけど、『チャンスシステム』ってシステムがあるの。
その『チャンスシステム』の順番が、今回、梓ちゃんに来たって事なんだ」


『チャンスシステム』……。
余計に胡散臭い上に微妙に安っぽい……。
平沢さんは信じられるけど、そのシステムはどうにも信じられない……。
と言うか、信じたくないなあ……、単に気分的にだけど。
平沢さんもそれは百も承知みたいで、微苦笑を浮かべながら説明を続けてくれた。


「『一生に一度のチャンス』って言うのはね、
名前の通り一生に一度だけ誰にでも来るチャンスの事なの。
神様なのか仏様なのか分からないけど、
そんな誰かに何でも一つだけ好きなお願いを叶えてもらえるシステムなんだよ」


「それは……、何と言うか……。
こう言うのも悪い気がするけど、凄く胡散臭いね……」


「あはっ、こう言われてもすぐには信じられないよね。
私も最初はそうだったもん」


「平沢さんも……?」


「うん、そうなんだよ。
私ね、もうチャンスシステムにお願いを叶えてもらってるんだ。
実はお願いを叶えてもらったら、一度だけ果たさないといけない義務が発生するの。
それがね、自分が『ナビゲーター』になって、
次の人に『チャンス』を伝えて、導いてあげる事なんだよ」


「次の『チャンス』って事は……、
平沢さんも前に他の『ナビゲーター』の人に導いてもらったって事なの?
いや、まだ『ナビゲーター』って言うのが、どんな役割なのかは分からないけど……」


私が横目に訊ねると、平沢さんは目を細めて軽く頷いた。
楽しい事を思い出しているような、
でも、辛い事も一緒に思い出しているような、そんな複雑な表情だった。
数秒くらい経ってから、平沢さんは私の方に顔を向け直して、また微笑んでくれた。


「うん、私も前の『ナビゲーター』の人にお世話になったんだ。
年上のお姉さんだったんだけど、元気で、前向きで、楽しい人で、
どんなお願いを叶えてもらったらいいのか分からない私のアドバイスもしてくれて……、
本当に……、素敵な人だったなあ……」


平沢さんのその表情はとても輝いているように見えた。
楽しさも辛さも全部抱えたからこそ浮かべられる表情……、そんな気にさせられる。
いいなあ、と思った。
今の私には多分、平沢さんみたいな表情を浮かべる事は出来そうにない。
いつかは私も平沢さんみたいに微笑む事が出来るんだろうか……?
それはまだ、分からない。

そうして少し私が黙り込んでいたのを別の意味に捉えたのか、
平沢さんが困ったような苦笑に表情を変えて、ゆっくりと首を傾げた。


「やっぱり……、いきなりこんな事を言われても戸惑っちゃうよね。
私もそうだったから分かるよ、梓ちゃん。
逆にね、こんな話をすぐに信じられたら、私の方が心配になっちゃうもん」


それはそうだ。
もしこの平沢さんの話が本当だったとして、
願いを叶えてもらった私が『ナビゲーター』になった時に、
次の『チャンスシステム』に選ばれた誰かにこの話をすぐ信じられたら、私だって逆に不安になる。
こんな話、そう簡単に信じられるはずがない。

でも、気が付けば私は苦笑してしまっていた。
私の中の複雑な葛藤が滑稽に思えたからだ。
私の頭の中の理性は平沢さんの話を否定している。
そんな荒唐無稽な話が存在するはずがないって警告している。

同時に。
私の心は完全に平沢さんの言葉を信用していた。
何故だか上手く説明出来ないけど、平沢さんの言葉を真実だって受け止めている。
頭じゃなくて、心が平沢さんの全てを信用してるんだよね……。

不思議な感覚だった。
頭で思う事と心で感じる事が逆だって経験が今まで無かったわけじゃない。
例えば立ち入り禁止の屋上に行く時なんか、
頭で屋上に行っても誰も気にしないから大丈夫と思いながら、心では後ろめたい気分を感じたりしていた。
そんな風に、人間には頭と心がそんな相反した事を感じてしまう事が結構あるはずだと思う。

だけど、こんな感覚はやっぱり初体験だ。
『頭では信用するべきだって分かってるが、俺の心と本能がこいつを信用するのを拒絶している』
っていうシーンは、映画や小説でよく目にする。
今の私の状況はそれとは全く逆だった。
頭で疑うべきだと分かってるのに、心で完全に信用しちゃってる、なんて。
自分でも分かるくらいに滑稽で、何だか笑えて来る。
ひょっとすると、それも『チャンスシステム』の効能みたいな物なのかな……?
って、そんな風に考えちゃう事自体、もう平沢さんの事を信用しちゃってるって証拠なんだろうなあ……。


「あ、そうだ!」


両の手のひらを胸の前で軽く重ねると、
平沢さんが何かを思い出したみたいな甲高い声を上げた。
どうしたの? と私が訊ねるより先に、
平沢さんはベンチから立ち上がって小走りにブランコの方に向かっていた。
ブランコまで残り数歩くらいの距離に辿り着いた時、
平沢さんはその場に立ち止まってから私の方向に振り返って少し大きな声で言った。


「梓ちゃん、見ててね!
これは前の『ナビゲーター』の人が、
『チャンスシステム』を信じられない私に見せてくれた事なんだけど……」


そこまで言うと、また平沢さんは私に背を向けて小走りにブランコに向かった。
平沢さんはすぐにブランコの外柵を越えて、
そのままブランコに乗るのかと思ったけど違った。
ブランコを素通りして平沢さんが足を止めたのは、
ドラムの練習をするカチューシャの人のすぐ後ろ側だった。

何をするつもりなんだろう……?
それはそれで疑問だったけど、私はもう一つ大きな疑問を胸に抱いていた。
平沢さんは小走りにブランコに向かって行ったけど、
その間中、カチューシャの人と黒髪の人は平沢さんの方に一度も視線を向けなかった。
ドラムの練習に夢中ってだけの話じゃない。
あの二人は知り合いのはずの平沢さんに、
これまで一度たりとも視線を向けてなかった気がする。
いじめとかそんな単純な話でもない。
例えいじめにしたって、ここまで完璧に無視する事なんて出来ないはずだ。
ひょっとして、あの二人には平沢さんが見えてない……の?

私の疑問を証明するみたいに、
平沢さんは腰を屈めてカチューシャの人の耳元に自分の唇を寄せていた。
な……、何だか背徳的な雰囲気だなあ……。
って私が変な事を考えたのと同時に、
平沢さんは大きく息を吸い込んでからその唇を尖らせて……。


「あぅんっ!」


カチューシャの人から甲高い声が上がる。
ボーイッシュな外見に似合わず、その声は何だか妙に色っぽい。
……それはともかくとして。
そのカチューシャの人の反応から判断するに、
平沢さんはその人の耳に息を吹きかけたらしかった。
そういう事をする子に見えなかっただけに、私はちょっと驚いていた。
でも、それ以上に驚いたのは、その後のカチューシャの人達の行動だった。


「ど……、どうしたんだよ、律!
何があったんだ?」


カチューシャの人――律さんという名前らしい――から、
一メートルくらい離れた場所に居た黒髪の人が、驚いた表情で駆け寄ってその肩を叩く。
原因なんて分かり切っているのに、平沢さんの方に視線一つ向けないで。
黒髪の人に訊ねられた律さんも、
平沢さんなんかその場に居ないみたいに、不思議そうな表情を浮かべて呟いていた。


「急に耳に生暖かい空気が当たってさ。
いやー、何か気持ち悪かったなー……。
ひょっとして、澪、おまえの仕業か?
あの距離から私の耳を狙って息を吹き掛けられるなんてすげーな……」


「そんな事出来るか!」


「照れるな照れるな。
私がドラムの練習ばっかりやってて寂しかったんだろ?
いやーん、澪ちゃんったら寂しがり屋さんなんだからあ!」


「気持ち悪い事を言うな!」


黒髪の人――澪さんらしい――が軽く叫んで律さんの後頭部に拳を下ろす。
「いでぇっ!」という律さんの呻き声から察するに、その拳はかなり痛そうだ。
バ……、バイオレンスだなあ……。
私はまだほとんど知らない律さんの事が心配になったけど、
律さんは殴られた後頭部を擦りながらも楽しそうに笑い出していた。


「冗談だよ、冗談。
でも、練習に夢中になって、澪に構えてなかったのは本当だしさ。
多分、生暖かい空気も気のせいだろ。
ひょっとすると、汗が耳にでも入ったのかもな。
ま、そんな事はどうでもいいや。
私の練習ばかりしてても仕方が無いし、次は澪のベースの出来を見てやるよ。
エアベースでさ、今から弾いてみろよ」


「ここでっ?」


「何だよー。
もうすぐ学祭なんだから、開けた場所での練習もしとかなきゃだろ?
心配しなくても、大丈夫だよ。
今の所、公園に居るのは、あのベンチに座ってるツインテールの子くらいだろ?
一人くらいの観客には耐えられるようになっとかなきゃな」


「ううー……、それはそうなんだけどさ……」


「ほらほら、ファイトファイト!」


殴られたというのに、澪さんに対する律さんの対応はとても優しかった。
きっとそれがあの二人の関係なんだろう。
からかわれても、殴られても、それでもお互いを許し合えて、尊重し合える関係。
傍から見るだけでそんな二人の関係が強く感じられる。
私もあの子とそんな関係になりたかった。
離れていても信じ合える関係で居たかった。
受験が終われば、あの子とまたそんな関係を歩んでいけるんだろうか……?

……ううん、そんな事より、今は考えなきゃいけない事がある。
律さん達から少し離れて申し訳なさそうに頭を下げている平沢さんに、私はゆっくりと視線を向けた。
その視線に気付いたらしく、平沢さんが苦笑しながら私の座るベンチまで小走りに戻って来た。
ベンチに腰を下ろしながら、平沢さんが静かに私に訊ねる。


「どう、梓ちゃん?
分かってもらえた……かな?」


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最終更新:2013年03月23日 21:34