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突然の状況に私が動揺している事に平沢さんも気付いたらしい。
平沢さんは心配そうな表情で私の顔を覗き込んで、私に訊ねていた。


「梓ちゃん、大丈夫……?
『お試しお願い』、叶ったんだよね……?」


「そ……、そうだと思うんだけど……」


それ以上の事は私にも言えなかった。
確かな事は何も分からない。
何せ私の想像していた状況と全然違ってるんだもん。
私は『平沢さんの事をもっとよく知りたい』ってお願いをした。
どんな環境で生きて来たら、平沢さんみたいな素直で優しい子になるのか。
それを知りたかった。

だから、私はてっきりこの『お試しお願い』が叶ったら、
平沢さんの思い出か情報が頭の中に突然流れ込んで来るとか、
家に帰ったら誰がまとめたのか分からない平沢さんについてのレポートが置いてあったりとか、
そんなちょっと安っぽいSFみたいな状況になる物だとばかり思っていた。
むしろ、そうなる事こそ望んでいたのに……。

なのに、これは一体全体どういう事なんだろう。
まだ律さんと澪さんの様子を確認しただけだから分からないけど、
この調子だと私も平沢さんと同じく『石ころ帽子』を被った状態になっているんだろう。
それは後で確かめられる事だし、後で確かめればいい事だとして、
どうして私の『お試しお願い』がこんな形で叶ってしまったかって事の方がどうしても気になった。
平沢さんに失礼かもしれない、と頭の片隅で思いながらも、気付けば私は平沢さんに訊ねていた。


「ねえ、平沢さん……。
平沢さんの『一生に一度のお願い』って何をお願いしたの?
よかったら教えてくれない?」


「えっ、どうしたの、突然……?」


「お願いってどんな形で叶うものなのかなって思って……。
だって、こんな……、ううん、ごめんね、平沢さん。
人の『一生に一度のお願い』を聞くのなんて失礼だよね。
ごめん、ちょっとびっくりしちゃって……」


「う、ううん、梓ちゃんが悪いわけじゃないよ。
でも、梓ちゃんがそう言うって事は、
『お試しお願い』が想像してた事と違った形で叶ったって事なんだよね……?
私も何となくそれは気付いてたんだ。
だって、律さんと澪さんがさっきから急に梓ちゃんの方を見なくなったんだもん。
「ツインテールの子はいつの間にか居なくなっちゃってた」って律さんも言ってたし……。
って事は、梓ちゃんも『石ころ帽子』を被った状態になっちゃったって事でしょ?」


鋭い子だな、と私は舌を巻いた。
私が何を説明するよりも先に話の先を読んでいてくれる。
気配り、観察眼、性格、何をとっても私より先んじてる。
悔しくなってくるくらいに……。
やっぱり、平沢さんの事、もっとよく知りたいな……。
って、今はそんな事を考えてる場合じゃないよね。
私は平沢さんの瞳を正面から見つめながら頷いた。


「うん、そうなんだ。
今の状況、私がお願いした事と全然違ってるの。
だから、平沢さんのお願いはどんな形で叶ったのかな、って思ったの。
失礼な事を聞いて、ごめんね」


「こっちこそごめんね、梓ちゃん。
『一生に一度のお願い』の事はちょっと内緒にさせてほしいんだ……。
流石にそれを誰かに知られるの恥ずかしくて……。
でも、私の『お試しお願い』の事なら教えてあげるね。
それが参考になったら何よりだって思うし……」


「いいの、平沢さん?」


「うん、それくらいなら大丈夫だよ。
それで私の『お試しお願い』なんだけど、
私は『お姉ちゃんを元気で幸せにしてあげて下さい』ってお願いしたんだよ」


「お姉ちゃん……?」


そういえば平沢さんは律さんと澪さんを『お姉ちゃんの同級生の方達』って言ってたよね。
一人っ子の私には分からないけど、
普通の妹はお姉さんの同級生の事を憶えているものなんだろうか。
まあ、普通に憶えているものなのかもしれないけど、
お姉さんの同級生を憶えるくらいにはお姉さんに興味がある事だけは間違いない。
ううん、むしろ平沢さんの様子を見る限り、お姉さんの事をかなり好いてるみたいだ。
大体、『お姉ちゃんを元気で幸せにしてあげて下さい』ってお願いするくらいだもんね……。
何だか自分の事しか考えていなかった私の事が恥ずかしくなってくるけど……。


「どうしたの、梓ちゃん……?」


そうやって私が複雑な表情を浮かべていたせいだろう。
平沢さんが心配そうにまた私に訊ねた。
いけないいけない、今は平沢さんのお願いの事だ。
私は軽く自分の頬を叩くと、平沢さんに視線を向け直した。


「ごめんね、またちょっと考え事しちゃってたみたい。
とにかく、平沢さんはお姉さんの元気と幸せをお願いしたんだよね?
そのお願いはどうだった?
お姉さん、元気で幸せになってた?
……って、傍から見てるだけじゃ、
元気なのか幸せなのか分かりにくいかもしれないけど」


「そんな事無いよ、梓ちゃん。
『お試しお願い』が叶って一週間、お姉ちゃんすっごく幸せそうだったよ。
夏の暑さに弱いお姉ちゃんなんだけど、
その一週間はすっごく元気だったし、幸せそうに微笑む事も増えてたもん。
本当に元気で幸せになれてたんだと思うなあ……」


そう言ってから平沢さん自身も幸せそうに微笑んだ。
お姉さんの幸せが平沢さん自身の幸せでもあるんだろうな。
でも、その数秒後、平沢さんの笑顔は少しだけ曇った。
幸せなのに幸せじゃない……、そんな感じの表情に見えた。
私がそれを指摘するより先に、平沢さんはまた微笑んで話を続ける。


「だからね、梓ちゃん。
『お試しお願い』はちゃんと叶ってるんだと思うよ?
想像してた形とは全然違ってるのかもしれないけど、きっと叶ってるんだと思う。
何か心当たりないかな?
よかったらでいいんだけど、梓ちゃんの『お試しお願い』が何だったのか訊いてもいい?」


「あ……っと、それは……」


私は口ごもってしまう。
親身になってくれる平沢さんに真実を話したい気持ちはやまやまだけど、
流石に面と向かって『貴方の事を知りたかったから』って本人に伝えられる度胸は私には無い。
だから、私はちょっと嘘を吐いていた。
完全な嘘ではないけど、本当でもない事を口にしてしまっていた。


「私の『お試しお願い』はね……、えっと……。
『平沢さんと同じ生活をしてみたい』ってお願いだったんだ」


「私と同じ生活……?」


「うん、だって、平沢さんっていい所のお嬢さんっぽいじゃない?
だから、どんな生活をしてるのかなって気になっちゃって……。
セレブリティな生活を体験してみたかったんだよね」


「ええっ、私がお嬢さんだなんて、そんな事無いよ、梓ちゃん。
私の家、普通だし、私自身だって普通だよ?
お嬢さんっぽい所なんて無いと思うんだけど……」


「ううん、それこそ無いよ、平沢さん。
平沢さんの家は本当に普通の家なのかもしれないけど、
平沢さん自身はすっごくお嬢さんの貫録を漂わせてるもん。
落ち着いてるし、気配りも出来るし、
優しく私に『チャンスシステム』の説明もしてくれるし、だから……」


平沢さんの事が知りたかったんだ、
って心の中だけで言ってから私は軽く苦笑した。
誤魔化しから出た言葉だったけど、
あながち今の状況に繋がってなくもないって感じたんだよね。
私は苦笑を浮かべたまま、平沢さんに向けて言葉を続けた。


「何か……分かっちゃったかも……。
私、『平沢さんと同じ生活をしてみたい』ってお願いをしたでしょ?
それを神様か仏様が変な風に受け取っちゃったんじゃないかな?
『平沢さんと同じ生活をしたい』って事は、平沢さんと同じ様な状態になりたい』。
つまり、『平沢さんと同じく石ころ帽子を被った状態になりたい』ってお願いか!
って、お願いを叶えてくれる誰かさんが勘違いしちゃったのかも」


「そ……、そうなのかな……。
そんなに適当でいいのかな、『チャンスシステム』って……」


「分からないよ?
大体、あんまり無茶なお願いはスルーするって変わった神様じゃない?
それくらい適当な所があるのかも」


そう言って私が笑うと、平沢さんも困ったように苦笑してくれた。
口から出任せを並べてみただけだけど、何故かそれが正解な気がする。
お願いを叶えてくれるのは結構適当な神様みたいだから、
『平沢さんの事が知りたい? だったら平沢さんと同じ状態になってみたら?』、
って考えたのかもしれないし、その想像は多分間違ってないだろうな。
本当に適当な神様だなあ……。

でも、神様だか誰なんだかが何を考えていたにしても、
こうなってしまった以上は『お試しお願い』を取り下げる事は出来ない気がする。
もしも訂正しようともう一度お願いを試してみて、
それが『一生に一度のお願い』と勘違いされて叶えられても困るしね……。
勘違いで叶えられちゃった一つ目のお願いかあ……。
何だか私らしいと言うか何と言うか。

何となく平沢さんの表情を窺ってみると、
平沢さんの責任じゃないのに申し訳なさそうに肩を落としていた。
面倒見のいい性格だけに、何でも自分の責任として考えちゃう子なのかもしれない。
私は慌てて平沢さんの肩に軽く手を置いた。


「そんな顔しないで、平沢さん」


「で、でも……、折角の梓ちゃんの『お試しお願い』がこんな事になっちゃって……。
私がもっとちゃんと詳しく説明していれば、こんな事には……」


「いいんだってば、気にしないで。
変な勘違いしちゃった神様が悪いんだし、
私だって我ながら変なお願いをしちゃった気もするしね。
だから、これは平沢さんの責任じゃないよ。

それにね、これで一応は『お試しお願い』の効力が確かめられたわけでしょ?
『チャンスシステム』の事は実はまだ半信半疑だったけど、
こんな事になっちゃった以上、もうシステムの事を信じるしかないもん。
そういう理由ではしっかり『お試しお願い』の意味があったんだなあ、って私は思うよ」


「そう……かな……。
梓ちゃんがそう考えてくれてるんだったら、私も安心出来るんだけど……」


「うん。だから、気にしないで、平沢さん。
これは変なお願いをしちゃった私の責任なんだし、
『一生に一度のお願い』の時はもっとちゃんとお願いについて考えるから」


その言葉は平沢さんへの慰めからの言葉でもあったけど、本心からの言葉でもあった。
実は『一生に一度のお願い』の事は本気で考えたい、
って気持ちは平沢さんの事を信用する前から既に私の中にあった。
『一生に一度のお願い』の事を平沢さんから話された時、
それが本当に叶うにしろ、叶わないにしろ、それは考えなきゃいけない事だって思ったから。
自分の進んでいく将来のために……。

私は中学三年生だ。
受験をもう少し先に控えた時期……。
将来について考えるのには、少し早い時期かもって気は勿論してる。
だけど、私の夢の一つについて考えるのには、遅過ぎる時期でもあった。
考えなきゃいけないんだ。
私の夢の内の一つを諦めるか、継続させるのかどうかを。
だから、『チャンスシステム』の話を抜きにしたとしても、
私は自分の叶えたい『一生に一度のお願い』を考えなきゃいけないんだと思う。
そういう意味で、私は今の時期に平沢さんと出会えただけでも運が良かった気がする。

まだ私の中でそのお願いがはっきり固まってるわけじゃない。
固まらせられるかどうかも分からない。
でも、この『お試しお願い』の効力が続くらしい一週間、
私はその『一生に一度のお願い』を精一杯探して行きたい。
それがこの先、あの子との付き合い方を決めるって事にもなるんだろうから……。

だけど、それよりも何よりも。
私達には決めなきゃいけない事がたくさんあった。
私は少し申し訳ない気分になりながら、平沢さんに訊ねてみる。


「ところで平沢さん……、これからどうしよう?
さっきも言ったけど、私、『一生に一度のお願い』についてよく考えてみたい。
『お願い』が出来る期限が来るまで、考えたいんだ。
平沢さんはそれでもいい?」


「うん、それは勿論だよ、梓ちゃん。
私だって梓ちゃんには一番いい『一生に一度のお願い』を見つけてほしいもん。
私もね、自分のお願いを見つけるのには、丸ごと一週間掛かったんだ。
その間、前の『ナビゲーター』の人は私の事を待っていてくれたの。
私も梓ちゃんにそうしてあげたいから、
梓ちゃんはこの一週間、自分の『一生に一度のお願い』について考えてみて。
そうしてくれた方が、私だって嬉しいな」


「ありがとう、平沢さん」


私が軽く微笑み掛けると、平沢さんも柔らかく微笑んでくれた。
その微笑みはとても嬉しかったけど、同時にちょっとだけ私の胸は痛んだ。
一週間後……、じゃなくて、
お願いが叶った後は私も『ナビゲーター』をやらなきゃいけないから、約二週間か。
その約二週間後には、私の心の中から平沢さんの記憶は消えてしまうらしい。
折角いい友達になれそうだったのに、何だかとても……残念だな……。
でも、その分、私はこの一週間で平沢さんの事を本気でよく知ろうと思う。
例え消えてしまう思い出だとしても、
それには何かの意味があるはずだって思いたい。

私がそうして一人で決心していると、
不意に平沢さんが私の両手を握って私の瞳を覗き込んだ。
顔を少し赤く染めながら妙に真剣な表情で、平沢さんはその口を開いた。


「あの……、それでね、梓ちゃん……。
凄く突然で不躾な事を言うかもしれないんだけど、
あのね……、梓ちゃんに一つお願いしたい事があるんだ……」


平沢さんはそのお願いを私に申し出た。
その申し出は私にも願ったり叶ったりで、
断る理由なんて全然無かったら、快く了承させてもらった。

ちなみに公園から自宅に戻る直前、
念の為に澪さんの耳元に息を吹き掛けてみたけれど、
律さんと同じく、澪さんも私の姿に気付いた様子は無く、
「急に耳に息を吹き掛けるな!」と律さんの後頭部を強く叩いただけだった。
半分以上分かってはいた事だけど、
やっぱり私も平沢さんと同じく『石ころ帽子』を被った状態になっているらしい。
それはそれとして。
私達のせいで二回も澪さんに叩かれる事になって、ごめんなさい、律さん。
いつか何かでお詫びが出来ればいいんだけど、出来る機会があるかなあ……?




「平沢さんが私に会えて嬉しかった理由がよく分かったよ……」


自室のベッドに腰を下ろしてから、私は大きく溜息を吐いた。
平沢さんが私の猫型クッションに正座をしてから、軽く苦笑して頷く。


「あはは、分かってもらえて嬉しいな。
それにしても、結構危なかったよね、梓ちゃん。
大丈夫? 怪我は無かった?」


「あ、うん、それは大丈夫。
でも、本当に危なかったし、びっくりしちゃったよ……。
あの時、平沢さんが私の手を引いてくれなきゃ、
大怪我どころか死んじゃう所だったと思うなあ……。
ありがとね、平沢さん」


「ううん、梓ちゃんが元気なら何よりだよ。
あ、そういえば前の『ナビゲーター』の人が言ってたんだけど、
『ナビゲーター』はどんな状態になっても死なないんだって。
大怪我をしても、お腹がどんなに空いても、死ぬ事は無いらしいんだよ。
……誰も試した事ないらしいんだけどね」


「試さないでしょ、そんなの……」


試したいとも思わない。
死なないからって好き好んで痛い目に遭う趣味なんて私には無いし……。

ちなみに『危なかった』と言うのは、さっき私が車に轢かれそうになった事だった。
私が信号無視をしたわけじゃない。
車の方が信号無視をしたわけでもなければ、
道路で轢かれそうになってた子猫を助けようと私が飛び出したわけでもない。
私も平沢さんも車も交通法規を守っていたけれど、結果的に私が轢かれそうになってしまったのだ。

交差点の横断歩道の信号機が青になった時だった。
青信号を確認した私が普段通り横断歩道を渡ろうとした瞬間、
交差点を左折しようとした車と私が衝突しそうになってしまったのだ。
平沢さんが私の手を引いて歩道に引き寄せてくれたから難を逃れたけど、
車は私の事なんか見向きもせずにそのままクラクションも鳴らさずに直進して行った。
何て危険なドライバーだろう、と一瞬考え掛けたけど、すぐに考え直した。
そうだった。
私は『石ころ帽子』を被ってしまっているんだ。
車のドライバーは危険な運転手だったわけじゃなくて、単に私達の姿が見えてなかっただけなんだ。

そう考えた途端、ぞっとした。
私の姿が見えていないという事は、私を轢いても何の気にもしないという事なんだ。
気にしないどころか気付かないって事なんだ。
これは怖いなあ……。
ちょっとそこまで歩くだけでも命懸けだ。
平沢さんが言うには『ナビゲーター』は死なないらしいけど、そういう問題じゃない。
さっき平沢さんと初めて公園で会った時、妙に平沢さんが嬉しそうだった理由がよく分かる。
私に出会えた事も勿論嬉しかったんだろうけど、
私に出会うまでの道程が心底大変だったに違いない。
私と違って一人きりで私を探していたわけだし、その心細さは察して余りあるくらいだ。

大変だったんだね、平沢さん。
そう言おうと思って口を開いた瞬間、「あのね」と平沢さんが先に言葉を口にした。
別に今伝えないといけない言葉でもない。
私は口を噤んで平沢さんの次の言葉を待つ事にした。
数秒後、少し躊躇いがちに平沢さんが言葉を続ける。


「私の我儘を聞いてもらっちゃってごめんね、梓ちゃん。
迷惑だったでしょ?
急に梓ちゃんの家に泊めてほしいなんて……」


来る前から遠慮がちだったけど、
申し出を私に簡単に受け入れられた事で、
余計に平沢さんの私への申し訳なさが膨れ上がってるみたいに見えた。
初対面の相手の家に泊まりたいって言い出すだけでも、
平沢さんには相当に勇気の居る事だったんだろうしね。
本当の事を言うと、私だって初対面の相手を泊めてあげる社交性なんて無い。
今だってちょっと緊張してる。
でも、平沢さんを泊めてあげたいって思ったんだ。
それは私が平沢さんともっと話がしてみたかったからでもあるけど、
私の家に泊まりたいって申し出た時の平沢さんの表情が寂しそうでもあったからでもある。

どうしてそんなに寂しそうなんだろう。
その平沢さんの気持ちは自宅に戻った時にちょっとだけ分かった。
自宅に戻った時、お父さんはいつの間にか家に帰って来ていて、お母さんと夕飯を食べていた。
私の夕飯を用意しないで、二人で談笑しながら、夕飯を食べていたんだよね。
これは私の胸もかなり痛くなった。
勿論、お父さん達が私を無視してるわけじゃない。
私が『石ころ帽子』を被った事で、存在自体を気にしなくなってしまってるんだろう。
それを分かってはいても、その光景はやっぱり辛かった。

私は別にお父さんとお母さんと仲良しってわけじゃない。
クリスマスくらいには家族で過ごす事もあるけど、それ以上仲良くしてる憶えはない。
だけど、別に仲が悪いってわけでもない、普通の家庭環境だと思う。
私の年頃だとそれくらいが当然だろう。

でも、多分、平沢さんは違う。
平沢さんがお姉さんを大切にしてる事は初対面の私にもよく分かる。
何せ『お姉ちゃんを元気で幸せにしてあげて下さい』ってお願いをするような子だ。
自分よりお姉さんの事を第一に考える子なんだ。
きっとお姉さんの事が本当に大好きなんだろうって思う。
そのお姉さんに自分の存在が気付かれないなんて、
傍に居ても気付いてもらえないなんて、どれだけ辛い事なんだろう。
一人っ子の私には想像すら出来ない。
だから、せめて私は平沢さんの申し出を叶えてあげたくなったんだ。
短い間だけど、その間くらいは……。

私は出来る限り優しく平沢さんに微笑み掛ける。
笑顔が得意なつもりはないけれど、微笑んであげたかった。


「いいんだって、平沢さん。
私も平沢さんともっと話してみたかったし、お願いを叶えてもらう立場なんだしね。
私に出来る事でよければ何でも言ってよ」


「でも、それじゃ、梓ちゃんに悪い気がして……」


言いながら、平沢さんが頬を赤くして私から目を逸らす。
人に気配りが出来る子なのに、他人から何かされる事には慣れていないのかもしれない。
何となく、勿体無いな、と思った。
これだけ誰かの事を考えられる子なんだから、
平沢さん自身だって誰かから大切にされてもいいはずだ。
ただ、それを伝えるには、まだ私では説得力が足りない気がした。
そういう言葉を伝えられるのは、もっと平沢さんと仲良くなった友達だけだ。
そうでない人間が何を言っても嘘っぽいだけだろう。

だから、私は思い付いた事を言った。
さっき律さんと澪さんを見ていて、思い付いた事。
それをきっかけとして、平沢さんの事をもっとよく知れたら。
それこそ私のためにも、平沢さんのためにもなる事だと思う。
特に今の私は都合良く『石ころ帽子』を被ってる状態になってるんだしね。

私はベッドから腰を上げて、平沢さんの二の腕を軽く掴んだ。
わざとらしくちょっと悪い笑顔を浮かべて、申し出てみる。


「そうだ!
だったら平沢さん、私のお願いも聞いてくれない?
勿論、『一生に一度のお願い』じゃない方のお願いね。
私が平沢さんのお願いを聞く代わりに、平沢さんも私のお願いを聞いてくれる。
これなら平沢さんだけが気に病む必要は無くなるでしょ?
これこそ等価交換だよ」


「えっ……?
う、うん、私に出来る事でよければ……」


「ありがと、平沢さん。
じゃあね、私、ちょっと行ってみたい所があるんだけど……」




「練習、始まらないね……」


私はちょっと呆れながら、平沢さんと顔を合わせて呟いた。
平沢さんはそれには何も答えずに苦笑して、軽く首を傾げるだけだった。
確かに平沢さんの立場としては、どうにも反応しにくいだろうけどね……。

部室。
とは言っても、私の部室でも平沢さんの部室でもない部室。
私達は長椅子に腰を下ろして、昨日顔を知ったばかりの人達の部室に来ていた。
私達が座る長椅子の先、音楽室には不似合いな机が並べて固められている。
そこでは三人の女子高生が紅茶を飲んで談笑していた。

カチューシャをしたショートヘアの律さん。
流れる黒髪が綺麗で美人の澪さん。
それともう一人、こんな所に居るのが不自然にしか思えない柔らかい金髪の人が居た。
金髪の人は紬さんと言う名前で、この部のキーボードを担当しているらしい。
ちなみに昨日見た通り、律さんはドラマー、澪さんはベーシストなんだそうだ。
それは全部、私の隣で苦笑している平沢さんが教えてくれた事だった。

そう。ここは桜が丘女子高等学校の軽音部部室。
私が平沢さんに無理に頼んで連れて来てもらった場所だった。
昨日、律さん達が公園でバンドの練習をしているのを見て、私、思ったんだよね。
ひょっとしたら、律さん達は学校で軽音楽部かジャズ部にでも入ってるんじゃないかって。
平沢さんに訊ねてみたら、私の想像は正しかったみたいで、
律さん達は平沢さんのお姉さんと同じ、桜が丘女子高等学校の軽音楽部に所属していると教えてくれた。

それが分かった途端、私は律さん達の姿をどうしても見たくなった。
一つ年上らしいけど、同じ年頃の女の子達がどんな音楽活動をしてるのかを。
それも何の飾りも無い本当の意味での生の姿を。
それが私の夢と『一生に一度のお願い』にとって大切な事だと思ったんだ。

その意味で、私は幸運だったんだろう。
今の私は、神様の勘違いか、適当なシステムの弊害か、
とにかくそんな偶然で、平沢さんと同じく『石ころ帽子』を被ったみたいな状態になってしまった。
誰にも気にされないし、誰にも気付かれない妙な状態に。
困った状態では勿論あるけど、これは使えるかもしれないって私は気付いた。
この状態なら誰にも気付かれないし、誰にも迷惑を掛けずに目的を果たす事が出来るもんね。
律さん達の軽音楽部の生の活動が、この目で見る事が出来るんだもん。
いい加減な神様だけど、その辺だけは感謝してもいいかもしれない。

だけど、一つだけ気がかりな事もあった。
平沢さんのお姉さんの事だ。
平沢さんはお姉さんとかなり仲がいいみたいで、
お姉さんに他人相手の視線を向けられるどころか、
『石ころ帽子』の効果で完全に無視されてしまう事を相当辛く思ってるみたい。
私だってそれなりの仲のお父さん達に完全に無視されてしまうのは、かなり胸が痛んだ。
平沢さんの辛さは私なんかには想像も出来ないくらいだと思う。
だから、お姉さんが所属する部の部屋に案内して、なんて本当は頼みづらかった。
平沢さんが辛いみたいだったら、部室の大体の場所だけ教えてもらって一人で行こうかとも考えてたくらい。
幸い、桜が丘女子高校……桜高は受験するつもりだったから、場所くらいは知ってるしね。

でも、平沢さんは昨晩した私のお願いを快諾してくれた。
「お姉さんが居るかもしれないのに、いいの?」と恐る恐る訊ねると、
「最近、お姉ちゃんは顧問の先生の家で特訓してるから、部室に顔を出してないみたいなの」と笑ってくれた。
そういえば昨日、律さんがもうすぐ学祭って言っていたような気がする。
平沢さんのお姉さんはその特訓をしてるんだろう。
その偶然は私にとっても、多分、平沢さんにとっても好都合だった。
本音を言うと、平沢さんのお姉さんがバンドのギタリストらしいから、
同じくギターをやってる私としては一番見ておきたかったんだけど、そこまで望んだら流石に罰が当たるよね。

そういうわけで、私は自分の中学を休んで桜高の軽音楽部に行く事にしたんだよね。
学校をサボるのなんて初めてだったからちょっと緊張したけど、
平沢さんが言うには、この『チャンスシステム』中は何故か欠席扱いにならないらしかった。
『石ころ帽子』の効力なのかどうかは分からないけど、これはまた律儀な神様だなあ……。
余計な事を考えずに『一生に一度のお願い』の事だけを考えなさい、という事なんだろう。
色んな所で抜けてながら気配りが出来る、って本当に変な誰かさんだ。
おかげ様で欠席に何の罪悪感も無く……、
ってわけにはいかなかったけど、少しだけ救われた気分で桜高に向かう事が出来た。

桜高に到着したのはお昼の二時過ぎになった。
朝ごはんを食べたり、色んな用意をしている内に、遅くなっちゃったんだよね。
部活は放課後からだからそれでも何の問題も無いんだけど、
そんな事より困ったのが朝ごはんの時の平沢さんの行動だった。
昨日の夕飯は適当に置いてあったカップ麺を食べたんだけど、
平沢さんは「もう食べたから」と言って、もう一つあったカップ麺に手を伸ばそうとはしなかった。
その時は、そうなんだ、としか思わなかった。

異変に気付いたのは今日の朝の事。
お父さん達が家から出た後に食パンを二人分焼いて、
平沢さんの前に置いても平沢さんは食パンを食べようとはしなかった。
「今、お腹空いてないから」と平沢さんは呟いたけど、
その空腹に満ちた表情で言われても、何の説得力も無かった。
流石にもう私にも平沢さんの嘘は通じない。
心配になって平沢さんを問い詰めてみると、
『ナビゲーター』になってから一食も口にしてない、としばらく後に告白してくれた。

どうも自宅とは言え家の物を勝手に食べる事に抵抗があったらしく、
丁度タイミング悪くお小遣いもほとんど無くなった所だったから、自動販売機とかでの買い食いも出来なかったらしい。
「でもでも! 『ナビゲーター』の人はお腹空いても死なないらしいから大丈夫だよ!」と、
平沢さんが無理な笑顔を浮かべて言ってたけど、いやいや、そういう問題じゃないでしょ、平沢さん……。
お腹はしっかり空いてるみたいだし……。
それから私は「いいから食べてよ、平沢さん」と言ったのに、中々首を縦に振ってくれはしなかった。
「梓ちゃんの家の物を勝手に食べるなんて出来ないよう……」というのが平沢さんの弁だった。
どうにも生真面目なだけでなく、意外と頑固な所もあるらしい。

どうしたらいいものか長い事考えて、結局私は単純な折衷案を出す事しか出来なかった。
単純で簡単な折衷案だ。


『私の家の物を勝手に食べる事に抵抗があるのなら、
平沢さんに私の家の用事をやってもらって、そのお礼に私がごはんを提供するから』


その案で平沢さんはようやく折れてくれた。
他の家事はともかく、ごはんの調理だけはお母さんに頼り切っていたから、私としてもその方が助かった。
お恥ずかしい話だけど、正直言って一週間のごはんのレパートリーを考える自信は無いしね。
だからと言って、お母さんの財布からお金を抜いて自動販売機の食べ物で済ませるわけにはいかないし、
いくら姿に気付かれないからと言っても、お店の物を勝手に盗んで食べてしまう事にもかなり抵抗がある。
だから、これは私にも平沢さんにもいい案のはずだと思う。

外見と雰囲気に違わずと言うか、平沢さんの家事の腕前はかなりのものだった。
空腹なはずなのにあっという間に朝食と昼食のお弁当を調理し終わると、
少しだけ申し訳無さそうな顔をして、ようやくごはんに箸を付けてくれた。
ごはんを食べながら平沢さんが言うには、
平沢さんのご両親は家を留守にしがちで、お姉さんのごはんの用意をよくしているんだって。
普通は逆でしょ、と思ったけれど、私はそれを口にしなかった。
お姉さんの事を話す時の平沢さんの顔が本当に幸せそうだったからだ。
やっぱりお姉さんの事が大好きで大好きで仕方が無いんだろう。
それが平沢さんの優しさや思いやりに繋がってるのかな?
私にも大切な誰かが出来れば、平沢さんみたいに誰かに優しく出来るのかな?
それはまだ、分からない。

私が前に作った物より数倍は美味しいごはんを食べてから、私達は私服で桜高に向かった。
平沢さんには私の服を貸してあげた。
服の寸法は身長はともかく、胸の方をきつく感じてたみたいだけど、
平沢さんは何も言わないでくれたし、私もそれについては触れない事にした。
まだ……、まだ中三なんだから、私は。
その内、驚くくらいに背も伸びて、胸も膨らんで来るはずなんだから……。
膨らんで来る……よね……?

平日の昼間に私服で歩いているにも関わらず、誰にも見咎められる事は無かった。
それどころか誰も私達の方に視線すら向けない。
分かってはいた事だけれど、やっぱりそれは怖かった。
私達だけが世界の片隅に残されたみたいだったし、
誰にも気付かれないって事は、誰にも助けてもらえないって事でもあるんだから。
私達は出来るだけ車の通りの少ない道を選んで、
注意深く歩きながら色んな話をしていると、いつの間にか桜高に辿り着いていた。

桜が丘女子高等学校。
オープンキャンパスで二回ほど来た事があるけど、自由に行動するのは初めてだった。
平沢さんも少しだけ緊張しているらしく、息を何度も呑んでいるみたいだった。
もっとも、それは桜高の雰囲気に緊張しているわけじゃなくて、
何処かでお姉さんと顔を合わさないか、って緊張の方が大きいみたいだったけど。
軽音楽部の部室の場所はすぐに分かった。
平沢さんが場所を完璧に憶えていたからだ。
お姉さんの忘れ物を届けに、何度か部室に顔を出した事があるんだとか。
本当にどっちがお姉さんなんだろう……。

時計を見ると二時ちょっと過ぎだったから、私達はまずお弁当を食べる事にした。
校長先生(?)の銅像の前に陣取って、二人でお弁当箱を広げる。
お弁当自体は朝ごはんと同じく美味しかったんだけど、一つだけ気になった事がある。
一年生のタイを着けて横の髪を巻き毛にした女子生徒が、休憩時間中に私達の方に視線を向けた事だ。
『石ころ帽子』の状態の私達を見る事は出来ないはずだから、気のせいだと思うんだけど……。
それとも、いい加減な神様だから、たまには誰かに見られる事もあるのかなあ……?
でも、例えその巻き毛の人に私達の姿が見えた所で、何かが変わるわけでもないか。
私はその人の事を出来るだけ気にしないようにしてお弁当を食べ終え、
平沢さんと体育館や講堂なんかを見学していると、気が付けば放課後になっていた。
そんなこんなで軽音楽部の部室に入って、部員の三人の様子を見てるわけなんだけど……。


「もう一時間になるよね……」


溜息がちにまた私が呟く。
そう。私達が部室に入って一時間にもなるのに、律さん達は全然練習を始めようとしなかった。
それどころか紬さんっていうお嬢様っぽい人に紅茶を淹れてもらって、
「今日のおやつはモンブランですよー」と紬さんの持参の物らしいおやつを食べている。
一時間も音楽の話すらせずに、のんびりと今日あった出来事なんかを話しているんだよね……。


「ここ、本当に軽音楽部だよね……?」


何だかかなり自信が無くなって来たから、
遂に私は何度も言おうとしながら言えずにいた事を平沢さんに訊ねてみる。
これじゃ軽音楽部じゃなくてお茶会部じゃない……。
私の気持ちを察してはいてくれたらしく、平沢さんは私の肩に軽く手を置いてくれた。


「だ、大丈夫だよ、梓ちゃん。
今はちょっと充電期間なだけじゃないのかな?
それにね、「ムギちゃんのおやつを食べると元気に演奏が出来るんだよ!」って、
前にお姉ちゃんも言ってたよ!」


ムギちゃんと言うのは、紬さんのあだ名なんだろう。
と言うか、なるほどね……。
平沢さんのお姉さんが居ないからのんびりしてるわけじゃなくて、元からこういう雰囲気の部なんだ……。
学祭前だって言ってたのに、大丈夫なのかな、この部……。
私が見たかったのは、こういう部活動じゃなかったんだけどな……。
いや、確かにこれも、私の望んだ音楽活動をする女の子達の飾りの無い姿ではあるけど……。
あるんだけど……、これは違う気がする……。


「大丈夫。大丈夫だって、梓ちゃん。
お姉ちゃん、言ってたもん!
澪ちゃんのベースはカッコいいし、
りっちゃんのドラムを聴くと元気になるし、
ムギちゃんのキーボードも上手で、作った曲も可愛いし、って!」


「ひ、平沢さんがそう言うんなら……」


平沢さんの言葉に押され、私は軽く頷いた。
平沢さんがお姉さんの言葉を信じ切ってる以上、私も平沢さんの言葉を信じるしかないよね……。
平沢さんのお姉さんがどんな人なのかはまだ知らないけど、多分かなりのんびりした人なんだろう。
でも、この平沢さんが慕ってる以上はいい人なんだろうと思う。
そうだよね……。
私も真面目過ぎるって言われる事も多いし、意外とこれが普通の女子高生なのかもしれない。
私は深呼吸をして落ち着いてから、律さん達の会話に耳を傾けてみる。


「なあ、澪ー。ユイの奴、どんな特訓してんだと思う?
歯ギターとか教えてもらってんのかな?」


「学祭に必要無いだろ、そんなテクニック……。
さわ子先生もあれで音楽には真面目な先生なんだから、
きっとちゃんとギターを弾きながら歌えるように特訓してくれてるよ。
……多分」


「多分って何だよ、さわちゃんも信用無いなー……。
まあ、あんな本性を隠してる先生だとは、私も思わなかったけどなー。
でも、私、さわちゃんの事嫌いじゃないぞ。
面白いじゃん! なあ、ムギもそう思うだろ?」


「うん、私もそう思うな。
さわ子先生があんなに元気な先生だとは思ってなかったけど、
でも、何だか頼り甲斐があって面白い先生だし、とっても素敵だと思うな。
私ね、さわ子先生が顧問になってくれてすっごく嬉しいし、ドキドキしてるの」


「ドキドキ……ね」


澪さんが曰くありげに苦笑し、律さんと紬さんが首を傾げた。
一応、雑談レベルだけど、少しは音楽の話になってきた……のかな?
話を聞く限り『ユイ』さんが平沢さんのお姉さんで、
『さわ子先生』が顧問の先生で、『ユイ』さんの特訓をしてるって事なんだろう。
『ユイ』と『ウイ』で姉妹なんて、何だか可愛らしくて羨ましい。

……あ。
そういえば、まだ訊いてない事があったんだ。
私は平沢さんの方に視線を向け直して、気になっていた事を訊ねてみる事にした。


「平沢さんって『ウイ』って名前なんだよね?
突然だけど、どんな漢字を書くか教えてもらっていい?
羽に衣で『羽衣』とか?」


「あ、ううん、その漢字じゃないんだ。
憂鬱の『憂』でウイって読むんだよ」


「それは……、えっと……、予想外の漢字だね……。
本当に憂鬱の『憂』でウイなの?
こう言うのも失礼なんだけど、その漢字、あんまりいい意味が無いんじゃ……」


本当に失礼な発言だったと思うけど、平沢さんは穏やかに笑ってくれた。
無理をして笑ってるとか、怒りを隠してるとかじゃなくて、心の底から優しい笑顔だった。
その笑顔のまま、平沢さんが言葉を続けてくれる。


「あははっ、やっぱりそう思っちゃうよね。
でも、私、憂って名前好きなんだよ、梓ちゃん。
『憂』って漢字ね、部首のにんべん……人が加わると『優』しいになるでしょ?
『誰か人と関わって、優しい子になってほしい』。
それで『憂』って漢字の名前になったらしいんだ……」


「そうなんだ……。それなら納得のいい名前だね……」


「なんちゃって」


「えっ?」


「ごめんね、梓ちゃん。
私ね、本当は私の名前の漢字の本当の意味は知らないんだ。
今のはお姉ちゃんが教えてくれた話なの」


「お姉さんが……?」


「小学生の頃ね、ちょっと意地悪な子とか居るでしょ?
悪気は無いんだろうけど、その子がね……、
私の名前の漢字にあんまりいい意味が無いって事に気付いて、からかって来たんだ。
他の事なら何とか出来るかもしれないけど、名前の事ばっかりはどうしようもないよね?
だから私、どうしようもなくて一人で落ち込んでたんだけど……、
落ち込む私を心配したお姉ちゃんが私の相談に乗ってくれて、言ってくれたんだ。
「憂って漢字は人と一緒に居たら、優しいって漢字になるんだよ!
その証拠に私と一緒に居る時の憂はすっごく優しいよね!」って。

本当の所は分からないし、お父さん達は違う意味で私に名前を付けたのかもしれない。
でも、お姉ちゃんがそう言ってくれるならそれでいいんだ、ってそう思ったの。
私はそれでとっても幸せなんだ……」


優しい顔をした平沢さんが懐かしげに呟く。
平沢さんもいい妹みたいだけど、お姉さんも素敵な人なんだ……。
平沢さんには仲の良いお姉さんが居る……。それがとっても羨ましい。
『一生に一度のお願い』は『お姉ちゃんが欲しい』にしようかなって、半分本気で思う。
勿論、そんなわけにもいかないけどね。
特に私のお姉ちゃんなんて、私と同じで可愛くないお姉ちゃんになりそうだし……。


「あっ、ご、ごめんね、梓ちゃん。
何か変な話しちゃって……!」


平沢さんがはっとした表情で、私に何度か頭を下げる。
ううん、全然、変な話なんかじゃないよ、平沢さん……。
私も何だか優しい気持ちになって、ゆっくり首を横に振る。
それで少し照れてしまったのか、平沢さんが少し頬を赤らめて言った。


「あ、ちなみにね、
私のお姉ちゃんはユイって名前で、漢字は唯一の『唯』って書くんだよ。
私のたった一人の唯一のお姉ちゃんなんだよ」


「『唯』と『憂』……。
うん、二人ともいい名前だよね……。
いいなあ、私も名前の由来を詳しくお父さん達に訊いてみようかな。
勿論、この『石ころ帽子』の状態が終わってからだけどね」


「ねえ、梓ちゃん……?
何度も言うみたいだけど、私、自分の名前が大好きなの」


「うん、いい名前だって私も思うよ、平沢さん」


「だからね、私、梓ちゃんには『憂』って名前で呼んでほしいな。
もう梓ちゃんの事は名前で呼んでるし、
私ね、自分だけじゃなくて皆の名前の事も好きなんだ。
どんな名前にも意味があるんだって思うし、
お姉ちゃんのおかげでそう思えるようになったし、だからね……」


そうなんだ、と妙に納得した。
平沢さんはほとんど最初から、私の事を名前で呼んでいた。
それだけじゃない。
律さん、澪さん、紬さん。
自分とそう関わりの無いお姉さんの友達も、名前で呼んでいたんだ。
自分の名前と同じくらい、他の誰かの名前も大切にする子だから……。
だったら、その話を聞かせてもらった私も、
平沢さんと同じ様に名前を大切にするべきじゃないのかな?

私は大きく息を吸って、顔が熱くなるのを感じながらも、
平沢さんの瞳を強く見つめて、精一杯の声で伝えてみせた。


「じゃあ、憂……ちゃん……」


「うん、梓ちゃん……」


「何て言うか、えっと……、残り六日、よろしくね、憂ちゃん……」


「こちらこそ改めてよろしくね、梓ちゃん!」


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最終更新:2013年03月23日 21:36