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「よっしゃ、そろそろ練習でも始めるか!
学祭まであと四日しかないわけだし、気張って行くぞっ!」


紬さんが用意したお菓子とお茶を全部平らげて少ししてから、
律さんが両手を上げて気合を入れるように力強い声で宣言した。
やっと練習が始まるんだ……。
律さんの言葉が本当なら学園祭まで四日しかないのに、
どうにものんびりした部活動なんだなあ、と失礼ながら思ってしまう。

しかも、平沢さ……、じゃなくて、
憂ちゃんが言うには、この桜高軽音部の部長はドラマーの律さんらしい。
律さんがこの部の中で一番のんびりしてたみたいに見えるんだけど……。
本当に大丈夫なのかな、この部長が率いるこの軽音楽部……。
まあ、元気があって人を引っ張っていきそうという意味では、
この律さんこそが部長に相応しい人なのかもしれないけど……。


「やれやれ、やっと練習する気になってくれたか……」


軽口を叩きながら澪さんが席から立ち上がる。
その口振りこそ軽かったけれど、
澪さんの事をまだよく知らない私でもすぐに気付いた。
立ち上がった澪さんの肩が少し震えている事に。
学園祭を目前にして緊張しているんだろうか。
背も高めだし、釣り目で髪が長くて美人で、
大人っぽい雰囲気の人に思えるけど、意外と緊張しがちな所がある人なのかもしれない。
そういえば、昨日も公園で恥ずかしがった様子でエアベースをやってたっけ。


「うん、頑張って練習しましょ!
唯ちゃんが帰って来た時、私達の上達した腕前にびっくりしちゃうくらいに!」


紬さんが紅茶のカップを片付けながら、柔らかく微笑んだ。
緊張はしてないみたいで、心の底から練習の時間を楽しんでる……。
何となくそんな表情に見えた。
今日初めて目にしたって事もあるけど、紬さんの事はまだ全然掴めない。
お嬢様っぽい雰囲気の人だけど、律さん達の給仕をしていて、
しかも、それが全然嫌そうじゃないどころか、自分から率先してやってるみたい。
一体、どういうポジションの人なんだろう?
これから数日間、この桜高軽音楽部を見学させてもらうつもりだけど、
その間に少しでもこの紬さんの事を深く知る事が出来るのかなあ……?

それにしても、妙な部に見学に来ちゃったなあ、と正直思ってしまう。
練習の前に一時間以上お茶をしながら談笑する部なんて、少なくとも私は聞いた事が無い。
いや、ひょっとしたら、少しはあるのかもしれないけど、
学園祭直前にまでお茶の時間を減らさない部はそう無いはずだ。
大体、部室にこんなに私物を持ち込んでもいいのかな……。
まさかコーヒーメーカーやカップが部室の備品ってわけでもないだろうし……。

こののんびりした空気の原因の一つとしては、
もしかすると部員の全員が同級生なのも関係してるんだろうか。
憂ちゃんがさっき教えてくれたんだけど、この軽音楽部の部員は全員一年生らしい。
何でも先輩が一人も居なくて廃部寸前の部を、律さんが一年生の部員を集めて立て直したんだとか。
ちょっと資質を疑ったりもしたけど、そんな事が出来た律さんは素直に凄いと思う。

一応、私もこの桜高を受験して入学するつもりではあるけど、
もしも桜高に音楽系の部が無かったとして、その時に自分で部を設立出来る自信は私には無い。
そこまで積極的なタイプじゃないし、部活動にそこまで情熱が持てるかも分からない。
私が音楽をやりたいのはあの子となんだし、あの子と音楽を続けたいだけだし、
だから、あの子とまた音楽が出来れば、それが部活って形じゃなくても構わないって思う。
そのためにも早くこの受験シーズンが終わってほしいんだけどな……。


「私も律さん達の演奏を聴くの初めてなんだ」


憂ちゃんがちょっと目を輝かせて私の耳元で囁いた。
律さん達には聞こえないのに、つい声を小さくしてしまうのが気配りの出来る憂ちゃんらしい。
目を輝かせているのは、大好きなお姉さんの仲間の演奏を心から楽しみにしているからだろう。
お姉さんを大好きだという事は、お姉さんの仲間の事も信じてるって意味でもあるんだ……。
だって、大好きなお姉さんが選んだ仲間なんだもんね……。

私は少しだけ憂ちゃんに気付かれないように微笑んで、
いつの間にか楽器の準備を終えていた律さん達の方に視線を向けた。
まだのんびりした空気は漂っていたけど、私の目には三人とも楽しそうに見えた。
緊張した面持ちの澪さんですら、律さんや紬さんと目を合わせると少し落ち着けたみたい。
実力は未知数だけど、少なくとも信頼関係のある仲間達なんだと思う。


「んじゃ、本番近いからいきなり合わせていくぞー!
ワン・ツー!」


頭上でドラムのスティックでリズムを取りながら、律さんが宣言する。
澪さんと紬さんが軽く頷いてから、演奏を始める。
ベース、キーボード、ドラムの音が重なり、旋律が奏でられる。
重なっていく律さんと澪さんと紬さんの音楽。

難しい曲じゃない、と最初は思った。
ギタリストらしい憂ちゃんのお姉さんが居ないから、詳しい事は言えない。
それでも、そんなには難しい曲じゃないのはすぐに分かった。
律さん達三人はともかくとして、
憂ちゃんのお姉さんは高校生になってから初めてギターに触れた初心者なんだそうだ。
初心者を含むセッションじゃ、そんなに難しい曲にするわけにもいかないだろう。
あくまで学園祭で発表される、ありきたりなレベルのオリジナル曲だ。

律さん達の演奏にしたってそうだ。
まだそんなに上手くはない。
私の周囲の同級生よりは上だけど、良くも悪くも高校一年生の演奏だった。
正直に言わせてもらうと、年下の私の方が上手に演奏出来る。
私は小学生の頃からずっと練習して来た身だから、それくらいの自負はしてもいいと思う。
律さん達の演奏より、私の演奏の方が上手い。

なのに、気が付けば私の指は勝手に動き出してしまっていた。
今は家に置いてあるギターを頭の中だけで抱えて、初めて聞く演奏に合わせてしまっている。
あの子とギターを弾かなくなって以来、こんな事は初めてだった。
憧れのギタリストの演奏をテレビで観た時なんかに、そのテクニックを真似てしまう事は何度かあった。
憧れの人に近付くために、私の指は勝手に動いていた。
その私の指が、
今、
勝手に動いてしまっている。

私の方が上手いはずなのに。
そんなに難しい曲じゃないはずなのに。
それなのに。
私は律さん達の音楽に惹かれていた。

上手いとか下手とかじゃない。
楽しそうだった。
律さん達の演奏は本当に楽しそうだった。
楽しかった。
律さん達の演奏を聴いていて、私の心は弾んで、楽しくなっていた。
それがどうしてなのかは、まだ私にも全然分からなかった。
初めての感覚に、正直、自分の事ながら戸惑いを隠せない。

ただ、思った。
私もまた音楽を演奏したい。
受験を終えて、あの子とまた演奏を合わせて、心を弾ませたい。
もっともっと上手な演奏をして、音楽を楽しみたい。
今の私の『一生に一度のお願い』はそれなんだ、って深く実感した。
私のお願いはそれなんだ。
とは言っても、それは時が過ぎれば自然に叶うお願いで、
『チャンスシステム』に頼るような事でもないんだけどね。

そう思った瞬間。
不意に、さっきまでと別の意味で胸が大きく鼓動した。
時が過ぎて、高校受験が終わったら、私達はまた音楽をやれるよね……?
あの約束は嘘なんかじゃないよね……?
また……、一緒に夢に向かえるよね……?

思い出すのはあの子の言葉。
頭の中からずっと離れないあの子の言葉。


『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね、梓』


少しだけ残念そうな口振りと、苦笑。
あの子、本当はあんな風に苦笑する子じゃないのに。
あの子が苦笑する時は、自分の辛さや悲しさを誤魔化す時だけだったのに……。
つまり、あの子のあの言葉の本当の意味は……。

仲間の事を信じている人達の演奏の中、
あの子の事を信じているのに、信じているはずなのに、
私のその胸の鼓動は治まらなかったし、何故かとても凄く泣き出したくなった。
ただ胸の中に広がる仲間を信じ切れない不安だけを感じて。




「梓ちゃんも音楽をしてるんだよね?」


帰宅後、夕飯を食べて一息吐いた時、憂ちゃんが少し躊躇いがちに私に訊ねた。
そんなに遠慮しなくてもいいのに、とは思ったけど、
そういえばまだ憂ちゃんに私が音楽をしている事を伝えてなかった気がする。
軽音楽部を見学に行きたいってだけで、
憂ちゃんには伝わってるだろう、って一人で勝手に勘違いしちゃってたみたい。
そうだよね。
ちゃんと伝えないと、私が音楽をしている事なんて分かるはずもないよね。
私は自分の勝手な思い込みに首を振ってから、小さく頷いて言った。


「そういえば、まだ言ってなかったね。
うん、私、小学生の頃から音楽をやってるんだ。
こう見えて音楽一家なんだよね……、って家を見れば分かるけどね。
レコードとかたくさんあるもんね」


私が苦笑すると、憂ちゃんは安心したように微笑んでくれた。
訊いちゃいけない事だと思っていたのかもしれない。
でも、そう思われても仕方無いか……。
憂ちゃんのお姉さん達の軽音楽部に見学に行きたい、
って頼んでおきながら、自分が音楽をやってる事を口にしないなんて不自然過ぎる。
今だって……。

そう。
今だって、私は音楽をやっているとは伝えたけど、楽器の話を自分からしていない。
自分がギターを弾いてる事を、自分から伝えられてない。
その方が凄く不自然なのに、私は自分からギターの話をするのを避けてしまっていた。
自分でも何故だか分からないけど、口にしにくかった。

だけど、憂ちゃんももう気付いてると思う。
私が演奏している楽器はギターなんだって。
分からないはずがない。
だって、私の部屋の片隅には、ケースの中に入れられたギターが置いてあるんだから。
弾かないなら押し入れの中に片付けておけばいいのに、未練がましく部屋の隅に置いてあるんだから。
でも、憂ちゃんはそのギターについては何も訊かなかった。
憂ちゃんは人の気持ちに立って気配りの出来る子だ。
私がギターの事について触れない以上、触れてはいけない話題だと思ってくれたんだろうと思う。
だからこそ、憂ちゃんは勇気を出して、音楽の事だけについて訊ねてくれたんだろう。

憂ちゃんの気配りを申し訳なく思いながら、私は部屋の片隅のギターに視線を向けてみる。
受験勉強のために練習を中断してから、一度も弾いていないギター。
あの子との繋がりだったはずのギター。
一人で弾きたくなかったギター。
今度弾く時はあの子と一緒に弾きたい、ってそう考えていたギターだ。
でも、今なら、多分、弾いても……。
そうだよね、一人で弾くのは嫌だったけど、
憂ちゃんと一緒なら別に孤独を感じる事なんて……無いよね……?

うん、と一人で軽く頷いてみる。
今は『一生に一度のお願い』を考える時なんだもんね。
色んな事を経験しておいた方がいいはずだよね。
本当にやりたい事、本当に叶えたい事のために、
多分だけど、避けていた事もやっておくべきなんだ……。


「ねえ、憂ちゃん……」


自分でも口先がちょっと震えるのを感じながら、言葉を出してみる。
胸が、高鳴る。
色んな所から汗が噴き出して来そう……。
でも、私は拳を軽く握ってから、憂ちゃんの瞳をまっすぐに見つめた。
憂ちゃんは優しい顔で私の顔を見つめていてくれた。


「どうしたの、梓ちゃん?」


「私……、私ね……、ギターをやってるんだ」


中々言い出せなかった言葉。
簡単で、隠すほどの事じゃないのに、言い出せなかった言葉を私は言った。
半分消え入りそうだったけど、とりあえずは憂ちゃんに伝える事が出来た。


「そうなんだ」


瞬間、憂ちゃんの微笑みが輝いた。
私が少し心を開いたと思ってくれたのかもしれない。
ごめんね、憂ちゃん。
私が変な思いを胸に抱えていたせいで、変に気を遣わせる事になっちゃって……。
そうだよね、怖がらなくても大丈夫なんだよね。
受験シーズンが終われば、何もかも元通りに戻るはずなんだもんね……。


「それでね」


言いながら、私は部屋の隅に置いていたギターのケースを手に取った。
懐かしい重さ、懐かしい感触、懐かしい感覚。
色んな懐かしさが私の全身を駆け巡っていく。
胸に切なさを感じながらも、私は久し振りにギターのケースを開いていく。
現れたのは、受験が終わるまでは見る事も無いだろうと思っていた私のギター。
私の想いや夢や色んな物が詰まったムスタング。


「これが私のギターなんだよ、憂ちゃん」


懐かしい感触を指先に感じながら、私は憂ちゃんに自分のギターを見せた。
見せたくなかったわけじゃない。
忘れたかったわけじゃない。
弾きたくなかったわけじゃない。
本当はずっと弾きたかった私のムスタング。
憂ちゃんは笑顔で私と私のギターを見比べながら、また輝くように微笑んだ。


「わあっ、梓ちゃんにぴったりな可愛いギターだね!」


「か、可愛い……?」


予想外な感想に、喜んでいいのか迷いながらも私は苦笑した。
ギターの事を可愛いって言われたのは初めてだ。
憂ちゃんってそういう独特な感性を持っている子なのかな?
話を聞く限りじゃ、憂ちゃんのお姉さんも結構独特な人らしいし、そういう独特な姉妹なのかも……。
でも、別に感性が独特だろうと、可愛いと言われて悪い気がしないわけじゃない。
可愛いらしいよ、君。
って、私は心の中だけでムスタングに声を掛けてから、また憂ちゃんに訊ねてみる。


「ねえ、折角だし、弾いてもいいかな?」


「うん、勿論だよ、梓ちゃん。
私、梓ちゃんのギター、聴いてみたいな」


「あ、でも、こんな時間だし、この部屋だと近所迷惑になっちゃうかな?
そんなに大きい音を出すつもりはないんだけど……」


「ううん、それは大丈夫だよ、梓ちゃん。
『石ころ帽子』の効き目は、その人の身に着けている物にもあるみたいなんだ。
すっごく大きな音を出しても、私達以外には誰にもギターの音が聞こえないと思うよ」


それは好都合だった。
何故だか分からないけど、今はすっごい大きな音で弾いてみたい気分だったんだ。
久し振りに弾くからどうなるかは分からないけど、
それよりも今は誰かと一緒に音楽を演奏する楽しみを感じたかった。
うん、そうだ。
憂ちゃんにもギターを触ってもらって、一緒に軽い練習会なんて悪くないよね。
そのためには、まず……。
私は憂ちゃんにギターを渡して、少しだけ頭を下げた。


「ごめんね、憂ちゃん。
ちょっとだけギターを持っててくれる?」


「いいけど……、何をするの?」


「ちょっとチューニングをね。
ギターを弾くなら、ちゃんと音程を合わせておかないといけないんだ」


「そうなんだ。
お姉ちゃんがやってるの見た事無いから、知らなかったな」


「お姉さん、チューニングやってないんだ……」


「あ、でもね!
制服とか着せたり、添い寝とかしたりして、
お姉ちゃん、ギターの事すっごく可愛がってるんだよ!」


可愛がるベクトルが違うと思う……。
軽音楽部はともかくとして、ギタリストとして大丈夫なのかな、憂ちゃんのお姉さん……。
勿論、そんな事は口にはしなかった。
私は少し苦笑しながら、学習机の中に入れてあるはずのチューナーを探し始める。
確か四段目に入れてあるはずだ。
チューニングしたら、弾いてみよう。
受験の後、あの子ともう一度演奏するために、そのきっかけに出来るためにも。
あ、でも、かなり長い事放置してたから、弦を交換した方がいいかも……。

瞬間、
私は、
息を呑んだ。
心臓が、
馬鹿みたいに、
早く、
鼓動していた。

息を呑んだ理由は耳に届いた旋律のせいだ。
滑らかで耳に心地良い音楽。
聞き入っていたい奏で。
見事なまでの、聴き惚れるくらいの演奏……。
ギターの。
私のムスタングの……。

驚いた私は自分のムスタングに視線を向けた。
音を出しているのは確かに私のムスタングだった。
私のムスタングがこんな音を出せるなんて……。
そして勿論、私のムスタングを演奏しているのは……。


「憂……ちゃん……?」


私は呻くみたいに呟いた。
ううん、呻いていたと思う。
多分、衝撃で声が上手く出せなかった。
憂ちゃんが申し訳なさそうに苦笑して、私に頭を軽く下げた。


「あ、ごめんね、梓ちゃん。
お姉ちゃんがギターを弾いてる所を思い出したら、つい弾いてみたくなっちゃって……。
まだ梓ちゃんに断ってないのに、ごめんね」


「ううん、それはいいの。
それはいいんだけど……」


そんな事はいい。
そんな事はどうでもよかった。
私が気になるのは……、もっと気になる事は……。
私は胸の鼓動で喉が痛くなるのを感じながら、また呻いた。


「憂ちゃんも……、ギターを演奏出来るの……?」


「あ、ううん、私、ギターはそんなに触った事無いんだ。
お姉ちゃんが演奏してるのを見てる時、たまに触らせてもらってるくらいなの。
お姉ちゃんを真似て弾いてみたんだけど、ギターってやっぱり難しいよね」


瞬間、私の中が言い様の無い感情で支配された。
憂ちゃんが嘘を言ってないのは分かる。
嘘を言うような子じゃないし、こんな事で嘘を言う必要なんて無い。
嘘じゃないからこそ、私はどうしようもない感情に支配されてしまってる。

原因はさっきの憂ちゃんの演奏だった。
長くチューニングをしてないギターだから、
音こそバラバラだったけれど、そのテクニックには驚かされるものがあった。
演奏としては、まだ私の方が上手い。
まだ……。

でも、追い着かれる……。
ううん、追い越されるのは、時間の問題だって実感した。
憂ちゃんの言う通りなら、憂ちゃんはまだ五度くらいしかギターに触れた事がないんだろう。
五度くらいでこの腕前なんだ。
ほんの少し腰を据えて練習すれば、あっという間に私の実力なんて超えてしまう。

天才って居るんだ……、って感じた。
この世界には確かに天才が居る。
だけど、私は天才じゃない。
演奏が上手だとはよく言われるけど、それは天性の物じゃない。
小学生の頃から練習して練習して、やっと上手だって言われる腕前になれただけ。
中学生の中では上手いと言われる腕前になれただけ。
でも、そんな腕前なんて、天才の前じゃ何にもならないんだって思わされた。
憂ちゃんの事だけの問題じゃない。
私の住む県に憂ちゃんって天才が居たんだ。
全国を見回せば、憂ちゃんと肩を張る天才なんて大勢居るんだろう。
私なんか足下にも及ばない天才が……。

いつの頃からだろう。
私は音楽の道に進みたかった。
音楽を生業にする職業に就きたかった。
その気持ちに嘘は無かったし、本当に将来の夢にしようと思ってた。
でも、中学生の中では上手いと言われる程度の腕前で、
どうにか出来る世界じゃない事も、私はよく知っていた。
私より遥かに上手い実力のお父さんですら、音楽の世界で生き残るのに必死なんだ。
私なんかじゃ何処まで行けるか、全然自信が無かった。

そして今、私は完全に打ちのめされた。
もうすぐ世に生まれようとしている天才の前で、
しかも無自覚な天才の前で、私が演奏なんかしても滑稽なだけだった。

私は何をしてるんだろう、って気にさせられた。
同時に思い出した。
私があの子に申し出をされてから、音楽を中断した理由を。
思い出さないようにしていた現実を、思い出さされた。
あの子と本当に演奏を続けたいなら、受験より何よりあの子を引き止めるべきだった。
それが出来なかったのは私が……、私の自分の実力が……。
私に才能があったなら……。

刹那、私の中に悪魔の囁きが響いた。
それとも、天使の誘い?
今の私には一つチャンスがある。
悪魔なのか天使なのか神様なのか、誰かさんが与えてくれたチャンスが。
だけど、それに頼るのは……。


「梓……ちゃん……?」


私が何も言わなかったのを不審に思ったんだろう。
憂ちゃんが首を傾げて、私の顔を心配そうに覗き込んだ。
やめて、と思った。
こんな私の顔を見ないで。
こんな惨めで情けなくてどうしようもなくて、
下手な誘惑に乗りそうになっちゃってる私の顔なんて見ないでよ……!

結局、「チューナーの電池が切れていたから」、
って苦しい言い訳で、私はその日のギターの演奏をやめさせてもらった。
どんなに苦しい言い訳だろうと、そうしないと、私の心が壊れてしまいそうだった。




深夜、午前二時頃。
憂ちゃんが寝静まった頃を見計らって、私は一人で夜の公園に来ていた。
憂ちゃんと初めて出会ったあの公園に、
上着を一枚羽織り、私の辛さと悩みの元凶を腕の中に抱えて。

夜の公園は誰一人居なくて静かだったし、
公園に辿り着くまでの道中、誰ともすれ違う事も無かった。
通り過ぎる車に注意する必要も無く、あっさりと公園まで辿り着けた。
そんな事なんて無いのは分かっているけど、
何だかまるで夜の世界に私一人が取り残されてしまったみたい。
それに……、ある意味、その考えは正解でもあった。
今、この世界に私の存在を認識出来るのは憂ちゃんしか居なくて、
その憂ちゃんは私の部屋で静かに寝息を立てて眠りに就いているんだ。
だから、この世界には私しか居ないのとほとんど一緒なんだよね、今……。

私が何をしても、何をしなくても、誰も気にしない。
誰にも気に留められない。
今の私にとっては、幸いな事だった。
私は昨日憂ちゃんと話したベンチの上に立って、
生身のままで持って来ていたギターのストラップを肩から斜めに掛けた。
パジャマのポケットの中からピックを取り出して、小さく深呼吸をしてみる。
情けないとは思うけど、自分自身でも自分の身体が震えているのがよく分かった。

夜の闇が怖いわけじゃない。
一人ぼっちなのが怖いわけじゃない。
こんな深夜に一人で夜の公園に居るのは初めてだけど、怖いのはそんな事じゃなかった。
私にはそんな事よりもっともっと……、もっともっと怖い事がある。
それを確かめに、私は夜の公園まで一人で来たんだから。


「……やろう」


自分に言い聞かせるために呟いてから、ギターを胸の前に構えた。
寒さじゃない理由で震える指先を必死で押し留めて、弦に左手の指を掛ける。
お願い……!
お願いだから……!
自分になのか、神様になのか、他の誰かになのか、
私自身も分からない誰かにお願いしながら、私は演奏を始めていく。
夏休みに入る前、あの子と練習していた曲を。
受験が終わったら真っ先にあの子と弾こうと思っていた大切な曲を。

旋律が流れる。
耳にするだけで懐かしさで胸が張り裂けそうな旋律。
私の指が奏でる私達の大事な曲。
弾ける。
私はこの曲を弾く事が出来る。
このかなり難しい曲を、私は弾けているんだ……!
私にだって、まだ弾けるんだから……!

でも、私の胸は高揚しなかったし、逆に痛みだけを強く感じるようになっていた。
私はこのかなり難しい曲を弾けている。
弾けているけれど……、弾けているだけだ。
弾きながら、自分でも実感出来る。
例えるなら、難しいリズムゲームをクリアの最低スコアで終えているレベルだ。
クリアは出来ているけれど、それ以上でもそれ以下でも無いレベル。
その程度のレベルでしか、私はこの曲を弾けていなかった。
だけど、そんな事すら私にはどうでもよかった。
この曲はとても難しい曲だし、そう簡単に上手に弾けるなんて思っていないから。
だから、あの子と二人で挑戦してたんだから。
いつかは上達出来るはずだって信じて。

辛かったのは、もっと別な理由。
それは、思ったより指が全然動かなかった事。
想像以上に、出来の悪い演奏になってしまった事。
あの子との練習を中断してから、確実に下手になってしまっている事。
その事こそが私の胸を強く痛めた。
勿論、当然の事ではある。
ずっと練習してなかったんだもんね。
あの子との事ばかり考えて、練習する勇気が出せなかったんだもんね。
演奏が下手になるのなんて当然だよ……。
私は間違っても天才なんかじゃなくて、秀才にもなれなくて、
単に練習してそれなりにギターが弾けるようになっただけの人間なんだから。
当たり前の事が当たり前に起こってるだけなんだ……。

私は天才でも秀才でもない。
それを深く実感出来たおかげで、私の胸の中にはもう一つ気付けた事があった。
憂ちゃんの未完成ながら間違いなく天才の演奏を耳にして、分かったんだ。
あの子が苦笑して練習の中断を申し出た理由が。
一緒に練習してて、あの子は気付いたんだと思う。
私達じゃ、ある一定以上の水準に、どうやっても辿り着けないって事を。
どうやったって……。

最初の頃、私があの子にギターを教えてあげていた。
上達はそんなに早くなかったけど、私と演奏出来るくらいのレベルにはなった。
お互いに決して上手いわけじゃなかったけれど、
また中学生なんだし、焦る必要は無いと思ってていた。
私はそれでいいと思ってたし、あの子もそう思っていてくれると私は考えていた。
でも、そうじゃなかったんだよね……。
あの子は私が気付かない所で悩んでいたんだ……。
このまま続けても先が見えないんだって気付いて……。

考えてみれば、その兆候はいくらでもあった。
あの子は練習に熱心だったけど、少し不器用で演奏のミスもたまにあった。
弾いて来た年月が違うから、当然の事だ。
でも、あの子はその度に、
「私が梓の足を引っ張っちゃってるよね……」と苦笑しながら呟いていた。
私が「もっと練習すれば大丈夫だよ」って言う度に、あの子は浮かない顔をしてた。
あの子は私より先に気付いていたんだと思う。
自分の限界を。


『自分の限界を決めるのは自分だ』


そんな言葉はよく聞くし、その通りだと思うけれど、
自分が限界を超えるまでがむしゃらに努力出来る人は、どれくらい居るんだろう。
その一部門……、つまり、私達の場合はギターだけど、
ギターだけに目を向けていられるんだったら、ひょっとしたらそれも出来るのかもしれない。
だけど、私達は中学生で、ギターだけに目を向けてなんていられない。
音楽で稼いで生きていくなんて狭き門を目指して、頑張り続けるのなんて至難の業だ。
そんな事は出来ない、ってあの子は思ったんだろう。
元々、あの子を音楽の道に誘ったのは私で、
あの子は将来的に医療系の道に進みたいらしかった。
音楽をいつまでも続けていられる立場じゃない子だったんだ……。

それは多分、仕方が無い事なんだろうと思う。
私達は将来について考えなきゃいけなくて、出来ない事から消去法で消していくしかない。
あの子は自分の夢を見つけるためにも、
私の足を引っ張らないためにも、音楽の道を諦めるしかなかったんだ……。
辛い……、とっても辛いし、悲しいよ……。
私は出来る事ならあの子とずっと音楽をやりたかった。
やりたかったのに……。

でも、それがあの子の選んだ道なら、私はそれを止められない。
あの子の将来を応援してあげる事しか出来ない。
それが私に出来る最後の事だと思うから……。


「でも、私……は……?」


気が付けば呟いてしまっていた。
私は音楽を続けたい。
出来る事なら、一生だって音楽を続けて行きたい。
プロになるのを漠然と夢に見た事も今まで無いわけじゃない。
私は音楽で生きていきたいんだ……。

でも、それは無理かもしれない、って今日思わされた。
ううん、薄々気付いてはいたけど、完全に実感させられたって方が近い。
勿論、憂ちゃんの演奏を聴いたからだ。
憂ちゃんが嘘を吐くとは思えないから、
憂ちゃんが今までギターを演奏した時間は、私の百分の一にも満たないはずだ。
私の百分の一にも満たないくらいギターを演奏しただけで、
憂ちゃんは私をもうすぐにでも追い越しそうな演奏が出来ていた。
きっと、あと数日ギターに触れただけで、
私の実力なんて簡単に抜き去ってしまうんだろう。
それが天才なんだ……。

しかも、憂ちゃんが一番の天才ってわけじゃない。
世の中には憂ちゃんが足下にも及ばない天才も居るだろうし、
努力している天才だって大勢存在しているんだろうなって思う。
そんな世界で、私なんかが生きていけるはずがない。
音楽を、続けていけるはずがない。
私の夢が……、叶うわけなんかない……。
私なんかの実力じゃ……。
どうして私は天才じゃなかったの……?
天才に生まれて来なかったの……?
もしも私が、天才だったら……。


「……あっ」


不意に私の頭の中に考えてはいけない望みが浮かび上がった。
昨日からずっと頭の中を過ぎっては目を逸らしていた、私のお願い。
私の……、『一生に一度のお願い』……。
とても単純で分かりやすい私のお願い……。


『私をギター演奏の天才にして下さい』


あんまり無茶なお願いはスルーされるらしいけれど、
このくらいなら誰かに迷惑を掛けるわけでもないし、
『石ころ帽子』なんて異常な状況を作り出せる神様なら、とても簡単なお願いだろう。
このお願いが叶えば、私の悩みなんて完全に消え去るはずだ。
自分の無力に思い悩む事も無いし、プロになる夢だってきっと叶えられる。
誰も損をしない、とても真っ当なお願いだと思う。
だから、私はこれを『一生に一度のお願い』にしたっていいんだ。


「でも……、でも……」


自分の無力を感じてた時以上に、私の身体は震え始めていた。
確かにそのお願いをしたなら、私の悩みは全部消え去ってしまうと思う。
何もかも乗り越える事が出来ると思う。
だけど、そんな事をして、私は満足なんだろうか?
自分の努力でなく、他力本願で夢を叶えて、満足出来るんだろうか?
一人だけ不正をして、私は本当に両手を上げて素直に喜べるの……?

しかも。
憂ちゃんの説明が本当なら、願いが叶った後、私は全てを忘れてしまうんだ。
つまり、私は自分のギターの腕前が唐突に上がった理由も分からず、
恐らくはそれを嬉しく思って、悩む事も無く音楽の道を進んでいく事になるんだと思う。
自分がどうしようもない不正をした事にすら気付かないままに……。
そんなの……。
そんなのって……、無いよ……。
滑稽で哀れ過ぎるよ、そんなのって……。

瞬間、私は一つの言葉を思い出してしまった。


『地獄への道は善意で舗装されている』


最近、ずっと考えていた事。
私は本当は心の何処かで気付いていた。
あの子は私を傷付けないために、練習を中断と言ってくれた事を。
善意で、私のために、行動してくれていたんだって。

この『チャンスシステム』も同じ。
神様だか仏様だか分からないけれど、
何も私達を苦しめるためにこんなシステムを作ったわけじゃないはずだ。
一度きりの人生をよりよく生きてもらうために作られたシステムのはずだ。
そこには善意しかなかったはずなのに……。
善意で作られたシステムなのに……、私は……、私はこんなにも胸が痛くて……。
他者に思いやられる地獄を感じてしまっていて……。
こん……なにも……。


「わあああああああああっ!」


いつの間にか私は大声で叫んでしまっていた。
自分が望んでいる事が本当は何なのか、
善意に彩られたこの世界で生きていく私はどうしたらいいのか、
そもそも何をしたらいいのか、
色んな事が分からなくなって、沢山の感情が混乱して、大声で叫んでいた。
叫びながら、私の理想には程遠いギターの演奏を続けて、また叫んだ。
どうせ今の私の姿は誰にも見えない。
私の声も私の演奏も誰にも聞こえない。
だから、思う存分、叫んでしまおう。
私の胸の痛みを少しでも吐き出せるように。
ほんの少しでも消し去ってしまえるように……。


「わああああああああああっ!」


私のお願いは何?
私の夢は何?
私の進みたい道は何処?
そもそも、どうして私は音楽を続けたいの?
色んな思考に頭の中が塗りつぶされながら、私はそうやって長い間、公園で叫び続けた。


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最終更新:2013年03月23日 21:37