「えっと……、ボーカルは唯で曲目が『ふわふわ時間』……と。
オッケー、じゃあ出演時間決まったら、また連絡するね」


蝉の声がまだ聞こえる軽音楽部の部室の中、
眼鏡を掛けたお姉さんっぽい人がそう言ってノートにメモを終えた。
名前は真鍋和さんと言って、憂ちゃんの一つ年上の幼馴染みで桜高の生徒会役員らしい。
さっき部室に和さんが姿を現した時、やっぱり少しだけ寂しそうに憂ちゃんが教えてくれた。
和さんに自分の姿が認識されていない事が、分かってはいても辛く感じているんだろう。
『和ちゃん……』と私に聞こえないように一人で呟いてたし、
和さんは憂ちゃんにとって大切な幼馴染みだと思って違いない。
年上の幼馴染みを『ちゃん』付けで呼べるなんて、相当長い付き合いなんだろうしね。
私にはまだ付き合いのある年上の幼馴染みが居ないから分からないけど、
憂ちゃんは和さんの事をもう一人のお姉さんみたいに感じてるんじゃないのかな。

一晩中とは言わないけれど昨晩……じゃないか、
正確には今日の午前一時頃から二時間以上ギターを弾いてから、私は一人で家に戻った。
二時間弾いて、何の上達も感じられずに、自分の衰えだけを実感させられて……。
部屋に戻った時、憂ちゃんは私が外出した時と同じ様に寝息を立てていたけど、
本当に眠っていたか、気付かない振りをしてくれているのか、私にもよく分からなかった。
憂ちゃんは気配りの出来る子だから、私のする事なんか全部お見通しなのかもしれない。
分かっていて、そっとしておいてくれてるのかもしれない。
……なんて、そんな事を考えてしまう私は嫌な子だと思う。
人の善意を素直に受け取れられないなんて最低だと思うし、
大体、憂ちゃんは単に本当に眠っていて、私の外出に気付いてもいないはずなんだ。
自分の才能が乏しいからって被害者面して、どうにかなるわけでもないのにね……。
とにかく、私はギターをまた部屋の片隅に置いて、そう考えながら眠りに就いた。

珍しく夜更かしをしてしまったせいか、目を覚ました時には午前十一時を過ぎていた。
学校を欠席しても問題無いとは言っても、やっぱり何となく罪悪感がある。
そんな妙に真面目な自分に苦笑しながら、部屋を見渡してみると憂ちゃんの姿は見えなかった。
散歩にでも行ってるのかな? と思って居間に降りると、ちょっと驚いてしまった。
憂ちゃんが私のお母さんのエプロンを着けて、掃除機を掛けていたからだ。
ごはんを提供する等価交換として家事をしてもらうとは言ったけれど、ここまでしてくれるなんて……。
どうも憂ちゃんは私なんかよりずっと律儀で真面目みたいだ。


「おはよう、梓ちゃん。今日はお寝坊さんなんだね。
朝ごはんの準備出来てるよ。
あ、もうそろそろお昼ごはんになっちゃうかな?」


私の姿を見つけると、優しい顔をして憂ちゃんが笑った。
その笑顔が私の胸を軽く痛くしたけど、胸の痛さの原因は憂ちゃんじゃなくて私にある。
私は胸の痛みを誤魔化して「ありがとう」って言って苦笑すると、
ごはんの用意されたテーブルに座って「いただきます」と胸の前で手を重ねた。


「今日の予定はどうするの、梓ちゃん?」


掃除機を停めてから、憂ちゃんが私の顔を見て首を傾げた。
私が食べている間、埃が立たないように掃除を中断してくれるらしい。
本当に親切な子だなあ、憂ちゃん……。
お母さんなんか、私がごはんを食べてても掃除してるのなんてしょっちゅうなんだよね。
いや、別にそんな事はどうでもいいんだけど。


「うーん……、そうだなあ……」


憂ちゃんの美味しい朝ごはんを食べながら、私も憂ちゃんと一緒に首を傾げた。
正直な話、迷っていたから。
当初こそ、この一週間は律さん達の軽音楽部を見学させてもらいたかった。
もうすぐ学園祭があるらしいし、その日まで見届けさせてもらおうと思ってたんだ。
折角、公園ですれ違った縁だってのもあるけど、
私じゃない誰かの音楽との日常を見届けたかったんだと思う。
他人の音楽との付き合い方を知りたかったんだよね。

今は、迷ってる。
律さん達の演奏に問題があったわけじゃない。
お茶ばかりしてる部活だったけど、実力だってそれなりにあると思うしね。
予定通りなら、このまま律さん達の軽音楽部を見届けても何の問題も無いと思う。
私の目的は果たせるはずなんだ。

でも、昨日の憂ちゃんの演奏を聴いてから、私は迷っていた。
私の実力なんか簡単に追い越しそうな素人の憂ちゃんの演奏。
天才の存在を思い知らされたあの演奏を聴いて、思った。
律さん達よりももっと上手な演奏をする人達を見た方がいいんじゃないかって。
将来的に音楽を続けるつもりなら、憂ちゃん以上の天才を知っておくべきじゃないのかな?
特に今の私は自分の姿を誰にも気付かれない状態なんだ。
誰の演奏だって傍で見放題なんだ。
そう言えば、あの海外アーティストが武道館でコンサートを開催するとかテレビで言ってた気がする。
あの人の演奏は大好きだし、目前で見られるんだったら是非見てみたいし……。
私の将来の事を考えるんなら、それでいいはずだよね。

って、そう思っていたはずなのに。
私は昨日と同じく桜高の軽音楽部の見学に来てしまっていた。
どうしてなのかは、私にもよく分からない。
武道館までの電車を無賃乗車する勇気が無かったから。
なんて、そんな馬鹿みたいな言い訳はいい。
どうしてかは分からなかったけど、桜高の軽音楽部の人達を見たかったんだと思う。
学園祭の最後まで見届けたくなったんだと思う。
だから、私は憂ちゃんと一緒に、軽音楽部の部室の机に座っているんだ。
部員の人達の会話を、練習を、ずっと見続けたいんだ。


「よかった。
わざわざ来てもらってありがとう」


不意に穏やかにそう言ったのは、紬さんだった。
勿論、私達に向けて言ってくれた言葉じゃなく、和さんに向けた言葉だ。
話を聞いている限り、今日は生徒会と部の最後の会議を行う日みたい。
それで生徒会役員の和さんが、軽音楽部まで足を運んで来たって事なんだろう。


「これも生徒会の仕事だから」


和さんが何でも無い事みたいに微笑んだけど、すぐに表情を少し崩して続けた。


「でも、本当に唯で大丈夫なの?」


唯……と言うのは、憂ちゃんのお姉さんの名前だ。
和さんは唯さんの幼馴染みでもあると憂ちゃんが言っていた。
幼馴染みであるだけに、唯さんの事をよく知ってるし、それで心配にもなっているんだろう。
心配と言えば、私にもちょっとした心配がある。
この桜高軽音楽部の演奏する曲名だ。
昨日も隠れて楽譜を見せてもらったんだけど、
曲名の欄には『ふわふわ時間(タイム)』と記されていた。
『ふわふわ時間(タイム)』って……。
曲名に違わず、歌詞も相当甘い感じだったし……。

しかも、律さん達の会話を聞く限り、
意外な事に『ふわふわ時間(タイム)』の作詞をしたのは澪さんみたいなんだよね。
背が高めで長くて綺麗な黒髪をした美人の澪さんの作詞した曲が『ふわふわ時間(タイム)』……。
意外だなあ……。
いや……、そうでも無いのかな……?
見た目と違ってかなり照れ屋さんみたいだし、ある意味、澪さんに合ってるのかも……?

とにかく、そんな感じでちょっと心配になって来ちゃったな……。
私の目指す音楽性とは全然違ってるけど、私の選択は間違ってないよね……?
この部を見学してて、大丈夫だよね……?


「先週から、放課後、さわ子先生の家で特訓してるからな!」


「多分、間に合うんじゃないかと」


私を安心させるためじゃないのは分かっているけど、
そんな和さんに向けられた律さんと澪さんの優しげな声を聞くと、私の心も少し落ち着いた。
律さん達が唯さんの事を信じてるんだったら、私も唯さんとこの部の事を信じよう。
天才の憂ちゃんが信じてるんだもんね。
きっと唯さんだって相応の実力を持ってるはずだよね。
話を聞く限り、人格にはちょっと不安が残るけど……。

瞬間。
唐突に軽音楽部の扉が大きく開け放たれた。
逆光の中には、二人の女の人が立っていた。
一人は前髪の右側を二本のヘアピンで留めて、髪を下ろした憂ちゃんとかなり似ている人だった。
うん、ギターを抱えてるわけだし、間違いない。
あの人が憂ちゃんのお姉さんで、この軽音楽部のギタリスト兼ボーカリストの唯さんだ。
唯さんが放課後にしていたという特訓が終わったんだろう。
それでこうして軽音楽部に姿を現したに違いない。

私は申し訳ない気分になって、憂ちゃんの方に視線を向けた。
不可抗力とは言え、お姉さんに自分の事を無視されるのが辛くて私の家に泊まっている憂ちゃんなんだ。
唯さんの姿を見て辛い気持ちになってるんじゃないか、って思ったから。
でも、私が視線を向けた憂ちゃんが見ていたのは、予想外にも唯さんじゃなかった。
憂ちゃんが見ていたのは、眼鏡を掛けて女性物のスーツを着た髪の長い人の方で。
憂ちゃんは驚いた様子で小さく呟いていた。


「えっ……?
キャサリン……さん……?」


キャサリンさん……?
あの髪の長い女の人の事なのかな……?
でも、外見は完全に日本人だよね。
この部室の中でキャサリンって名前が似合いそうなのは、あの人より紬さんの方だし……。
ひょっとして、芸名か何かなの?
あ、でも、唯さんと一緒に来たって事は、
あの人こそがさわ子先生って言う名前の唯さんを特訓してた人って事……?
ああ……、よく分からない……。
そう思いながら私が頭を抱えている間に、
キャサリンさん(?)の話が始まってしまっていた。


「待たせたわね……。
完璧よ!」


キャサリンさん(?)が自信満々に親指を立てる。
その様子を見る限り、やっぱりあの人が唯さんを特訓してたんだろう。


「さあ、唯ちゃん……、見せてあげなさい!」


キャサリンさん(?)が宣言すると、唯さんが言われるままにギターを弾き始めた。
音階では知っていた『ふわふわ時間(タイム)』のギターパートだ。
憂ちゃんと違って、驚くほど上手いってわけじゃない。
でも、高一からギターを始めた事を考えれば、十分過ぎる腕前だった。


「おおっ! すげえ!」


「上達している!」


「自身に満ち溢れた表情!」


律さん、澪さん、紬さんの順番で称賛の声が上がる。
唯さんの前の実力は知らないけど、
部員のこの三人がそう言うのなら、唯さんの特訓は成功したんだろう。
でも、私が気になったのは、唯さんのギターの腕前よりその表情の方だった。
紬さんが言った通り、唯さんは自信に満ち溢れた表情でギターを弾いていた。
腕前より何より、伸び伸びと思いのままに弾いているみたいに見えた。
多分、今の私には出来ない表情で、今の私には抱えられない想いを抱いて。
あれが……、憂ちゃんのお姉さんの唯さん……。

と。
唯さんが軽くブレス。
そっか。唯さんはボーカリストでもあったんだ。
ギターをこんなに自信を持って弾けるんなら、きっとボーカルの方も伸び伸びと……。
そして、唯さんが口を大きく開いて歌い始めた。


「君を見てるといつもハートドキド……」


刹那、軽音楽部の三人がその場に倒れ込み、私も釣られて机に突っ伏してしまった。
歌が下手だったわけじゃない。
唯さんの歌声が物凄い濁声だったからだ。
唯さんの普段の声を聞いた事が無い私でも分かるくらい、その声は完全に嗄れ切っていた。

倒れ込んだ律さん達が、どうにか顔を上げて唯さんに視線を向ける。
「てへっ」と言って唯さんが自分の頭を掻くと、
それに倣ってキャサリンさん(?)も同じようなポーズを取って笑った。


「練習させ過ぎちゃった!」


「声嗄れちゃった!」


一大事のはずなのに、悪びれもせずに二人で楽しそうに舌を出す。


「カワイコぶっても駄目だあっ!」


律さんが非常にもっともな突っ込みをして、呆然とする。
私も律さんと完全に同意見だった。
こんな状態で唯さん達はどうしてまだ楽しそうに出来てるんだろう……。


「そんな……、じゃあ、ボーカルは?」


「変更するなら今日中よ」


「えっ? そうなのかっ?
だとすると……」


私と同じ気持ちだったらしく、
紬さん、和さん、律さんの戸惑いの声が上がる。
こんな状態で戸惑わないわけがない。
まだこの軽音部の事をよく知ってるわけじゃないけど、
他にボーカルが出来そうな人なんて居るのかな……、って、あっ。
瞬間、私の頭の中にはある人の名前が浮かんでいた。
部外者の私ですら思い付けた人の名前を、部員の人達が思い付かないはずがない。
律さんと紬さんがその人の方に顔を向けた。
当然、澪さんだった。
私が公園で聴いた澪さんのエアベースの時のあの歌声は見事だった。
あの歌声なら、十分にボーカリストだって務められるはずだと思う。


「……えっ?」


その事実に気付いてないのは当事者の澪さんだっただけらしく、
周囲の全員から視線を向けられて、やっと自分に白羽の矢が立った事に気付いたみたいだった。


「そうね、澪ちゃんなら歌詞憶えてるだろうし」


「歌詞作った本人だしなあ」


「頑張ってね、澪ちゃん」


「ハスキー唯からもお願い!」


部室内に次々と上がる澪さん推薦の声。
注目を浴び過ぎた澪さんはよっぽど恥ずかしかったのか緊張したのか、
顔を真っ赤にしてしばらく震えてから、「うわぁ……」と呟いて後ろ側に倒れ込んでしまった。
そ……、そんなに人前で歌うのが嫌なのかな……。
照れ屋さんな人だとは思ってたけど……。
そう言う私も歌は全然上手い方じゃないんだけどね……。

律さんの言葉通りなら、確か学園祭まで後三日。
たったそれだけの期間しかない上に初ライブなのに、
この桜高の軽音楽部の皆さんは無事に学園祭を乗り切れるのかな……。
何だか違う意味で見逃せなくなって来ちゃったみたい……。
私が学園祭に出るわけじゃないのに、とても胸がドキドキしてしまう。
一方的にだけど、知った人達が学園祭で失敗する姿なんか見たくないし……。

だけど。
心配する私なんか関係無く、憂ちゃんは苦笑しながら唯さんを見つめていた。
『お姉ちゃんったら……』とでも言わんばかりの穏やかな顔で。
そして、それは憂ちゃんだけじゃなかった。
キャサリンさん(?)も律さんも紬さんも唯さんも和さんも、
澪さんを除いたその場に居た全員が穏やかな表情で笑っていた。
こんな状態なのに、どうして笑えてるんだろう……。
失敗するかもしれない学園祭なのに、どうして……。
多分、私は澪さん以上に学園祭の成否を心配して、一人でそんな事を考えてしまっていた。




桜高の軽音楽部の練習の見学を終えた後、私は憂ちゃんと肩を並べて帰路に着いていた。
唯さんが姿を見せた事だし、早めに帰った方がいいのかも、
って思ったけど、意外と憂ちゃんは最後まで軽音楽部の見学を私に続けさせてくれた。
いいのかなって思ったけど、憂ちゃんは平気な顔で笑ってくれていた。
寂しいと感じるのは唯さんと二人きりで一緒に居る時だけで、
お姉ちゃんが友達と楽しそうにしてる時は一緒に居ても平気だし、逆に嬉しいんだよ。
と憂ちゃんは言っていた。
確かにそういうものなのかもしれないなあ。
私も仲の良い子と二人きりの時に視線すら向けられなかったから、相当に辛いと思う。

実を言うと、私も憂ちゃんと同じ事を考えているのかもしれない。
こんな状態になるずっと前から、似た事を考えてたんだと思う。
練習を中断して以来、あの子と遊びに行かなくなったのも、それが理由な気がする。
あの子と二人きりで何を話したらいいのか分からない。
口を開けば、あの子を責めてしまいそうで怖い。
一緒に居る事が怖い。
あの子から他人を見る視線を向けられるのが怖い。
だから、私はあの子の傍に居られなかったんだよね……。
いつか……、いつかは話をしなきゃいけないのは分かってるんだけど……。


「……梓ちゃん?
浮かない顔をしてるみたいだけど、どうかしたの?」


私の表情が気になったのか、憂ちゃんが私の隣で首を傾げた。
駄目だ駄目だ。
そう思いながら、私は一人で首を振る。
あの子の事も私の将来と夢の事も考えなきゃいけないけど、それで暗くなってたって意味が無いよね。
残された期間は短いし、私はたくさんの事を同時に考えられるほど器用じゃない。
だから、今は桜高の軽音楽部の皆さんの見学に専念しよう。
多分、それが私にとって一番いい選択肢なんだって信じて。

私は出来る限りの笑顔を作って、憂ちゃんに向けて軽く首をまた振った。


「ううん、何でも無いよ、憂ちゃん。
ちょっとだけ考え事をしてただけだから、心配いらないよ」


「そう……?
でも、何か悩み事があったら、何でも言ってね。
私に出来る事なんて少ないかもしれないけど、
ちょっとでも梓ちゃんの力になれたら私も嬉しいな」


「うん、ありがとう、憂ちゃん。
その時はお願いするね……って、
そう言えば一つ悩んでた事があったのを思い出しちゃった。
早速なんだけど、聞いてもらっていい?」


「うん、何でも話して」


「あのキャサリンさん……だったよね?
あの人は憂ちゃんとどういう関係の人なの?
どうもずっとそれが気になっちゃってるんだよね。
唯さん達の会話を聞いてる限りじゃ、桜高の軽音楽部の顧問の先生みたいだけど……。
でも、顧問の先生と憂ちゃんじゃ、何の接点も無いだろうし……。
それで思ったんだけど、あのキャサリンさんってひょっとして……」


私が訊ねると、憂ちゃんはその足を止めて顔を上げた。
釣られて、私も足を止める。
憂ちゃんの表情を窺ってみると、空に浮かぶ雲に視線を向けているみたいだった。
何かを懐かしんでるんだろうって事は、私にだってすぐに分かった。
数秒、雲を見上げた後で、憂ちゃんが私に視線を向け直して微笑んだ。
その微笑みは少し寂しそうだったけれど、それ以上に嬉しそうにも見えた。


「うん、梓ちゃんが考えてる通りだと思うよ。
キャサリンさんはね、私の前の『ナビゲーター』の人だったんだ。
一週間、私の『一生に一度のお願い』を考えるお手伝いをしてくれた素敵な人なんだよ」


憂ちゃんの言葉を聞いて、私は妙に納得してしまっていた。
キャサリンさん――もう(?)はいいか――を見た時の憂ちゃんの反応から考えてもそうだったし、
そもそも憂ちゃんが話してくれた前の『ナビゲーター』の人の印象に合致し過ぎてるもんね。
まさか憂ちゃんの言葉通りの人が誇張無しに存在してるとは思ってなかったけど……。
しかも、軽音楽部の顧問の先生だったなんて……。
キャサリンさんが顧問で大丈夫なのかな、軽音楽部の皆さん。
唯さん達の反応を見る限り、音楽に関してはちゃんとした先生ではあるみたいだけど……。


「でも、本当にびっくりしたなあ……。
まさかお姉ちゃん達の部の顧問の先生が、キャサリンさんだったなんて……。
これも縁って言うのかな?」


憂ちゃんが嬉しそうに苦笑する。
キャサリンさんに自分の姿が見えていない寂しさは勿論あるんだろう。
多分、キャサリンさんが憂ちゃんを完全に忘れ去っている事も辛いはずだと思う。
それでも、憂ちゃんは笑顔を見せていた。
それがどんな形でも、キャサリンさんと再会出来た事を嬉しく思ってるみたいだった。
何だかそれが私まで嬉しくさせて、気付けば私も笑顔で呟いてしまっていた。


「うん、素敵な縁だよね、本当に……。
神様だか誰だか分からないけど、今回ばかりは素敵な事をしてくれるよね。
もしかしたら、その神様が単に手を抜いて身近な人の間で、
『チャンスシステム』の引き継ぎをしてるだけかもしれないけどね」


「あはは、そうかもしれないよね……。
だけどね、私はそれでも嬉しいな!
キャサリンさんが私と別れてからどうなったのか、ずっと気になってたんだもん!
キャサリンさん……、元気そうでよかった……」


そう言った憂ちゃんは少しだけ目尻を濡らしてるみたいだった。
心の底から、キャサリンさんとの再会に感激しているんだろうな。
憂ちゃんとキャサリンさんの間に何があったのかは分からない。
でも、そうやって憂ちゃんの目尻を濡らすくらい、
キャサリンさんと憂ちゃんの間には色んな事があったんだろう。
何だか羨ましいし、ちょっと妬けちゃうかも……。

って、妬けちゃう……?
私が?
自分で考えた事ながら、その想像は私を結構動揺させた。
こう言うのも何だけど、私は友達を作るのがかなり下手糞だと思う。
あの子とだって仲良くなれ始めたのは、出会って二ヶ月くらい経ってからだった。
別に人間嫌いだってわけじゃないけど、それくらい付き合わないと友達になれない性格だと思う。
我ながら、可愛げが全然無くて嫌になるよね……。

そんな私がいつの間にか憂ちゃんに妬いちゃってるなんて……。
それだけ憂ちゃんが優しくて魅力的な子だって事なんだろうけど、何となく気恥ずかしいなあ……。
私は自分の顔が熱くなるのを自分で誤魔化して咳払いをすると、軽く話を逸らしてみる。


「そう言えば、憂ちゃん。
キャサリンさん……って名前は何なの?
さわ子先生……だったっけ。
ひょっとして、あの先生がキャサリンとしか名乗らなかったとか?」


「うん、そうなんだ。
私がどれだけ聞いてもキャサリンって名前しか教えてくれなくて、
何歳なのかも普段何をしている人なのかも教えてくれなかったんだ。
私と会ってくれてる時はさっきみたいなスーツじゃなくて、
もっと派手なバンドを組んでる人達みたいな服装だったから、
そういう音楽関係の人なんだって思ってたんだけど、音楽の先生だったんだね」


「それは……、よくそんな人を信じたね、憂ちゃん……。
怪し過ぎるでしょ、そんな人……」


私が若干呆れた表情を浮かべて言ってみたけど、
憂ちゃんは気を悪くした風も無くまた笑顔を見せてくれた。
キャサリンさんの言動が怪しいとは、憂ちゃん自身も思ってた事だったんだろう。
それでも、憂ちゃんはキャサリンさんを信じる事に決めたんだ。
どうしてなんだろう?
何で憂ちゃんはそんな怪しい人を心から信じられたんだろう?

私の考えていた事が分かったみたいで、憂ちゃんが話を続けてくれた。
それは憂ちゃんがキャサリンさんとの思い出を誰かに話したかったからでもあるんだろうけど、
私が私のお願いを見つけられるための手助けになれば、って考えて話してくれているようにも見えた。


「キャサリンさんって、確かにちょっと一見すると怪しい人だよね……。
でも、プールで出会って、お話をしていて思ったんだよ。
キャサリンさんは本気で私のお願いの事を考えてくれてるんだ、って。
キャサリンさんは私の話を真剣に聞いてくれたし、
『チャンスシステム』についてもちゃんと説明してくれたし、
私の『一生に一度のお願い』の事も一緒になって考えてくれたんだもん。
誰かの事を真剣に考えられる人なんだ、って思ったんだ……。
それにね……」


「それに……?」


「私が最初にキャサリンさんの事を信じられたのは、
キャサリンさんが叶えた『お試しお願い』の事を最初に教えてくれたからなんだ。
ううん、それだけじゃないよ。
『一生に一度のお願い』の方も最後の最後、私のお願いを決める直前に教えてくれたの。
私ね、これって凄い事だと思うんだ。
だって、自分のお願いって、自分の夢と同じでしょ?
そんな自分のお願いを言葉にして誰かに話すのなんて、すっごく難しい事だと思うんだ。
出来そうで出来る事じゃないと思うな……。

それなのにキャサリンさんは自分のお願いを教えてくれたんだよ。
だからね、私はキャサリンさんの事が信じられるって思ったんだ」


憂ちゃんのその言葉を聞いた後、私は自分の身を鑑みて少し恥ずかしくなった。
憂ちゃんの言う通りだ。
自分の叶えたいお願いなんて、誰かにおいそれと話せる事じゃないよね。
特に私は憂ちゃんに自分の叶えた『お試しお願い』について嘘を吐いてる。
『平沢さんの事をもっとよく知りたい』って本当のお願いを誤魔化してるんだよね……。

でも、キャサリンさんは、多分本当のお願いを憂ちゃんに伝えた。
確証は無いけど、キャサリンさんはそういう事で嘘を吐く人じゃないと思う。
そして、憂ちゃんも私に自分の『お試しお願い』を教えてくれた。
ちょっとした緊急時にではあったけど、教えてくれたんだ。
二人とも……、凄いなあ……。

何となく、ちょっと分かった。
私が憂ちゃんの言葉を信じられた理由。
それは憂ちゃんがキャサリンさんを信じていたからなんだ。
キャサリンさんって信頼出来る見本があったからなんだ。
だから、憂ちゃんは私の事を真剣に考えてくれてるし、私も憂ちゃんを信じる気になれたんだと思う。


「これは私の勝手な想像なんだけど……」


憂ちゃんが笑顔を浮かべて話を続ける。
その顔はもう寂しそうな笑顔じゃなかった。
弾けるような満面の笑顔だった。


「キャサリンさん、私の顔を見てすぐにお姉ちゃんの……平沢唯の妹だって気付いたって思うんだ。
顧問になる前でもお姉ちゃんの顔くらいは知ってたと思うし、
私もキャサリンさんには「平沢憂です」って名前を伝えてたし。
でも、キャサリンさんは私にそんな話を一回もしなかったんだ。
私の想像だけど、きっとキャサリンさんはわざとそうしたんだって思うの。

変な先入観無しに私の『一生に一度のお願い』を見つける手助けがしたかったから
あくまでただの『ナビゲーター』として私の手伝いをしたかったから、
私にお姉ちゃんの話も自分の本当の名前の話もしなかったんじゃないかな?
あははっ、ちょっと私の考え過ぎかな?」


少し照れたらしく、憂ちゃんが頬を赤く染める。
私はキャサリンさんの事をよく知ってるわけじゃない。
一度も会話すらしてないし、姿すら見られてないわけだから、
キャサリンさんが本当は何を考えてたのかなんて分かるはずもない。
でも、憂ちゃんの言う事は間違ってないって思った。
キャサリンさんの事を信じてるわけじゃない。
キャサリンさんを信じる憂ちゃんの事を信じられるから。
信じてるから。
だから、私は憂ちゃんの想像が間違って無いはずだって思った。


「ううん、考え過ぎじゃないって私は思うよ、憂ちゃん」


「うんっ!
ありがとう、梓ちゃん……!」


私が思ったままの言葉を届けると、憂ちゃんはまた弾けるような笑顔を浮かべてくれた。
それはとってもとっても……、とっても魅力的な笑顔だった。
唯さんやキャサリンさんや、色んな人の事を大切に思っている素敵な笑顔。
私もいつかは憂ちゃんみたいな笑顔を浮かべる事が出来るのかな……。
出来たら……いいな……。




「『素敵な出会い』……か」


放課後、セッション中の桜高軽音楽部部室。
私はキャサリンさんの横顔を見つめながら何となく呟いた。
憂ちゃんのお姉さんの顔を初めて見た翌日、私は一人で部室にお邪魔していた。
ちなみに今日は傍に憂ちゃんは居ない。
喧嘩したとか気まずくなったとか、別にそういう理由じゃない。
今日は何となく、私一人で軽音楽部の見学をしたかったんだよね。
自分でもその理由ははっきりとは分からないけど、
二人より一人で見学した方が見えて来る何かがあるかもしれない。
って、ひょっとしたら、そんな風に心の何処かで考えていたのかも。


『今日は一人で軽音楽部の見学をしたい』


今日の昼過ぎ、私がそう言うと、憂ちゃんは穏やかに微笑んで私を送り出してくれた。
もう『一生に一度のお願い』の期限の日まで、残された時間はどんどん少なくなってるんだもんね。
その期限の日まで、私の行動を見守ってくれるつもりなんだろうと思う。
当然だけど、まだ私の叶えてほしい『お願い』は見つかっていない。
見つけられる気配すらも全然無い。
勿論、音楽の才能が欲しい気持ちはある。
もっと上手にギターを弾いてみせたいし、才能があればきっと私の悩みは解消される。
その『お願い』が叶えば、私は幸せになれると思う。

でも、やっぱり。
私の中には、それで本当にいいのか、って思いもあって。
そんな事で幸せになって満足なのか、って迷いもあって。
私は結局、軽音楽部の皆さんの見学に来る事しか出来ない。
その先に私の答えがあるなんてとても断言出来ないけど、それでも。
私の心の中には、軽音楽部の皆さんの演奏を聴きたい気持ちがあるから。
心の何処かに強く引っ掛かっているから。
私は今日も桜高の軽音楽部の部室に足を運んでしまう。


「はいはい。またドラムが走ってるわよ、りっちゃん」


キャサリンさん――出席簿に記された名前からすると山中さわ子先生――が胸の前で軽く両手を叩いた。
キャサリンさんが演奏を止めるのは、これで今日三度目くらいだろうか。
学園祭が近いせいもあるのかもしれないけれど、今日のキャサリンさんの態度はとても真剣だった。
憂ちゃんが信頼してるだけあって、やる時にはやる先生だという事なのかもしれない。


「えーっ、マジかよ、さわちゃん。
私、これでも走らない様に結構気を遣ってるんだぜ?」


律さんがげんなりした表情で、キャサリンさんの言葉に応じる。
いつもいい加減に見える律さんだけど、今回ばかりは私も律さんの言葉には頷きたかった。
キャサリンさんは『走ってる』と言ったけれど、今回の律さんの演奏が走ってるようには思えなかったからだ。
キャサリンさんも律さんがそう言うのは百も承知みたいで、優しく微笑んでから言葉を続けた。


「そうね、りっちゃんのドラムもかなり走らなくなってはきたわ。
でも、やっぱり少しだけ走ってるのよ。
本番じゃそれが命取りになったりするんだから、その辺は気を付けなきゃね。
リズム隊が崩れたら、バンドの演奏は総崩れになっちゃうもの。
勿論、りっちゃんのドラムは澪ちゃんのベースが組むときちんとした土台になるわ。
やっぱり、幼馴染みだからかしら?
二人が組むと楽器歴が浅いと思えないくらいのリズム隊になれてるのよね。
でもね……」


キャサリンさんが誰も居ない空間に視線を向けて軽く苦笑する。
その空間……、場所はいつも澪さんがベーシストとして陣取っている場所だった。
そこに澪さんの姿は無い。
今日、澪さんは部室に姿を現していなかった。
律さん達の会話からすると、今日は一人だけ部活を休むらしい。
何でもカラオケ屋で一人で歌の練習をするつもりなんだとか。
そんなに自分が歌う事に自信が無いんだ、澪さん……。
澪さんの事を考えると、私は自分の心臓が嫌な速度で鼓動するのを感じる。
澪さん、ああ見えて凄く気が弱いみたいだし、大丈夫なのかな……。

私は自分が澪さんと同じ立場になってしまった時の事を想像してみる。
あの子にボーカルを任せて練習していたとして、
何かのアクシデントでライブの三日前に急に私にボーカルのパートが回って来たとしたら……。
ああ、駄目だ……。
想像するだけで身の毛がよだつ。
だって、私はそんなに歌が上手くないんだから。
歌のパートをやろうって考えた事もないんだもん。
いきなりボーカルをやれって言われても、全然やれる自信が無いよ……。
単に想像してみた私ですらそうなんだ。
実際にそんな立場に立つ事になってしまった澪さんの不安はどれくらいなんだろう……。


「そう……だな」


キャサリンさんの視線を辿って、澪さんの定位置を見てから律さんが微笑んだ。
その律さんの表情を見た時、私は正直驚いた。
律さんの微笑みがすっごく優しい表情だったから。
いつも適当に見えてた律さんがこんな表情を浮かべるなんて……。
当たり前だけど私のそんな考えに気付かない素振りで、律さんが穏やかな声色で続けた。


「ボーカルを澪に押し付けちゃう形になっちゃったんだもんな。
その分、同じリズム隊の私がしっかりしてやらなきゃいけないよな。
うん、学祭ライブが終わるまでは、澪の分もリズム隊を頑張るよ、さわちゃん。
澪にはボーカルに集中してもらわなきゃいけないもんな。
面倒だけど、これが部長の辛い所だぜ……ってな」


『面倒』と言いながら、全然『面倒』じゃなさそうに律さんが笑う。
律さんの姿を見て、キャサリンさん、紬さんが顔を合わせて嬉しそうに微笑んだ。
それから、唯さんが嗄れた声を出しながらその場で飛び跳ねる。


「さっすが、りっちゃん!
流石は私達の自慢の部長だね!」


「ふっ、よせやい。部長として当然の事をしてるだけだからな……。
つーか、澪がボーカルをやらなくちゃいけなくなったのは、おまえとさわちゃんの責任でもあるんだからな?
その辺をよーく肝に命じとくように」


「えー……、それはひどいよ、りっちゃん……」


「分かってるわよー。
だから、責任感じて忙しいのに皆の練習を見てるんじゃないのー」


突然の律さんの言葉に、唯さんとキャサリンさんが頬を膨らませて口を尖らせる。
でも、その二人の目元は笑っていたし、紬さんも皆さんの様子を笑顔で見つめていた。
学園祭を前に相当なピンチのはずなのに、昨日と同じくこの軽音楽部の皆さんは笑っていた。
ピンチですらも心から楽しんでるみたいに。

でも、私にはそんな軽音楽部の人達が分からなかった。
どうして、こんな時に皆で笑えてるんだろう。
学園祭が失敗してしまっても構わないのかな?
学園祭なんてお遊びだからどうでもいいって意味なのかな?
ううん、そんな風には見えない。
練習時間こそ少なめだけど、皆さんが音楽に向ける情熱は本物だと思う。
一度一度のセッションに皆さんの真剣な想いが感じられる。
いい演奏をしようっていう強い決心が感じられる。
未熟な私だけれど、それくらいは分かるんだ。
だからこそ、皆さんの落ち着いた態度が私には全然分からなかった。
もしかしたら、その理由が分かりたくて、私は今日一人で軽音楽部の見学に来たのかもしれない。

憂ちゃんには、と不意に私は思う。
きっと憂ちゃんには、その理由が分かってるんだろう。
昨日、憂ちゃんも微笑んでいた。
お姉さんの唯さんがボーカルを務められなくなってしまったってピンチを目の前に、笑顔だった。
きっと憂ちゃんも軽音楽部の皆さんと同じ想いを抱いてるから、笑顔だったんだ。
多分、私が訊けば憂ちゃんはその理由を答えてくれるだろう。
優しく穏やかに教えてくれるだろう。
でも、私はそれが嫌だった。
その答えは私が自分で見つけたいから。
それを見つけられた時にこそ、私は自分の本当の『お願い』を見つけられる気がするから……。


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最終更新:2013年03月23日 21:37