「よし、と。
それじゃあ、練習を再開するわよー。
りっちゃんはもう少しだけ走らないように心掛けてね。
唯ちゃんとムギちゃんは逆にもっと力強く、りっちゃんのペースに負けないように。
三人とも分かったー?」


「はーいっ!」


キャサリンさんが宣言するみたいに言うと、部員の皆さんが元気よく返事をして練習を再開する。
あまり上手ではないはずなのに、どうしても私の心に残る演奏が部室の中に響き始める。
勿論、劇的に上達出来てるわけじゃない。
でも、キャサリンさんの言葉をきっかけに、確実にさっきより上手な演奏になっている気がした。
キャサリンさんが満足そうに頷き、身体でリズムを取る。
私もキャサリンさんに倣って、全身で皆さんの演奏を感じながらさっきと同じ事を呟いてみた。


「『素敵な出会い』……か」


それは昨日、憂ちゃんに教えてもらったキャサリンさんの『お試しお願い』だった。
キャサリンさんは『お試しお願い』でそのお願いを叶えてもらったらしい。
憂ちゃんが言うには、凄く美人なキャサリンさんだけど何故か恋愛運はよくないんだとか。
これまでもいくつもの恋をしてきたのに、幸福な結末を迎えられた事は無かったらしい。
それでキャサリンさんが選んだお願いが『素敵な出会い』なのは、理に適ってる気がする。
だけど、憂ちゃんは一つ疑問に思って訊いてしまったそうだ。
『素敵な出会いよりも、運命の恋人を下さいってお願いした方がよかったんじゃないですか?』って。

言われてみると、それもそうだよね。
誰かと素敵な出会いをしても、その人と結ばれるかどうかは分からない。
出会っただけで、その出会いを生かせずに終わってしまうかもしれないわけだし。
だったら、最初から『運命の恋人』をお願いした方が確実だよね。

でも、キャサリンさんは憂ちゃんのその言葉に首を振ったらしい。
『そんなの面白くないじゃない?』と不敵に笑いながら。
キャサリンさん曰く、欲しいのは『素敵な出会い』って機会だけで、
本当に自分が付き合いたい『運命の恋人』は自分自身の力で手に入れたい。
『素敵な出会い』は縁に寄るものだから自分にはどうしようもない事だけど、
『運命の恋人』は自分自身の力で手に入れられるはずのものだって思いたいから、との事だとか。

でも、その『お試しお願い』をしてみた結果、
残念ながらキャサリンさんに恋人が出来る事はなかったみたい。
『素敵な出会い』は一週間の内に何度もあったけれど、どうにも生かし切れなかったらしい。
おかげで一週間で三度もの失恋を経験する事になってしまったそうだ。
それでもキャサリンさんは笑ってたんだよ、と憂ちゃんは言っていた。


『一生に一度あるかどうかの出会いを、
一週間で三度も体験出来ただけで儲け物だと思わない?』


出会いを生かせなかった自分に後悔もあるはずなのに、
そう言ったキャサリンさんの姿はとても素敵だったらしい。
確かに、素敵だな、と私も思う。
確固とした自分の意志を持った素敵な人だ。
そんなキャサリンさんの人柄を分かっているからこそ、
軽音楽部の皆さんもキャサリンさんの指導を安心して素直に受けられるのかもしれない。


「チャンスを生かせられるかどうかは自分次第……、って事だよね……」


私は自分に言い聞かせるみたいに言う。
ううん、実際に自分に言い聞かせる。
つまり、キャサリンさんの言いたかった事はそれなんだと思う。
チャンスはいつ訪れるか分からない。
いつかは訪れるかもしれないけれど、一生訪れる事が無い可能性だってある。
チャンスの有無自体は自分自身の力ではどうしようもない。
無理矢理に掴む事が出来る人も居るのかもしれないけれど、そんな人は極一部なんだ。
だからこそ、キャサリンさんはチャンスを望んだんだよね。
まずは『素敵な出会い』ってチャンスを貰って、後は自分の力でどうにかしたかったんだ。
その結果がどうなったって自分の責任。
生かせなくて失敗してしまったとしても、キャサリンさんにはそれでよかったんだろうな。


「今がチャンス……だよね」


震え始めた自分の身体を押し留めながら、私はもう一度一人で呟いてみる。
チャンスと言えば、今の私にも一つのチャンスがあった。
キャサリンさんと違って望んで手に入れたチャンスじゃないけど、私には生かすべきチャンスがある。
今の私は『石ころ帽子』を被った状態になってしまっている。
神様だか誰なんだかの手違いで、誰からも姿を認識されない状態になってるんだ。
誰にも気付かれずに行動出来るんだよね。
勿論、あの子にも。

本当はこんな事しちゃいけない。
こんな事したって、あの子も私も幸せになんかなれない。
二人とも傷付くだけだって分かってる。
こんなの最低だって分かってる。
でも、分かってるけど、止められない。
確かめたいから。
私と一緒に夢を見てくれていたあの子の最後の真意を確かめたいから。
ずっとずっと目を逸らしてたあの子の気持ちを知りたいから。
私は偶然訪れたこのチャンスを生かそうと思う。

こんな最低の事をしてしまう私は神様に見放されてしまうかもしれない。
『一生に一度のお願い』を叶える資格の無い人間だと判断されてしまうかもしれない。
別にそれでもよかった。
今の私にとって一番大切なのは、あの子の気持ちを確かめる事なんだから。
確かめなきゃ、私はもう前に進めないから。
だから……。

私は部室に配置されている長椅子から立ち上がって、歩き始める。
あの子の家へ。
あの子の下へ。
見ようとしなかった、見るのが怖かった私達の夢の結末を確かめるために。
私は、駆け出して行く。

ひょっとしたら。
最初からこうするつもりで、私は今日一人で桜高まで来たのかもしれなかった。
こんな最低な私の姿を、憂ちゃんにだけは見られたくない。




人の家に無断で入るのは初めてだった。
小学生の頃、家の鍵は開けてるから勝手に入って休んでてよ、
って当時の友達に言われた事はあったけど、何となく気後れしてしまってそれも出来なかった。
家はその人の踏み込んではいけない領域なんだって、幼いながらにそう感じていたのかもしれない。
だからこそ、私が人の家に、人の部屋に無断で入るのは、今日が初めてだった。

やっちゃいけない事だって分かってる。
こんな事なんかやっちゃいけないんだって。
でも、私はそれを分かっててやっててしまってる。
そんな私には反省する資格すらも無い。
『一生に一度のお願い』を叶えてもらう資格だって無くなるだろう。

それでも、私はこの場に立っている。
嫌になるくらい激しい鼓動に息苦しくなりながら、
全身が自己嫌悪と罪悪感に震わされながら、
決して逃げ出さずに、投げ出さずにあの子の部屋に立ってしまっている。
立って、あの子――いや、この子――の横顔を見つめている。

私の大切な友達。
ずっと一緒に音楽を続けて来た友達。
これからもずっと一緒に音楽を続けていきたい友達。
受験のせいで引き離されてしまったけれど、
受験が終わればまた元通りに二人で音楽を演奏出来る……。
そう信じていた……、そう信じていたかったこの子。

私が無断でこの子の部屋に入った時、既にこの子は勉強を始めていた。
色んな事に不器用で、勉強が苦手で、勉強する事自体も苦手で、
試験週間にはいつも私に泣き付いて来ていたこの子が、自主的に勉強を始めていたんだ。
いつも私に見せていた勉強への嫌悪感の表情も見せず、ただ真剣に。
きっと夏休み中もこうやってずっと勉強してたんだろう。
私がこの子を避けて、一人で悩んで部屋の中で佇んでいた時にも、ずっと。

本気なんだなあ、って思った。
この子は自分の将来に本気なんだ。
自分が不器用な事だって、勉強が苦手な事だって百も承知。
だからこそ、その分、努力してる。
私とずっと続けてた音楽の練習も中断して、大好きなはずの音楽からも離れて。
この子だって私との音楽を楽しんでくれてた……、と思う。
最初こそ初心者丸出しだったけど、上達も遅かったけど、
たまにセッションしてみて上手く演奏出来た時のこの子の顔は眩しかった。
音楽を好きになってくれたんだ、って思えて凄く嬉しかった。
この子の笑顔をずっと傍で見ていたかった。


「私だって……」


小声じゃなく、結構大きい声で呟いてみる。
勿論、この子は私のその呟きには気付かない。
今の私はそういう状態になってるんだから、当然だった。
でも、だからこそ、私はまた呟いた。
自分の選んだ決心を揺らしたくなくて、選んだはずの将来を信じたくて。
私は大きな声で呟いて……、ううん、言ってみせた。


「私だって……、本気なんだよ……」


本気なんだ。
誰よりも夢に本気なつもりだった。
本気だから、この子が練習の中断を言い出した時は辛かった。
凄く悔しかった。
私の目指した夢はそんな事に邪魔されてしまうの?
私の選んだ道はそんなに小さな障害で躓いてしまうものだったの?
本当はそう言って詰め寄りたかった。
この子と離れ離れになんかなりたくなかった。
だから、あの日から私はこの子を……。

唇を強く噛んで、拳を握り締める。
駄目……。
泣いたりしちゃ駄目……。
まだ泣いちゃ駄目だよ、私……。
私は真剣な表情のこの子の横顔を見ながら必死に胸の痛みに耐える。
どんなに胸が痛くても、どんなに泣き出したくても、まだそれは駄目なんだ。
今日はそれを確かめに来たんだから。
私達の夢の辿り着く先を確かめに、こんな最低な事までしてここまで来たんだから。
だから、まだ私は泣いちゃいけない。
涙を堪えないといけない。

私は大きく溜息を吐いてから、勉強を続けるこの子の学習机に近付いていく。
この子の勉強の内容を確認するためじゃない。
この子の表情を身近で確認するためでもない。
私が確認したい物はもっと別な物だ。
私が今からする事はもっと最低な事なんだ。

震える腕を動かして、私はこの子の学習机の一番上の引き出しを開く。
勿論、この子は私の行動には気付かない。
それは私が憂ちゃん以外には視認されない姿になってるからでもあったけれど、
ひょっとすると、そうじゃなくてもこの子は私の行動に気付かなかったかもしれない。
それくらいこの子は勉強に真剣だった。
私はそんなこの子を眩しくも辛くも思いながら、机の引き出しの中を探る。
自己嫌悪に吐きそうになってしまいながらも、目当ての物を必死に探す。


「……あった」


目当ての物は案外と簡単に見つかった。
それを手に取った時、私は自分の息が荒くなってしまってるのに気付いた。
あった……。
やっぱりあったんだ……。
あの子は練習の中断を申し出て以来、私に何度も話し掛けようとしてた。
私はその申し出からずっと逃げてた。
申し出を受けてしまったら、これを手渡されてしまう、って心の何処かで分かっていたから。
この便箋の中にある手紙を……。

便箋には『あずさへ』と記してある。
この子の私に宛てた手紙がこの便箋の中に入ってる証拠だった。
この子は手紙を書くのが好きだった。
口にすればいい事でも、授業中でも、何度も何度も私に手紙を回した。
遊びの誘いですら、手紙に記していた事だってよくあった。
それくらいこの子は手紙が好きだったんだよね。
だから、この子はきっと私への気持ちを手紙に記してるはずだって思ってた。

躊躇う。
手の先が震える。
こんな事をしても何にもならないって、私の中の冷静な私が大声で叫ぶ。
きっとその通りなんだって事は頭では分かってる。
でも、心では納得出来てない。
納得出来ないから、納得させられないから、私はここまで来たんだから。


「……ごめんね」


呟いて、私は便箋の中の手紙を取り出す。
ゆっくりとした動作で、私への手紙を広げる。
私は大きく二回深呼吸してから、その手紙の文字の羅列に視線を下ろした。


『ごめんね』


最初に目に入った文字列はそれだった。
それから次々と私の目は『もう続けられない』、
『わたしじゃ、あずさの足をひっぱっちゃう』、『ホントにごめん』という言葉を捉える。
私達の夢の終わりを記した言葉が私の胸の中に響いた。
頭の中に反響するみたいに、何度も何度も響く。
やっぱり、もう私の夢は終わってたんだ、ずっと、ずっとずっと前に。

意外と驚きは無かった。
悲しさも涙も湧き上がって来なかった。
湧き上がるのは『やっぱり』って思いだけ。
ずっと分かってた。
分かってて、見ないようにしてたんだよね、私は。
答えを突き付けられるのが怖くて、自分からこの子に距離を取って。
確かな答えを目にしない事で、自分の夢が終わってない事を信じたかっただけなんだよね……。
衝撃なんて受けない。
泣き出したり悲しんだりする必要も無い。
私は確認したかっただけなんだから。
私はこれを見たくて、不法侵入なんて最低な事までやったんだから。
勿論、この子が悪いわけでもない。
この子は自分の夢を追い掛けただけで、私に謝る必要なんて一つも無い。
悪いのはむしろ私の方だ。
私が自分の実力を考慮もせずに無謀な夢を見てしまったのが間違いだったんだ。
私くらいの実力で、音楽と一緒に生きていきたいなんて、夢の見過ぎだったんだ。
私にもっと実力があれば、私はこの子を引っ張っていく事が出来たのかもしれない。
この子も安心して私と一緒に夢を見られる勇気を持てたかもしれない。
でも、私にはその実力が無かった。才能も無かった。ただ当ての無い夢を見てただけだった。
私はそれを理解する事が出来た。
だから、私はこれで満足なんだ。

私は小さく溜息を吐くと、手紙を便箋に戻し、机の中に戻して引き出しを閉じた。
もう私がこの部屋に来る事は二度と無いだろう。
私とこの子の道は完全に違うものになってしまったから。
同じ夢は二度と見られないから。
そう思いながら、私はこの部屋から立ち去っていく。
涙も流さず、胸の痛みも感じず、躊躇いもせず、ただ去っていく。

この家の玄関から足を一歩踏み出した時、少しだけ肌寒い秋風が吹いた。
これから秋が深まって、冬が訪れる。
寒い季節が来るんだ。
でも、それより前に……、って私は思った。
あともう少しで私の『チャンスシステム』の期間は終わる。
その後、私はこの期間の間で起こった事を、全部忘れてしまうらしい。
憂ちゃんの事も、自分のお願いも、あの子の記した手紙を見た事も。
この期間に起こった事を全部忘れてしまっても、これから先に起こる事が変わるわけじゃない。
きっといつか、私はあの子からあの別れの手紙を渡される事になるんだろう。
その時、私は泣いちゃうのかな……、なんて何故かそんな事を思いながら、私は家路に着いた。
秋風は、そんなに気にならなかった。




「おかえりなさい、梓ちゃん」


帰宅した私を憂ちゃんは笑顔で迎えてくれた。
「ただいま」と私も多分出来る限りの笑顔で返して、すぐに自分の部屋に戻った。
憂ちゃんは何かを言いたげではあったけれど、私はそれに反応してあげられる余裕が無かった。
疲れた……んだと思う。
精神的にじゃなくて、肉体的に。
今日は一人で車に気を付けながら桜高まで行って、それからあの子の家まで走って行ったんだ。
体力には自信がある方だけど、これは流石の私でも疲れるよ。

荷物を置いてベッドの上に横になると、そのまま寝入ってしまいそうになる。
疲れ過ぎて、今は出来るだけ何も考えたくない。
何かを考え始めてしまったら、悪い事しか考えなくなりそうで嫌だった。
帰ってばかりだけど、食欲も無いし、もう眠ってしまおう。
一日くらい夕食を食べなくたって、別に命には何の別状も無いよね。
そう言えば、この『石ころ帽子』の状態なら、いくらお腹が空いても死ぬ事は無いんだっけ?
だったら、これから期限の最後の日まで何も食べなくたって別に……。

と。


「梓ちゃーん?」


不意に自室の扉が叩かれ、私はベッドから身を起こした。
響いたのは憂ちゃんの声だ。
憂ちゃんどころか誰の相手をする気力も無かったけれど、無視するわけにもいかない。
「どうしたの?」と私が小さく訊ねると、「ごめんね、開けてくれる?」という返事があった。
私が首を捻りながら自室の扉を開けると、
扉の向こうにはお盆いっぱいに料理を載せた憂ちゃんが立っていた。
エビフライ、ステーキ、スープ、サラダ、フルーツポンチ。
お盆の上に載っていたのは、そんな感じのとても豪勢な料理だった。


「ど、どうしたの、これ?」


私がちょっと驚いて訊ねると、憂ちゃんは柔らかく苦笑して頭を下げた。


「えへへ、ごめんね、梓ちゃん。
今日は一人だったから、いつものお礼に梓ちゃんに何かしてあげたいなって思ったんだ。
それで、それなら美味しい料理を作ってあげよう、って頑張ってみたんだけど……。
ちょっと作り過ぎちゃったみたい。ごめんね、梓ちゃん」


「いや、それは別にいいんだけど……」


憂ちゃんを部屋の中に通しながら、私はそう呟く。
憂ちゃんが私のために何かをしてくれるのは、勿論嬉しい。
私のために頑張ってくれてるんだから、憂ちゃんが謝る必要なんて全然無い。
食欲はあんまり無いけど、少しくらいは食べてもいいかもしれないって思う。


「ちょっと待ってて。
今から料理を置くテーブルを用意するから」


言って、テーブルを用意しながら、思う。
憂ちゃんは誰かのために一生懸命になれる子なんだな、って。
私だけじゃない。
大好きなお姉さんの唯さんは勿論、
軽音楽部の人達の事も凄く大切に思ってるみたい。
知り合った人達全員を大切に思ってて、誰かのために動く事を苦にもしないで。
唯さんと早くまた話せるようになりたいはずなのに、私のお願いが決まるまで待ってくれて。
本当に……、優しくて……、優しくて……、優し過ぎる子なんだよね……。
こんな……私なんかとは違って……。


「冷蔵庫の物を使い過ぎちゃってごめんね、梓ちゃん。
私のお小遣いで補えそうなら、家からいくらか持って来ようかな……」


「いいってば。ありがと、憂ちゃん」


憂ちゃんと話しながら思う。思ってしまう。
私は、そう、自分の事しか考えてない。
あの子の夢を知った時、私はあの子の未来より自分の事を考えてしまっていた。
これからどうやって音楽を続けていけばいいんだろう、ってそればかり考えてた。
あの子の夢を受け容れて応援するべきなのに、私は私の事しか見えてなかった。
今後、受験して、私は多分、桜高に入学する。
それで桜高で音楽関係の部に入部する事になるとして、私は上手くやっていけるの?
私はあの子と仲良くなって音楽を演奏するようになるまで、半年掛かった。
私はそれを繰り返せるんだろうか?
何とか繰り返して、誰かと音楽の道をまた歩いて行くようになったとする。
でも、私の実力じゃ、またあの子と迎えた結末を繰り返す事になるんじゃないのかな……。
私に実力が無いから、私が天才じゃないから、誰も引っ張る事が出来なくて、同じ結末を迎える?
同じ喪失を繰り返すの?


「あ、そうだ、梓ちゃん。
悪いんだけど、ちょっと待っててくれるかな?」


料理を配膳し終わった憂ちゃんが、何かを思い出したように私の部屋から出て行く。
お箸かスプーンでも忘れたんだろうか。
別にどうでもよかった。
これ幸いと私はまた色んな事を考え始める。
考えたくなかったはずなのに、湧き上がる思考を止める事が出来ない。

私は天才じゃない。
ギターを弾くのが周囲の人よりちょっと上手いだけ。
大きな視点で見れば、全くお話にならない実力なんだ。
将来的に音楽をやっていくのなんて無理だって分かり切ってる。
だったら、今後のためにも私が望むのは、たった一つの事じゃないのかな?
『一生に一度のお願い』って降って湧いたチャンスを生かす方法なんてきっと一つだけ。
やっぱりお願いするべきなんだ。
私の将来のために一番必要なもの……、『音楽の才能』を。
そうすれば私と音楽をする皆を不安にさせる事も無い。
私の才能で皆を引っ張って行く事が出来る。
ひょっとしたら、あの子だって戻って来てくれるかもしれない。
皆で夢を掴めるんだよね……。

でも……。
でも、そんなの……。


「お待たせ、梓ちゃん。
ちょっと梓ちゃんに見てほしいんだけど……」


憂ちゃんが扉を開いて私の部屋に戻って来る。
その手に持っていたのはお箸でもスプーンでもフォークでもなくて……。

憂ちゃんが、
持っていたのは、
私の、
今は見たくもなかった、
ギターだった。


「梓ちゃんのギターのチューニングをしてみたんだ。
お姉ちゃんのギターでした事があるだけだから、ちょっと自信は無いんだけど……。
でもね、私、やっぱり梓ちゃんのギターが聴いてみたくて……」


「やめてよ!」


気が付けば叫んでしまっていた。
家中に響くような大声の絶叫。
まさか自分がこんな大声を出せるなんて思ってなかった。
こんな大声を出しても何の意味も無いって事くらい分かってる。
でも、後々から湧いて来る言葉が止まらない……!


「どうしてそんな……!
貴方はどうしてそんなに誰かの事ばっかり考えられるのっ!
私……、私なんかがギターを持ったって!
何も出来ないし! 弾いたって何にもならないのに!
皆、私から離れて行って! 私から! 私から!
わた……し……、私か……ら……。
うっくっ……、うううううううううっ!」


両目から大粒の涙が流れて止まらなくなって、喉の奥からは嗚咽が漏れ出していた。
止まらない。
涙も嗚咽も止まらない。
ああ……、そうだよね……。
ショックを受けなかったなんて嘘。
涙も出て来なかったなんて真っ赤な嘘。
私はただ必死に涙を止めてただけなんだ。
私、泣きたかったんだ……。
あの子と同じ夢を見るのはもう無理だって、夏休み前からずっと分かってた。
分かっていたけど、少ない可能性を信じたかった。
また二人で楽しく演奏出来るって、儚い夢でも見てたかったのに……。
その夢はずっと失われる事になってしまって……。
もう、私の涙は止まらない。止められない。


「あ、梓ちゃん……」


憂ちゃんが持っていたギターを置いて、戸惑った声を上げる。
戸惑って当然だと思う。
こんな突然に泣き出されて、戸惑わない方がおかしい。
私だって泣くつもりじゃなかった。
泣きたくなかった。
増して憂ちゃんの前でなんて、絶対に泣きたくなかったのに。
なのに……。
私はこんなに大声で泣き出してしまってる。

見せたくなかった。
この子の前で泣き顔なんて見せたくなかった。
憂ちゃんは優しい。
私の事を考えて行動してくれてる。
周りの皆の事を大切に想って動いてる。
それが私の胸を痛いくらいに傷付ける。
憂ちゃんには色んな才能があって、きっと私以上の音楽の才能もあって……。
それなのに憂ちゃんは音楽に対する夢は無くて、
夢なんかよりもちょっとした事こそが幸せで、
きっと大好きなお姉さんこそ幸せだったら、憂ちゃん自身も幸せなのに違いない。
私が欲しい物を持っているのに、何の欲も無い憂ちゃん。
何の欲も無く、私が『お願い』と『夢』を見つける事に協力してくれる憂ちゃん。
そんな憂ちゃんの姿を見せつけられる私はとても滑稽で、惨めだ。
私は立っているのも辛くなって、膝を折ってその場に崩れ落ちてしまう。


「ごめんね、梓ちゃん、私……」


憂ちゃんが中腰になって私の肩の方に手を伸ばす。
優しさと心配に満ち溢れた想いで包み込もうと手を伸ばしてくれる。
私はその手を強く払った。
拒絶して、呻き声混じりで、また、叫んだ。


「やめてったら!
もういい……! もういいから……!
うっ……、うっく……、私に……、私に構わないでよおっ……!」


叫んだ後、両手の手のひらで涙の溢れる私の両目を塞ぐ。
もう出ないで……。
流れないでよ、私の涙……。
どれだけ泣いても意味が無い事くらい、私だって分かってる。
憂ちゃんに八つ当たりしたって意味が無い事くらい、自分自身で分かってる。

八つ当たり……。
そう、これは八つ当たりだ。
あの子との夢を失って、それがショックで凄く辛くて、
それを必死に誤魔化してて、憂ちゃんがギターを見せたってきっかけで私は泣いてしまって……。
そうして、私は見たくなかった自分の嫌な感情と直面する事になった。
夢を失くした悲しみ。
才能を持つ憂ちゃんへの嫉妬。
自分が何も持ってない事の劣等感。
夢を誰かの力で叶えようとしている虚しさと後ろめたさ。
見たくなかった自分の汚い感情をまざまざと見せつけられて、目眩までしてしまいそうだった。
だから、私は憂ちゃんに八つ当たりをしてしまっているんだ。
そんな気なんて一切無かったのは分かっているけれど、
私がこの汚い感情に気付くきっかけを作った憂ちゃんに責任を押し付けようとして……。

分かっていても、
もう、私の言葉と感情は止められない。


「来ないで……!
もう傍に……、ひっく、来ないでったら……!
貴方を見ていると辛いの!
貴方を見てると、自分で自分が嫌になるの!
だから……、だ……から、もう……!」


汚い言葉が止まらない。
卑怯で弱くて、今の現実から逃げ出したい私の感情が止まらない。
自分自身で弱い自分を更に弱くしちゃってる気がしてくる。
でも、私は思った。
そんな弱くて情けないのが本当の私だったんだって。
見ないようにしてたけど、見たくなかったけど、それが本当の私。
憂ちゃんに手助けしてもらう価値も無い。
『一生に一度のチャンス』に選ばれる価値なんて最初から無い。
そんな最低な私が本当の私だったんだ……。

憂ちゃんは……。
憂ちゃんは私の言葉に何も返さなかった。
それもそうだと思う。
憂ちゃんはきっと私がどうして泣いているのか、見当も付いてないだろう。
当然だよね……。
ギターのチューニングをして、それを私に見せたら急に泣き出されてしまったんだから。
こんなの憂ちゃんじゃなくたって、他の誰だって訳が分からない。
私だって、自分が同じ事をされてしまったら、戸惑う事しか出来ないと思う。
憂ちゃんはそんな訳の分からない理由で、私に泣かれて、責められてしまってるんだ。
私に愛想が尽きてしまっても仕方無いし、それが普通の反応だと思う。
いつもそうだ。
私は色んな事から逃げて逃げて、逃げ回って、
その結果、最終的に当たり前みたいに色んな物を失ってしまうんだ……。
それが私って人間なんだ……。

なのに……。
私は左肩に感じてしまっていた。
人の手のひらの温かさを。
憂ちゃんの手のひらの温かさを。
憂ちゃんが置いたんだ、私の左肩に自分の手のひらを。
こんな私に、自分の想いを伝えるために。


「梓ちゃん……。
私、余計な事しちゃったみたいだね……。
ごめんね……、梓ちゃんの気持ちに気付いてあげられなくて……」


憂ちゃんが悲しそうな声色で私にそう囁く。
私は涙を拭いながら、顔を上げて憂ちゃんの顔に視線を向ける。
それでやっと、悲しそうなのは声色だけじゃなくて、表情もだったんだって気付けた。
まだ涙でぼやけていたけれど、その悲しそうな憂ちゃんの顔だけははっきりと見えた。
私が憂ちゃんにそんな顔をさせちゃってるんだ……。
優しい笑顔が印象的で、いつも微笑んでくれていた憂ちゃんを私が……。

どうしようもないくらいの罪悪感が私の胸に湧き上がる。
やっぱり私は最低なんだ。
何も出来ない上に、誰かを傷付ける事しか出来ない最低な人間なんだ。
それが私なんだ……。
こんな私が憂ちゃんの傍になんか居ていいはずがないんだ。
もうこんな……、こんな悲しい憂ちゃんの顔なんて見てたくないよ……。


「離し……」


呟きながら憂ちゃんの手を振り払おうとして、瞬間、私の動きと言葉が止まる。
憂ちゃんの手を振り払う事が出来なかったからだ。
悲しい顔をしているのに、憂ちゃんの手のひらには強い力がこもっていた。
強い力と強い想いを感じて、振り払えなかった。
私は止まらない涙を拭えないまま、呆然と憂ちゃんの瞳に自分の瞳を向けた。
憂ちゃんと私の視線が交わる。
悲しそうな表情なのに、憂ちゃんの瞳は強い力を宿しているように見えた。
強い力のこもった瞳を私と合わせたまま、憂ちゃんが柔らかく、でも、強い声色で続けた。


「ううん、離せないよ、梓ちゃん。
今だけはちゃんとお話ししなきゃいけない時だよ、梓ちゃん。
後で私の事をどれだけ嫌ってくれても構わない。
本当はそんなのすっごく辛いけど……、悲しいけど……。
でも、梓ちゃんとはちゃんとお話ししたいの。
今、梓ちゃんが辛い思いをしてるのは、きっと私も原因だと思うんだ……。
私がもっとちゃんと梓ちゃんと色んなお話をしてれば、
梓ちゃんはこんなに辛い思いをしなくてもよかったんだと思う。
だから……、ごめんね、梓ちゃん……」


予想もしてなかった言葉だった。
私に訳も分からない文句を言われて、
意味も分からないまま泣かれてしまってる憂ちゃんはもっと怒ってもいいのに。
私の事なんか放っておいてくれても構わないのに。
憂ちゃんは私に優しい言葉を向けてくれている。
それは本当は喜ぶべき所だったんだろうけど、また私の胸を凄く傷付けた。
やっぱり憂ちゃんは私とは全然違うんだって思い知らされた。
他人の事を一番に考えて、大事に出来る立派な子なんだよね……。
それと比べて私は自分の事ばかり……。
私のその気持ちを分かっているのかいないのか、憂ちゃんが優しい声で続ける。


「ホントはね……、梓ちゃんが何か悩んでるのは分かってたんだ。
多分、音楽の事で悩んでるんだろうな、って事くらいは何となくね……。
この前、急にギターを弾くのをやめたのもそうだし、
実はね、私、その日の夜に、梓ちゃんがギターを持って何処かに行ってたのも気付いてたの。
それで梓ちゃんが音楽……、ギターの事で何かを悩んでるんだ、って思ったんだよ。

でもね……、どうしていいか分からなかったんだ。
梓ちゃんの悩みに私が勝手に踏み込んでいいのか分からなくて……。
『ナビゲーター』の私がどれくらい手助けしていいのか分からなくて……。
それで私、ずっと考えてたの。
どうする事が梓ちゃんにとって一番いいのかなって。
それをずっとずっと考えてたんだ……」


憂ちゃんに悩みに気付かれていた。
その事実に私はあんまり驚かなかった。
よく思い出さなくても、私の行動は色々不自然だったと思う。
鋭い所がある憂ちゃんなら、私の考えていた事に気付いててもおかしくない。
それから、「でも……」と憂ちゃんが続け、私はその言葉にまた耳を傾ける。


「私、間違っちゃったみたいだね、梓ちゃん……。
私ね、ずっと梓ちゃんの悩みの事を考えてて、一つ思った事があるんだ。
梓ちゃんは今、ギターの事で悩んでる。
だったら、その悩みを晴らすのもギターじゃないのかなって。
どんなに悩む事があっても、好きな事をすれば元気になれるって単純に考えちゃったの。

でも、それは私の勝手な思い込みだったんだ、って今気付いたの。
そんなの単純過ぎたよね……。私の勝手な思い込みだったよね……。
本当は梓ちゃんとちゃんと話し合わなきゃいけない事だったのに。
自分一人で考えてても、いい答えなんて出るはずなかったのに。
だから、本当にごめんなさい、梓ちゃん……」


憂ちゃんが辛そうな声色で、その想いを私に伝える。
それは多分、憂ちゃんが私にほとんど見せた事が無い弱さだった。
憂ちゃんは色んな才能を持っていて、私には届かない強さもたくさん持ってる。
でも、何もかもを完璧にこなせてる、ってわけじゃないんだよね……。
何でも出来るように見えるけど、憂ちゃんも私と同い年の中学生なんだから……。
憂ちゃんだって悩んで、考えて、一生懸命生きている。
失敗しちゃう事だってある。
分かってる……。
分かってるよ、そんな事……。
分かってるから、辛いんじゃない……。

また私の両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
今度の涙は悲しかったから流れたものじゃなかった。
辛かったから流れた涙でもなかった。
情けなくて……、自分の無力が情けなくて流れた涙だった。

憂ちゃんには才能がある。
でも、才能に頼り切ってるわけじゃないのは、傍に居て私にもよく分かった。
ううん、才能云々より、そもそもの努力を欠かさないタイプだって事も分かる。
憂ちゃんの優しさや思いやりは才能で身に着けたものなんかじゃない。
憂ちゃんは才能があって努力もしてて、誰にでも優しい思いやりを持ってる。
私なんかじゃどうやったって届かない物をたくさん持ってる。
それを羨ましく思うだけの自分が情けなくて、悔しかった。


「どうして貴方は……、そんなに優しいの……?」


何度言ったか、何度思ったか分からない言葉を私は口にする。
結局、私の疑問はそれに尽きるのかもしれない。
自分の事しか考えられてない私が思う一番の疑問。
私は才能だけじゃなくて、誰かへの思いやりを持てる憂ちゃんが眩しかったんだ、きっと。
私はあの子と夢を見られなくなった事が悲しかった。
でも、一番悲しかったのは、あの子の夢を応援出来ない自分が心の中に居た事だった。
あの子は音楽を始めた当初から、私の夢に付き合ってくれてる所があった。
私が望むから、私と組んで音楽を演奏してくれていたんだよね、あの子は。
私の夢を叶えてくれるために。
今ならそれが分かる気がする。
今度は私があの子の夢を応援する番なのに、心の底からそれが出来ない私が居る。
それどころか、悲しくて辛くて泣いてしまって、憂ちゃんに八つ当たりしてしまう私が居る。
それこそ私が本当に悔しくて情けなくて悲しい事だったんだと思う。

それを言ってしまうと、そもそも私は最初に何を望んでたんだろう?
いい曲を弾けるようになる事?
音楽で有名になる事?
それとも、あの子と音楽を続ける事?
音楽の才能を手に入れて、あの子と音楽を続けられるようになったとして、その後に私は何がしたいの?
……分からない。
ずっと悩んでいた事のはずなのに、いつの間にかそれが分からなくなってる。
自分が何で悩んでいたのかを。

不意に、憂ちゃんが私に一つの答えを届けてくれた。


「私は別に優しくなんかないんだよ、梓ちゃん」


「えっ……?」


私は思わず変な声を漏らしてしまっていた。
だって、こんなの意外な言葉過ぎるよ……。
もっと意外だったのは、そう言った憂ちゃんの表情が悲しそうな苦笑だった事だった。
謙遜なんかじゃないって事は、その表情を見ただけでよく分かった。
どうも憂ちゃんは本当に自分の事を優しくなんかないと思っているらしい。
私の心臓がどんどん妙な速度で鼓動を速めていく。
どういう事なの?
こんなに周りの人の事を考える憂ちゃんが優しくないだなんて、そんなの変だよ……。
それだけは絶対におかしいよ……。
気が付けば、私の涙はいつの間にか止まっていた。
泣くよりも先に、その憂ちゃんの言葉だけは否定したかったからだと思う。
私は憂ちゃんの肩に手を置いて、口早に捲し立てるみたいに言った。


「そんな事……、そんな事あるはずないでしょ、憂ちゃん……。
憂ちゃんは私によくしてくれてるし、優しくないなんてそんな事あるはずないよ。
憂ちゃんが優しくて思いやりがある子だから、私は……。
それが辛くて……、嫌で……、嬉しくて……、悲しくて……。
大体、憂ちゃんは『お試しお願い』を唯さんのために使ったんでしょ?
そんなの、簡単に出来る事じゃないよ。
誰かのために自分のお願いを使えるなんて……。
特に自分の事ばっかり考えちゃってる私なんかには……。

それに、まだ教えてもらってはないけど、
きっと『一生に一度のお願い』の方も唯さんのために使ったんだよね?
『お姉ちゃんをずっと幸せにしてあげて下さい』みたいな、そんなお願いをしたんでしょ?」


私はその自分の言葉を憂ちゃんに同意してもらいたかった。
憂ちゃんが優しくない子だなんて、私が一番認めたくなかった。
憂ちゃんが優しい子なんだって事は、私だってよく分かってるんだから……!

だけど。
憂ちゃんは困った苦笑を浮かべたまま、
その首をゆっくりと横に振って、静かで穏やかな声で続けた。


「ううん、違うよ、梓ちゃん。
内容はまだちょっと……、教えてあげられないけど……。
でもね……、『一生に一度のお願い』の方はお姉ちゃんの事をお願いしなかったんだ。
お姉ちゃんの事はお願い出来なかったんだ。
本当だよ?
勿論、証明は出来ないんだけど、信じてくれる?」


私としては信じたくない言葉だったけど、憂ちゃんが嘘を言っているとは思えなかった。
憂ちゃんはいつも私に対して真剣に向き合ってくれる子だったから。
今回の言葉からも憂ちゃんの真剣な態度が感じられたから。
だから、私は憂ちゃんの言葉を信じるしかなかった。
でも、一つだけ気になった言葉があった。


「『お姉ちゃんの事はお願い出来なかった』……って?」


私が訊ねると、憂ちゃんは視線を私から逸らして彷徨わせ始めた。
きっとその答えを私に伝えるべきかどうか迷っているんだろう。
それくらい、憂ちゃんにとっても秘密にしていたい事に違いない。
だけど、憂ちゃんは小さく頷くと、私の無遠慮な質問に答えてくれた。


「私ね、梓ちゃんが考えてくれてる私より、ずっと我儘な子なんだ。
確かに『お試しお願い』はお姉ちゃんが元気で幸せになれるようにお願いしたよ?
『お試しお願い』の効力はすぐに出たみたいで、
傍から見てもお姉ちゃんはすっごく幸せになれたみたいだったんだ。

例えばお姉ちゃんが割った卵の中に黄身が二つ入ってたり、
失くしたと思ってたCDが二年振りくらいに見つかったり、
朝に弱いはずのお姉ちゃんが早起き出来るようになったり……。
一つ一つはちょっとした事なんだけど、お姉ちゃん、幸せそうだったなあ……。
最初はね、そんな幸せそうなお姉ちゃんの笑顔を見てるのが嬉しかったんだ。
でもね……」


「でも……?」


「お姉ちゃんの幸せそうな顔を見てる内に、私、怖くなっちゃったの。
お姉ちゃんは私に幸せそうな笑顔を見せてくれてる。
お姉ちゃんはいっぱいの幸せを感じてくれてる。
すっごく嬉しいし幸せな事なんだけど、私にはそれが怖くなっちゃったんだ。
だって、今のお姉ちゃんは私の『お試しお願い』が幸せにしてるだけで、
私自身がお姉ちゃんを幸せにしてるわけじゃないんだ、って事に気付いちゃったから」


「だけど、それは憂ちゃんが優しいから……」


私が反論しようとすると、憂ちゃんが私の唇に右手の人差し指を当てた。
それ以上は言わないで、って事なんだろう。
だけど、私はその憂ちゃんの言葉に反論したかった。
唯さんを幸せにしたのは、確かに憂ちゃんの『お試しお願い』の効力かもしれない。
憂ちゃん自身が唯さんの幸せのために、何かをしているわけじゃないのかもしれない。

それでも、唯さんのために、誰かのために、
自分の『お試しお願い』を使える事自体が、憂ちゃんの優しさなんだと私は思う。
私は『お試しお願い』も『一生に一度のお願い』も、自分のために使う事しか考えてなかった。
誰かのために使おうだなんて、全く思いも寄らなかったんだもん。
誰かのために自分のチャンスを使える事、それこそが憂ちゃんの優しさの証明なんだ。


「私は優しくなんてないんだよ、梓ちゃん」


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最終更新:2013年03月23日 21:38