▽
「りっちゃん、これはここに置けばいいのかな?」
「うん、そこそこ。そのままそこに置いといてくれ。
いやー、助かるよ、ムギ。
私一人じゃどうしてもきつい所があってさ、付き合ってくれてありがとな。
しっかし、前から思ってたんだけど、ムギって力持ちさんだよなー」
「そうかな?
自分じゃよく分からないんだけど……」
「うん、力持ちさんだと思うぞ?
普段からキーボードを持ち運んでるだけあって、力持ちで頼りになるよ。
こりゃいいお母さんになるぞー、ムギは」
「お母さん……?」
「あっ、今ムギ、お母さんに力が必要なのかな? って思っただろ?
意外と必要なんだぞー。
まあ、特にうちのお母さんの話になるんだけどさ。
うちのお母さんさ、すっげー力持ちなんだよ。
お米も平然と持ち上げるし、重い洗濯物も軽々持ち運んでるんだよな。
私が小学生の頃の話なんだけど、弟と一緒に抱き上げたりしててくれたもんな。
母は強しってやつだな、マジで。
そういうわけで、お母さんには力が必要なのだよ。
分かったかな、ムギくん?」
「うふふ、分かりました、先生。
でも、そうなんだ。
りっちゃんのお母さんって、素敵なお母さんなんだね」
どうかなー、と呟きながら律さんが苦笑する。
紬さんはその律さんの横顔を見て、嬉しそうに笑った。
活発な律さんとお嬢様っぽい紬さん……。
全然違ったタイプの二人に見えるから、二人っきりの時にどんな話をするんだろう、って私は思ってた。
正直、上手くやれてるのか、ちょっと不安だったくらい。
でも、そんな私の不安なんて、傍から見てるだけの人間の考えなんて、浅はかだったんだね。
その事が私はすっごく嬉しい。
だって、律さんと紬さん、二人ともとても楽しそうなんだもん……。
桜高学園祭の前日。
私と憂ちゃんは軽音楽部の部室……、じゃなくて、一年生の教室に来ていた。
部室に向かう途中、私達は廊下で部室じゃない何処かに向かう律さんと紬さんの姿を見つけた。
だから、私達は部室に向かうより先に、二人の背中を追う事に決めたんだ。
学園祭のライブも近いのに、二人で何をしているのかが気になったから。
何をしているのかは教室に到着してすぐに分かった。
教室とはとても思えないおどろおどろしい空気がその場に漂ってたんだ。
勿論、変な意味でのおどろおどろしい空気じゃない。
単に教室が暗幕に覆われて、薄暗い雰囲気にされてるだけの事だった。
教室には人体模型やマネキンの生首が配置されていて、
蝙蝠やカラスの模型が天井から吊るされたりもしている。
何故か北海道土産によく見る熊の置物も配置されていたのは、ご愛嬌……なのかな?
熊の置物はともかく、この教室の様子から察するに間違いない。
律さんと紬さんはお化け屋敷の準備をしているんだ。
廊下側の壁に『悪夢の館』って書いてあるしね……。
一応、訊ねてみると、憂ちゃんが『そういえば……』と応じてくれた。
前に唯さんが『りっちゃん達、お化け屋敷やるらしいんだー』と自宅で羨ましそうに話していたらしい。
何でも唯さんも学園祭でお化け屋敷を出し物にしたかったのに、多数決で負けてしまったんだとか。
あー……、唯さんなら凄くやりたそうだよね……。
そっか……。
当然だけど、学園祭は部活動の出し物をするだけの場所じゃないんだ。
クラスの出し物、学園祭のためだけに結成された団体の出し物、色んな出し物がある。
私はクラスの出し物にしか参加した事がなかったから、その辺がすっかり盲点だった。
普通はクラスか部活動の出し物……、
そのどちらかに専念するものなんだろうと思うけど、
律さんと紬さんはそのどちらともに参加するつもりなんだ……。
ううん、律さんと紬さんだけじゃないか。
憂ちゃんによると、唯さんもクラスで焼きそばを作って販売するらしい。
『お姉ちゃんの作った焼きそば、食べてみたいなあ……』と寂しそうに苦笑していた。
今の私達の状態じゃ、焼きそばを売ってもらえないだろうしね……。
でも、それよりも何よりも、律さん達って凄いなあ、と私は思った。
今日は学園祭の前日。
つまり明日、律さん達は軽音楽部のライブに参加する。
私だったら、練習しても練習し切れないくらい緊張してしまうと思う。
下手すると、徹夜で練習しても足りない気がするな……。
特に律さん達はボーカルの唯さんが声を嗄らしてしまうというアクシデントの真っ最中なのに。
代理の澪さんがボーカルをしなくちゃいけないって不安材料が残っているのに。
律さんと紬さんは楽しそうだった。
楽しそうに、ライブと関係無い準備をしていた。
昨日だってそう。
凄いピンチのはずなのに、律さんと紬さん、唯さんは笑顔で楽しそうで……。
ピンチすらも楽しんでるみたいで……。
分からなかった。
私にはそれがどうしてなのかずっと分からなかった。
失敗する確率の高いライブを目の前にして、笑える感性が理解出来なかった。
正直、見学する軽音楽部を間違えたかも、って思ってしまった事もあった。
だけど……、今はちょっとだけ分かる気がする。
軽音楽部の皆さんだって、失敗したいわけじゃない。
出来る事なら大成功のライブをしてみせたいに違いない。
でも、皆さんにとっては、もっと大切な事があるんだよね。
もっともっと大切にしたい事があるんだよね。
ライブの成功よりも、もっともっと大切な何かが……。
だから、私はハラハラしながら、皆さんのライブを見届けたい。
ううん、ライブだけじゃなくて、ライブ以外の皆さんの行動を。
皆さんの、部活動を。
「ねえ、りっちゃん?」
ある程度、お化け屋敷の小道具の配置が終わったのか、
一息吐いた紬さんが、小さく首を傾げて律さんに声を掛ける。
律さんはそれに笑顔で応じた。
「ん? どうしたんだ、ムギ?」
「さっきから気になってたんだけど、そのキノコは何なの?
りっちゃんが迷惑じゃなかったら、訊いてもいい?」
それは私も訊ねてみたい事だったから、紬さんが訊ねてくれて助かった。
廊下で見つけた時から、律さんは何故か左のこめかみ付近にキノコのぬいぐるみを付けていた。
深緑色(……かな?)の色の傘に斑点が散りばめられた、いかにも毒々しいキノコのぬいぐるみ。
いくら何でも、アクセサリーにしては独特過ぎるよね……。
そう思って私が首を傾げていると、律さんが頭を掻きながら続けた。
「別に迷惑なんかじゃないって、ムギ。
このキノコはさ、昨日、澪に貰ったんだよ」
「澪ちゃんに?」
「うん、澪に。
澪の奴さ、昨日、私の家にこのキノコを持って来たんだよ。
カラオケ屋でボーカルの練習しながらもさ、
お化け屋敷の準備の手伝いが出来ない事を気にしてたみたいなんだよな。
それでせめてものお詫びにって事で、お化け屋敷の小道具のつもりで持って来たらしい」
「お化け屋敷の小道具……なの?」
「ああ、そうみたいだな。
実は澪の奴、昔からキノコの外見が苦手なんだよな、食べるくせにさ。
「あの毒々しい形が怖いんだー」とか言ってたよ、確か。
まあ、そう言われると、怖い気がしないでもない気がしないでもない気も……。
そんなわけで、澪の中ではキノコは
ホラーなアイテムになるらしいぞ。
でも、流石に使い所が思い付かなくってさ、昨日は悩んだなー。
キノコをお化け屋敷にどう使えばいいんだ、ってそりゃ悩んだんだぜ?
だが、私は思い付いたね、思い付いちゃったね。
キノコの寄生されたキノコ人間って設定なら、結構怖いんじゃないかってな!
キノコノコノコー! とか呻き声を出すキノコ人間。
どうだ? 結構怖くないか?
ま、そんなわけで、澪に貰ったキノコを髪飾りにさせてもらう事にしたんだよ」
す……、凄い発想の転換だなあ……。
律さんって、ある意味凄い人なのかも……。
確かにキノコ人間って設定なら怖い気がしないでもない気も……。
紬さんはその律さんの言葉に目を丸くして、しばらく黙り込んだ。
両手を頬に当てて、何かを考え込んでるみたいだった。
ひょっとして、紬さんもキノコ人間を怖いと思い始めてるのかな……?
私は無言で憂ちゃんに視線を向けてみる。
憂ちゃんは私と視線を合わせて静かに笑ってから、また紬さんに視線を向けた。
憂ちゃんには紬さんの考えている事が分かってる、って事なんだろうか。
私は憂ちゃんに促されて、紬さんに視線を戻して次の言葉を待った。
十秒くらい経っただろうか。
不意に紬さんが口を開いて、私と多分律さんも考えていなかった言葉を口にした。
「りっちゃんって優しいよね」
「は、はあっ?
急に何だよ、それ……!
別に私は優しいとかそんにゃんじゃにゃくてだな……!」
律さんが顔を赤くして紬さんの言葉に反論した。
よっぽど驚いたのか、言葉をちょっと噛んじゃってる。
紬さんの突然の言葉に驚いたのは私も同じだった。
まさか急に紬さんがそういう事を言い出すなんて思ってもなかった。
私の事じゃないのに、何だか私が気恥ずかしい気持ちになってくる。
でも、不思議と私は納得もしていた。
そっか……、律さんは優しい人だったんだ……、って。
活発で大雑把に見えるけど、律さんは優しい人なんだよね。
私だって、初めて見た時から何となく気付いていた。
律さんは澪さんを本当に優しい視線で見守っていたから。
ずっと澪さんの事を考えてるように、少なくとも私には見えたから。
律さんは優しい人なんだ。
勿論、律さんの優しさに気付く紬さん自身も……。
紬さんが優しく微笑んで律さんの両手を取る。
穏やかで何の誤魔化しも無く思える真っ直ぐな言葉を続ける。
「ううん、りっちゃんは優しい子だと思うの。
りっちゃん、澪ちゃんの事、すっごく大事に思ってるもん。
そのキノコだって、澪ちゃんの分も頑張ろうと思って髪飾りにしてるんでしょ?
澪ちゃんが歌の練習が出来るために、お化け屋敷とか他の事を心配させないように……」
「いや……、えっと……」
律さんが口ごもる。
誰かの真っ直ぐな感情を口先で誤魔化せるほど、律さんも器用な人じゃないらしい。
普段の姿があんな感じだから、誰かに褒められる事にも慣れてないんだろうな……。
不謹慎な気もするけど、何だか私は律さんに凄く親近感が湧いた。
私も誰かの真っ直ぐな感情を向けられる事には慣れてないから。
憂ちゃんと出会えて、戸惑う事も結構あったから。
今、律さんが何を考えているのか、私にはよく分かる。
何を感じているのかも。
「えっと……だな……」
律さんが顔を赤く染めたまま口を開く。
上手く言葉がまとまらないんだと思う。
多分、自分の中の感情に戸惑ってるんだろうな。
胸の中から湧いてくる嬉しさに。
「このキノコはアレだよ、ムギ……。
明日に向けて気合いを入れようと思って付けたやつなんだよな……。
澪の分も準備してやるぞー! ってつもりでさ……。
私にはボーカルのアドバイスとか出来ないから、
他の事でフォローしてやりたかっただけで、優しいとかそんなんじゃ……」
きっと律さんは自分で自分が何を言っているのか気付いてない。
その言葉が律さん自身の澪さんへの想いを物語っている事に。
素直な気持ちを口にしてしまっている事に。
でも、それでいいんだよね。
人の好意に慣れてなくて、自分の気持ちを表現する事に不器用な律さん。
そこもきっと軽音楽部の皆さんが惹かれてる所なんだろうから……。
律さんの言葉に紬さんがまた微笑む。
今度は今までの優しかった笑顔とは違った少し寂しそうな笑顔で。
「いいなあ、幼馴染みって……」
「そ、そうか……?」
急に寂しそうな表情になった事を不安に思ったのか、
律さんが頬の赤みを引かせて紬さんにおずおずと訊ねる。
紬さんがゆっくり頷いてから続けた。
「うん、すっごく羨ましい。
りっちゃんは澪ちゃんの事を大事にしてて、
澪ちゃんもりっちゃんを大切に思ってて、傍から見てて羨ましいな。
唯ちゃんも和さんって幼馴染みが居て、二人の間にはいい空気を感じるもの。
私にはずっと一緒に居る同い年の幼馴染みとか居ないから……。
年下の子には居るんだけどね、少し歳が離れててちょっと特殊な関係だから……。
だからね、りっちゃん達の事、羨ましいんだ。
幼馴染みっていいなあ、って思うの」
「幼馴染みか……。
改めて考えてみた事は無いけど、そんなに羨ましいもんなのか……?」
「うん、すっごく!」
「そっか……、そうかもな……」
「無い物ねだりだって事は自分でも分かってるんだけどね。
今から幼馴染みなんて作れる物でもないし……」
「何を言ってるんだよ、ムギ」
「えっ?」
「えっ?」
紬さんが小さく呟き、私も釣られて呟いてしまった。
律さんが何を言おうとしてるのか分からなかったから。
幼馴染みなんて作れる物でもない、って紬さんの言葉に間違いはないはずなのに。
どうして律さんは自信満々に紬さんの言葉を否定出来るんだろう……?
その答えはすぐに真顔で応じた律さんの言葉で分かった。
「そりゃ今から同い年の幼馴染みを作るのは無理だけどさ、
長年連れ添った昔馴染みってやつなら、いつからだって作れるだろ?
それこそ今からだって、さ。
私とムギが知り合ってまだ半年くらいしか経ってないけど、
これを十年、二十年と続けていけば、幼馴染みじゃないけど昔馴染みにはなれるじゃんか。
それじゃ駄目なのか?
幼馴染みと昔馴染み、どっちが上って話でも無い、って私は思うんだけど」
律さんの言葉に紬さんが押し黙る。
呆然とした表情で、律さんを見つめている。
律さんがまた不安気な表情を浮かべて、呆然とする紬さんに訊ねる。
「あ、私と昔馴染みなんて駄目……だったか……?
それなら、まあ……、仕方無いけど……」
瞬間、紬さんは首を左右に大きく振った。
お嬢様っぽい紬さんらしくない、激しい感情のこもった動きだった。
教室中に響くくらい、大きな声で紬さんが叫ぶ。
「ううん! そんな事無い!
そんな事無いよ、りっちゃん!
私、りっちゃんと昔馴染みになれるなんて、すっごく嬉しい!
嬉しいの!
りっちゃんこそ……、私と昔馴染みになるの、嫌じゃない?」
「いや、何でだ?
ムギは見てて面白いし、楽しい奴だし、
出来る事なら、これからずっと先も一緒に遊びたいな、って思うぞ?」
律さんの言葉に紬さんの表情がぱあっと輝く。
普段笑顔を浮かべている紬さんだけど、こんなに輝いた笑顔を見るのは初めてだった。
それくらい嬉しかったんだろう。
私の事じゃないのに、私まで嬉しくなってくるくらいの笑顔だなあ……。
「ありがとう、りっちゃん!
だったら、私、りっちゃんと昔馴染みになるね!
ずっとずっと一緒に居て、大切な昔馴染みになろうね!
そのためにも、明日のライブ頑張ろうね!
明日のライブ、大切な思い出にしようね!」
「おうよ!
まっ、先にお化け屋敷の準備をしなきゃなんだけどな!」
そうやって律さんも眩しい笑顔になって、紬さんと笑い合った。
律さんと紬さん……、大切な二人の仲間達の姿。
笑顔の空間。
笑顔の連鎖。
気付けば私も笑顔になってしまっていた。
不意に。
私は視線に気付いてその方向に視線を向けた。
私に視線を向けていたのは、当然だけど憂ちゃんだった。
二人で視線を向け合う。
憂ちゃんは笑顔だったけれど、少しだけ寂しそうでもあった。
私も多分、憂ちゃんと同じ様な表情になったと思う。
『昔馴染みってやつなら、いつからだって作れるだろ?』
律さんの言葉が私の頭の中で響き続ける。
私も、作りたい。
大切な昔馴染みを今から作りたい。
他の誰でもないこの子に、私の昔馴染みになってほしい。
私はこの子の事が凄く大切だから。
凄く大切に思えるようになったから……。
それは叶わない、叶えて貰えない『お願い』なのかもしれない。
だけど、私はそう願った。
強く強く、そう願ったんだ。
▽
律さん達のお化け屋敷を後にして軽音楽部に向かう途中、
憂ちゃんが少し申し訳無さそうに、
「寄り道したい場所があるんだけど、いいかな?」と私に訊ねた。
唯さん達の練習の見学は勿論したかったけど、別に急ぐ事でも無いもんね。
逆に憂ちゃんが私に自分の意思を伝えてくれるようになった事の方が嬉しかった。
だから、私は笑顔を向けて頷いて、憂ちゃんと肩を並べてその場所に向かう事にしたんだ。
「はいはい、そこ、音が弱いわよ。
初めての学園祭で緊張する気持ちも分かるけど、音はきちんと強気にね。
練習の成果を出せない方が後々で後悔しちゃうでしょ?」
厳しさの中にも優しさを感じさせる言葉が部屋の中に響く。
言ったのは軽音楽部の中で見せる顔とは違う、
凛々しい表情と声色の大人の女の人……、キャサリンさんだった。
そう、憂ちゃんが寄り道したいと言っていたのは、
軽音楽部じゃなくて、吹奏楽部が活動してる方の音楽室だったんだよね。
「キャサリンさん、吹奏楽部の顧問もやってたんだ……」
それは単なる独り言のつもりだったんだけど、
私の言葉が聞こえていたらしい憂ちゃんが笑顔で頷いてくれた。
「うん、そうみたいなんだよ、梓ちゃん。
私ね、昨日、ちょっと前にお姉ちゃんが話してた事を思い出したの。
『軽音部に顧問の先生が来てくれる事になったんだ。
その先生はね、吹奏楽部の顧問もやってて皆に人気がある楽しい先生なんだよー』って。
そう楽しそうに話してたのを……。
だから、私、キャサリンさんの姿をどうしても見てみたくなっちゃったんだ。
私の前で見せてくれてた姿じゃなくて、軽音部での楽しそうな姿でもなくて、
吹奏楽部の顧問で桜高の皆さんに人気があるっていうキャサリンさんの姿を……。
我儘言っちゃってごめんね、梓ちゃん」
私はその憂ちゃんの言葉には首を振る事で応じた。
憂ちゃんが謝る必要なんて無いんだし、そのキャサリンさんの姿は私も見てみたかったから。
昨日、一人で軽音楽部に見学に行った時、
私はキャサリンさんが何度かギターを弾いたのを目にした。
正直、身体と胸が震えた。
年上の人だから当たり前ではあるんだろうけど、私なんかよりずっとずっと上手かった。
もしかすると、プロやインディーズでやっていけそうなくらい、キャサリンさんの腕前は見事だったんだ。
そんな腕前を持つキャサリンさんなのに、今は高校の音楽の先生をやっている。
勿体無いな、って正直思う。
もっと別の場所でその技巧を活かせるはずなのに、って。
昨日までの私はそう思ってた。
折角のギターの技巧を誰にも見せずにしておくなんて、勿体無いしとても悔しい。
壁を感じ始めてる私としては、特にその気持ちがあった。
昨日までは……。
でも……。
私の心は少しずつ変わり始めてるって、そんな気もする。
卓越した技巧を持つという事。
音楽的な才能を持つという事。
どちらも羨ましいし、私は今までそのどちらも喉が出るほど望んでいた。
『一生に一度のお願い』って卑怯な方法に頼ってでも、凄く手に入れたかった。
けれど、それはやっぱり何かが違ってたのかもしれない。
卓越した技巧を持つキャサリンさん。
音楽的な才能を持つ憂ちゃん。
二人とも私の欲しい物を持ちながら、私が望んでいた道には進んでない。
多分、私が望んでいたものとは違う何かを大切にしているから、私と違う道を進んでるんだよね。
私は今、その何かを見たくて、キャサリンさんの姿を見つめている。
憂ちゃんの傍に居るんだ。
「……あれ?」
不意に私は考えていた事とは別の事を思い出した。
大した事じゃないのかもしれないけれど、気になり始めると止まらなくなった。
私はキャサリンさんの吹奏楽部の顧問としての姿を見たかったから、ここに居る。
吹奏楽部の顧問だって分かったのは、憂ちゃんが唯さんからキャサリンさんの話を聞いていたからだ。
つい最近、キャサリンさんが吹奏楽部の顧問になったって……。
あれ、おかしいなあ、計算が合わない……?
キャサリンさんが憂ちゃんのナビゲーターをしていたのは、つい最近の事のはずだよね?
うん、大体、二週間前くらいでよかったはず。
でも、憂ちゃんのナビゲーターをしてたのに、ちょっと前に軽音楽部の顧問になれた?
憂ちゃん以外の誰にも姿が見えない『石ころ帽子』を被った状態だったのに?
リレー方式で憂ちゃんがキャサリンさんのナビゲーターを引き継いでるはずだから、
少なくとも二週間以上前にはキャサリンさんが軽音楽部の顧問になってないとおかしい。
二週間以上をちょっと前と呼ぶかどうかは個人差があるだろうけど、
もっとよく考えたらキャサリンさんって唯さんの特訓をずっとやってたんだよね……?
顧問になるより何よりも、『石ころ帽子』の状態で唯さんの特訓なんて出来るはずがないじゃない……。
気になった私は憂ちゃんにそれを訊ねてみる事にした。
どうでもいい事なのかもしれないけれど、
心に引っ掛かりがある状態じゃ明日の学園祭に臨めないって思えたんだ。
明日の学園祭には、出来る限り何の悩みも無い素直な心で私は臨みたいんだよね。
憂ちゃんはその私の疑問の言葉を聞くと、
少し困ったような苦笑を浮かべながらも応じてくれた。
「詳しい説明を忘れてたみたいでごめんね、梓ちゃん。
実はね、チャンスシステムってリレー方式ではあるんだけど、
すぐにナビゲーターを引き継ぐ場合と引き継がない場合があるみたいなんだ。
前の人の『お願い』が叶うために時間が掛かる時とか、
次の『対象者』の人がすぐに見つからなかった時とかには、しばらく間が空く事があるんだって。
私がキャサリンさんにナビゲーターをしてもらってたのは、
二週間前じゃなくて、それよりもうちょっと前の夏休みの頃だったんだよ」
なるほど、と思った。
それならキャサリンさんが憂ちゃんのナビゲータをやってても、時期的に問題無いよね。
でも、やっぱり結構いい加減なシステムなんだなあ……。
次の『対象者』の人がすぐに見つからなかった時、って、
そんなに行き当たりばったりなの、『チャンスシステム』って?
まあ、憂ちゃんの叶えて貰った『一生に一度のお願い』が、
時間の掛かるお願いだったって可能性もあるにはあるけどね。
「そうなんだ……。
ねえ、ひょっとして、憂ちゃんのお願いってそんなに手間が掛かるお願いだったの?」
それは私の口から出た何でもない軽口だった。
いい加減な神様だか誰だかに対する苦言みたいな言葉で、深い意味は込めてなかった。
でも、その私の言葉を聞いた憂ちゃんは、何故だかとても困った表情を浮かべてしまった。
私、変な事を訊いちゃったのかな……?
憂ちゃんのお願いって、本当にそんなに手間が掛かる変わったお願いなの?
ううん、憂ちゃんがそんな変わったお願いをするはず無いし……。
私は自分の軽口に後悔しながら、黙り込んでしまう。
憂ちゃんも困った表情を無理に笑顔に変えようとしてる。
折角憂ちゃんと一緒に居るのにまた気まずくなっちゃってる……。
ああ、もう……、駄目だよ、私。
こんなんじゃ、駄目。
私が変な事を訊いちゃったのが原因なら、ちゃんと憂ちゃんに謝らないと……。
丁度、私がそう思った時……。
「謝る必要は無いわ」
部屋の中に厳粛な言葉が響いて、私と憂ちゃんは驚いてしまった。
そう言ったのは勿論私と憂ちゃんじゃなくて、真剣な表情をしたキャサリンさんだった。
キャサリンさんのその言葉も私に向けられたものじゃない。
さっき演奏で失敗した生徒の人に向けられた言葉みたいだった。
私と憂ちゃんはお互いから視線を離して、キャサリンさんに向け直した。
「ミスは誰でも起こしてしまうものだし、そんなに謝らなくてもいいのよ。
大事なのは自分のミスを自覚して、次こそ同じ失敗をしないように努力して修正する事よ。
貴方が努力して演奏してるのは皆知ってるんだから、ミスしてもそうそう責める事なんてしないわ。
皆、貴方を見ていて、知っているの。
だから、貴方もしっかり胸を張りなさい。
自信を持て、なんて簡単には言えないけど、せめて胸だけは張るの。
そうすれば前も見えるし、周りも見えて、少しずつ自信を持って演奏出来るようになるものよ。
貴方は貴方に出来る精一杯の事をやればいいのよ。
本番で縮こまって、練習して来た事の半分も出せないなんて後悔しか出来なくなるでしょう?
だから、しっかり……、ね?」
「……はいっ!」と言われた生徒の人が目尻を潤ませて強く返事をする。
悲しみで泣いているわけじゃなくて、感激で胸が詰まってるって感じの表情。
周りの人達も優しい視線で見守る。
そして、その生徒の人は、キャサリンさんに言われた通り胸を張った。
自信が持てたわけじゃないと思う。まだ不安でいっぱいだと思う。
でも、胸を張ったんだ、皆と学園祭を成功させるために。
キャサリンさん……。
憂ちゃんの言っていた通り、本当に格好いい大人の女の人なんだよね……。
軽音楽部で見せる顔は適当なようにも見えたけど、
それも一面なんだろうけど、それでもキャサリンさんは強い大人の顔も持ってる。
吹奏楽部の皆さんに勇気を与えられるくらいに。
多分、軽音楽部の皆さんにも勇気を与えてくれてるくらいに……。
私も……、もっと胸を張らなきゃ……!
私は胸を張って、決心を込めて大きな声を出す。
「あのね、憂ちゃん!」
「あのね、梓ちゃん!」
その言葉は憂ちゃんが私と同時に出した声に重なった。
憂ちゃんも私と同じく、キャサリンさんの言葉に感じる物があったのかもしれない。
私と憂ちゃんの視線がぶつかる。
言葉が重なってしまって次に切り出すのがちょっと難しかったけど、そういうわけにもいかないもんね。
私は出来る限りの笑顔を浮かべて、憂ちゃんに自分のそのままの想いを伝える。
「えっと、先に私に話させてもらうね。
さっきの話なんだけど……、変な事を訊いちゃったみたいだったら、ごめんね、憂ちゃん。
『お願い』って自分の胸の中で大切にしなきゃいけないものだもんね。
無神経な事を言っちゃって、ごめん。
憂ちゃんが困る事なら、私、もう訊かないよ。
私、憂ちゃんともっと仲良くなりたいから……、
もっと色んな話がしたいから、私が変な事を言っちゃったらいつでも言ってね。
代わりに憂ちゃんも私に色んな事を訊いて。
私に答えられる事なら、何でも答えるから」
そう、伝える。
胸を張って。
いつか本当の意味で胸を張れるように。
「ありがとう、梓ちゃん」
憂ちゃんが、笑顔を浮かべる。
胸を張って、まっすぐに私に視線を向ける。
本当の想いを込めて、言ってくれる。
「実を言うと私の『お願い』はね……、
梓ちゃんが言う通り叶うまでに時間が掛かるお願いだったんだよ。
正直に話せばよかったんだけど、まだそれは駄目、って思ったんだ。
まだ私や梓ちゃんのためにならないって思ったんだ。
梓ちゃんが本当に大切な『お願い』を見つけるまでは……。
だから……、私の『お願い』が何か梓ちゃんに伝えるの、
もうちょっとだけ……、もう少しだけ……、待っててくれる……?」
意外な言葉だった。
まさか私に自分の『お願い』を伝えるつもりだなんて……。
それも私のために黙っておこうと思っていてくれるなんて……。
いいのかな? って思った。
私にそんな事をしてもらう価値があるのかな、って。
私にそんな価値があるだなんて、まだ思えない。
でも、私が自分自身を否定するのは、
私の事を考えてくれている憂ちゃんを否定するって事でもあるよね……。
そんな事……、しちゃ駄目だよね……!
私は憂ちゃんの手を取って、額がぶつかるくらい間近で瞳と視線を合わせる。
胸を張って、見つめ合う。
想いを言葉に乗せる。
「うん……!
待つよ、憂ちゃん……!
でも、無理はしないでね。
憂ちゃんが私に伝えたいって本当に心から思った時、その時にでいいから。
私、憂ちゃんがそう思ってくれるような『お願い』を絶対に見つけるから……!
頑張るから……!」
「……うんっ、分かったよ、梓ちゃん!」
間近で視線を合わせ、手を握り合う私達。
笑顔の決心。
その私達の隣では……。
キャサリンさんの指導に奮起した吹奏楽部の皆さんが、ミスの無い見事な音楽を奏でている。
最終更新:2013年03月23日 21:39