▽
焼きそばを食べ終わった私達は、ゆっくりと学園祭の様子を見ながら廊下を歩いていた。
急がなくても大丈夫。
澪さんと唯さんの行き先は軽音楽部の部室に決まってるもんね。
それにしても……、と私は周囲を見回しながら考える。
高校の学園祭って、こんなに賑やかな物だったんだ。
中学でも学園祭の真似事みたいな事をやってたけど、それとは全然違う。
熱気も活気もお客さんの数も段違いだ。
中学と高校じゃやっぱり別の世界なんだよね……。
急に。
何故か私はあの子の事が頭の中に浮かんだ。
私と違う道を生きる事を選んだあの子……。
出来る事なら、私はあの子と一緒に同じ高校の制服に身を包みたかった。
私が小さめの制服を着て、あの子が、『馬子にも衣装だね』と私をからかって、
『そっちだって私とそんなに身長変わらないじゃない』って頬を膨らませたりして。
放課後には軽音楽部がジャズ研か、音楽に関係する部で演奏して笑い合ったりして……。
それは私の夢。
私の見ていたかった夢。
もうきっと、叶わない夢。
諦めるしかない夢。
胸が痛まないと言ったら嘘になる。
けど、この前ほどじゃない。
私には叶えたい夢があった。
でも、あの子にも叶えなきゃいけない夢がある。
私とあの子の夢はいつの間にか違うものになってしまった。
この前はそれが悲しくて泣いてしまったけど、それは本当に悲しい事なんだろうか?
勿論、辛くて悲しい事には違いないけど、多分、それだけじゃない。
それだけじゃないはず……、って何となく今は思える。
「あ、律さんと紬さんだよ、梓ちゃん」
私の隣で歩いている憂ちゃんが嬉しそうに笑った。
憂ちゃんの視線を辿ってみると、確かにその場所には律さんと紬さんが居た。
昨日来た『悪夢の館』の前、ちょっと申し訳なさそうな笑顔を二人で浮かべている。
「んじゃ、後の事、頼むな」
「皆、お願い」
その二人の言葉を聞くと、クラスメイトらしい女の人が爽やかな笑顔を見せた。
同時に、周囲に居た数人の生徒達も声援を上げる。
「了解だよ、りっちゃん! ライブ、頑張ってね!」
「田井中さんのドラム捌きを見るの、楽しみにしてるよ!」
「こっちはこっちで頑張るから、琴吹さん達も頑張って!」
多くの声援に囲まれ、律さん達が照れ笑いを浮かべる。
おお……、律さんと紬さんってこんなに人気があったんだ。
クラスメイトの皆さんもまだ軽音楽部の演奏を聴いた事は無いはずだから、
これは単に律さん達の人望って事なんだろうな。
もしも私が何処かの高校の学園祭でライブをする事になった時、
私はこんなに周りのクラスメイトから賑やかに見送ってもらえるだろうか。
……んー、悔しいけどちょっと無理かもしれない。
自分で言うのも何だけど、私はあんまり人付き合いの上手い方じゃないもんね。
でも、それが分かった今からなら、少しは変えていけるかもしれない。
ううん、変えなきゃいけないよね。
それがこの数日、憂ちゃんと過ごして、私にもやっと見えて来た事なんだ。
「律さん達と一緒に行く?」
憂ちゃんが首を傾げて私に訊ねる。
もうちょっと学園祭の雰囲気を感じていたい気持ちはあったけど、
当初の目的をおざなりにしてても駄目だよね。
私が桜高に来た目的は軽音楽部の皆さんのライブを見届けるため。
そして、私の気持ちに最後の決着を付けるためなんだから。
私は頷いて、憂ちゃんの瞳を見つめた。
「うん、そうだね、憂ちゃん。
律さん達と一緒に部室に行こうよ」
私の言葉を聞くと、憂ちゃんは少し嬉しそうな表情を見せた。
何だかんだと言っても、憂ちゃんもお姉さんの唯さんの事が気になってるんだろう。
特に唯さんは喉の嗄れも治っていないのに、飄々と楽しそうだった。
こんな状況でも笑ってた……。
憂ちゃんはきっと唯さんが笑ってる理由を分かってるはずだ。
分かってるからこそ、私に優しい言葉を掛ける事も出来たんだと思う。
だけど、頭では分かってても、心配する気持ちが少しはあるのも確かなんだろう。
自分がライブをするわけじゃないのに……、
ううん、自分がライブをするわけじゃないからこそ、
見守る事しか出来ないからこそ、不安を忘れられないんだろうな……。
「お化け屋敷、中々好評だったなー」
「うん! すっごく楽しかったよね!」
私達の目の前では、律さん達が楽しそうに歩いている。
さっきまでやっていたらしいお化け屋敷の事なんか話しながら、
不安な気持ちなんか全然感じてないって様子の眩しい笑顔を浮かべて。
律さん達もライブに対する不安感なんて、全然持ってないみたい。
ううん、そうじゃないよね。
律さん達だって、ライブを成功させられるか不安な気持ちはあると思う。
本当は胸がドキドキしてるのかもしれない。
でも、律さん達は笑うんだ。
それはきっとライブに対する不安なんかよりずっと……。
「……ん?」
軽音楽部の部室に向かう階段の踊り場。
律さんが不思議そうに首を傾げて、部室の扉の方を見た。
私と憂ちゃんは一度顔を見合わせた後、律さんの視線を追ってみる。
「……お姉ちゃん?」
憂ちゃんが小さく呟いてから首を傾げた。
憂ちゃんの言う通り、部室の扉の前では唯さんが一人で佇んでいた。
扉のガラスの部分から、部室の中を覗き込んでる……のかな?
唯さんが扉の前に居るって事は、部室の中には澪さんが居るんだろうけど……。
「何やってんだ?」
「しーっ!」
律さんが訊ねると、唯さんが口元に左手の人差し指を立てた。
いつの間にか律さんと紬さんが、唯さんの隣にまで歩み寄っていたみたい。
律さん達に続いて、私達も早足で部室の扉の前に辿り着く。
手を伸ばせば律さん達に届く距離。
こんなに近付いても、律さん達は私達に気付く様子は全然無かった。
『石ころ帽子』の状態とは言っても、やっぱりちょっと寂しいな……。
って、今はそんな事なんかどうでもいいよね。
律さん達が唯さんに示されるままに、扉のガラスを覗き込む。
私と憂ちゃんも少しだけ空いたガラスのスペースから、中を覗き込んでみた。
「澪さん……」
私の言葉は憂ちゃんにしか届かないはずだったけど、
まるで私の言葉が届いてるかのように、律さんと紬さんがタイミングよく微笑んだ。
澪さんの事が羨ましくなるくらい、優しい優しい律さんと紬さんの微笑み……。
そっか……。
やっぱり、そういう事だったんだよね……。
部室の中では、澪さんが一人で緊張した面持ちを浮かべていた。
でも、ただ怖がって緊張してるだけじゃない。
胸の前で手を握って、素敵な歌声を響かせていた。
澪さんに出来る精一杯の努力をしていたんだ。
「ずっと……練習してたんだな……」
「うん……」
律さんが小さく呟いて、紬さんが頷いた。
大切な仲間を見つめる優しい表情を浮かべたままで。
勿論、唯さんも嬉しそうな微笑みを浮かべてる。
仲間の……、澪さんの頑張りに感激してるんだよね、三人とも。
分かった。
私が軽音楽部の皆さんに失敗してほしくなかった本当の理由。
それは、そう、皆さんが私の理想だったからなんだ。
音楽の腕前はまだそれほど大したものじゃない。
失礼な言い種だけど、きっと私の方が上手に演奏出来る。
そのくらいの腕前なら、私にもある。
でも、そんな事は重要じゃないんだよね。
ギターの腕前なんかより、上手に演奏する事なんかより、大切な事があるんだ。
一流の人達はそうじゃないかもしれないけど、私にとってはそうなんだ。
私が本当に欲しかったのは、ずっと一緒に音楽を続けられる仲間……、友達なんだ。
例え下手でも一緒に笑い合える友達が欲しかったんだ。
だから、あの子と音楽が続けられないのが悲しかったんだ……。
桜高軽音楽部の皆さんはそれを持っていた。
私がずっと求めていた大切な物を持っていた。
私が辿り着きたい夢の形だった。
皆さんは私の理想なんだ。
そんな私の夢を体現している人達の失敗を見たくないんだ。
それが私の未来の姿になってしまうかもしれないから。
「待たせたな、澪おっ!」
澪さんの歌の練習が一段落した所を見計らって、律さんが部室の扉を勢いよく開いた。
驚いた様子で澪さんが律さんの方に振り向く。
「一人にしてごめんなさい」
「私も練習するよー」
紬さんと唯さんが律さんに続いて澪さんに笑顔を向ける。
皆さんに続いて私と憂ちゃんが部室の中に身体を滑り込ませた頃、
澪さんが嬉しいのか不安なのか複雑な表情を浮かべて、ちょっとだけ頬を膨らませた。
「皆……、遅いぞ」
きっと軽音楽部の皆さんの中で、一人だけ失敗を恐れている澪さん。
私と同じく、不安な気持ちでいっぱいなんだろう澪さん。
折角、これまで一緒に活動して来た皆さんと、
学園祭の失敗っていう嫌な思い出を作りたくないんだろうな……。
それが普通の考え方だし、私だってかなりそう思う。
だけど……。
澪さんはまだ大事な事に気付いてないだけなんだよね。
私だって第三者じゃなかったら、きっと気付けなかっただろうけど。
それでも、こんな『石ころ帽子』って妙な状態だからこそ、私にも分かり始めて来た。
失敗とか成功とかより、もっと大事な事があるんじゃないかって。
だからこそ、唯さん、律さん、紬さんは笑顔でいられてるんじゃないかって。
固まりかけた私の答えに気付きながら、
私はこれから始まる軽音楽部の皆さんの練習に備えて、一人で気合いを入れた。
単なる練習でだって、私は軽音楽部の皆さんの演奏を聴き逃したくない。
▽
「りっちゃんと澪ちゃんって幼馴染みなんだよねー?」
突然やって来たキャサリンさんとのちょっとした騒動があって、
軽音楽部の機材を講堂に運び終わった頃、お茶を始めた唯さんが不意にそう言った。
もうすぐライブなのにお茶するなんて、唯さんも律さんも紬さんも本当に度胸が据わってるよね。
何の緊張も感じてないみたいに、律さんが飄々とした表情で唯さんの言葉に応じる。
「そだよー」
「いつから一緒なの?」
「そりゃもう幼稚園からずっといっし……、
あれ? 小学校……からだっけ?」
「幼馴染み違うんかい」
唯さんが呆れた表情で突っ込む。
本当なら澪さんが訂正する所だったんだろうけど、今ここに澪さんは居なかった。
仲間外れにされてる……、ってわけじゃ勿論無い。
澪さんだけ機材の運搬じゃなくて、生徒会との伝達とかをやっていたからなんだよね。
律さん曰く、『危なっかしくて機材は運ばせらんないよ』との事だけど、確かにそうかも。
練習してちょっとは落ち着いたように見えたけど、
でも、やっぱりたまに凄く不安な表情を見せてたもん。
他ならともかく、ボーカルだけは澪さん的に一番やりたくなかったパートだったんだろう。
ボーカルが崩れると演奏全てが崩れてしまうから。
観客の人達は大体がボーカルに注目してしまうものだから……。
それにしても、どうして澪さんはあんなに恥ずかしがりなんだろう?
男言葉だし、あんなにカッコよくて、ベースの腕前もかなりのものなのに……。
「澪ちゃんって小さい頃から恥ずかしがりだったの?」
私の考えを読まれたってわけじゃないと思うけど、
唯さんがタイミングよく私の疑問を律さんに訊ねてくれた。
唯さんも前々から澪さんの恥ずかしがり屋には疑問を抱いていたんだろう。
律さんは目を細めて遠い目になってから、ちょっと微笑んだ。
「そうだぞー。
私が『綺麗な髪だねー』って言ったり、
『すごーい、左利きなんだ! 皆ー、澪ちゃん凄いよー!』って言ったら、
顔真っ赤にして恥ずかしがってたもんなー」
「いや、それ、りっちゃんのせいじゃん!」
「それ、律さんのせいでしょ!」
唯さんと私の突っ込みが見事に重なる。
紬さんは唯さんの方、憂ちゃんは私の方を見ながら何故か穏やかに微笑んでいた。
どうして紬さんと憂ちゃんが微笑んでるのかは分からなかったけど、
今はそんな事より澪さんの恥ずかしがり屋について考える時だった。
なるほどなあ……。
普段、カッコよく見える姿じゃなくて、恥ずかしがり屋の姿の方が澪さんの素だったんだ。
凛々しい外見や男言葉の方を、成長する内に身に着けていったんだろう。
考えるまでもなく、その影響は律さんから受けたものだと思う。
それが澪さんにとって良かったのか悪かったのかは分からないけど、
そんなに影響を与えるなんて、律さんの存在はそれだけ澪さんにとって大きい存在だったんだろうな。
私も多分、色んな人から影響を受けてると思う。
音楽を好きになったのはお父さんの影響だし、
セッションが好きになれたのはあの子の影響だし、
今、こうして軽音楽部の皆さんの見学を出来るのも憂ちゃんのおかげだし……。
そんな風に、私は自分でも気付かない内に、少しずつ変わってる気がする。
と。
「機材運ぶの終わったー?」
突然、軽音楽部の扉が開いたかと思うと、話題の渦中の人、澪さんが入って来た。
あれ?
澪さん、微笑んでるし、意外と落ち着いてるみたい。
緊張が一周して開き直れたのかな?
だったら、いいんだけど……。
「お、何か落ち着いてんな」
自分の席に着く澪さんに律さんが訊ねる。
「はい、どうぞ」と紬さんが澪さんの席にお茶を用意するのを見届けて、
律さんは自分の頭の後ろに両手を回して続けた。
「あんなにボーカルするの嫌がってたのに」
「そんな子供じゃないんだし……」
言いながら、澪さんが紬さんの用意したお茶のカップを持ち上げる。
想像以上の満面の笑顔で。
「いつまでも動揺していられないわよー」
急に女言葉になって。
両手のカップとお皿を激しく揺らして……。
うわあ……。
見るからに動揺し切ってるよ、澪さん……。
本当に恐怖した時、人は笑う事しか出来なくなる。
そんな話を聞いた事がある気がするけど、澪さんの笑顔もそういう意味だったのかもしれない。
「もうすぐ本番なのに、そんな調子でどうするんだよ……」
流石の律さんも心配そうに澪さんに声を掛ける。
長い付き合いだけど、律さんもまさか澪さんがまだこんなに動揺してるなんて思ってなかったんだろうな。
特に律さんにとっても初ライブなわけだから、澪さんのこういう反応も初めてで戸惑ってるんだと思う。
律さんだってライブは初体験なんだもんね……。
「もうやだ……」
瞳を俯かせたまま、澪さんが不意に呟いた。
かと思ったら、必死の形相で胸の前で手を合わせて激しく続ける。
「律、私とボーカル変わって!」
「そしたら、ドラムどうするんだよ……」
「私がやるから!」
「んじゃ、ベースどうするんだよ?」
「それも私がやるから!」
「やってもらおうか! 逆に見てみたいわ!」
「律、律ぅ……」
「離せってばー!」
最後には澪さんが座る律さんの膝に縋り付こうとしていた。
その澪さんの頭を律さんが片手で押し退ける。
何、この夫婦漫才……。
とは思ったけど、それだけ澪さんも必死だって事なんだろう。
流石にここまで動揺するとは思わないけど、私だって凄く胸がドキドキしてる。
軽音楽部の皆さんのライブを間近にして、本当は大声で叫び出してしまいたいくらい。
隣に憂ちゃんが居るから、必死に我慢してるだけで。
澪さんの場合、人より少しだけ臆病なだけなんだよね。
怖さや不安を素直に表現出来てるだけなんだよね……。
そんな澪さんの姿は決して悪くないと思う。
同時にちょっと羨ましくもなった。
澪さんには律さんっていう感情を素直に表現していい相手が居るって事が。
泣き付いてもいい相手が居るって事が。
考えてみれば……。
私は、あの子に対して、そこまで感情的になれただろうか?
結構、仲の良い友達だったのは確かだと思う。
怒ったり拗ねたり、悲しい顔を向けたり、それなりに感情を見せて来た気はする。
でも、本当の心の芯にある何かを見せた事は、少なかったかもしれない。
中学生になってからの友達だし、私は誰かに感情を見せる事が得意じゃない。
ううん、もしかしたら、感情を誰かに見せる事が恥ずかしかったのかも。
そのくらいには私は妙に大人びようとしてた自覚がある。
もっと……、あの子にも本当の気持ちを見せるべきだったな……。
それで何が変わるわけでもなかったかもしれないけど、
少なくともあの子の事をもっと応援出来てたんじゃないかな……。
今からでも遅くない……のかな?
この『チャンスシステム』が終わった時、
私はあの子に本当の気持ちを見せたいって想いがまだ残っているのかな……?
せめて……、一度、謝りたい。
あの子の事を避けてしまっていた事を、心の底から……。
ごめん、って。
「ごめんね澪ちゃん、私のせいで……」
律さんの膝に縋り付こうとする澪さんを見ながら、唯さんが申し訳なさそうに言った。
相手こそ違うけど、唯さんはまた私と同じタイミングで同じ事を考えてみたい。
ひょっとすると、思考回路が意外と似通っちゃっているのかな?
「私がこんな声にならなかったら、澪ちゃんが歌う事無かったのに……」
悲しそうに続ける唯さん。
自分の責任なだけに、唯さんも色々気負ってしまう所もあるんだろう。
そこまでは私と唯さんの考え方は似ていた。
でも、そこから先の唯さんの言葉は違った。
「よーし!
やっぱ私がボーカルするよ!」
「いやいやいやいや」
「いやいやいやいやいやいや」
唯さんの力強い宣言に律さんが突っ込み、私も同じく突っ込んでしまっていた。
いくら何でもそれは無茶がある。
そんな嗄れた声じゃお客さんの苦笑と失笑の渦に巻き込まれちゃうよ、唯さん……。
でも……。
唯さんは凄いな、って正直に思った。
どんな形でも唯さんは自分の責任を果たそうとしてる。
普段、お気楽に見える唯さんが、ちゃんと自分の役目と責任を考えてるなんて。
うん……、私も負けてられないよね……。
ふと思い付いて視線を向けてみると、憂ちゃんが感極まった顔で涙ぐんでいた。
泣かなくても……、とは思ったけど、それだけ嬉しかったんだろうな。
唯さんの場合、家族の前だとここまで真剣な表情を向けない気がする。
こんな真剣な唯さんを見るのは、ひょっとしたら憂ちゃんにとって初めての事なのかも。
「ご、ごめん、唯……。
そんなつもりじゃなかったから……」
澪さんが戸惑った表情で唯さんに謝った。
自分の不安が軽音楽部の皆さんに伝わってしまった事に責任を感じてるんだと思う。
自分が無茶な事を言っているのも承知。
叫んでたってどうしようもない事だって承知。
それでも、不安だったんだよね、澪さんは……。
「……っ」
立ち上がった澪さんが軽音楽部の皆さんに背を向けて、胸の前で拳を握り締める。
前を向くために。
皆に迷惑を掛けないために。
澪さんは戸惑いながらも、必死で勇気を出そうとする。
軽音楽部の皆さんが澪さんの後姿を見つめてる。
今度は心配そうな表情じゃなくて、真剣な表情で。
大切な仲間を待つ表情で。
じっと……。
でも、澪さんにはまだその勇気が無い。
勇気を持てるほど、自信を持っててる人じゃない。
それは誰しもが分かってる。
澪さん自身も。
ほとんど赤の他人でしかない私にも。
何より幼馴染みの律さんには特に……。
「あっ」
不意に律さんが真剣な表情から笑顔になった。
こんな状況に似つかわしくない爽やかな笑顔だった。
「そうだ、MC考えておかなきゃ!」
「MCって何?」
「自己紹介とか……。
ほら、コンサートなんかで曲と曲の間で喋ったりするじゃん?」
「あー、あるあるー!」
唯さんの質問に律義に答えてから、律さんが部室の真ん中辺りに脚を進める。
それから、少しだけ沈黙。
MCの内容を考えてるのかな?
私がそう思った瞬間、律さんはすぐに右腕を上げて、
左手をマイクの形に見立てて口元に当てると満面の笑顔で続けた。
「皆さーん! こーんにーちわー!
今日は私達軽音部のライブへようこそー!」
物怖じしていない律さんの笑顔。
凄いなあ、律さん……。
律さん以外には軽音部の皆さんしか居ないけど、観客の数なんて問題じゃない。
逆に身内ばっかりだからこそ、結構恥ずかしいと思う。
私だったら先陣切ってはやれないなあ……。
でも、律さんは素敵な笑顔でMCの練習を続けていた。
「じゃあ、メンバーを紹介しまーす!
ギター!
休みの日にはいつもゴロゴロ!
甘い物は私に任せろ!
のんびり妖精、
平沢唯ー!」
ちょっとあんまりな言い方だなあ……、って私は思ったけど、
唯さんは「じゃっじゃーん!じゃらららららら、ぎゅっいーん!」って、
嬉しそうにエアギターを始めた。
あ、そういう紹介でもいいんだ……。
何となく憂ちゃんに視線の横顔を窺ってみると、憂ちゃんも凄く嬉しそうな表情をしていた。
憂ちゃんもそれでいいんだね……。
だったら、私もいいと思う事にしよう。
続いて、律さんが紬さんに視線を向ける。
「キーボード!
お菓子の目利きはお手の物!
しっとりノリノリ天然系お嬢様!
琴吹紬ー!」
「ぽろぽろぽろぽろぽろろろろろろんっ」
紬さんもエアキーボードを始め、律さんのMCに乗る。
大人しい人に見えるけど、結構ノリノリな人だよね。
うん、しっとりノリノリ、って言い得て妙だけどぴったりだと思う。
次に律さんが紹介を始めたのは律さんだった。
「ベース&ボーカルッ!
怖い話と痛い話が超苦手!
軽音部のドン!
デンジャラスクイーン!
秋山澪ー!
あたっ!」
『あたっ!』と律さんの軽い呻き声だ。
紹介が終わるが早いか、澪さんが律さんを叩いていたんだよね。
「誰がデンジャラスだっ!」
「ほら、その感じが……」
澪さんの突っ込みにも律さんは負けない。
デンジャラスクイーンはあんまりだけど、でも、律さんの言葉は間違ってないよね。
よく特徴を捉えていて見事な紹介だと思う。
「最後に私!」
澪さんの拳を物ともせず、律さんはまた楽しそうに続ける。
「ドラム!
容姿端麗、頭脳明晰!
爽やか笑顔で幸せ運ぶ皆のアイドル!
田井中律ー!
あいたっ!」
『あいたっ!』はやっぱり律さんの呻き声だった。
またやっぱり澪さんが律さんを叩いてたんだよね。
釣り目をもっと吊り上げて、澪さんが突っ込む。
「自分だけ持ち上げ過ぎだろ!」
うん、私もそう思う。
律さんが容姿端麗じゃないとは言わないけど、自分だけ持ち上げ過ぎだ。
だけど……。
「あはははははははっ!」
「うふふふふふふふっ!」
唯さんと紬さんから大きな笑い声が上がる。
今を心から楽しんでるって素敵な笑顔。
いつの間にか澪さんも大きく笑い出していた。
私と憂ちゃんも何がおかしいのか幸せな気分で笑ってた。
素敵だな、と思った。
仲間の形。
皆と笑い合える事。
これが私の見たかったものだったんだ、って心から実感する。
律さんも皆さんの笑顔を見届けると、一緒になって笑い始めていた。
大雑把で適当な人に見えたけど、
律さんが部長でこの部は大丈夫なのかなって思ってたけど、
でも、律さんは部長に一番必要な物を持っている気がした。
部員皆を大切にする、っていう、何よりも大切な物を……。
こうして、もうすぐ……。
もうほんの数十分後に、軽音楽部の皆さんの初ライブが始まる。
最終更新:2013年03月23日 21:40