▽
「痛っ……」
ギターの練習中、不意に部屋の中に軽い呻き声が聞こえた。
憂ちゃんの手を掴んでその細い指に視線を向けると、
すぐに私は軽い一本線の傷を憂ちゃんの人差し指に見つけた。
うん、少しだけ皮がむけてるみたい。
私は念のため用意していた消毒スプレーを、憂ちゃんの指に噴き掛ける。
「んっ……」
「沁みる?」
「だ、大丈夫だよ、梓ちゃん……。
面倒掛けちゃってごめんね……」
「それは別にいいんだけど……。
でも、無理しちゃ駄目だよ、憂ちゃん。
力を入れ過ぎたら弦で指を切っちゃうって言ったでしょ?」
「それは分かってるんだけど、でも、力を入れないと音が出なくて……」
「それもそうなんだけどね。
でも、憂ちゃんはまだ練習を始めたばっかりだし、
指の皮がまだギターの弦に慣れてないんだから、無理するとすぐむけちゃうの。
ギターってそういう物だから、少しずつ慣らしていくしかないんだよ」
私が微笑み掛けると、逆に憂ちゃんは落ち込んだ表情を浮かべてしまった。
憂ちゃんの気持ちは私にもよく分かる。
私の場合もお父さん達の腕前が凄いから、
少しでも早く追い着こうと無理して練習してた事があったんだよね。
それで何度、指の皮がむけちゃったっけ……。
うーん……、あの時の痛さはちょっと思い出したくないなあ……。
唯さん達の学園祭が終わってから一日。
私達は早起きしてからギターの練習を始めていた。
昨日は休む事に専念する事にして、ごはんを食べたらすぐに眠った。
今日……、多分、『チャンスシステム』の『お願い』の期限の日。
とっても忙しくなるんじゃないかな、って思ったんだよね。
今日の終わりまでに体力が尽きちゃっても本末転倒だし、私達の選択は間違ってないと思う。
ひょっとしたら、今日が終わっても『チャンスシステム』の期限は来ないかもしれない。
神様が何かの気紛れで期限を延長してくれる可能性は確かにあった。
試した人なんて居るわけじゃないから、試してみる価値はあるのかもしれない。
でも、私はそれを試すのはやめておこうと思った。
私の『一生に一度のお願い』は凄いお願いじゃない。
ほんのちょっとした……、とても些細なお願いだ。
例え叶えてもらえなかったとしても、そんなに気にもならない。
憂ちゃんと長く一緒に居られるか試す事の方が、よっぽど大切に思える。
だけど、私はそれをしちゃいけない、って心に決めていた。
一週間って期限は私のけじめだったし、
私の『お願い』が叶わない事を憂ちゃんは望まないはずだから。
その『お願い』がどんな些細なものだとしても。
だから、今日で『チャンスシステム』は終わり。
私達はどんな出来でも『ふわふわ時間(タイム)』を二人で弾いて、
それから私の『一生に一度のお願い』を神様か誰かに届けて、そうしてお別れをする。
憂ちゃんは何もかも忘れて元の生活に戻って、私は次の『ナビゲーター』になる。
私達に出来るのは、それまで精一杯ギターの練習をする事だけなんだ。
「じゃあ、憂ちゃん、絆創膏を貼るね」
箱の中から絆創膏を取り出そうとすると、
憂ちゃんが私の手首を掴んでから首を振った。
「ううん、絆創膏は貼らないで、梓ちゃん」
「えっ、でも……」
「いいの、私は大丈夫だよ、梓ちゃん。
皆、何度も皮がむけながらギターの練習をしてるんだよね?
お姉ちゃんの練習を見てたから、私もそれは知ってるよ。
だから、いくら皮がむけても大丈夫だよ。
それがギターが上達するための一歩なんだもんね」
憂ちゃんが優しく微笑む。
そこまで言われたら、憂ちゃんに絆創膏を貼っちゃうわけにもいかないよね。
私は絆創膏を箱の中に片付けて、まだ髪を結んでない憂ちゃんの頭に軽く手を置いた。
「うん、分かったよ、憂ちゃん。
でも、無理だけはしないで、痛い時は痛いって言ってほしいんだ。
実はね、こんな目標はどうかって自分でも思うんだけど、
私、どんなに下手な演奏でも、出来る限りの演奏でいいって思うんだよね。
今日一日の練習で出来る演奏でいいんだよ、本当に……」
「今日一日の練習で出来る演奏……?」
「勿論、ちょっとくらいの無理はするけど……。
でも、必要以上の無理をしても意味が無いって思うんだ。
そんなの、私の演奏じゃないし、私達がやりたかった演奏でもないよ。
だから、下手でも、一生懸命な自分達なりの演奏にしたいんだ」
「そう……なの……?」
「うんっ!」
私が大きく頷くと、憂ちゃんも私に続いて笑顔で頷いてくれた。
憂ちゃんがすぐに納得してくれたのは、昨日のライブをまだはっきりと憶えてるからだと思う。
私だって目を瞑れば鮮明に思い出せる。
上手さとか技術とか、そういうものを超えた唯さん達の昨日のライブ。
本当に素敵で、私も軽音楽部の皆さんみたいな演奏をしたいって思った。
憂ちゃんとそうなりたいって思ったんだ。
朝ごはんを食べた後、私のお父さんの部屋から拝借したギターに憂ちゃんが視線を向ける。
柔らかな数秒の沈黙。
それから、少しだけ傷の出来た指を見つめて、憂ちゃんは微笑んだ。
口を閉じたまま、私の瞳を見つめて笑ってくれたんだ。
分かったよ、梓ちゃん。
憂ちゃんの瞳はそう言ってくれてるように見えた。
私は小さく頷いて、憂ちゃんと同じくまだ結んでない髪を掻き上げてから、口を開いた。
「じゃあ、ちょっとだけ休憩しちゃおうよ、憂ちゃん。
ちょっと早いけど、お昼ごはんにしちゃおう。
お腹が空いたら練習にも支障が出ちゃうもんね」
「そうだよね。
だったら、今から私が準備を……」
言い様、立ち上がろうとした憂ちゃんの肩に私は手を置いた。
そのまま私の方が立ち上がって、軽く微笑み掛ける。
「いいよ、憂ちゃんはゆっくり練習してて。
いつも準備してくれてたんだし、今日くらいは私にごはんの準備をさせてよ」
「えっ、でも……」
「あっ、もしかして、私にごはんが作れるか心配してるの?
大丈夫だって。
確かに今まで憂ちゃんにごはんの用意をしてもらってたけど、
私だって料理の本を見ながらだったらそれなりのごはんを作れるんだから。
……信用出来ない?」
「そんな事、無いけど……」
「だったら、任せてって」
精一杯の自信に満ちた表情を憂ちゃんに見せる。
憂ちゃんは私に悪いと思ったのかちょっと迷ってたけど、
私の厚意を無視するのも申し訳無いって思ってくれたんだろう。
普段の優しい笑顔に戻って、肩に置いた私の手にその手を重ねてくれた。
「それじゃあ、ごはんの用意をお願いしてもいい?」
「うん、任せてよ。
ちゃちゃっと料理してくるから、憂ちゃんは……」
「うん、無理せず、一生懸命に練習しておくね」
「分かればよろしい」
私が軽口を叩いて、二人して笑い合う。
最後の一日なのに危機感が無さ過ぎる気がしないでもない。
でも、それでよかったんだと思う。
今日で最後だからって、憂ちゃんとの関係を劇的に変えたいわけじゃないもんね。
私は今まで見せてくれた憂ちゃんの優しさに惹かれてるんだもん。
だから、私も今まで憂ちゃんが信じてくれてた私のままで何かを成し遂げたいんだ。
結果、あんまり出来の良くないセッションになっちゃったって、それはそれで私は満足だ。
……なんて考えてはみるけど、実はあんまり心配はしてなかったりするんだよね。
私のずっと考えてた通り、憂ちゃんの技巧がとても凄かったから。
天才なのかどうかはともかく、少なくとも私よりはずっと筋がいい。
流石に今まで積み重ねてきた私の数年に一日で辿り着くほどじゃないけど、
二年……、ううん、一年くらい毎日練習すれば、私の実力なんて超えちゃうんじゃないかな。
悔しくないって言ったら嘘になる。
だけど、そんな事よりも今は、憂ちゃんの技巧に感心しちゃう気持ちの方が強かった。
基本を教えてる私の方が勉強になっちゃうくらいなんだよね。
そんなやり方があったんだ、って基本を再確認出来る。
それは私にとっても凄くためになる事だった。
うん。憂ちゃんって、本当に凄い子だなあ……。
だけど、同時に思う。
憂ちゃんの技巧は凄いけど、将来的にプロになる事も無いんじゃないかな、って。
勿論、憂ちゃんの技巧に申し分は無い。
これから練習すれば、誰よりも凄い演奏が出来るようになるはず。
でも、プロの音楽ってそういう物じゃ無いんだって事も、私は何となく分かってる。
プロの音楽はたくさんの人に受け入れられる。
限られた人の心だけに残る音楽じゃなくて、たくさんの人が好きになる音楽が演奏出来る。
それはとっても凄い事で、滅多に出来る事じゃ無いし、出来る人こそがプロになっていく。
私はともかく、憂ちゃんの技巧ならそれが出来るようになるかもしれない。
たくさんの人に受け入れられる音楽を今から目指していけば、将来的にはきっと。
それでも、憂ちゃんはそれを求めない。
それはきっと、私の目指してる音楽も同じで……。
うん、やっぱり私は三流だ。
今だけじゃなくて、将来的にもずっと三流のままだと思う。
だけど、でも、三流にだって出来る事、三流だからこそ出来る事があるはずだから……。
だから、今日は精一杯、無理せず一生懸命に頑張ろう。
それが私の本当に求めてた物に繋がるはずだって信じて。
まあ、そのためには、まずちゃんとしたごはんを作らないといけないんだけどね。
料理の本を見ながらなら作れる……よね?
お母さんの手伝いだって結構してたんだし、調理実習もやった事があるし、カレーくらいならきっと……。
あ、不安になって来た。
駄目駄目。
憂ちゃんが練習に専念出来るように頑張らなきゃ……!
それにカレーならお昼ごはんと夜ごはんにしても飽きは来ないはず。
一度作っちゃえば、温めるだけで夜のごはんにも出来るんだもん。
結果的に私達の練習時間を延ばせるはずだもんね。
そうやって、私は憂ちゃんとじっくり楽しく練習するんだ。
じっくりとこんなに優しい憂ちゃんの笑顔と一緒に……。
不意に。
憂ちゃんの笑顔を見ながら、私は胸が強く鼓動するのを感じた。
ずっと訊ねてみたかった事、訊ねようとしながら訊ねられなかった事……。
それを憂ちゃんに訊ねておくべきだ、って私の胸が叫んでるみたいに。
憂ちゃんと私が笑顔で居られる内に……。
二度、大きな深呼吸。
それから、私は出来るだけの笑顔を浮かべて、憂ちゃんに訊ねてみた。
ある意味、私達の未来に関係する重大な質問を。
「それじゃあ、憂ちゃん……。
私、今からごはんの用意をするけど、その前に一つだけ質問してもいい?
ちょっと急に気になっちゃって……」
「うん、どうしたの、梓ちゃん?」
「憂ちゃんは、受験はどの高校を受けるつもりなの?
唯さんも居る事だし、やっぱり桜高?」
「うん、そのつもりだよ。
やっぱり、お姉ちゃんの事が気になるし、でも、それだけじゃなくて、
律さん達みたいな素敵な人達が居る高校だし、桜高に入りたいなって思ってるんだ。
桜高ならいつでも好きな時にお姉ちゃん達の演奏を聴けるかもしれないしね」
「そうなんだ……。
うん……、やっぱりそうだよね……」
「梓ちゃんは何処を受けるつもりなの?」
「一応……、ね?
桜高を受けようかと思ってるんだけど……」
「梓ちゃんも?
だったら、、ひょっとしたら一緒のクラスになれるかもね。
それで、もしも私と梓ちゃんが同じクラスになれたら、その時は……。
その時の私達は……」
「うん……、その時、私達……」
▽
「じゃあ、今日もお願いしていい?」
「うん、勿論だよ」
髪を下ろしたままの憂ちゃんが笑顔で頷いてくれる。
午後九時。
どうにか無難に完成させられたカレーを夜ごはんに食べ終わって、
私達はどちらが言うともなく、自然と学校の制服に身を包んでいた。
憂ちゃんの制服には私の予備を貸してあげた。
桜高の制服は当然うちの中学の制服とは違うんだけど、
せめて一度くらい憂ちゃんと一緒に同じ制服を着てみたかったんだよね。
同じ学校に通って、同じ部に所属してる普通の友達みたいに。
同じ制服に身を包んで、憂ちゃんが私の髪に櫛を通してくれる。
昨日よりもずっと真剣な表情で、私の髪を整えて、髪留めを着けてくれる。
優しく、真剣に、私達がこれから向かう最後の舞台のために。
二つ結び……、ツインテール……、呼び方は何でもいい。
とにかく、憂ちゃんは私を普段の髪型に整えてくれる。
言い方はちょっと変だけど、これで私の戦闘態勢は整った。
「ありがと、憂ちゃん。
それじゃ、次は私が……」
「うん、お願い、梓ちゃん」
憂ちゃんに纏めてもらった髪を翻して、私は憂ちゃんの背中側に移動する。
櫛を受け取って、出来る限り柔らかく丁寧に梳いていく。
傍に置いていたリボンを取ってから、憂ちゃんの髪をポニーテールに纏める。
うっ……、やっぱり人の髪を結ぶのは難しいな……。
特に憂ちゃんのポニーテールはかなり絶妙な位置にあるんだよね。
それで昨日は結構微妙なポニーテールにしちゃったわけだし……。
でも、今日は昨日みたいな髪型にしちゃうわけにはいかない。
だって、これから私達はセッションするんだもん。
私達だけのライブを開催するんだもん。
私達以外に誰も観客が居ないライブだけど、それでも十分。
ライブに適当な衣装で向かうなんて、そんなの曲がりなりにもギタリストとしては許せないよね。
だから、私は丁寧に真剣に憂ちゃんのポニーテールを結ぶ。
私の記憶する最善の位置にポニーテールを配置してみせる。
……うん。
正確には違うかもしれないけど、私の中ではこれが憂ちゃんのポニーテールのベストな配置だ。
手鏡を手渡して髪の位置を確認してもらうと、憂ちゃんは笑顔で頷いてくれた。
私を気遣ってるわけじゃなくて、本当にその位置でぴったりみたいだった。
よかった。
これで憂ちゃんの戦闘態勢も整ったわけだよね。
二人で立ち上がってから、ギターに手に伸ばす。
憂ちゃんは私のお父さんのギターに。
私は自分の小さなギターに。
そうして私達は二人でギターを構えて、向かい合って、微笑み合う。
練習が完璧だなんて口が裂けても言えない。
見事なセッションが出来る気なんて全然しない。
それでも、私の胸には不思議と不安は無かった。
憂ちゃんも笑顔で居てくれていた。
どんな形のセッションになっても、どんなひどいセッションでも、満足出来る。
何故だかそんな気がするんだよね……。
私達はギターを抱えて部屋から出て、肩を並べて歩き出して行く。
向かうのはあの場所……、私達が初めて出会えたあの公園。
そこが私達の最初のライブ会場なんだ。
どちらからともなく、私達は手を繋いでいた。
お互いの体温を感じていると、とても落ち着ける。
歩いて行く。
憂ちゃんは私が整えた戦闘態勢で。
私は憂ちゃんが整えてくれた戦闘態勢で。
二人で用意し合った舞台衣装で。
「君を見てると」
「いつもハートDOKI☆DOKI」
二人で口ずさみながら、私達は笑いながら進む。
今日が終わるまで残り数時間。
思い残す事が無いように……、
って言うのは無理かもしれないけど、
せめて出来る限りの精一杯の事をやってみせるために。
結局、『チャンスシステム』とか『お願い』とか関係無しに、
それこそが私達に出来る……、やらなきゃいけない事なんだと思うから。
思えるようになったから。
▽
秋口の夜の公園。
憂ちゃんと出会ってから約一週間、
少しは寒気も強まってきたはずだけど、私は全然寒くなかった。
街灯に照らされてる憂ちゃんの表情も、全然寒そうには見えない。
二人ともセーラー服を着てるのに、不思議と温かい気までするんだよね。
きっとそれは胸の中がいっぱいだから。
私達の音楽の始まりの時を考えて、心が昂ぶっているからだと思う。
そうして、私達が立つのは出会えた初日、憂ちゃんと話したベンチの上。
私が自分の無力を実感させられて叫び続けたベンチの上。
短い間に色んな感情を思い出させるようになったその場所。
今はその二回の感情と全然違った想いが私の胸にある。
未来に向けて進んで行こうって決心が、憂ちゃんと見つけられた決心が、私の中にはある。
だから、私は胸を張る。
憂ちゃんも私に倣って胸を張ってギターを構えてくれた。
二人とも『ふわふわ時間(タイム)』の楽譜の用意はしてない。
街灯の明るさで楽譜を見るのは流石に難しかったし、
演奏中に見ない事は二人でいつの間にか暗黙の了解になってた。
今日出来た練習の成果をそのまま出す。
どんなに下手でも、酷い演奏でも、今の私達が今日出来た結果を出す。
それが私が最後にしたかった事だから。
勿論、楽譜を完全に憶えたなんて、口が裂けても言えない。
自信の無いパートなんてたくさんあるし、憶えてても弾けない所の数も両手の指じゃ足りない。
これはやっぱり、相当に出来の悪い演奏になりそうだよね。
覚悟してた事だけど、我ながらちょっと落ち込んじゃうな。
でも、一つだけ自信がある事だってあったりする。
それは『ふわふわ時間(タイム)』歌詞。
私と憂ちゃんは楽譜を見なくても完全に歌詞だけは憶えてる。
それくらいの事だけは出来るようになった。
自分が歌の上手い方だなんて絶対に言えないけど、
きっと音痴な歌声がこの公園に響く事になっちゃうけど、今はそれで十分。
それだけで……、十分。
だけど、諦めてるわけでもない。
出来の悪い演奏でも、精一杯一生懸命の演奏をしてみせる。
今の私に、私と憂ちゃんに出来る最高の演奏を。
それがやっと踏み出せる私の第一歩なんだから!
「憂ちゃん」
「うん……!」
私の軽い目配せと一言だけで、憂ちゃんは私の気持ちを汲み取ってくれた。
いい相棒だよね、なんて変な事を考えながら、私はつい苦笑する。
それから二回、大きく深呼吸。
何となく視線を向けてみると、憂ちゃんも私と同じタイミングで深呼吸してるみたいだった。
憂ちゃんのその姿を目にした瞬間、私の肩の力も一気に抜けた。
力なんてあんまり入れてなかったつもりだけど、知らない内に少しは気負ってたのかもしれない。
また、私は笑う。
今度は苦笑じゃなくて、胸の奥から湧き出る温かい気持ちをそのまま出した笑顔で。
「ワン・ツー・スリー・フォー・ワン・ツー・スリー!」
カウントを取る私。
緊張じゃない高揚感と、怖さからじゃない震えを全身に感じる。
ドキドキとワクワクを一身に感じて、私達は演奏を始める。
ベースどころかドラムもキーボードも無い私達のツインギター。
リードギターとサイドギターの区別も無いちょっと奇妙なセッション。
でも、私と憂ちゃんにとってはそうじゃない。
軽音楽部の皆さんのライブで聴いたのは一度だけだけど、
練習では百度で済まないほど聴かせてもらったんだもんね。
失敗しやすい所や、難解なパートを耳と胸と心が記憶してる。
勿論、それだけじゃない。
何度も何度も聴く事で、私達はこの不思議な魅力を持った曲を好きになった。
甘い……、とっても甘い歌詞なのに、何処か爽やかさを感じる素敵な曲。
私達の大好きな曲の『ふわふわ時間(タイム)』。
だから、私達は失敗しそうになっても、
心に残ってる軽音楽部の皆さんの演奏に支えてもらえてる。
走り気味だったけど元気いっぱいの律さんのドラム、
どうして軽音楽部に在籍してるのか結局分からなかった紬さんの優雅なキーボード、
満面の笑顔で演奏を楽しむ唯さんの明るいギター、
緊張の中でも素敵な歌声と一緒に着実な重低音を刻んでくれた澪さんのベース。
そうして、私達の心の中に、軽音楽部の皆さんの演奏がある。
忘れたくない……、ううん、忘れられない演奏が私達に勇気を与えてくれる。
弾ける。
所々失敗しながら、狂った音程を出しながら、それでも笑顔で弾ける。
私の欲しかった……、やりたかったセッションが出来てる……!
私と肩を並べて、憂ちゃんがギターを笑顔で演奏してる。
たった一日の練習なのに、分かってはいたはずなのに、その上達の速度は驚いちゃうくらいだった。
天才かどうかはともかく、私よりずっと才能があるのはやっぱり間違いない。
練習だけじゃなくて、本番でもこんなに弾けるなんて肝もすっごく据わってる。
私なんかよりもずっとプロを目指した方がいい人材。
でも、憂ちゃんはきっとプロなんて目指さない。
もっと大切な物を重視してるって、今の私にはもう分かってる。
プロは不特定多数の大勢の人達に向けて演奏する人達。
たくさんの人に感動を与える演奏が出来る人達なんだよね。
でも、その分、特定の誰かに向けて曲を演奏したりなんて滅多に出来ない人達だ。
例えば友達一人のためだけに演奏するなんて、そんな事はしちゃいけないんだ。
ううん、してもいいんだけど、それを演奏のスタイルに組み込んだりなんかは絶対に出来ない。
それはもう不特定多数の人達に向けた曲じゃなくなっちゃうから。
いいとか悪いとかじゃなくて、プロってそういう人達がなるものなんだと思う。
勿論、プロの人達には憧れる。
私だって大勢の人達に感動を与えたい気持ちは確かにあった。
だから、自分の才能の無さに苦しんだりもしたんだもん。
でも、そんな私にもやっと分かった。
憂ちゃんと一緒に軽音楽部の皆さんの演奏を聴いて、分かったんだ。
私が本当に求めてたのは不特定多数の誰かの笑顔じゃなくて、
大勢の人達から褒められる事でもなくて、
本当に心の底から一番欲しかったのは……、あの子の笑顔だったんだって。
大切なあの子と、笑いながら演奏をしたかったんだって。
傍から聴いてると粗末な演奏でもいい。
他の誰の心に届かなくたっていい。
一生、三流と呼ばれ続けてもいい。
ただ傍に居てくれたあの子と大きな声で笑いたかったんだ……!
もう……、私にそれは出来なくなった。
私の勝手な勘違いのせいで、あの子と話し合いもしないまま違う道を歩く事になってしまった。
それはこの先、どんなにあの子に謝っても、許されない事かもしれないけど……。
私の背中を押してくれる子が居た。
私の傍で微笑んでくれてる子が出来たんだ。
憂ちゃん……。
私に悩みや悲しみや辛さや、喜びや夢や笑顔を届けに来てくれた憂ちゃん……!
憂ちゃんが居てくれたおかげで、私はやっと前に進めるようになった。
だから、私はこの『チャンスシステム』が終わったら、あの子と話をしようと思う。
憂ちゃんとの一週間を憶えてなくたって、それだけは絶対に成し遂げたい。
だから、まずは私は憂ちゃんと一生懸命セッションをしてみせる。
難解なパートだって、唯さんの演奏を思い出しながらどうにか失敗せず弾き終える。
リズムを崩しそうになった時は律さんのドラムと澪さんのベースを思い出して、
旋律に自信が無い時は紬さんのキーボードを感じながら、憂ちゃんと一緒に演奏を進めていく。
そんな演奏の中でも、一際耳に残るのが憂ちゃんのギターだった。
直接弾いてるんだから当たり前ではあるんだけど、
それ以上に憂ちゃんの演奏から温かさや思いやり、一生懸命さが感じられたから。
私のために弾いてくれてるんだって分かったから。
その意味では憂ちゃんも三流なのかもしれない。
憂ちゃんは傍に居る誰かの笑顔のために、
大切な誰かのために全力になれるけど、それ以外の事には意外と無頓着な子なんだもんね。
不特定多数の誰かのためじゃなくて、たった数人の誰かのために頑張る子なんだ。
だからこそ、その数人の誰かになれた私の胸に強くその演奏が響く。
とっても強く。
私はそれがとっても嬉しい。
自分が三流だって事まで嬉しくなってくる。
今、憂ちゃんの事しか考えられないのが、誇らしいくらいに。
だから、今、私は憂ちゃんのためだけに演奏するんだ。
憂ちゃんの事だけを考えて、私達の大好きな曲を演奏したいんだ……!
「あぁカミサマお願い一度だけの」
演奏が終わりを告げようとしている。
もうすぐ私達のためだけの、私達のセッションが終わってしまう。
楽しくて嬉しくて最高だったからこそ、
失敗も多くかったけど満足出来るほど素敵だったからこそ、
名残惜しくて、寂しくて、セッションを終えるのが怖くなる。
……切なくなる。
もうすぐ……、もう数時間先には私と憂ちゃんは赤の他人になる。
『チャンスシステム』の期限が終わっちゃう。
期限を延ばしてもらう事なんて、まず出来ないだろうな。
なら、私はこの先、憂ちゃんと再会出来る事に望みを掛けるしかない。
憂ちゃんは桜高を受験するって言ってた。
私も元から桜高を受験するつもりだったし、もしかしたら同じクラスにもなれるかもしれない。
だけど……、再会出来たとして、私達はまた友達になれるのかな……?
憂ちゃんは変わらず優しい子だろうけど、私は自分から憂ちゃんに声を掛けられるか自信が無い。
私は友達が多い方じゃないし、自分でも結構面倒臭い性格だと思う。
こんな性格の私が、憂ちゃんとまた今みたいな関係を築けるんだろうか。
再会出来たとしても赤の他人のままなんじゃ……。
そう思うと、身震いまでしそうになる。
でも……。
その時、私は憂ちゃんと同じ言葉を口にしていた。
言おうと思ってた言葉じゃない。
セッション中だから、自然と口から出て来た言葉だった。
「もしすんなり話せれば、どうにかなるよね」
それは『ふわふわ時間(タイム)』の歌詞。
私の悩みに対する笑っちゃうくらいに簡単な答えで、実際にも私は笑ってしまった。
そっか……、そうだよね……。
同じ学校に居るんだから、一度くらい……、
一度くらいは絶対に憂ちゃんと話す機会があるはず。
その時に私が憂ちゃんと仲良く出来るって信じよう。
憂ちゃんと一緒に居られたこの一週間の事を信じよう。
例え全部忘れたって。
二度と思い出す事がなくったって!
だって、私は憂ちゃんが信じてくれた私なんだから……!
「ふわふわ時間……!」
私は歌う。
歌い終わる。
未来を信じて。
この一週間が無駄じゃなかったんだって信じて。
大切な憂ちゃんと笑い合えた一週間を絶対に無駄にしないために。
こうして、私達の最後の……、
ううん、最初の素敵なセッションは終わった。
最終更新:2013年03月23日 21:42