「月が綺麗だよね……」


セッションが終わった後、月明かりに照らされながら憂ちゃんが微笑んだ。
ベンチに座って浮かべてるその笑顔はとても嬉しそうだった。
勿論、私だって無事にセッションを終えられて嬉しかったんだけど、
それより、『月が綺麗ですね』って言葉、確か遠回しな愛の告白だったような……。
いや、勿論、憂ちゃんにはそんなつもりなんて無いんだろうけどね。

私はちょっと苦笑しながら憂ちゃんの見ている月に視線を向ける。
憂ちゃんの言った通り、月はとっても綺麗だった。
満月でも半月でもない中途半端な形の月だけど、十分過ぎるくらい綺麗。
月が綺麗だなんて思う事なんて、そう言えば最近無かったような気もする。
それくらい心に余裕が無かったのかもしれない。
心に余裕が少しでも持てるようになったのは、やっぱり憂ちゃんのおかげだよね。


「今日は付き合ってくれてありがとう、憂ちゃん……」


気が付けば私は口にしてしまっていた。
今更な言葉だったかもしれないけど、自然に呟いちゃってた。
それくらい自然に私は憂ちゃんに感謝してたんだと思う。


「お礼なんていいよ、梓ちゃん」


ちょっと照れたみたいに憂ちゃんが頬を赤らめる。
お礼の言葉くらいもっと言わせてほしいなあ……、
なんて思わなくもなかったけど、憂ちゃんってそんな子なんだと思う。
誰かにお礼を言われるためじゃなくて、感謝されるためじゃなくて、
そこに困ってる誰かが居たら手助けをしたくなっちゃう子なんだよね。
頬を赤らめたまま、憂ちゃんが続ける。


「だって、私も梓ちゃんとセッションしてみたかったんだもん。
だからね、私の方こそお礼を言わせてよ、梓ちゃん。
今日は私とセッションしてくれて……、練習に付き合ってくれてありがとう。
私……、すっごく楽しかったよ……!」


それはまさしく私の予想していた通りの憂ちゃんの言葉だったから、私はつい微笑んでしまった。
もう……、損な性格をしてるなあ、憂ちゃんは……。
でも、本人はそれを損だなんて全然考えてない。
そこが憂ちゃんの魅力で、私もそれに救われたんだよね。
そう思えたから、私はそれ以上お礼を言うのをやめておいた。


「どういたしまして」


何度でも言いたいお礼の言葉を飲み込んで、代わりに憂ちゃんの感謝を受け取る。
それがきっと憂ちゃんへの一番いい感謝の示し方なんだと思ったから。


「本当に……、ありがとう……!」


不意に憂ちゃんが私の手を取って、またお礼を言ってくれた。
そんなに私にお礼を言ってくれなくても、って考えはすぐに吹き飛んだ。
私の瞳を見つめる憂ちゃんの瞳が潤んでいたから。
今にも泣き出しそうなくらい、瞳に涙を溜めていたから。


「憂……ちゃん……?」


私は動揺して、声を震わせながら呟いてしまう。
何度か憂ちゅんの悲しそうな表情は見て来たけど、こんな表情を見るのは初めてだった。
ただ悲しそうってわけじゃなくて、嬉しさや喜びや寂しさや、色んな感情がこもった表情を。
『どうしたの?』なんて訪ねられなかった。
憂ちゃんは勇気を出して、何かを私に伝えようとしてる。
そんな気がしたから、何も言わない方がいいんだって思えた。
多分、それでよかった。

一分近く、私達は見つめ合う。
詰まるような憂ちゃんの息遣いが私の耳に届く。
でも、私は憂ちゃんの言葉をじっと待つ。
私は今まで何度も何度も憂ちゃんを待たせて来てしまった。
それを考えれば、今、私が憂ちゃんを待つのなんて何でも無い事だもんね。


「あの……ね……?」


消え入りそうな声で、憂ちゃんが呟いた。
「うん」と私が頷くと、自分の声が小さかったと思ったのか、
大きく首を振ってから、また憂ちゃんが私の耳元で言ってくれた。
もうそれはよく透き通る私の好きな憂ちゃんの声だった。


「梓ちゃん……、私との約束、憶えてる?」


「約束……って?」


「前に……、したよね?
梓ちゃんが梓ちゃんの『一生に一度のお願い』を見つけられたら、
私の『一生に一度のお願い』を教えてあげるって約束……。
叶えるまでに時間が掛かっちゃった私の『お願い』の事……。
梓ちゃん、自分の『お願い』……、もう見つけてるんだよね……?」


「うん……」


「だよね?
だからね、私の『お願い』を梓ちゃんに伝えたいと思うの。
本当は伝えない方がいいのかもって思ってたんだけど、
梓ちゃんの頑張りやセッションしてる姿を見てたら、何か卑怯な気がしてきちゃって……。
私の『一生に一度のお願い』、梓ちゃんに聞いてもらえると嬉しいな」


「いいの、憂ちゃん?」


「うん、聞いてほしいの。
前も話したと思うけど、キャサリンさんもね、私に自分の『お願い』を教えてくれたんだ。
私に伝える必要なんて無いのに、嘘を言う事だって出来たのに、
私が『お願い』を決めるためだからって、照れ笑いを浮かべながら教えてくれたの。
色んな『お願い』を聞く事で、選択肢を広げてほしいって。

だからね、私も梓ちゃんにそうしたいの。
最後に梓ちゃんが決めた『お願い』をもっと強く決心出来るように……。
キャサリンさんの『お願い』は私とキャサリンさんだけの秘密だから内緒だけどね」


憂ちゃんが軽く微笑む。
私も微笑んだけど、すぐに胸が痛んだ。
私はまだ憂ちゃんに嘘を吐いているんだもんね。
勿論、私の『お試しお願い』の事……。
今すぐにでも本当の事を伝えたかったけど、私は口を噤んだ。
今は憂ちゃんが話をする時で、私はそれを聞いて最後の決心をしなきゃいけない。
私の吐いてた嘘を謝るのはその後にしなきゃね……。


「叶うまでに時間が掛かる『お願い』だったんだよね?」


私が憂ちゃんの瞳を見つめながら訊ねると、真剣な表情で憂ちゃんが頷いてくれた。
それから、何かを思い出してるような表情になって口を開いた。


「うん、今日ね、やっと叶えられたんだよ。
ううん、きっと叶えられた……、と思うんだけど……」


「どういう……事……?」


「えっとね、これも前に話したと思うんだけど……、
私はお姉ちゃんの事を『一生に一度のお願い』に出来なかったって話したよね?
『お願い』にお姉ちゃんの事を願っちゃったら、
これからお姉ちゃんを大切に出来ないような気がしたから、って……」


「うん、その気持ち、何となく分かるよ……。
私も結局、『音楽の才能』をお願いになんてしたくなくなったから。
叶えたいもんね、本当に叶えたい『お願い』は自分の力で……」


「そう……、そうだよね……。
それでね、私、もう一歩踏み込んで考えてみたんだ。
本当にお姉ちゃんのためになる事って何なんだろう……、って。
それを考えたらね、何となく気付けたんだよ。
お姉ちゃんは優しいから……、すっごく優しいから……。
『憂は憂のしたい事をして』って、絶対そう言ってくれるんじゃないかなって。
『それが私にとって一番嬉しい事なんだよ』って」


私はその憂ちゃんの言葉に対しては何も言わなかったけど、心の中では納得してた。
憂ちゃんの言う通りだよね。
唯さんの事を深く知ってるわけじゃないけど、
今まで唯さんを見ていて、唯さんは周りの人達を大切にする人だって私も思った。
周りの人が幸せで居てくれる事で喜べる人なんだって。
そんな唯さんなんだもん。
唯さんが憂ちゃんに望む事はそれに尽きると思う。

憂ちゃんが私の手を握る手のひらに力を込める。


「それでね、お姉ちゃんはこうも言ってくれるって思ったんだ。
『私だけじゃなくて、憂の周りの皆も笑顔にしてあげて』って……。
それで私、ハッとしちゃったんだよね。
私はお姉ちゃんの事ばかり考えてて、周りの人達の事を考えてなかったのかもって。
そう思っちゃったら、今までの友達に悪い事しちゃったかも、って思えて来たの」


そんな事……、そんな事は無いと思う。
憂ちゃんは周りの人達にも気配りが出来る子だもん。
でも、憂ちゃんの中では、そういう気後れみたいなものもあったのかな。
唯さんの事が大好きな事で、それで友達の誘いを断ったりした事も何度かあったのかもしれない。
だから、そんな風に考えちゃったのかも。
人の願いや夢や望みは人の数だけあって、それが周りの人と同じとは限らないから。
あの子と私みたいに……。


「急に……、不安になっちゃった……」


憂ちゃんが自嘲気味に続ける。
それはまるで、今までの自分を苦笑してるみたいに見えた。


「きっと、お姉ちゃんは私がお姉ちゃん以外の人を笑顔にしてあげられる事を望んでくれてる。
それが私の大好きなお姉ちゃんだし、私にとって大切な事だとも思うの。
だからね、不安になっちゃったんだ。
私がお姉ちゃん以外の事を幸せに……、笑顔にしてあげられるのかな、って。
私だってお姉ちゃん以外の人に笑顔になってほしいけど、
お姉ちゃん以外を笑顔にしてあげられる自信が無かったから……。
それで……、私は『お願い』したんだ……」


憂ちゃんの話が核心に近付いていく。
本当は言わない方がいいかもしれない事を私に伝えようとしてくれて。
私が『お願い』を決めるための最後の決心をさせてくれるために。
手まで少し冷たくさせながら。

叶うまでに時間が掛かる『お願い』。
『ナビゲーター』をすぐに引き継がなかった理由。
唯さんの事についてはお願い出来なかった憂ちゃんの望み。
ひょっとしたら、今日叶ったかもしれないその『一生に一度のお願い』。
それは……、もしかするとそれは……。

憂ちゃんが私の瞳をまたまっすぐに見つめる。
何度も深呼吸しながらも、私からは視線を絶対に逸らさない。
自分が『お願い』した事を後悔無く私に伝えられるように。
四回目の深呼吸が終わった時、憂ちゃんは大きく頷いてそれを伝えてくれた。


「ねえ、梓ちゃん……、
私の『一生に一度のお願い』はね……、
『誰かを笑顔にしてあげたい』ってお願いだったんだよ。
私ね、お姉ちゃん以外の誰かを笑顔にして、幸せにしてあげたかったの。
そうすれば私も自信を持って前に進めるかも、って思えたから……。
友達や周りの人達をもっと大切に出来るようになるかも、って……。

ごめんね……。
本当は梓ちゃんに伝えない方がいいかも、って思ったんだけど……。
でもね、やっぱりね、本当の事、梓ちゃんに知っててほしくて……」


一瞬、私は息を呑んでしまっていた。
憂ちゃんが私の事のために一生懸命でいてくれたのは、
全て自分の『一生に一度のお願い』を叶えるためだったの……?
自分に自信を持つための『お願い』の続きでしかなかったの……?
私は単なる『お願い』を叶えるための道具でしかなかったって事なの……?

突然、目前に晒された真実に目眩がしそうになる。
心臓の鼓動が強く高鳴っていく。
気を抜けば泣き出しそうになってしまってる……。


「憂ちゃん……」


呟きながら、私は憂ちゃんに握られた手から自分の手を離す。
その間も私は憂ちゃんの瞳から視線を逸らさない。
ただ見つめ続けて、憂ちゃんも私の瞳を見つめていて……。
そうして……。


「ありがとう」


私は憂ちゃんの両手を柔らかく包んでから微笑んだ。
勿論、誤魔化しでも何でもない。
胸の中から湧き上がる感情から出た自然な笑顔だった。

さっき、私は一瞬、憂ちゃんを疑ってしまった。
私の事を道具として考えてたのかって、不安になってしまった。
でも、それは一瞬だけだった。
憂ちゃんの『一生に一度のお願い』がそれだったとしても、
今まで一緒に居てくれた憂ちゃんはそれだけで動く子じゃなかったから。
心の底から本心で私を支えてくれた事だけは、言葉じゃなくて行動で分かってたから。
私は笑顔を浮かべられたんだ。


「いいの、梓ちゃん……?
こんな『お願い』をしちゃった私に……、お礼なんか言っても……」


憂ちゃんが戸惑った表情で続ける。
予想もしてなかった私のお礼の言葉に驚いてるみたいだった。
その表情を見て、憂ちゃんはやっぱり優しい子なんだよね、ってまた実感させられた。


「勿論だよ、憂ちゃん。
この一週間、憂ちゃんが私のために一生懸命頑張ってくれたの、知ってるよ。
他の誰よりも、それこそこの一週間の事に関しては、唯さんよりも憂ちゃんの事を知ってるんだよ。
そんな憂ちゃんの姿をずっと見てたんだもん。
憂ちゃんにはありがとうって言葉しか言えないよ。

それにね、憂ちゃん……。
その『お願い』……、本当の『お願い』とはちょっと違うんじゃない?」


「えっ……?
私、嘘なんて吐いてないよ、梓ちゃん……?」


「あっ、そうじゃなくて、うーんと……、ニュアンスって言うのかな?
憂ちゃんの『お願い』はそれだって私も信じてるよ。
でもね、『お願い』の詳しい内容が違ってるんじゃないのかな、って思うんだ。
ねえ、憂ちゃん、もうちょっと詳しく教えてくれる?
憂ちゃんのお願いは本当に『誰かを笑顔にしてあげたい』ってだけだったの?」


「えっと……、『誰かを笑顔にしてあげたい』って『お願い』だったのは本当だよ。
私、お姉ちゃん以外の誰かを幸せに出来るようになりたかったから……。
それが私の一番叶えたいお願いだったから……。
あ、でも……、梓ちゃんの言う通り、もう少し詳しくお願いしてたかも……。

うん……、ちょっと言い直させてもらうね。
正確に言うと私の『一生に一度のお願い』はね……、
『私に誰かを笑顔にしてあげられるチャンスをください』だったんだ」


「ほら、やっぱり」


私が笑うと憂ちゃんがまた戸惑った表情になった。
でも、今度はただ私の言葉の意味が分からない、ってだけに見える戸惑いだった。
首を傾げてポニーテールを揺らすその表情がとっても愛らしい。
首を傾げたまま、憂ちゃんがまた口を開いて私に訊ねる。


「どうして、正確には違うって分かったの……?」


「分かるよ」


「どうして?」


「だって、憂ちゃんが憂ちゃんだから」


「えっ……?」


憂ちゃんが顔中に疑問の表情を浮かべてる。
やっぱり、憂ちゃんは自分の事が分かってないんだよね。
自分が優しい子なんだって事を。
それを説明してあげたかったけど、今の憂ちゃんにはそれがまだ分かってもらえないかもしれない。
だから、私はまず憂ちゃんの求めてるはずの答えを伝える事にした。


「憂ちゃんだから……、って話は後にするけどね、
私が憂ちゃんのお願いが正確には違うんじゃないか、って考えた理由はまだあるんだよ。

一番そう思ったのは、キャサリンさんの『お試しお願い』の事を憂ちゃんに聞いたから、かな。
キャサリンさん、『素敵な出会い』を『お試しお願い』にしたんでしょ?
『素敵な恋人』じゃなくて、『素敵な出会い』ってチャンスを。
キャサリンさんも自分の欲しい物は、自分の力で手に入れたかったんだよね。
私もそうだからよく分かるし、憂ちゃんだってそうだと思ったんだ。
『お願い』の力で誰かを笑顔にしたって嬉しくないし、自信も持てないもんね……」


『お願い』の力で凄過ぎる何かを手に入れても嬉しくない。
嬉しい人も居るかもしれないけど、少なくとも私は嬉しくなかったし、憂ちゃんもそのはずだった。
本当に欲しい夢は自分の力で掴みたい。
例え掴めなくたって、その夢に向かって自力で頑張りたい。
だから、『一生に一度のお願い』にしたいのは、大きな『お願い』じゃなくて些細な事なんだ。
ほんの少しのちょっとした偶然やきっかけみたいなもの。
何が変わるわけでもないくらい、小さな小さな願い事。
よっぽど切羽詰まってでも居ない限り、私達が願いたいのはそういう『お願い』になると思う。
それ以上大きな何かなんて手に入れられても嬉しくないから。
虚しいだけだから……。


「うん……、そうだね……」


憂ちゃんが小さく呟く。
まだ、自分のした事に自信が無さそうに。


「私、梓ちゃんの言う通り、『誰かの笑顔』自体はお願いしなかったよ。
私の力で笑顔にしてあげられないと意味が無いって思ってたし、
神様の力でその誰かを笑顔にしても悲しいだけだし、その人に悪いだけだもんね……。

私ね、キャサリンさんとの一週間が終わってからね……、
早くその誰かを笑顔にしてあげたいな、って思ってたんだ。
すぐに『ナビゲーター』の役割が回って来なかったのは、
きっと私が一番笑顔にしてあげるべき人を神様が捜してたからだって思うの。
そうやって神様が長い時間を掛けて捜してくれたのが梓ちゃんで……、
そんな梓ちゃんとやっと公園で会えた時、私、すっごく嬉しかったんだ。
絶対絶対、一番の笑顔にしてあげたいって思ったんだよ」


その時の事は私もはっきりと憶えてる。
『よかった……。やっと……、会えた……』って私の手を握ってた憂ちゃん。
あれは本当に言葉通りの意味だったんだよね。
自分の『お願い』をやっと叶えられるかもしれない、って嬉しかったんだ。
長い間待たされたわけだし、憂ちゃんのもどかしかった気持ちはよく分かるよ……。


「でも……、でもね……」


憂ちゃんが私から視線を逸らしてしまう。
予想外の私の言葉に罪悪感が膨らんできたのかもしれないし、
私に責められなかった事が逆に不安になり始めたのかもしれなかった。
でも、視線を逸らしながらも、憂ちゃんは言葉を続けてくれた。
それが自分のしなきゃいけない事だって考えてるみたいに。


「梓ちゃんの頑張る姿を見てるとね……、
どんどんどんどん私の『お願い』が悪い事に思えて来て……。
梓ちゃんは夢の事を真剣に考えてるのに、
私は自分に自信を持てる事しか考えてなくて……。
こんなのお姉ちゃんにも梓ちゃんにも悪い事をしてる気になって来て……。
それが梓ちゃんに申し訳なくて……」


私の手のひらの中で、憂ちゃんの両手がまた震え始める。
ある意味、憂ちゃんの言う通りではあった。
本当の意味で誰かを笑顔にしたいんだったら、
憂ちゃんはそれを『一生に一度のお願い』にするべきじゃなかった。
誰か困っている友達を見つけて、その子のために尽力すればよかったんだ。
それが分かってるからこそ、憂ちゃんは後悔しちゃってるんだよね……。
憂ちゃんの『お願い』は、誰かのために動く勇気を持てなかった結果だったんだ。

だけど、それは私だって同じ事だよね。
私なんか、誰かのために動く勇気を憂ちゃん以上に持てなかった。
あの子と話す事だってそうだし、『お試しお願い』に願った事だってそうだった。
本当に憂ちゃんの事が知りたいなら勇気を出して踏み込まなきゃいけなかったのに、
『お試しお願い』に頼らずに話していくべきだったのに、あの時の私にはそれが出来なかった。
今、私はそれを反省してる。
もっとやりようがあったはずなのに、それが出来なかった事を深く反省してる。

でも……、それでも……。
後悔は……、後悔だけはしてないし、したくない……!
だって……!


「憂ちゃん、こっちを向いて」


「……うん」


「こっちを向いて、私の顔を見てくれる?」


「梓ちゃん……」


「どう見える?」


「梓ちゃん……、笑ってる……」


「そうだよ、憂ちゃん。
私、笑ってる……。笑えてるんだ。
これはね、憂ちゃんのおかげ。
憂ちゃんが私のために頑張ってくれたおかげで笑えるようになったんだよ……!」


「で……」


多分、『でも』と言おうとして、憂ちゃんが口を噤んでくれる。
私の言おうとしてる事を分かってくれたんだと思う。
憂ちゃんは決して鈍い子じゃないもんね。
でも、その考えが正しいって事を分かってもらえるために、私は言葉を続けるんだ。


「きっかけは確かに『お願い』だったかもしれないよね?
憂ちゃんが最初は自分のために頑張ってたのも分かるよ。
今も……、そうなの?
自分のためだけに私の傍に居てくれてるの……?」


「そんな……、そんな事無い……と思う……。
梓ちゃんの頑張ってる……、一生懸命な姿を見てるとね……、
私、『お願い』なんて関係無しに梓ちゃんの頑張りを助けてあげたくなったの。
一番の笑顔にしてあげたくなったんだ……。
それは本当の気持ちだと思うよ?

だからこそ、ね……。
『お願い』をきっかけにしちゃった事が梓ちゃんに申し訳なくて……。
それで私……、私……」


「それでも、私は憂ちゃんに会えて嬉しかったんだよ。
憂ちゃんに会えた事、私、神様に凄く感謝してる。
最初がどんなきっかけでも、どんな理由でも、憂ちゃんは私のために頑張ってくれたんだもん。
今なんか『お願い』関係無しに私を助けたいって思ってくれてるんでしょ?
だからね……、憂ちゃんが罪悪感を持つ必要なんて無いんだよ。
胸を張って、とまでは言わないけど、少しでも自信を持ってもらえなきゃ私も困るな。

だって、私、憂ちゃんのおかげで笑えるようになったんだもん。
上辺だけじゃなくて、愛想笑いでもなくて、自然と出る笑顔になれたんだもん。
それが出来た憂ちゃんに自信を持ってもらえなかったら、私の立場が無いじゃない」


最後だけわざと舌を出して軽い感じに言った。
だけど、この言葉は全部本音だった。
私は憂ちゃんのおかげで笑顔になれた。
些細だけど『一生に一度のお願い』だって見つけられた。
それは全部憂ちゃんが傍に居てくれたおかげなんだから、
自信までは持てないとしても、罪悪感だけは感じないでいてほしい。


「私の『お願い』……、叶えられたのかな……?」


手の震えを少しだけ止めて、憂ちゃんが私に訊ねる。
だから、私は満面の笑顔を見せた。
私の笑顔を少しでも憂ちゃんに分けられるために。
憂ちゃんが私にそうしてくれたように。


「うん、十分過ぎるくらいに!
憂ちゃん、本当にありがとう!」


私の言葉に憂ちゃんの震えが完全に止まる。
それから、無言で見つめ合う憂ちゃんと私。
私は変わらない笑顔で。
憂ちゃんは口を閉じたままの真顔で。
十数秒後、その沈黙を破ったのは、予想もしてなかった憂ちゃんの言葉だった。


「ふ……」


「ふ?」


「ふええええええええっ……!」


「えっ……?」


「ひっく、ぐすっ、う……、うええええええええっ!」


言葉……、って言うより、行動だったのかも。
憂ちゃんの瞳から大粒の涙が流れ出して、嗚咽と一緒にそれが止まらなくなった。
全然、止まらない。止まる気配が無い。
まさか急に泣き出されるなんて、予想してなかった。
これまで涙目になる事はあったけど、こんな大泣きをする憂ちゃんを見た事なんて無かった。
初めての事に私はどうしていいのか戸惑ってしまう。
涙を止められないまま、憂ちゃんが悲痛な言葉を絞り出した。


「いやだ……! やだよう……!」


「何……が?」


「折角……、仲良くなれた……のに……、
やっと笑顔になってもらえた……のに、ひっく……。
もうすぐ梓ちゃんの事を忘れちゃうなんて、絶対にやだよう……!
うっ……くっ……、うええええええええっ!」


もうすぐ忘れる……。
この一週間の事は何もかも忘れちゃう……。
最初から分かってた事。
何でも無いはずだった事。
平気だって思ってた事。
でも、その現実は私の胸を強く痛めて、憂ちゃんをこんなに大泣きさせて……。
私は唇を強く噛み締めて……、今にも泣き出しそうになってて……。

初めてってわけじゃないけど、再確認させられた。
私の目の前で泣いている憂ちゃんは、私と同じ学年の中学生なんだって。
しっかりしてていつも忘れそうになっちゃうけど、憂ちゃんはまだ中学生なんだ。
悲しい事や辛い事があれば大声で泣き出したりするくらい、
自分の力でどうにもならない事をすぐに受け容れられないくらい……、
とっても普通な女の子なんだよね……。

この一週間、私は何度も辛くて苦しんで泣いた。
自分の才能の無さと無力さを自覚させられた。
だけど、何もかも投げ出す事はしなかったし、こんなに自然に笑えるようになった。
それは一生懸命頑張ってると思ってくれてる憂ちゃんが傍に居てくれたから。
自分も一生懸命頑張ってる事に気付いてない憂ちゃんが傍に居てくれたから。
だから、私は憂ちゃんの震える身体を胸の中に抱き留めるんだ。
抱き締めるんだ、強く。

その間、結局、私は溢れ出す自分の涙を止める事が出来なかった。
瞳から自分でも分かるくらい大粒の涙を、気付けば流してしまっていた。
でも、私は笑った。
涙を流しながらだって、涙に負けずに泣きながら笑ってみせた。
憂ちゃんの震えを胸の中に感じながら、その頭を柔らかく撫でる。


「いい子、いい子……」


ポニーテールの辺りから全体を撫でていく。
前、憂ちゃんが私にそうしてくれたみたいに。
憂ちゃんの心を落ち着かせるために。
私の心も落ち着けるために。
この後、二人でまた笑顔になれるために。


「梓ちゃ……」


憂ちゃんが何かを言葉にしようとして詰まらせる。
まだ溢れ出る涙に立ち向かえるほど、落ち着けてないんだろうな。
別れへの戸惑いと悲しみに向き合うには、もうちょっと時間が掛かるんだろうな。
だったら、私にしてあげられるのは、自分が落ち着いて一緒に向き合ってあげる事だよね。
私は軽く自分の涙を拭ってから、また憂ちゃんのポニーテールを撫でた。
私が結んだいつもよりちょっと出来の悪いポニーテール。
でも、私達の繋がりの証でもあるポニーテール。


「あんまり無理して話そうとしなくていいよ。
落ち着くまで私が話して、頭を撫でてあげてるから。
ただ耳だけ傾けていてくれればいいから……。
今は好きなだけ泣きたい時に泣いてていいんだよ」


「あず……。う……ん……」


震えを少しだけ止めて、私の胸の中で憂ちゃんが小さく頷く。
私より背は高いけど、歳相応の小ささと弱さを持った憂ちゃんを感じる。
ただしっかりしてるだけじゃなくて、
私と同じく悲しさに戸惑う事だってある憂ちゃんを。


「ねえ、憂ちゃん……。
憂ちゃんは桜高を受けるつもりなんだよね?
私もね……、さっき家で話した通り、やっぱり桜高を受けるつもりだよ。
もし二人とも合格したら、来年から同級生になれるよね。
それで同じクラスになれたらいいよね」


「そう……だよね……。
でも……」


「うん……、二人ともこの一週間の事は忘れてると思う。
適当な神様だけど、それくらいのシステムはしっかりしてるだろうしね……。
でも、そういえば、憂ちゃん?
私達は忘れちゃうとして、形として残る物はどうなるか知ってる?
例えば手紙を残したり、写真を撮ってみたりとか……、そういう物はどうなるのかな?」


「えっと……ね……。
実はね……、私、キャサリンさんと一枚だけ写真を撮ってみたんだ……。
肩を並べてね……、ひっく、二人でね……、
だけど、後で見てみたら……、写真からキャサリンさんだけ消えてて……。
うっ、ううっ……、うえええっ……」


「うん……、ありがとう、憂ちゃん」


また泣き出した憂ちゃんを強く抱き締める。
やっぱり……、物として残すのも無理って事なんだよね……。
薄々気付いてはいた事だけど、実際に直面させられると結構きついな……。
もう……、適当な神様なのに、こんな所だけしっかりしてるんだから……。

私達の一週間は……。
思い出には残らない。
形としても残せない。
何もかも無かった事にされてしまう。

だけど……、『ひょっとしたら』の可能性もある。
一つだけ、私達がこの一週間の事を憶えていられるかもしれない可能性が。
勿論、『一生に一度のお願い』だ。
私の『一生に一度のお願い』を『この一週間の事を忘れさせないで下さい』にすれば、
ひょっとしたらこの一週間の事を忘れずに居られるのかもしれない。
忘れずに居させてほしい。

それこそが今の私の一番叶えたい『お願い』だったけど……、
今すぐにでもそう願ってみせたかったけど……、それはしちゃいけない事だと思った。
そもそもそれはシステムとして認められない事だろうし、
もしも認められた所で憂ちゃんはそれを嫌がるだろうと思った。
それは今の憂ちゃんを見れば簡単に分かる事だもんね。
憂ちゃんは私に自分の『お願い』を叶えてほしいと思ってくれてる。
自分の夢を見つけてほしいと思ってくれてる。
そのために自分の『一生に一度のお願い』まで私に教えてくれたんだもんね。
憂ちゃんだってキャサリンさんとの一週間を忘れたくなかったはずなのに、
それを願わずにちゃんと自分の叶えたかった『お願い』にしたんだよね……。

だから、私はその『ひょっとしたら』を口にしない。
憂ちゃんのために。
憂ちゃんが信じてくれた自分自身のために。
もうほんの少し先、もうすぐ私達が赤の他人になっちゃうとしても。
私はそれを受け止める。
それに……。
それにもしかしたら私達は『お願い』に頼らなくたって……。

私は溢れ出す自分の涙を最後に拭った。
もう流せるだけは流せたと思う。
後は憂ちゃんの前で笑顔で居続けるだけだ。
笑って、憂ちゃんに訊ねてみる。


「話は変わるんだけどね……、憂ちゃんは音楽が好き?」


「……えっ?
うっ……、うん、好きだよ……。
この一週間で……、今まで以上に好きになったよ……。
お姉ちゃん達のライブも凄かったし……、
梓ちゃんとの……、ギターの練習も楽しかったしね……」


「じゃあ、質問なんだけど、憂ちゃんは軽音楽部に入部するつもりとかある?」


「どう……かなあ……。
今はね……、すっごく入部したい気持ちがあるよ……。
もっともっと……、ギターの練習がしたいな……。

でも……ね……?
それは梓ちゃんとの練習が楽しかったからだし、
この一週間の事を忘れちゃったら……、多分、私は……」


「ありがとう、憂ちゃん。
私もね、実を言うと、軽音楽部に入部するかどうかは分からないんだ。
軽音楽部の皆さんは素敵だけど、それは傍に居ないと分かりにくい事だし、
実は私ってジャズ専門だから、軽音楽部よりジャズ研究会の方に入部しちゃうかもしれないしね。

でもね、私、思うんだ。
また憂ちゃんと一緒にセッションしたいな、って。
それも出来る事なら軽音楽部で、学園祭のライブでね」


「うん……!
それは私も……、私もだよ、梓ちゃん……!」


「だからね……!」


私は抱き締めていた憂ちゃんから少しだけ身体を離して、その両肩に手を置いた。
そうして、私の瞳に憂ちゃんの瞳に向けて、見つめ合う。
憂ちゃんの目尻は潤んでいたけど、かなり落ち着いて来てるみたいに見えた。
だから、私も安心して、憂ちゃんが私にくれた笑顔を見せられるんだ。


「私ね、どっちの部に入部する事になっても、ギターを頑張ろうと思うんだ!
まだまだ全然実力が足りないと思うけど、これからもっともっと努力する!
大勢の人を感動させたいなんてとても言えないけど、
せめて憂ちゃんにだけは感動してもらえるギタリストを目指すよ!

そうしたら、そうしたらね……!
私達がこの一週間の事を忘れちゃったって、憶えてなくたって、
私の演奏に感動した憂ちゃんが私の入った部に入部してくれるかもしれないし……!」


無茶な事を言ってる自覚はある。
憂ちゃん一人にだって感動させられる演奏なんて相当に難しいのも分かってる。
私の実力でそんな事が出来るかって不安も勿論ある。
だけど!
今のこの想いだけは否定したくないし、それが私の『お願い』にも繋がるから……!
私はこれからも精一杯、一生懸命に音楽を続けていこう……!

力を入れ過ぎた言葉だったかもしれない。
でも、憂ちゃんは自分の目尻から涙を拭うと、表情を緩めてくれた。
とても優しくて可愛らしい笑顔になってくれた。


「うん……!
私もその時が楽しみだよ、梓ちゃん……!
あ、でも……」


「でも……?」


「折角だし、私、梓ちゃんとは軽音部で一緒に演奏したいな。
梓ちゃん、律さんや澪さん達の事も気になってるよね?
だったら、やっぱり皆さんと梓ちゃんは同じ部になってほしいな。
同じ部で演奏してほしい。
きっととっても楽しいと思うよ……!」


「うーん、私もそうしたい気持ちは山々なんだけどね。
その辺は私と言うか、新入部員勧誘に頑張る軽音楽部の皆さん次第だよね。
ライブじゃなくていつもの活動を見せられたら、私が入部したくなるかどうか自信無いもん」


「あはっ、梓ちゃんったら」


「それと憂ちゃんも今のままの憂ちゃんで居てほしいな」


「今のままの私……?」


「さっき言ったでしょ?
私が憂ちゃんの『一生に一度のお願い』が正確には違うかも、
って思ったのは、憂ちゃんが憂ちゃんだからなんだって。
憂ちゃんには自覚が無いかもしれないけど、やっぱり憂ちゃんは優しい子だと思う。
憂ちゃんは絶対に優しい子だよ。それは私が保証する。
その優しさのおかげで私も頑張れたんだもん。

だからね、憂ちゃんにはそのままの憂ちゃんで居てほしいんだ。
こう言うのも変なんだけど、私って結構取っつきづらい所があるって思うんだよね。
もしも憂ちゃんと同じクラスになっても、私からはすぐに声を掛けられないかもしれない。

でも、心配はしてないんだよ。
憂ちゃんは優しくていい子だから、
入学してすぐには無理でもいつか気軽に話せるようになると思う。
憂ちゃんが憂ちゃんのままで居てくれたら、私はまた憂ちゃんと友達になれると思うんだ……!」


「私って……、そんなに優しいかな……?」


「勿論だよ!」


私が自信満々に言ってみせると、憂ちゃんが珍しく頬を赤く染めた。
ちょっと戸惑ったみたいに視線を彷徨わせてる。
照れてるんだ……、って思うと憂ちゃんにまた凄く親近感が湧き始めた。
この短い間に、私は今まであんまり見られなかった憂ちゃんの色んな一面を見られた。
泣き顔、楽しそうな笑顔、照れた顔……。
しっかりしてて優しくて完璧に見えてた憂ちゃんの歳相応の表情達。
私と同じ様に悩んだり悲しんだりもする、私と同じ学年の極普通の女の子の顔。
気が付けば、私は思いも寄らなかった言葉を口にしてしまっていた。


「自信を持って、憂!」


自然と意識せずに私は初めて呼んでいた。
『憂』って。
『憂ちゃん』じゃなくて、呼び捨てで『憂』って。
失礼かもと思う隙もなかった。
だって、今、私の目の前に居るのは、私と同い年の親しみやすい女の子。
完璧なだけじゃない可愛い女の子だったんだもん。
そう呼ぶのが自然なんだって、今更だけど呼んだ後に私は思った。


「……うんっ、ありがとう!」


気を悪くした風でもなく、憂ちゃんが笑ってくれた。
それは優しいだけじゃない、楽しそうな笑顔に見えた。
不意にポケットの中に入れていた腕時計に視線を向けてみる。
今日が終わるまで残り一時間強だった。
残り一時間強しかないけど……、でも、私は嬉しかった。
私達はこれまでも友達ではあった。
だけど、やっとこれまでよりももっと近い距離の友達になれた気がしたから。
親友になれた気がしたから。
私は憂ちゃん……、ううん、憂と笑顔を向け合うんだ。
残された時間を、二人で。


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最終更新:2013年03月23日 21:43