▽
「あ、そうだ!」
今日が終わるまで残り十分くらいになった頃。
私は何となく思いついて、近くに落ちている尖った小石を二つ拾った。
うん、これなら丁度良さそう。
「その小石、どうするの?」
憂が首を傾げて私に訊ねる。
憂に小石を一つ渡してから、私はベンチから離れて公園の倉庫に向かった。
不思議そうな顔をしながらも、私に着いて来る憂。
倉庫のコンクリートの壁を確認すると、私は「いい事を思い付いたんだ」と憂に笑い掛けた。
「いい事……?」
「うん、記念に……ね」
言い様、私は小石の尖った部分を壁に突き立てると、ゆっくり動かし始める。
カリカリ、と小さな音を立てて、壁に線が刻まれていく。
「えっ、梓ちゃん、何してるの?
駄目だよ、見つかったら怒られちゃうよ?」
「大丈夫だよ、憂。
記念なんだし、こんな所の落書きなんて誰も気にしないって。
それに多分、適当な神様がすぐ消しちゃうと思うし」
「神様が……?」
まだ私のしようとしてる事が分かってないみたいに、憂がまた首を傾げる。
説明するより見てもらった方が早いかも。
そう思った私はとりあえず口を噤んで、壁の左側の方にゆっくりと文字を刻んでいく。
ナ
カ
ノ
ア
ズ
サ
縦書きで刻んだそのカタカナの文字はちょっと歪んでたけど、
憂はそれだけで私が何をしたいのか分かってくれたみたいだった。
「そっか……、記念なんだね、梓ちゃん」
「うん」
私が頷くと、憂も笑顔で私の右隣に自分の名前を刻んでいってくれた。
『ヒラサワウイ』って私に倣ってわざわざカタカナで。
律儀なのか真面目なのか、どうにも憂っぽくて何だか嬉しい。
これは記念。
そう、単なる記念だ。
倉庫の壁に文字を刻んだ所で、神様が残してくれるなんて思ってない。
適当な神様だけど、どうにかして目ざとく消してくれるはずだと思う。
もし適当な神様が消し忘れた所で、こんな落書きなんて、
この一週間を忘れた私達が見ても単なる悪戯としか思わないだろうしね。
でも、それでいいんだ。
これは壁じゃなくて私達の心に刻む記念だから。
この一週間、一緒に悩んで、一緒に頑張って来た証だから。
心に刻みたいお互いの名前だから。
だから、私はちょっと悪戯っぽく笑うんだ。
「うーん……、ちょっと字が小さかったかも」
「そう? 私は結構大きめだと思うんだけど……」
「どうせ消されちゃうんだし、折角だからもっと大きく書いちゃおうよ、憂」
「……うん。
それもそうだね」
「あ、でも……」
「何?」
「今度は私が憂の名前を書くよ。
憂は私の名前を書いてくれる?」
「うん、いいよ、梓ちゃん」
私の考えが分かっているのかどうかは分からないけど、憂は笑顔で頷いてくれた。
場所を入れ替えて、今度はお互いの名前を倉庫の壁と刻んでいく。
憂はもうすぐ私の事を忘れてしまう。
私も『ナビゲーター』を終えた後に憂の事を忘れてしまう。
きっとこの一週間の事を二度と思い出す事も無いんだろう。
それでも、私は心の何処かに小さくとでも刻んでみせたい。
不思議で奇妙なこの一週間の事を。
大切な親友の事を。
ナ
カ
ノ ナ ヒ
カ ヒ ラ
ア ノ ラ サ
ズ ア サ ワ
サ ズ ワ
サ ウ ウ
イ イ
壁に、心に刻まれる二人の名前。
いつか再会した後、また二人で演奏出来るように。
未来に進むために。
私はこれからも頑張っていく。
どんなに才能が足りなくて自信が持てなくたって、
顔を上げて、胸を張って、音楽と一緒に生きていく。
いつかきっと、こんな風に二人で笑えるように。
「憂」
「梓ちゃん」
不意に同時にお互いの名前を呼んでしまう私達。
さっきまで一時間以上話していたけど、その程度で満足出来るはずも無かった。
もっと話していたい。
お互いの事をもっともっとよく知り合いたい。
それが出来ない事なんて、勿論、二人ともよく分かってる。
だから、私は憂ちゃんに話さなきゃいけない事を優先して話さないといけない。
苦笑を浮かべ、軽く頷いてから私は続ける。
「じゃあ、私の方から話していい?」
「うん、梓ちゃんが先に話して」
「私の『お試しお願い』の事、憶えてる?」
「うん、憶えてるよ。
確か私と『同じ生活をしてみたい』ってお願いだったよね。
だから、梓ちゃんも石ころ帽子の状態になっちゃったんだもんね」
「あれ、嘘だったんだ」
「嘘?」
憂が不思議そうに首を傾げて、それに私は罪悪感と気恥ずかしさを感じる。
実を言うと、これを憂に伝えるのはかなり恥ずかしい。
一週間前の私と願望やちょっとした嫉妬が知られてしまうみたいで、続きの言葉を躊躇いそうになる。
でも、一週間前の私と今の私は違うから。
全然違う事を考えられるようになったから。
一度だけ深呼吸をして、私はもう一度、憂の瞳に視線を向けた。
「うん、嘘。
実はね、私の本当のお試しお願いは、
『憂と同じ生活をしてみたい』じゃなくて、
『憂の事をもっとよく知りたい』ってお願いだったんだ」
「私の事?」
「うん、そうだよ、憂の事。
初めて憂と会った時に思ったんだよね。
すっごくしっかりしてて優しい子だなあ、って。
どういう毎日を過ごして、どういう事を考えて生きてたら、憂みたいな子になれるのかなあ、って。
だから、もっと知りたかったんだ、憂の事を。
それでお試しお願いにしてみたんだよ。
『憂の事をもっとよく知りたい』って。
私はてっきりそのお願いで神様が私の部屋に憂の情報をまとめた資料を置いてくれるとか、
頭の中に憂の情報を直接流し込んだりしてくれるのかな、
って思ってたんだけど、そのお願いの結果は憂ももうよく知ってるよね」
「うん、神様が梓ちゃんに石ころ帽子を被せてくれたんだよね。
あれは梓ちゃんに私と『同じ生活』を経験させてあげるためじゃなくて……」
「そうすれば、私が憂と一緒に生活するようになる……、
そこまで分かってたのかどうかは微妙な所だけど、
どっちにしても私と憂が普通の状態の時よりは傍に居るようになる、って考えてたのかもね。
『相手の事を本当によく知りたいのなら、背中だけは押すけど後は自分の力で知ろうとしなさい』。
なんて、神様が私にそうお説教してたのかも」
「そうだったんだ……」
憂は少しだけ複雑そうな表情を浮かべた。
ひょっとして、私が嘘を吐いてた事に幻滅しちゃったのかな?
ううん、憂がそんな子じゃないって事は、私ももうよく知ってる。
憂が悲しむのは私が変なお願いをする事じゃなくて、
私が自分の気持ちに嘘を吐く事だってよく分かってるから。
私は安心して憂の次の言葉を待てた。
十秒くらい経って、憂が小さく口を開いて続けてくれた。
「その『お試しお願い』は叶ったの?」
「うん、叶ったよ、憂。
自分で言うのも変だけど、単に憂の情報を資料にまとめてもらうより、
もっともっと、ずっとずっと憂の事をよく知れた気がするんだよね。
結果的に、凄くいい形で叶えられたと思うよ。
もう……、適当な神様のくせにこんな所だけはしっかりしてるんだから」
「よかった」
憂が微笑んでくれる。
私の『お試しお願い』がちゃんと叶ってた事を知って喜んでくれてる。
気が付くと私は憂と左手の指先を絡めていた。
もうすぐ来る別れの時間まで憂の体温を感じていたかったし、
憂にも私の体温を感じていてほしかったから。
真正面から憂と私が向き合う。
空いていた右手の方にも体温を感じる。
右手の方はいつの間にか憂の指先が絡められていた。
二人で指先を絡め合い、強く握り合う。
そうして微笑み合ってから、今度は憂が私に訪ねた。
「じゃあ、次は私の方の話をしてもいい?」
「うん」
頷きながら、時間的にこれが最後の話になるな、って私は感じていた。
憂だってきっと分かってる。
分かってて、憂は微笑みながら私に最後の質問を続けてくれる。
「梓ちゃんの『一生に一度のお願い』って、何なのか教えてもらってもいい?
これから『お願い』を叶える時にも、『お試しお願い』の時と同じで、
その『お願い』の内容を私が知ってる必要は無いから、もしも梓ちゃんがよければ……」
「勿論だよ、憂。
教えてあげる……って言うか、憂にも知っててもらいたいんだ。
この一週間、憂と一緒に過ごせて見つけられた『お願い』だもん。
やっと形に出来た私の『夢』なんだもん。
憂が知っててくれると……、嬉しいな」
「ありがとう、梓ちゃん。
教えて、梓ちゃんの『お願い』と『夢』。
梓ちゃんの叶えたい事、叶えようと思ってる事を……」
「すっごく小さな『お願い』だから、ちょっと恥ずかしいんだけどね……。
でも、憂だって自分の『お願い』をちゃんと教えてくれたんだもんね。
私も胸を張ってその『お願い』を憂に伝えるよ。
私の『一生に一度のお願い』……、それはね……」
私は躊躇わずにそのお願いを憂に伝え切った。
とても些細で馬鹿みたいだけど、自分の力で未来に繋げるための私の『お願い』。
何もかも忘れてたとしても、意外と単純な所もある私ならきっと……。
私の『一生い一度のお願い』を聞き終わった後、憂がまた笑った。
勿論、私を馬鹿にして笑ってるわけじゃなくて、
私の見つけられた『お願い』の本当の意味を分かってくれてる優しい微笑みで。
憂が私のおでこに自分のおでこを重ねる。
温かい体温を感じ合う。
指と指、手と手、おでことおでこ、想いと想いで、ここに居る自分達を感じ合う。
「素敵な『お願い』だね、梓ちゃん」
「そう……かな?
自分でも結構馬鹿みたいって思うんだけど、でも、これでいい気もしてるんだよね。
正直言うとね、憂の『お願い』はすっごく立派だって思った。
私も似た感じの『お願い』にしようかとも思ったよ。
でもね……、そうした方が逆に憂に失礼だし、
私が見つけた『お願い』でもない気がしたんだ。
だから、これがきっと私の一番の『お願い』。
これからもずっと頑張っていくための、『夢』っていう『約束』だと思う」
「『夢』っていう『約束』……。
うん……!
とっても素敵だよ、梓ちゃん……!」
「私、『約束』するよ、憂。
この一週間の事を思い出すのは多分、きっと無理だと思う。
それでもね、私、絶対、桜高に入学する!
桜高に入学して、音楽系のどれかの部に入って、
学園祭か新人勧誘かのライブで憂を感動させてあげる!
絶対絶対、感動させるんだから!
それで憂に思わせるんだ、『あの人と一緒に音楽したいな』って……!
流石に一年の頃は無理かもしれない。
ひょっとしたら高校生の間に憂を感動させられるのも無理かもしれない。
でも、私は諦めたくないし、諦めないよ。
高校生の時に駄目でも、大学に入っても社会人になっても音楽を続ける。
いつかきっと……、憂の感動する音楽を演奏してみせるから……。
その時は……!」
「うん……!
一緒にまた『ふわふわ時間(タイム)』の演奏をしようね……!」
憂の嬉しい言葉に心を躍らせながら、
私は『一生に一度のお願い』を強く思い始める。
憂が私のお願いを叶えようとしてくれてるのが感覚で分かる。
もう数秒後には私の『お願い』が叶えられて、憂が『チャンスシステム』の事を忘れ去る。
それでも、私達は焦らない。
悲しまない。
二人で笑って考えるのは、私達の未来の事。
未来、いつか必ず出会って、また二人で演奏出来る未来の事。
そのためにまず私達には言わなきゃいけない事がある。
「憂」
「梓ちゃん」
だから、私達は言うんだ。
最後にもう一度だけ強く両手を握り合って、
まずはほんの少しの別れのための言葉を。
「またね……!」
って。
二人とも心からの笑顔で。
最終更新:2013年03月23日 21:43