「ひゃんっ!」


桜高の校舎の廊下に可愛らしい叫び声が上がる。
叫んだのは長い黒髪が映える人……、澪さんだった。
ちなみに澪さんが叫んだ理由は、私が澪さんの耳に息を吹き掛けたからだったりする。


「急に何するんだよ、律っ!」


止める隙もなく、澪さんが少し先を歩いていた律さんの頭に拳骨を落とす。
「急に何って痛いっ!」って、これはまた可愛らしい律さんの呻き声が漏れた。
二人の間にはちょっと距離があるから澪さんも勘違いしないかな、
って思ってたんだけど、ちょっとくらいの距離なんて澪さんには関係無いみたいだった。
『耳を息を吹き掛ける人と言えば律』。
即座に頭の中でそう直結させてしまうくらい、
澪さんは律さんに耳に息を吹き掛けられて来たんだろうなあ……。


「耳に息吹くのやめろ、っていつも言ってるだろ」


「いやいや、私じゃないって……」


「こんな事するの、他に誰が居るって言うんんだよ」


「確かにそれはそうなんだけど……」


澪さんに言われた律さんが、頭を擦りながら周囲を見回す。
勿論、澪さんの一番近くに居たのは、私を除いては律さんだけだった。
不思議そうな表情になって、納得いかなそうに律さんが小さくぼやいた。


「あっれー……?
ひょっとして無意識の内に澪の耳に息を吹いてたとか……?
いやいや、いくら何でもそれは無い……と思いたいけど……」


「何をぶつぶつ言ってるんだよ、律。
ほら、教室に忘れ物を取りに行くんだろ?
あ、もう耳に息を吹くのはやめろよな」


「ほいほい」


痛そうに頭を擦りながらも、律さんが笑って応じる。
その表情には安心の色が多く含まれてる様に見えた。
律さんを置いて、でも、ゆっくりとした速度で教室に向かう澪さん。


「ま……、いいか。
澪も少しは元気になったみたいだしな」


澪さんに聞こえないようにそう呟いてから、律さんが澪さんを追い掛けていく。
すぐに肩を並べると、二人してもう笑顔になっていた。
ついさっき澪さんが律さんを叩いてたなんて思えないよね。
傍から見てるとちょっとハラハラするんだけど、その実は心配する必要なんて全然無い。
これが二人の信頼関係なんだよね。

澪さんも元気になったみたいでよかった。
さっきまでの軽音楽部の部室での澪さんは真っ白に燃え尽きてたもんね……。
学園祭のライブに燃え尽きたわけじゃなくて、ライブ後に転んじゃった事のせいで……。
講堂中の人達にパンツを見られちゃったわけだもん。
私だったらしばらく立ち直れないかも……。

でも、耳に息を吹き掛けられた事で、澪さんも少しは自分を取り戻せたみたい。
前回は律さんが憂に耳に息を吹き掛けられてたから、
ってそれだけの理由で今回は澪さんの耳に息を吹き掛けたんだけど、結果的によかったみたい。
それにしても、可愛かったなあ、澪さんの水色縞々パンツ。
澪さんのクールな外見のイメージにギャップがあって逆にそれがまた……。
って、いやいや、それはもう考えないようにするとして。

私は軽く一息吐いてから、待ってもらっていた人の方向に振り向いた。


「これで信じてもらえましたか?」


私が首を傾げて笑顔で訊ねてみると、
待ってもらっていた人……、桜高の一年生の人は小さく頷いてくれた。
その人は憂と出会った翌日、二人で桜高に初めて行った時に見た人だった。
『石ころ帽子』を被ってる状態の私達を何故か見ていたように見えた桜高の一年生。
もしかしたら、この人はあの時点で私達の姿が見えていたのかもしれない。
だって、この人が私の次の『対象者』なんだもん。
次の『対象者』だって事が決まってたから、私達の姿を前倒しの形で見えてたのかも。
そうだと考えてみても、また神様の適当さが見えて来る気がするから、微妙な感じなんだけどね。

昨日、『一生に一度のお願い』をお願いした次の瞬間、
気が付いた時には私はいつの間にか家のベッドの中に寝転んでいた。
いつの間にかパジャマに着替えさせられてて、
眠気も疲れも完全に無くなってて、それどころか夜が明けて朝になっていた。
眠らされた状態で神様に家に戻されたって事なんだと思う。
想像とてみるとちょっと怖いけど、それはそれで助かった。
私の『お願い』を叶えてもらった瞬間、深夜の肌寒い公園に、
私と過ごした一週間の事も『チャンスシステム』の事も全部忘れた憂と二人で残されても、どうしたらいいか分からないもん。
それにこの様子なら、憂も神様が無事に平沢家に送り届けてくれてるはずだと思う。

朝ごはんを食べて一息吐くと、私は自分の中に妙な感覚が生まれてる事に気付いた。
何処かに向かわなきゃいけない、っていう不思議な使命感。
不思議な感覚だったけど、それが私が『ナビゲーター』ってなったって事なんだってすぐに分かった。
向かわなきゃいけない何処か……、そこに次の『チャンスシステム』の『対象者』が居るんだって事も。
私は服を着替えた後、勝手に進む私の足に任せてその場所に向かう事にした。
『お願い』がちゃんと叶ってるのかどうかは気になったけど、それはやめておいた。
それを確かめるのは、この『ナビゲーター』の役割が終わってからにしようと決めてたから。
適当な神様だけど、『お願い』だけはちゃんと叶えてくれてるはずって安心感もあったしね。

そうして使命感の導くままに進んだ先に辿り着いたのは、一昨日まで何度も訪れてた桜高だった。
やっぱり神様って『ナビゲーター』の近所の人から、適当に次の『対象者』を選んでるんじゃ……。
ちょっと呆れながら軽音楽部の部室の皆さんの様子を見た後、
校舎の中を軽く歩いていて見つけたのが、この人だったってわけなんだよね。

横の髪を巻き毛にした無口な雰囲気の女子生徒。
ちょっと苦手なタイプの人だったけど、そんな事を言ってる場合じゃなかった。
『ナビゲーター』の役割を終わらせない事には憂との約束も果たせないし、
それ以上にちゃんと自分の意思で『ナビゲーター』を務め上げたいって気持ちもあったから。
憂に影響を与えたキャサリンさんみたいに……。
私のために一生懸命になってくれた憂みたいに……。
私も精一杯自分と誰かの『お願い』に向き合ってみせたいから……。

巻き毛の人は私服なのに誰にも見咎められてない私を少し不思議そうに見ながらも、
それ以上の事には特に興味無さそうに、急に声を掛けた私の話を聞き流すみたいにしていた。
ドッキリか何かと思ってるのか、それとも私の存在自体にあんまり興味が無いのか……。
ちょっと不安になって来たけど、巻き毛の人はとりあえずは私の最初の質問には答えてくれた。
私の最初の質問……、まずは名前と今叶えたいと思ってる『お願い』について。


『名前は若王子いちご。
叶えたい『お願い』は特に無いよ』


とても簡潔で素っ気無い答えだった。
『チャンスシステム』なんていきなり過ぎるし、まだ私の事なんか信じられないよね。
そう思って私は『石ころ帽子』の事を説明した後、
タイミングよく近くを通り掛かった澪さんの耳に息を吹き掛けてみたわけなんだけど……。
巻き毛の人……、若王子さんの様子はやっぱり全然変わらなかった。
頷いてくれたわけだし、私の話を信じてはくれたみたい。
でも、それ以上感じる事は特に何も無かったみたいだった。


「若王子さんは叶えたい『一生に一度のお願い』って無いんですか?」


「別に」


また訊ねてみても、返って来る言葉は素っ気無かった。
若王子さんが冷たいわけじゃなくて、本当に叶えたい『お願い』が無いんだと思う。
私の場合はあの子との事もあって音楽関係の『お願い』はあったけど、
他に叶えたい『一生に一度のお願い』があるかと聞かれたら、やっぱり迷っちゃうんじゃないのかな。
自分の『お願い』や『夢』に真剣に向き合うのは勇気が必要だから。
どうしても乗り越えられない壁にぶつかってしまう事が分かり切ってるから。
私達はそれくらいは分かってしまう年頃だから……。
だけど……。


「若王子さん」


私は自分の巻き毛を触っている若王子さんの手を握った。
突然の事なのに、若王子さんは嫌そうどころか興味を示した様子も無かった。
ただ視線を私の方に向けて、軽く首を傾げただけだった。
これは大変そうだなあ、って私はつい苦笑してしまう。
私にこの人の『ナビゲーター』を務められるのかな。
まずは若王子さん自身の『一生に一度のお願い』どころか、
私に少しでも興味を持ってもらう事から始めなきゃいけなさそうだし。
若王子さんと私の相性ってあんまりよくなさそうだしね……。

これから先の事に不安が湧いて来ないと言ったら嘘になる。
だけど、私は微笑んで、真剣な視線を若王子さんに向ける。
私は決めたから。
私と憂と『対象者』の若王子さんの『お願い』……、
『夢』と向き合う事を。
今度こそ逃げずに。


「今は特に無いかもしれません。
でも、今は無くても探してもらいたいな、って思います。
若王子さんの叶えたい『夢』を。
例えそれを見つけられなくても、例え叶えるには大きすぎる夢でも、
それを考える事には意味があるはずですから……、私はそう思いますから……!
あんまりお役に立てないかもしれませんけど、私もそのお手伝いをしますから!」




私の部屋の窓の外を枯れ葉が舞い落ち始めてる。
もうすっかり季節も秋になり始めたんだなあ、って感じる。
いよいよ受験シーズンも近付いて来たってわけなんだよね……。
内申点的には問題無いと思うんだけど、試験が失敗したら勿論落ちちゃうわけだからやっぱり少し不安。
そろそろ本腰を入れて受験勉強を始めなきゃいけない。
ただでさえ、最近は勉強が遅れがちなんだし……。

特に二週間分の勉強の遅れは痛かった。
どうしてなのか私自身にも全然分からないんだけど、
二学期に入ってすぐの頃の二週間分の授業の内容を全然覚えてないんだよね。
風邪で休んでたわけじゃないし、ちゃんと出席してた記憶もあるんだけど、
何故だかその二週間に授業で習ったはずの内容がどうしても思い出せない。
しっかり身を入れて授業を受けるようにしてたはずなのに、これは何でなのかなあ……。
ひょっとして、その間、私は宇宙人に誘拐されてて、
周りの人も含めて偽の記憶を埋め込まれてるとか……、は流石に無いよね。
いくらなんでも荒唐無稽過ぎるよね……。

実を言うと、思い当たる事は一つあったりもする。
それは夏休みに入る前、ずっと一緒に音楽の練習をやってたあの子の言葉。


『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね、梓』


あの子は私にそう言った。
ずっと一緒に音楽を続けられると思っていたのに、
受験シーズンになっても変わらないと思ってたのに、それは叶わなかった。
私達は受験生で、音楽よりも勉強の方を優先させなきゃいけないのは確かで、
あの子の言ってる事は全然間違ってなくて、それが分かってるからこそ辛くて……。
あの日以来、私はあの子の事ばかり考えてた。
ギターを弾くのも止めて、あの子の誘いも断り続けてるくせに、あの子の事を考えてる。
だから、二学期が始まったばかりの頃の授業の内容を憶えてないのかもしれない。
夏休みが終わって久し振りに見たあの子の姿に戸惑ってしまって、授業に集中出来なかったのかもしれない。
今だってあの子の事を思い出すと胸が痛んでしまう。
強く強く痛んでしまう。

だけど、今、私は何故か手にムスタングを持っている。
胸に痛みを感じながらも、何故だか不思議な高揚感を感じてる。
弾いてるわけじゃない。
ただ手に持って重さを感じてるだけ。
それだけで私は何故か嬉しさまで感じちゃってるんだ。

きっかけはもう憶えてない。
単なる気紛れだったのかもしれない。
とにかく昨日、学校が終わって部屋に戻った私は、
何故か部屋の隅にあるギターケースに片付けていたムスタングに視線を向けてしまっていた。
押し入れの中に片付ける事も出来なかった私のムスタング。
見るのも嫌だったはずなのに、視界の中に入れないように努めていたはずなのに。


『久々にケースから出してみようかな』


その日の私は不思議とそう思っていた。
もしかしたら、弦も錆びてるかもしれないし……。
誰に向けてるのか分からない言い訳をしながら、
私は自分でもよく分からない胸の高鳴りを感じてムスタングのケースを開いた。
封印されていた私のギターを取り出した。

取り出してみて、正直、私はすっごく驚いた。
ギターケースの中のムスタングが新品みたいに磨かれていたからだ。
あの子との練習でかなり使い古してるはずなのに、
夏休み前からメンテナンスなんてしてないはずなのに、新品みたいにピカピカだったんだ。
少なくとも私はメンテナンスなんてしていないし、そもそもこんな技術だって無い。
ひょっとしたら、お父さんがやったのかな?
娘の部屋からギターの音が聴こえなくなって久しいから、気になってメンテナンスをしてくれたのかな?
お父さん、自分のギターこそボロボロなのに、私のギターをメンテナンスしてくれたの?
そんな技術なんて持ってたの?
こんな新品みたいに磨ける技術を?
って、本当にそうだとしたら、年頃の娘の部屋に勝手に入らないでよね……。

お父さんに確かめてみてもいいけど、私はそうするのはやめようと思った。
このピカピカのムスタングについてお父さんの方から話を切り出した事は無いって事は、訊かない方がいいって事なんだよね。
もしかしたら、お父さんがやったわけじゃないかもしれないしね。
それなら誰がやったのか確かめるのも怖いし……。

それでも、この新品みたいなムスタングを見るのは嬉しかった。
ただ新品みたいなだけじゃなくて、私が付けた傷をそのまま残していてくれたから。
単なる新品を買ってもらえるより、何倍も何十倍も嬉しく感じた。
我ながら単純だなあ、と思う。
でも、私の歩んで来た道をそのままに、心機一転で進めるような気がして来て、
過去の私と未来の私と今の私の姿が、そのままこのムスタングに込められてるみたいな気がしたんだ。
なんて、ちょっと気障過ぎる考え方かもしれないけどね。


「……うん!」


過去の私と未来の私。
そして、今の私。
全部の私と一緒に前に進むために……。
とても単純なきっかけだけど私は、もう迷うのは嫌だな、って強く思った。
ムスタングを持ったまま、携帯電話のメール機能を開く。
怖さと不安と切なさは勿論ある。
でも、それだけじゃきっと前には進めないから。
ピカピカのムスタングを見てると不思議と勇気が湧いてくるから……、
だから、私は勇気を出して、凄く久し振りにあの子へのメールを打ち始める事にしたんだ。




「久し振りだね、梓の方からメールくれるなんて」


「……うん」


「夏休みの間ね、何度遊びに誘っても断られるから悩んでたんだよ?
ひょっとして梓に嫌われたんじゃないかってさ」


「ごめん……、ごめんね……。
それはそっちが悪いわけじゃなくて、私のせいで……」


「ちょっと待って、梓」


「えっ?」


「梓に誘いを断られてて、私も色々考えたんだよね。
夏休み前、ちゃんと自分の本心を伝えられなかったのが悪かったじゃないか、って。
どうやったら梓に自分の気持ちをちゃんと伝えられるのかな、って。
もしかしたら、梓じゃなくて私の方が逃げてたのかも、ってね」


「そんな……、そんな事無いよ……。
誘いを断ってたのは私だし、逃げてたのも私だし……」


「うん、梓はずっと私から逃げてたよね。
それは間違いない!」


「いや……、確かにそうなんだけど……」


「あはっ、複雑な顔しないでよ、梓。
私が言いたいのは、梓は私から逃げてたけど、私だって梓から逃げてたって事なんだよね。
梓に誘いを断られるからって言ってもね、他に気持ちの伝え方はいくらでもあったわけでしょ?
やり方はよくないかもしれないけど、今日みたいに家まで押し掛けるとかさ。
そうすれば梓がどんなに嫌がっても話が出来るし、
私がどんなに逃げたくなったって、梓と向き合わなきゃいけなくなるでしょ?
まあ、今日は梓が部屋に呼んでくれたわけなんだけど、
もっと早く私の方からそうしておけばよかった、って今は思ってるわけ。

これでもね、私らしくなく結構悩んでたんだよ。
伝えたい本当の気持ちを手紙に記してみる、
なんてまるで女子中学生みたいな事もやってみてたんだよ。
話し掛けようとすると逃げられるけど、手紙なら読んでもらえるかも、ってさ。
いや、実際にも女子中学生なんだけどね。

だけどさ、それも私の逃げだったのかも。
手紙で気持ちを伝えるのは悪くないとは思うけど、
それで伝えられる気持ちや想いなんかもあるんだろうけど……、
でも、やっぱりさ、そういうのって今までの私達のやり方とは違うじゃん?
私達は今まで何度か喧嘩もして来たし、方針や音楽性が違う事も多かったし、
お互いに腹を立てる事もあったけど、仲直りは直接自分の口から切り出してたでしょ?
ちゃんとどっちかから謝ってたでしょ?
とっても勇気が要る事だけど、それをやって来たでしょ?
梓もそう思うから、今日、私を呼んでくれたんでしょ?」


「うん……、そう……だと思うよ。
私もね、本当は何て言われるのか分かってたんだ。
夏休み前に練習の中断を切り出された時に、分かってたんだよ、多分。
私……、それを認めるのが嫌だったんだ。
夢が終わっちゃうのが悲しいから。
自分の無力を感じさせられるのが怖いから。
だから、私は誘いを断り続けて、逃げ続けてたんだよね……」


「でも、今日、梓は私を呼んでくれたよね?
私と話がしたくて、部屋に呼んでくれたんだよね?
夏休み前、私が伝えられなかった本心を聞いてくれるためにさ」


「……うん。
夏休み前、それ以上聞かないようにしてた話の続きを聞きたい。
本当はもう聞かなくてもどんな話になのか何となく分かってるけど、
でも、ちゃんと向き合って、目と目を合わせて、その話の続きが聞きたいんだ。
こんなの私の変な我儘みたいだけど……」


「ううん、我儘なんかじゃないよ。
例え本当に梓の変な我儘だって、私はそれが嬉しいんだから問題無いよ。
実際問題さ、私があんなお茶を濁した言い方をしちゃった時に、
梓に幻滅されて絶交されちゃってたってしょうがなかったんだもんね。
自分の事ながらろくでもない事をしちゃったな、って思ってた。
そういう事を私はしちゃったんだよね……。

だからね、私、すっごく嬉しいんだよ。
あの時の話の続きを梓がさせてくれるのがさ。
梓が私の話を聞いてくれるのが。
……聞いてくれる?」


「うん、聞かせて。
今度こそ私も逃げ出さずにちゃんと聞くから。
泣くかもしれないけど、逃げたりなんかしないよ。
もし泣いちゃったら……、ちゃんと慰めてよね?」


「あはっ……!
ありがとう、了解だよ、梓……!
じゃあ、あの時の話の続きをするね。

『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね、梓』」


「そう……だね……」


「それでね、私……、
高校生になったらギターをやめようかと思ってるんだ」


「そうなんだ……」


「梓も知ってるよね?
私、将来、お医者さんになりたいんだって事。
あはっ、まあ、私って馬鹿なんだけどね。
でも、医者になりたいって気持ちは本気。
前にも話したよね?
今は治ってるけど、お兄ちゃんと同じ病気で苦しむ人の力になりたいんだって。
だから、今まで梓に習ってばっかだったけどね、最近は自分で勉強もしてるんだよ?
模試の結果もそれなりに上がっては来てるんだから!

それでね、ずっと勉強してみて頭を悩ませてて、考えるようになったんだよね。
私の頭じゃもっともっと勉強しなきゃ、お医者さんにはなれないんだって。
まずは高校受験を頑張って難しい学校に行って、
高校でも猛勉強して医大に入って研修医になって……、
そうするためには、私、ギターを続けてられないなあ、ってさ」


「勉強の片手間にギターを……。
ごめん、そんな考え方、失礼だよね」


「うん、失礼だよ、誰よりも梓にさ。
梓は私よりギターも上手いし、音楽に真面目だし頑張ってる。
そんな梓と一緒に音楽をやるには、私に実力が足りないって思うんだよ。
不器用な上に練習に時間を裂けない私じゃ、梓の足を引っ張るだけなんだって。
そんなの駄目だよ。
そんなんじゃ、駄目なんだよ。
梓のギターはもっと色んな人に届けられる音楽なんだから……!」


「私だって……、そんなに才能があるわけじゃないよ……?」


「ううん、才能は少なくとも私よりもあるし、何より梓は音楽の事が好きでしょ?
私なんかよりずっとずっと音楽の事が好きでしょ?
小説からの受け売りで悪いんだけどさ、梓はこんな話を知ってる?
芸術とは円周率の様なものだ、って話。

円周率って、いつまでも不規則に続く割り切れない数だよね?
今でも何処かのコンピューターでは計算し続けてるらしいよね?
でも、ほとんどの人には3.14で通じるし、日常生活には何の問題も無いでしょ?
ある程度の大体で終わらせちゃっていい事だよね?

でもね、本当に芸術を愛する人はその先を求めていくらしいんだ。
ある程度の大体で終わらせたりなんかせずに、果ての無い道に挑んでいくらしいの。
どれだけ時間が掛かったって、どれだけ遅い歩みだって、決して諦めずに。
梓はそういう才能を持ってるはず……、ううん、持ってるって私は思うよ。
それが本当の意味での芸術の才能だと思うんだ」


「そんな才能……、私にあるのかな……?」


「あるに決まってるよ、自分じゃ気付いてないかもしれないけどね。
私とギターの練習をしてる時の梓は凄く楽しそうだったし、
私が完璧だと思った演奏でももっと深みを持たせようと考えてた。
何処までも先を考えてたんだもん。
そんな梓に才能が無いなんて、そんな事があるはず無いよ。
だからね、私は梓には同じ才能を持った人と進んでほしいって思ったんだ。
そんな才能を持った梓の足を引っ張りたくなかったんだ」


「私は……、それでもずっと一緒に……。
ごめん、未練がましいよね、ちゃんと本当の気持ちを伝えてくれたのに……」


「そう言ってくれるの、とっても嬉しいよ、梓。
でも、やっぱり私じゃ駄目なんだ。
片手間でしかギターの練習が出来ない私なんかじゃ、この先、ちゃんと梓と向き合えなくなる。
例え続けても、ずるずると私達にとって中途半端なまま、中途半端な音楽を続ける事になっちゃうよ。
それだけは駄目だと思うんだよ、二人のために。
でも、やっぱりそれって、一つの夢の終わりでもあるから……。
あの時に言い出せなくてごめん……。
ごめんね、梓……」


「夢の終わり……か。
そうだね……、私達の一つの夢……、終わっちゃったね。
メジャーデビューして、何処かの会場なんかでライブを開催して、
少しでもファンが居てくれて、一緒に盛り上がったりして、そんな夢……。
悲しいし、悔しいなあ……。
私にもっとギターのテクニックがあれば、
ひょっとしたら中学生の内にデビューとか出来てたのかもしれないのにね……」


「……あはっ。
それはどんなに才能があっても無理でしょ」


「うん、流石に無理だったかも……。
でも、悔しいし、悲しいのは本当だよ?
すぐには無理でも、いつかは一緒にライブを開催したいって思ってたんだもん。
どんな少人数の前でも構わないから、
私達の音楽を誰かに……、ううん、私達自身に届けたかったな。
これだけ弾けるようになったんだよ、って自分達自身に」


「……本当に、ごめん」


「いいよ、本当の気持ちを教えてくれて、ありがとう。
強がりに聞こえるかもしれないけどね、何かすっきりしたのも本当なんだよね。
気持ちを確かめないまま怖がってた方が、逃げてた方が、ずっと辛かった気がするな。
嫌な事から逃げて、辛い事から目を逸らしてる方がずっと……。
だからね、勇気を出して、逃げずに向き合えて話が出来てよかった。
私ね、今、不思議なんだけどすっごく嬉しいんだ」


「……こっちこそありがとう、梓。
伝えられなかった気持ちを受け止めてくれて……。
私だってすっごく嬉しいよ。
でもさ、何だか複雑だなあ……」


「複雑って?」


「だってさ、私、梓に泣かれて叩かれる覚悟までしてたんだよ?
それくらいの事を梓にしちゃったと思ってたし……。
でも、梓ったらすっきりした顔で私の気持ちを受け止めてくれるしさ。
それはそれで嬉しいんだけど、何だか複雑。
私とは遊びだったの? って感じ」


「そ、そんな事無いよ……」


「あはっ、ごめんごめん、それは冗談。
それくらい梓が私の話を受け止めてくれる準備をしてくれてたって事なんだよね。
だけどさ、気になるのは本当だよ。
梓、すっごくすっきりした顔をしてるんだもん。
それも私が本当の気持ちを伝える前からね。
何だか二学期が始まった頃の梓と、今日の梓は目の輝きが違うって言うか……。

どうしたの?
訊いていい事なのか分かんないけど、何かあったの?」


「……うん、何かあったかって言えば、何かあったかな。
今日はそれも伝えたくて、私の部屋に来てもらったんだよね。
何だか笑われそうな気もするけど、見てくれると嬉しいな」


「見る物なの……?
まあ、見てみない事には、笑わないって保証は出来ないけどさ」


「笑ってもいいよ、自分でも単純だって自覚があるしね。
だけど、それもそれで本当の私だから……。
だからね、笑っても何を言ってくれてもいいから、思った事をそのまま言ってほしい。

……ほら、これが見てほしかった物なんだけど、どう?」


「うわっ、すっごい、新品のムスタングじゃん!
どうしたのっ?
新しく買ってもらったのっ?」


「ううん、実はそうじゃないの。
ほら、このヘッドの所、見てくれる?」


「ヘッド……?
あれっ、これ前に私のギターとぶつけた時に出来た疵……?
でも、新品のムスタング……、あれっ?
新品にわざわざ前のと同じ疵を付けたってわけじゃないよね?」


「いやいや、そんな変な事するわけないでしょ」


「そりゃそうですよねー……。
って事は、このムスタングってもしかして?」


「うん、今までのと同じムスタングだよ。
ほら、見てみてよ。
ここもここもここも、ピカピカになる前と同じ疵が付いてるでしょ?」


「ホントだ……。
どうやったの、これ?
完全メンテってやつ?
って、完全メンテでもこんなに綺麗になるもの?」


「あははっ、実はね、私もよく分からないんだ。
あの日から私も色々悩んでてしばらくギターを弾いてなかったんだけど、
一昨日、何となくね、本当に何となく久しぶりにギターケースを開けてみたんだ。
そうしたらいきなりこのピカピカのムスタングが出て来るでしょ?
私もすっごいビックリしちゃったんだよね」


「そりゃビックリするでしょうよ……。
でも、梓がやったわけじゃないんだったら、ひょっとして梓のおじさんがやったのかな?
他の誰かが梓のギターをいじれるはずもないし、あのおじさんの腕だったら出来るかもしれないしね。
って、それならおじさん、まずは自分のボロボロのギターをメンテすればいいのに……」


「それもそうなんだけど、それはお父さんのポリシーって事にしとこうよ。
実はね、私、まだお父さんにはメンテの事を確かめてないんだ。
そういうのって口に出して確かめる事でもないとも思うしね」


「まあ、それが中野家の方針なんだったら、私に口出しは出来ないけどね。
だけど、これを見せてくれるって事はそういうわけなの?
梓は一昨日このピカピカになったムスタングを見て、私と話をしてくれるつもりになったってわけ?」


「まあ……、簡単に言えばそうかな……」


「あはっ、もう梓ったら単純なんだー!」


「さっき私も言ったでしょ、自分でも単純だって自覚があるって……。
でもね、本当に嬉しかったんだよ?
ただ綺麗にしてくれてるだけじゃなくて、付けちゃった疵をそのままでメンテしてくれた事が。
今までの私を全部否定して新しい私になるわけじゃなくて、
そのままの私で成長していけばいい、って事を言ってくれてるみたいで……。
何度失敗しても、心機一転で挑めばいいって言ってくれてるみたいで……。
うーん……、自分でも上手く言えないし、変な事を言ってる気はするんだけど……。
だけどね……」


「それでいいんじゃない?」


「いい……のかな?」


「いいんだよ、それで。
少なくとも私は梓がまた私と話をする気になってくれて嬉しいんだもん。
どんな理由でも梓が元気になれたんなら、私はそのムスタングに感謝しちゃうよ。
サンキュー、ムスタング!

それにね、梓……。
心機一転って事は、梓はまた音楽を始める気になってくれたんだよね……?
音楽、続けるんだよね?」


「……うん。
私ってやっぱり単純なんだと思う。
今まで何度も自分の才能の無さに嫌気が差して、
私達の夢も終わっちゃって、ギターをやめようかとも思ってたんだけど……。
でもね、このムスタングを見てると、また頑張ろう、って気持ちが沸いて来るんだ。
あんまり才能が無くてもまだまだギターを上手に弾きたい!
下手でも頑張って、誰かに聴いてもらって喜んでもらいたい!
って、そう思っちゃうんだよね……」


「よかった……、よかったよ、梓……!」


「えっ?」


「私が足を引っ張ったせいで、梓がギターをやめちゃわなくてよかった……!
私ね……、今まで照れ臭くて言えなかったけどね、梓のギター、好きなんだ。
大好きなんだよ……。
今まで梓とギターの練習をしてきてさ、
そんなに上手じゃないかもしれないけど、私の中では想像以上に弾けるようになったんだよ?
だってさ、私、ギターでジャズの曲を一曲丸ごと弾けるようになるなんて、私、思ってなかったもん。
それが出来るようになったのは梓のおかげ。
梓のおかげで、梓に引っ張られて音楽が好きになれた。

実はね、さっき梓がしばらくギターの練習をしてなかったって言った時、泣きそうだったんだよ?
私のせいで梓がギターやめちゃったらどうしよう、って。
あんなに素敵なギターを弾いてるのに、とっても勿体無い、って。
だからさ、私、梓がギター続けてるって言ってくれて、すっごく嬉しいんだ……!」


「私のギター、好きで……いてくれたの?」


「勿論だよ!
好きじゃなきゃ、あんなに一緒に練習してないよ!」


「そう……、そうなんだ……!
じゃあ、私、ずっとずっと続けて、もっともっと上手くならなきゃいけないよね。
これからも……、高校生になってからも練習頑張るよ……!
だから、そっちもお医者さんになる勉強、頑張ってよね……!」


「うんっ!」


「高校で学園祭でライブやるかもだから、ちゃんと見に来てよ?」


「あはっ、勿論だよ!
勉強が忙しいって言っても、梓の晴れ舞台くらいは絶対見に行くから!
……って、梓、クラブに入る予定なんだ?」


「……うん、高校に入ったら部で練習するのも悪くないと思うんだ。
もしかしたら、私よりずっと上手い人が居るかもしれないし、
その人と一緒に練習出来たら、もっと音楽を好きになれるかもしれないもんね」


「きっと高校には凄い人が居るよー?
挫けないでよ、梓ー?」


「意地悪言わないでよ……。
だけど、挫けそうでも、私、頑張るから!」


「その意気だよ、梓。
ところでさ、どの部に入るの?
吹奏楽部……は流石に違うよね、ギターじゃないし。
ジャズ部とか?」


「桜高にはジャズ部じゃなくてジャズ研があったはずだから、それもいいかもだけど……。
でもね、ちょっと軽音楽部もいいかなって思い始めてるんだよね」


「軽音楽部?
そりゃまた意外なチョイスだねー。
どうしたの?
オープンキャンパスでカッコイイ先輩でも居たっけ?」


「ううん、そういうわけじゃないんだけど……、
私ももっと視野を広げた方がいいかもって思うんだ。
ジャズに限らず、今まで練習してきた曲に限らず、
もっと色んなジャンルの音楽を知りたくなったんだよ。
どうしてなのかは私にもよく分からないんだけどね……。
でも、その可能性の一つとして、軽音楽部に入部するって選択肢もありかなって思うの」


「ほへー、あのお固い梓が柔らかくなったもんだよねー」


「そ……、そう?
私ってそんなに固かった?」


「真面目って事だよ。
だけど、色んな選択肢を柔軟に考えるってのはありだよね。
何でも頭を柔らかくして考えなくちゃ。
でも、まだまだ考え方が固いよ、梓」


「えっ?
軽音楽部に入部するって考え方が?」


「そうじゃなくて、呼び方だよ、呼び方。
色んな可能性を考えるなら、呼び方も柔軟に考えなくちゃ。
普通はさ、皆、軽音楽部の事を軽音部って縮めて呼ぶものなんだよ?」


「そ……、そうなの?」


「そうだよ、軽音部。
そうやって短縮系で呼べないのが梓の固い所だよ。
高校に入学するまでにちゃんと自然に軽音部って呼べるようになっときなよー」


「軽音部……かあ……」


「それとさ……。
もう一つ提案があるんだけど……、聞いてくれる……?」


「どうしたの、改まって」


「受験が終わって卒業したらさ、入学まで春休みになるよね?」


「うん、まあ、なるけど……」


「期間にして二週間くらいになるのかな?
それくらいでどれくらいやれるかは分かんないけど、私さ……。
やりたい事があるんだよね……」


「やりたい事……?」


「これは私の勝手な我侭だから嫌なら断ってくれてもいいよ。
でも、でもさ……、私、その二週間でやりたいんだ。
梓との最後のギターの練習を……さ。
それが私のギターの最後で、もう私もギターを弾く暇もなくなっちゃうけど、
上達の遅い私がどれくらいの腕に仕上げられるかも分かんないけど……。

だけど、最後に梓とセッションしたいの。
私の大好きな梓のギターとの最後のセッションを……。
それを思い出にして、私も勉強を頑張るから!
梓にもずっと音楽を好きでいて欲しいから!



どう……かな?」


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