◇side-H
夏が近づいてきた。
最近喉が渇く。
特にこんな夜はどうしようもなく喉が渇く。
コップにガラガラと氷を入れて水道水を注ぎ込む。
1杯、2杯、3杯……。
どれだけ飲んでも渇きは癒えない。
窓から外を見てみる。
なみなみと太った月がそこにあった。
◇◇◇
紬「唯ちゃん」
紬「ねぇ、唯ちゃんってば!」
唯「……」
紬「唯ちゃんっ!!」
唯「……! ど、どうしたのムギちゃん。そんな大きな声出して」
紬「大丈夫? さっきからぼーっとしてたけど」
唯「私、ぼーっとしてた?」
紬「うん。ずっと上の空だった」
唯「そっかぁ。それは困っちゃうね」
紬「唯ちゃん本当に大丈夫? 病院を紹介しましょうか」
唯「大丈夫大丈夫。きっと寝不足なだけだから」
紬「そう? それならいいんだけど……」
唯「ムギちゃんは心配症だねぇ」
紬「むぅ……」
唯「それで何の話だっけ……?」
紬「えっ、それも覚えてないの?」
唯「ううん。覚えてる覚えてる……ムギちゃんが告白するって話だったね」
紬「うん」
唯「うまくいくといいね、ムギちゃん。私も応援してるよ!」
紬「ありがとう、唯ちゃん。……あら?」
唯「どうしたの?」
紬「雨が降ってきたみたい」
唯「こんなに晴れてるのに? ……あ、本当だ」
紬「天気雨だね」
唯「狐の嫁入りだ」
紬「狐の嫁入り?」
唯「うん。こういう天気雨の日はね、狐さんが嫁入りするんだって」
紬「どうして天気雨の日に狐さんは嫁入りするのかしら?」
唯「う~ん。どうしてだろうねー」
紬「本当にどうしてなんだろうね」
唯「うん……」
紬「そろそろ屋根のあるところに避難しましょう」
唯「えっ、こんなに気持いいのに?」
紬「……!」
唯「ムギちゃん?」
紬「そんな考え方もあるんだ、って感心してたの!!」
唯「えへへ、そうかな」
紬「うん。確かに気持ちいいなって。でも……」
唯「なぁに?」
紬「荷物だけは屋根のあるところに置いておきましょう」
唯「教科書がカピカピになっちゃうからね」
紬「天気雨を堪能するのはその後よ♪」
◇◇◇
ケーキの甘い匂い。
紅茶の格調高い匂い。
豚肉焼ける香ばしい匂い。
どれもこの匂いには敵わない。
あぁ、あれは部活帰りの子かな。
居残り練習でもしてたのかな。
夜おそくまでご苦労様。
ごめんね。
でも恨むなら自分を恨んでね。
こんな時間に帰るあなたが悪いんだから。
◇◇◇
律「これで4件目だってさ」
澪「実際はもっと多いって話だろ」
律「あぁ、恥ずかしくて黙ってる人もいるって話だし」
澪「夜道を歩いていると、突然気絶して首筋に牙の跡……どうせいたずらなんだろうけど」
律「うん? どうしていたずらだと言えるんだ?」
澪「だって吸血鬼なんているはずないだろ」
律「だけど、どんないたずらをすればあんな牙の後がつくんだ?」
澪「それは……そうだ! きっと吸血鬼の牙の形をしたおもちゃがあるんだ」
律「無理があるって……さては怖がってるんだな」
澪「こ、怖がってなんていないぞ」
律「はいはい。じゃあ今日は一人で帰れるよな」
澪「えっ、一緒に帰らないのか?」
律「あぁ、ちょっと職員室に呼ばれててさ」
澪「まったく……今回は何をしたんだ」
律「心当たりが多すぎてわからない」
澪「はぁ……待っててやるよ」
律「素直じゃないやつ」
澪「言ってろ!」
◇◇◇
この味をどう表現すればいいんだろう。
別に旨みがあるわけではない。
甘いわけでもしょっぱいわけでも辛いわけでもない。
香りだってそれほどいいわけじゃない。
それでも、やめられないのだ。
試したことはないけど、薬物というのはこういうものかもしれない。
毎日摂取しないと自分が自分じゃなくなってしまう。
そのことしか考えられなくなってしまう。
だから私は今日も飲み続ける。
◇◇◇
憂「純ちゃんがまだ来てないけどいいの?」
梓「純は別にいいよ」
憂「話を整理するね。梓ちゃんは告白されたんだよね」
梓「うん……」
憂「それで、梓ちゃんは迷ってるんだよね」
梓「うん……」
憂「えっと、梓ちゃんは紬さんのこと、どう思ってるの?」
梓「それは……」
憂「うん」
梓「好きだけど」
憂「それは先輩として?」
梓「両方……かな」
憂「それなら迷うことないと思うけど」
梓「どういうこと?」
憂「付き合えばいいと思うってこと」
梓「憂、何か勘違いしてない?」
憂「?」
梓「私は、どんな言葉で返事すればいいのか相談したいんだけど……」
憂「あ、うん……」
梓「憂?」
憂「ううん。別にいいんだけどね」
梓「そっか」
憂「うん」
梓「それで、どんな言葉がいいと思う?」
憂「告白されたんだよね?」
梓「うん」
憂「付き合ってくださいって言われたんだよね」
梓「それは言われてない」
憂「じゃあ、『私も好きです。付き合ってください』でいいと思うよ」
梓「普通過ぎない?」
憂「えっと……」
梓「憂ならもっと、気の利いてて、しかもかっこつけ過ぎない返事を考えられると思うんだ」
憂「梓ちゃん……私は万能じゃないよ」
梓「大丈夫。私は憂のこと信じてるから」
憂「うーん。じゃあ、こんなのはどうかな……」
梓「今日はありがとう。憂」
憂「どういたしまして。結局純ちゃん来なかったね」
梓「そういやそうだね。あっ、メールが来てる」
憂「なんて?」
梓「今日は用事が入ったからこれないって」
憂「そっかぁ……」
梓「じゃあそろそろ帰ろうよ。最近物騒だし」
憂「あ、うん、そうだね」
梓「憂?」
憂「……なんでもないよ。じゃあね、梓ちゃん」
梓「うん。じゃあね、憂」
◇◇◇
心当たりはある。
でも確信はない。
確かに可能性がないわけじゃない。
でもそんなことをして全てを無駄にするほど馬鹿じゃない。
そう、私は信じている……。
ううん、信じたいだけなのかもしれない。
聞けば教えてくれるかもしれない。
でも私にはその勇気がない。
聞いてしまったら、全部壊れてしまう気がして。
◇◇◇
紬「あら、憂ちゃん。帰り道にばったり会うなんて珍しいね」
憂「あっ、紬さん」
紬「ちょっと時間いいかな?」
憂「何か御用ですか?」
紬「お礼を言いたくて」
憂「お礼?」
紬「うん。お礼」
憂「なら、そこのベンチでお話しませんか?」
紬「あっ、それならアイスでも食べながらどう? 憂ちゃんは何味がいい?」
憂「それじゃあストロベリーで」
紬「ストロベリーね。私は何にしようかしら……」
紬「はい、どうぞ」
憂「あ、幾らでしたか?」
紬「いいのいいの。お礼だから」
憂「お礼って、やっぱり梓ちゃんのですか?」
紬「うん。相談に乗ってくれたんでしょう。憂ちゃんは恋のキューピットだわ!」
憂「相談って……そんな大げさな」
紬「梓ちゃん、とっても感謝してたわよ」
憂「そうでしたか。じゃあ遠慮無くいただきます」
紬「ふふふ。実はね、私は唯ちゃんに相談してたの」
憂「お姉ちゃんにですか?」
紬「ええ、梓ちゃんと結ばれたのは
平沢姉妹のおかげだわ~」
憂「……ちょっと嬉しいです」
紬「うん?」
憂「お姉ちゃんと一緒に、梓ちゃんと紬さんの恋を応援できたってことが、なんだか……」
紬「うふふ。憂ちゃんは本当に唯ちゃんのこと大好きなんだね」
憂「はいっ!」
紬「あっ、そうだ。憂ちゃんは恋とかしてないのかな?」
憂「私……ですか?」
紬「うん。憂ちゃんが恋してるなら全力で応援しちゃう」
憂「私は……秘密です」
紬「そっかぁ。秘密かぁ」
憂「はい。秘密です」
紬「じゃあしょうがないね」
憂「あの、紬さん。ちょっと聞いてもいいですか」
紬「ええ、何かしら?」
憂「あの……紬さんの家ってお金持ちなんですよね」
紬「あー、うん。まぁ、そうだけど……」
憂「厚かましいお願いなんですが、精肉会社の人を紹介してもらえませんか?」
紬「精肉会社?」
憂「はい」
紬「えっと、何のために? 就職関係かしら?」
憂「違います。豚の血のソーセージって知ってます?」
紬「聞いたことはあるけど……確かドイツの名産物よね」
憂「はい。それを作ってみたいんですが、お肉屋さんでは豚の血が手に入らないので」
紬「たぶん捨てちゃう部分よね。いいわ。以前パーティーで会った社長さんにお願いしてみる」
憂「本当ですか?」
紬「ええ、でも貰えるとは限らないわよ」
憂「はい、聞いてもらえるだけで十分です」
紬「でも、どうしてそんなものを作ってみたいと思ったの?」
憂「とっても美味しいって聞いたので」
紬「そうなんだ?」
憂「はい。作ったら紬さんも食べに来てください」
紬「いいの?」
憂「もちろんです!」
紬「じゃあ、頑張って交渉しなくちゃ!」
憂「はい、お願いします」
◇◇◇
トマトジュースに意味が無いのは経験済。
でもレバーなら多少は効果がある。
あれを作ることができればもっと効果があるはずだ。
だって同じ哺乳類の血なんだから。
私が頑張らなくちゃいけない。
私が頑張らないと、ここにいられなくなる。
大好きな人達がいる、この街に。
最終更新:2013年07月13日 14:36