会社ではいつものように働いた。
梓ちゃんの直属の上司は課長さんなので、私と直接話す機会はほとんどない。
それでも、事務所で忙しそうに走り回っている梓ちゃんを見かけると、頬が緩んだ。

部長会議では他の事業部の部長さんから「何かいいことでもあった?」と聞かれてしまった。
顔に出してしまうぐらい、私はわかりやすく御機嫌だったらしい。

私は3時間ほど残業。
梓ちゃんは定時に帰れるようだったので、先に帰るようにメールを送っておいた。

残業を終えた私が家に帰り玄関を開けると、梓ちゃんと黒猫が迎えてくれた。
猫のほうは嬉しそうにしているけど、梓ちゃんは申し訳なさそうな顔をしている。

紬「ただいま」

梓「おかえりなさい、ムギ先輩。
  あのっ……」

紬「何かあったの?」

梓「夜ご飯なんですが、失敗しちゃって」

紬「えっと、とりあえず見てもいい」

梓「はい……」

紬「……。
  あ、家の場所はすぐわかった?」トコトコ

梓「あ、はい。それは一発でこれました」トコトコ

紬「わっ、焼きそば!」

梓「はい。焼きそばなんですが……」

紬「べちょべちょになっちゃったんだ」

梓「どうしてこうなっちゃったんでしょう?
  分量通りに水を入れたんですが」

紬「……フライパンに蓋をした?」

梓「しちゃダメでしたか?」

紬「この麺の説明には蓋をしないように書いてあるから、
  蓋をするなら水を減らさないと。
  それに、野菜が多いから余計に水が出ちゃったんじゃないかしら」

梓「……そうでしたか」

紬「うん……うん……ちょっとレンジにかけてみましょう」

梓「えっ」

紬「ラップをせずにレンジにかけると水を飛ばせるの」


紬「いただきます」

梓「いただきます……」

紬「……」パクッ

梓「……」パクッ

紬「うん。美味しい!」

梓「多少ダマになってますが、普通に食べれる味です。
  ムギ先輩って料理も上手なんですね」

紬「自炊だけが趣味だったから……。
  あ、食後にミルクティーをいれるけど、梓ちゃんも飲むよね?」

梓「いいんですか?」

紬「日課だから」

梓「なら、いただきます」

紬「仕事はどう?」

梓「雑用ですが、悪く無いです。これであの給料なら……」

紬「ふふ、長く続くといいわね」

梓「はい。
  ……ムギ先輩はどうですか?」

紬「……退屈かな」

梓「そうですか……」

紬「でも、嫌なことばかりじゃないのよ」

梓「例えば?」

私は足元にいた黒猫を拾い上げて、喉元を撫でた。
彼女は猫なで声を出して、心地よさそうにする。

紬「ね?」

梓「それは仕事じゃないです」

紬「……いじわる」

はじめてだったので、梓ちゃんにも砂糖をたっぷり入れたミルクティーを用意した。
甘すぎるか聞いてみたけど、「これくらいが丁度いいです」と言われた。
彼女もまた、疲れているのかもしれない。

それから交代でお風呂に入って、私達は眠ることにした。
押入れから布団を取り出して、ベッドの横にひいてあげた。
梓ちゃんは「布団なんて久しぶりです」と言って、嬉しそうに潜り込んだ。
黒猫も私のベッドに入り込んできて、2つの吐息を感じながら、眠った。

朝起きると、お腹が重かった。
あの子が乗っているのかと思ったら、白いものが乗っていたからぎょっとした。
よく見てみると、梓ちゃんの足だった。

布団から足を伸ばして器用にベッドの上にのっけている。
少しはしたない格好だと思ったけど、私はそのままにして、朝ごはんの用意をはじめた。

30分ほど後、顔を真っ赤にして寝相の弁解にきた梓ちゃんが無性にかわいかった。


こうして二人と一匹の生活がはじまった。
梓ちゃんはとてもいい子で、ご飯や掃除の当番をちゃんとやってくれる。
ご飯も最初こそあまり上手ではなかったものの、ネットで色々研究しているらしく、それなりに上達している。
特にパンづくりは上手で、休日には美味しいパンをごちそうしてくれる。

楽しい。
本当にそう思う。

でも、この生活が長く続くとは思っていない。

自立できるだけの経済力を身に付ければ、梓ちゃんは出ていってしまうだろう。
そうでなくても、いい人ができれば、その人のところへ行ってしまうかもしれない。

黒猫と梓ちゃん。
どちらも最初は自立して生きていくのが難しかったから、私のところへ来てくれた。
黒猫は私が望む限り、ずっと傍にいてくれる。
でも梓ちゃんは、いつか離れていってしまう。

いつか来る別れを思うと寂しかった。
だから先のことはあまり考えないようにした。

梓ちゃんは稀に家に帰って暗そうにしていることがあった。
仕事で上司に怒られたときだ。
メールの書き方、Excelでデータを整理する方法、コピー機が止まってしまったときの対処法。
どれも梓ちゃんが以前働いていたパン屋さんでは必要なかったことだ。

私は梓ちゃんに、その1つ1つを丁寧に教えた。
メールなら、定型文や相手に対する気配りについて。
Excelなら、VLOOKUPなどの関数について。
コピー機なら、紙詰まりの対処法について。

今頃になって、私を特別待遇してくれた会社に感謝した。
平社員時代、私には常に教え方のうまい上司がついて、業務について丁寧に教えてくれた。
そのおかげで、ひととおり仕事については理解していた。

1ヶ月……2ヶ月……3ヶ月……。
月日は流れていった。

梓ちゃんはとても真面目に働いてくれた。
仕事のできも良く、その容姿も相まって、社内での評判は上々だった。

そんなある日、人事部から書類が回ってきた。
梓ちゃんの正規雇用に関する書類だ。
課長さんも係長さんも既に判を押しており、あとは私が判を押せば、梓ちゃんはこの会社の正社員になれる。
私は迷わず判を押した。


紬「赤飯にしようかとも思ったんだけど」

梓「わ、凄いごちそう。
  ムギ先輩が有給をとったので何かと思いましたが、これを作ってたんですか」

紬「うん。ちょっと張り切ってごちそうを作っちゃった。
  正社員おめでとう」

梓「はい。本当に正社員になれるなんて……」

紬「あれだけ真面目に働いてくれればね。
  基本的に派遣社員さんはモチベーションが低いもの」

梓「ムギ先輩が推してくれたんですよね?」

紬「うん。けど、課長さんも係長さんも推してたのよ。
  みんな梓ちゃんなら正社員として申し分ないって」

梓「ありがたい話です」

黒猫「みゃお」

紬「ふふ、この子も祝福してるみたい。
  会社としても優秀な子が入ってくれてありがたいわ」

梓「ムギ先輩、ありがとうございました」

紬「?」

梓「ムギ先輩が色々教えてくれて……。
  正社員になれたのはそのおかげだと思ってますから」

紬「そうかしら」

梓「そうです」

紬「まぁいいわ。そろそろ食べましょう。
  お酒もあるから」

黒猫「みゃ~」

紬「あなたはこっち」

黒猫「みゃ~」ペロペロ

紬「いただきます」

梓「いただきます」


梓ちゃんの正社員採用パーティー。
2人と1匹しかいないささやかなものだけど、2人とも楽しそうにしていた。
私の料理を美味しそうに食べる梓ちゃんを見ているだけで、私は幸せになれた。

ワイン、チューハイ、日本酒。
お酒もどんどんすすんで、私も梓ちゃんも酔ってきた。
ううん。むしろ私のほうが酔っていたかもしれない。

気がつくと私は梓ちゃんの肩を抱いて座っていた。

紬「もう、かわいいんだから」ギュ

梓「もう……酔ってますね。
  でも今日は機嫌がいいので許してやるです」

紬「うふふふ~。
  うふふふふ~」

梓「ふふふ。
  あはははははは!」

紬「えへへ~、ねーねー、梓ちゃんはいつ出て行くの?」

黒猫「みゃ?」

梓「え?」

紬「だっていつかいなくなっちゃうんでしょ?」

梓「……出て行ったほうがいいですか?」

紬「やーだーやーだー。
  出て行くなんて絶対やーだーもん」ギュ

梓「本当に酔っ払ってる……」

紬「出て行かない?」ウルウル

梓「もう、本当に酔うと性格が変わっちゃいますね、ムギ先輩は。
  そうですねぇ……」

紬「出て行っちゃうんだ~」

梓「すぐには出て行きませんよ。
  ……ムギ先輩が迷惑じゃないなら」

紬「私はね~全然迷惑じゃないのよー。
  ずっとずっと一緒にいたいと思っての!
  だから、だからね……」グスッ

梓「……安心して下さい。
  ずっと一緒にいたいと思ってますから」ナデナデ

紬「あ……」

梓「安心しました?」ナデナデ

紬「……うん。
  昔もこうやって撫でてくれたよね」

梓「そうでしたっけ。
  ……ムギ先輩の髪、相変わらずですね」ナデナデ

紬「相変わらず?」

梓「ずっと触っていたいってことです」ナデナデ

紬「そっかぁ」

紬「……ねぇ」

梓「どうしました?」ナデナデ

紬「さっきはあんなこと言っちゃったけど、
  もしも、もしもね。
  出て行きたいと思ったらね……」

梓「……」ナデナデ

紬「その時は、遠慮なく出て行っていいからね。
  私はね……なんとか頑張れるから」

梓「そんな顔で言われても逆効果です」ナデナデ

紬「……ごめんね。弱い先輩で」

梓「知ってます。あの頃からムギ先輩は弱虫でしたから」ナデナデ

紬「そっか、知ってたねぇ」

大学3年生の夏。
みんなが就活をはじめた頃。

私は軽い鬱になった。
医者にはいかなかったから、鬱病と診断されるかはわからない。
ただ、何もやる気がおきなくなった。

りっちゃんや澪ちゃんがサポートしてくれたおかげで、なんとか単位はとれたけど、
就職活動にはまったく手を出せなかった。

だから父の会社に入ったのだ。

鬱になった理由はわかっている。
大学時代が終わると同時に、寮での生活も終わる。
HTTも終わってしまう。

唯ちゃんはずっと音楽を続けたいと言っていたけど、社会人になれば転勤もある。
みんなで頻繁に集まれるのは大学が終わるまでだと、私は悟っていた。

大学に行かず、寮にひきこもっていた私のところに、梓ちゃんはよく来てくれた。
私は延々と梓ちゃんに愚痴を吐いた。

みんなと離れたくない。
ずっと楽しい時間を過ごしたい。
一人で暮らすのは嫌だ。

梓ちゃんは、私の不満を全部受け止めてくれた。
自暴自棄になったときでも、
テストをサボってしまったときでも、
八つ当たりをしてしまったときでさえ。

そのおかげで私は随分助かった。
無事卒業できたのも、半分以上梓ちゃんのおかげだと思ってる。


あの頃の私は、梓ちゃんを束縛していた。
きっと私に構っていなければ、梓ちゃんはもっと楽しい大学生活を過ごせたはずだ。
就職活動だって、もっと上手くやれたかもしれない。
恋人だって、できたかもしれないのだ。


そして今また、私は梓ちゃんを束縛しようとしている。

良くないことだとはわかってる。
わかっていても手放せない。

そんな想いを抱えながら、半年ほど月日が流れたある日。
父に呼ばれた。

実家に帰ると、父は私に告げた。
本社の役員の席が空いたと。

まだ経歴が足りないのではないかと父に申し出ると、
今季の成績があれば十分だと言われた。

確かに今季、事業部の貢献利益は過去最高を更新している。
しかし、それは市場の拡大と事業部の方向性が偶然一致しただけで、私の功績と呼べるものではない。
特別なヒット商品を出したわけではないし、同じような業務を行っている他社でも、利益額を更新している事業部は珍しくない。

その旨を父に伝えると、それでも構わないと言われた。
不景気のときには責任がなくても責任をとらされ、好景気のときには具体的な功績がなくても評価される。
上に立つ者は往々として、そのようなものだと。

ただ、父は私に選択肢を与えた。
今の会社に残って社長を目指すというなら、それも良い、と。
社長という席からものを見ることも、今後のお前にとって大切なことだ、と。

本社の役員になるか、今の会社に残って社長の席を目指すか。
正直なところ、どちらでもよかった。

でも、どちらでもよくないこともあった。
琴吹の本社へは、実家から通える。
つまり、本社の役員になるという道を選ぶのなら、もうルームシェアを続ける必要はないのだ。


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