拝啓、平沢憂

    お元気ですか?
    私は元気です。  

         平沢唯


あの日、見上げた空は薄暗い曇り空だった。

それ以来、空を見上げるといつも曇っているようにしか見えない。

私にとって、世界は灰色になってしまった。

この灰色の世界で、私は何がしたいのだろう。

これから何をするために生きていけばいいのだろう。

意味の失われた世界に色は存在しないのかもしれない。

勉強だって、スポーツだって、炊事洗濯家事手伝いだって、それなりにこなすことができた。
だから、私はまわりの大人によく褒められた。

こういうことは、世間の価値からすれば「意味がある」「価値がある」ことなんだろうけれど、私にとってはちっともそう思えなかった。

こんなことができたって、一体なんだというのだろう。

やりたいからやるんじゃなくて、やらなくちゃいけないから、やる。それだけのこと。

自分の為に、自分のことを、自分でやる。

そんな世界で過ごすうち、「楽しい」や「嬉しい」がわからなくなっていった。

灰色の世界にいる私には、夢中になれることも、誰かの為に一生懸命になれることも、何もなかった。なくなってしまっていた。

私は、たった一人、世界に取り残されたみたいだった。


「憂、試験はどうだった?」

「う〜ん、どうだろう。まあまあかな」

「憂がまあまあっていうなら、きっと大丈夫ね」

「そんな…わかんないよ、和ちゃん」

雪道を2人、滑らないようにゆっくりと歩く。

もうすぐ3月も近いというのに、ここ数日寒い日が続いている。昨日の晩から降り始めた雪は、朝になると世界を銀色に変えていた。

「わざわざ迎えにきてくれたの?」

「うん、なんだか落ち着かなくてね」

「和ちゃんが緊張することじゃないよ」

「わかってるわよ…でも気になっちゃって」

そう言って、和ちゃんはちょっと照れくさそうに笑った。

「春からは同じ制服を着られるわね」

「そうなるといいけど」

「大丈夫よ」

「大丈夫かな?」

「きっと、大丈夫」

「…そっか。なんだか和ちゃん、自信満々だね」

「当たり前よ。だって憂は私の自慢の幼馴染なんだから」

「…ありがと。和ちゃん」

和ちゃんは私の合格を心から願ってくれていた。2人で同じ桜高の制服を着て、一緒に登校する日がやってくることを、強く祈ってくれていた。

本当に「私」と?

それは「私」じゃなきゃダメなこと?

他の誰かの代わりじゃなくて?



…私、嫌な子だ。

幼馴染の好意を真っすぐに受け取ることの出来ない私は、自己嫌悪を繰り返す。


後日。

私の努力が実を結んだのか、和ちゃんの祈りが天に届いたのか。
私は無事、桜高に合格した。


桜の季節がやってきた。

新しい制服に袖を通して、鏡の前に立ってみる。

目の前にいるのは「私」。私以外の誰でもない…よね。

そんなの当たり前のことなのに、私は時々不安になる。今、目の前に、鏡の中にいる、髪を下ろして見慣れない制服に身を包んだ平沢憂は、平沢憂じゃないみたいだ。

じっと鏡の中の自分の瞳を見つめてみる。すると、どんどん自分が誰だかわからなくなっていく。なんだか不思議な気持ちになる。

鏡の中の世界に救いを求めるように、私はじっともうひとりの私を見つめ続けた。



ピンポーン!


ぼうっとした意識を覚醒させたのは玄関のチャイムの音だった。


「はーい!」

髪をキュッと結び上げ、玄関に向かう。

「おはよう、憂」

「おはよう、和ちゃん。どうかしたの?こんな朝早くから」

「あなたの制服姿を誰より先に、一番に見たかったのよ」

「もう、和ちゃんったら。大げさだよ」

一つしか歳の変わらないこの幼馴染は、いつも私のことを目にかけてくれている。

両親が留守がちでほとんど一人暮らしに近い私にとって、小学校に上がる前から可愛がってくれていた和ちゃんは、両親よりも肉親に近い存在かもしれない。

「制服、ヘンじゃないかな?」

「…そのうち慣れるわよ」

「…似合ってない、ってこと?」

「着慣れない感じが初々しくていいんじゃないかって意味」

「とりあえず褒め言葉として受け取っておくよ…」

この幼馴染は、要領がいいようで案外不器用だ。

そこは適当に誉めておけばいいんだよ、和ちゃん。


「うーいー、クラブ見学行こうよー!」

「うん、まずはどこから行く?」

「軽音部かなっ!」

「軽音部?」

「かっこいいじゃん!バンド!」

純ちゃんはいつも楽しそうだ。
始まったばかりの高校生活、新しい毎日に目をキラキラさせている。

中学時代からの友達だけど、彼女はいつだって目の前のことを全力で楽しもうとしてる。

そして、その楽しさをまわりに振りまいて、幸せを分け与えている。そんな彼女にどれだけ救われてきただろうか。

同じ高校に入ることができて、同じクラスになることができて、本当によかった。

「ずっと憧れてたんだよね〜!」

「そっかー……でも」

「?」

「……ないみたいだよ?軽音部」

「えええっ!」

「だって、クラブ紹介の冊子に載ってないよ」

純ちゃんは目を細くして、指でなぞりながらひとつひとつクラブを確認していく。

「……ない」

「でしょ」

「ええー…そんなぁ…」

私は知らなかったけれど、桜高の軽音部といえば、昔は割と有名だったらしい。
なかなかレベルが高くて、学園祭のバンド演奏は注目の的だったとか。
時代の流れと共に人が少なくなって、廃部になっちゃたのかな?


「なんか急にやる気なくなった」


純ちゃんは気分屋なんだよね…。

「あ!ほら!これはどう?ジャズ研究部っていうのがあるよ!」

彼女を元気づけようと、冊子の中に見つけたクラブの名前を、少し大きめな声で読み上げる。

「ジャズ研究部?」

「うん。このクラブならどうかな?軽音部に近いんじゃない?」

「……見学に、行ってみよう…かな」

見学に行った結果。
純ちゃんは、演奏してくれた先輩に一目惚れ。そのままジャズ研究部に入部しました。

やりたいことが見つかって、よかったね。純ちゃん。

目を輝かせている彼女の様子を見ているだけで、私も嬉しい気持ちになれた。


「ねえ、何の部活に入るか決めた?」

「え?」

「部活よ、部活」

「ああ、部活……」

苦笑いしてごまかした。

和ちゃんと歩く朝の通学路。

桜の花はとっくに散ってしまった葉桜の季節。
私はまだ、どこのクラブに入部していなかった。

「……せっかく高校に入ったんだし、何か始めてみたら?」

「うーん…」

「憂なら、きっとなんだってあっという間に上達するわよ?」

「そんなこと、ないよ」

「あるわよ、そんなこと」

「そうかな?」

「そうよ」

どこのクラブにも入っていないことに、特別な理由はない。

やりたいことがない。ただそれだけ。

純ちゃんに誘われたジャズ研も、なんとなく気が進まなくて入部しなかった。

「やりたいこととか、ないの?」

「うーん…」

「憂がよかったら、なんだけど…」

「何?」

「生徒会、入ってみない?」


生徒会……

和ちゃんは生徒会に入っている。
毎日集まりがあるから、下校時はあまり一緒になることはない。


朝は一週間に二、三回、こうして一緒に登校する。

心配してくれてるんだ、私のこと。

だから生徒会に誘ってくれている。
少しでも私の高校生活が楽しく、にぎやかになるように。

「ひとつ役職が空いてて…書記なんだけど。どうかしら?」

「生徒会かあ……ありがと、和ちゃん。考えてみるね」

「うん。考えてみて。楽しいわよ、生徒会も。なかなか」

「ありがとう」


ありがとう、和ちゃん。ありがとう。
うれしいよ。とっても。

でもね…やっぱり私……どうしても、一歩を踏み出す気力が湧いてこないんだ。


その手紙が届いたのは、ゴールデンウィークの最終日だった。

お父さんとお母さんは、いつもみたいに外国に旅行に行っちゃった。
両親が出掛けた次の日。珍しく風邪をひいて寝込んだ。せっかくの大型連休は、ベッドの上で過ごした時間が一番長かった。

だいぶんと熱が下がり、これなら明日学校に行けるなぁ、と思った最終日の朝。

朝刊を取るため郵便受けの中を開けると、そこには新聞と一通の封筒。珍しく宛名は私宛だった。

封筒をくるっと裏返す。差出人の名前は、ない。

リビングに戻って封を開けると、中に一枚の便せんが入っていた。四つ折りにされたそれを開いた瞬間、私の心臓は止まりそうになった。



拝啓、平沢憂様

    お元気ですか?
    私は元気です。  

         平沢唯


届くはずのない手紙。

しばらく胸の鼓動を抑えきれずに、その短い文面を何度も読み返した。

そして、少し時間が立って冷静さを取り戻した後、深呼吸して気持ちを落ち着けると、封筒を破り捨てようと思った。

こんなの、イタズラに決まってる。イタズラにしたってタチが悪い。

でも、誰かのイタズラであったとせよ、差出人の名前を見ると、どうしても捨ててしまうことはできなかった。


私は、ちょっとどうかしてる。

もう一度手紙の文面を読み返すと、私は引き出しから便せんを引っ張りだし、返事を書いたのだ。

もしかしたら…万に一つでも、いや…そんなことあるわけないってわかっていても、本物かもしれない。そう思ってしまったから。

でも宛先はどうしようか。
いや、悩む必要はない。差出人が住んでいる住所に送れば、きっと手紙は届くのだ。

私は宛先に自宅の住所を書いた。

ヘンなの。自宅から自宅へ手紙を出すなんて。出した手紙は戻ってくるだけ。

それなら、それでいいや。

そう思って返事を書いた。


拝啓、平沢唯様

    私も元気です。
    でもちょっと、風邪気味かな。  

                平沢憂


両親が留守がちな私たちにとって、毎日の生活のほとんどその全ては姉妹で過ごす時間だった。


お姉ちゃんと過ごした日々。
いつもずっと一緒だった日々。
お姉ちゃんが修学旅行に行ってしまい、ひとり留守番をしたあの日。
次の日、お姉ちゃんが帰ってきた夜。嬉しかった。



今思えば、あのとき時間が止まってしまえばよかった。

忘れることなんて、できるわけがない。



手紙を出した二日後の朝、郵便受けを開けると新聞と封筒が入っていた。

ああ、戻ってきたかぁ…と思ってよく見ると、宛名が私の名前になっていることに気づく。

私は急いで封を切り、便せんを開いた。



拝啓、平沢憂様

    えっ!大丈夫?
    風邪にはみかんだよ!いっぱい食べてはやく元気になってね!

                              平沢唯

その手紙は、お姉ちゃんからの返信だった。
胸のドキドキは、収まるどころかどんどん加速していった。


「なにか、いいことあったの?」

「?」

「最近楽しそうな顔してるから」

「そう?」

「風邪はもう大丈夫みたいね」

和ちゃんは私が風邪をひいている時、毎日様子を見に来てくれた。

「うん、もう大丈夫だよ。心配かけてゴメンね」

「ならよかった。あなたはいつも無理するから…」

「そうかな?」

「そうよ」

「でももう大丈夫だよ」

「うん、そうみたいね。なんだかちょっと安心したわ」

「?」

「こんなに楽しそうな憂を見るのって、久しぶりな気がするから」

そう言って和ちゃんは笑った。


なぞの文通が始まって一ヶ月。私は楽しかった。

お姉ちゃんからの手紙には、いつも差出人の名前も、消印もない。

届くのは決まって朝。郵便受けに投函されている。

そして、その日のうちに返事を書いて送る。二日後には必ず返事がきた。

それを読んで、また返事を書く。


お姉ちゃんは今高校二年生なんだって。
高校入学を機会に軽音部に入って、ギターを始めたって手紙に書いてあった。

お姉ちゃんの高校には軽音部があるんだ。

クラスメイトのこと、軽音部のこと、いろいろと手紙に書いて送ってくれる。
毎日楽しくって仕方がないんだろうなってすっごく伝わってくる。

そんな手紙を読んでると、まるで自分のことみたいに嬉しく、楽しくなった。

お姉ちゃんの手紙には、なつかしい昔の話も綴ってあった。

それは、本当にお姉ちゃんじゃないと知り得ないような話ばかりだった。

お姉ちゃんだ…お姉ちゃんが、手紙を書いてくれている……。

誰がお姉ちゃんのフリをしているのか、なぜこんなことをするのか。
そんなことは次第にどうでもよくなっていった。

たのしかったから、うれしかったから。

この手紙を書いたのは、お姉ちゃんだ。

私はそう信じることにした。

こんなにしあわせな気持ちはいつ以来だろう。

文通のことは和ちゃんにも内緒。
私とお姉ちゃん、ふたりだけの秘密。

お姉ちゃん、ありがとう。
毎日が楽しいのは、お姉ちゃんのおかげだよ。
私、やっぱりお姉ちゃんがいないとダメみたい。


「生徒会のこと、ごめんね」

「いいんだよ、和ちゃん。仕方ないよ」

生徒会には入らなかった。いや、正確に言うと入れなかった。

私がもたもた返事を引き伸ばしているうちに他の希望者がやってきて、役職は埋まってしまったのだ。

和ちゃんには申し訳ないけれど、これで良かったと思う。
だって、やりたいひとがいるならその方がいいに決まってるもの。

やりたいこと…夢中になれること…私にもいつかそんなものができるのかな?そんなことに出会えるのかな?


拝啓、平沢唯様

    ねえ、お姉ちゃん。
    お姉ちゃんには夢中になれることって、ある?
    私にはね、ないの。何もないの。
    私もいつか、夢中になれることに出会えるのかな…。

                            平沢憂


拝啓、平沢憂様

    今はギターに夢中かなぁ?
    音楽ってすっごくたのしいんだ!
    憂もけいおん部、入らない??きっと、すごくたのしいよ!!

                            平沢唯



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最終更新:2014年02月22日 08:24