ある日突然父からアコースティックギターを貰った。
私にはむったんがいるのだからそれは言ってしまえば不要なものだった。
いらないよ、と断ったものの、父は
「1本ぐらいギターが増えて徳はあっても損はない」と
ほぼ無理矢理に私にそのギターを押し付けた。
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梓「さむっ!」
1人、ギターを背負い歩く私に冬の風は容赦なく吹きつく。
ブラウンのレザージャケットのポケットに既に突っ込んでいた手をさらに奥へと押し込んで、
マフラーに顔をうずめた。
目の前を歩く人たちは、
互いの手を絡ませたりする恋人たち、
忙しなく歩く臭そうなオジサンたち、
「さみいさみい」と喧しく鳴く学生たち。
気が付くとあっという間に季節は冬だった。
不意にケータイが振るえた。
確認なんてしなくても、私にこの時間帯にメールをくれるのは……。
メールには『気を付けて帰って来てね』という一文のみ。
梓「早く帰ろう……。 憂が待ってる」
どこかに逃げるように、
でも、確実に私のことを待ってくれている憂のもとへ
私はひとりぼっちで空回りそうになりながら、
いつものように冬の雑踏を後にした。
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手入れはするものの、貰ったギターを私はどうにも弾く気にはなれなかった。
その時の私はむったん以外の楽器を弾こうと思うことがなかった。
そうすることは唯先輩たちがいなくなったセカイに
さらに追い打ちをかけるような行為のような気がしていた。
ただひたすらむったんと会話をする日々……。
聞こえるはずもない音に耳をすませて、その音に自分の音を重ねていく。
あぁ、そこはちゃんとミュートしないと……
またそこで走るんだから……
ほら、すぐにベースとずれちゃう……
でもそれをキーボードがカバーするんだから
ほんとにわけわかんないよ
……ははっ……。
私の記憶で音は様々だ。
間違える箇所はきっといつかのそれと一致している。
でもそれはいつのセッションだったのか、
どこで弾いたものだったのか、
合宿中か、部室でか、それともスタジオとか。
正しいことは覚えていない。
曖昧さのままで、私はそれに自分の音を重ねていく。
リードギター、ベース、キーボード、ドラム。
それらの音は過去のまま、リズムギターの私の音だけが現在の状態で刻んでいたリズムを、
憂は一体どんな気持ちで聴いていたんだろう。
先輩たちがいなくなっただけでここまで弱弱しくなった私を
父と母はどんな気持ちで眺めていたんだろう。
私には到底理解できない範囲にありそうな他人のそんな思いを私はただ、
自分がいっぱいいっぱいだという自分勝手な言い訳のために、
その時は想像することさえもしなかった。
春休みはそんな調子で良かったけど、高校3年生になり、
そんな訳にはいかなくなった。
私の両親はさらに多忙になった。 私のことが心配ではなくなったわけではないっていうのは
十分にわかっている。
オトナになったら、自分の思いではどうにもならないことがたくさんになっていくんだ。
両親の不在に比例して唯先輩のいなくなった平沢家に
私は入り浸るようになっていった。
ちょうど同じころ、平沢家も私の家と同じような状況になっていたためだ。
オトナになったら、自分たちのために建てた家にすら居続けることが難しくなっていく。
家は在るのに、家なき子みたいに悲しい状況に陥っていた私と憂の同居は
なんだかんだで誰からの批判もなく、上手くいっていた。
両親にも「平沢家にいる」ということを説明してるし、
憂もそこらへんはちゃんと報告しているらしく、
私は毎月自分の家のテーブルの封筒にいつの間にか置いてある封筒を憂に渡している。
「お世話になっています」っていう生活費だ。
一度、中身を見たことがある。 ……10万入っていた。
その頃の私はまだ金銭感覚、
ひと月に2人の女の子が暮らすのにはどのくらいのお金が必要なのか
っていう知識がなかったから
ただただひたすらに10万という金額に驚いた。
今なら言えるが、私の両親は本当にバカだ。 音楽バカだったのだと思う。
……10万かぁ。
生活費は入れていたけど電気とかはやっぱ使いにくかった。
自分の家ならアンプにつなげてもヘッドフォンをつけていれば
ギターは24時間いつでも使い放題だった。
でも、それと同じことをこの家でもしてもよいのかためらわれた。
大体、私ももう高校3年生で、昼間はきちんと受験生をしていないといけなかった。
むったん弾きたいけどでもなぁ……自分の家に帰ればそれですむ問題なんだけど、
私はどうしても家には帰りたくなかった。
そんな時、部屋の隅のアコースティックギターが目に入る。
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憂「梓ちゃんはこの部屋を使ってね」
憂の言葉に私は絶句していた。
憂が私にあてがったその一室はセミの抜け殻のように主を失ったあの部屋だったのだ。
机の上に置かれた要らない楽譜、新しい生活には必要ではないとされた日常品の数々。
いや、確かに机とか買い揃える必要とかなくて楽だからいいんだけどさ、でも。
梓「……」
水面下に佇む鯉のように口をパクパクとした。
上手く言葉が錬金されてこない。 まるでウインナーを作っているのに中身のタネがなくなってしまってて、
ただただ羊の腸を持って立ち尽くしているみたい。
ベッド側の窓から差し込む光が逆光になって
うまく憂の表情は掴めなかった。
この位置にベッドを置けば唯先輩も眩しくて毎朝憂に起こしてもらわなくても済んだんじゃないかな、あ、
でもそれだと部屋の出入りが面倒くさいか、とかどうでもいいことばっか思いつく。
憂は私に唯先輩の代わりになってほしいのかな、
とも思った。
物凄くくだらない思い付きだった。
でも、そのくだらなさが信憑性を帯びるくらい、私も憂も寂しかったんだ。
そこにいた人がいなくなったってことがとっても寂しかったんだ。
いまさら叫んでも泣いてもどんなことしてもそれは変わらないってもう知ってて、
というか、叫んでも泣いてもどんなことしてもそれは変わらないって実際にしてからもう実体験として知ってて。
とにかく寂しかったんだ。
いまなら宗教とかよくわかんない信仰とか信じちゃう人の気持ちがわかってしまうってくらいには
自分でもどうにかしてこの寂しさから逃れたいって思うくらいには、
寂しいことが「寂しい」って気持ちの枠から食み出してきて、
「辛い」になっていたんだ。
梓「……。 わかった。 この部屋使わせて」
憂「お姉ちゃんが残していったものは何でも自由に使っていいからね」
梓「それ、有り難いけど、唯先輩に怒られちゃわないかな」
憂「うーん。 ……どうだろ。 わかんない」
梓「わかんないって……」
憂「お姉ちゃん、最近忙しいみたいで。 メールしてもなかなか返ってこなくて」
梓「……そっか。 じゃあ、勝手に使っても唯先輩が悪いってことにしよう」
私はそう言ってやった。
「わかんない」って素直に言った憂が悪いんだろうか。
「わかんない」って言わせるような質問をした私が悪いんだろうか。
不意に憂と目があって、心臓が止まるかと思ったけど、
憂に気づかれたくなくて自然をなるべく装った。
梓「でも、きっとお姉ちゃんなら笑って許してくれるから大丈夫だよ」
そう言って微笑む憂の笑顔に私は少しだけ悲しくなって、だけどそれ以上に優しい気持ちになれた。
憂の後ろ側の壁に張り続けられている写真のうちの一枚に目がいった。
まぁ、きっと先輩なら許してくれるだろう。
写真の中の中学生の頃の笑顔と、目の前の憂の笑顔を同時にこの目に映しながら、
なんだかんだで私自身も始めからそうするつもりだったんだろうということに気づいた。
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梓「ういー。 したくできたー?」
憂「あ、梓ちゃん……。 も、もうちょっと待ってて……*」
梓「わかった。 ゆっくりでいいからね」
憂「うーん、ごめんねー」
憂の返事は既に意識が準備に向かったことを表していて、
普段はしっかり者の憂の気のない返事に
一人でクスクスと笑ってしまった。
今日も平沢家の両親は不在で、私と憂の2人だけだった。
普段、休日には用事を入れている私なんだけど今日のこの休日は憂と過ごそうと思っていた。
憂も憂で「たまには2人でお出かけでもしようか」と言ってくれたから
すんなりと2人でどこかに行くことが決まった。
憂と出かけるのはなんだか久しぶりで
妙に体がモゾモゾする自分をごまかせない。
憂「おまたせ。 ごめんね、待たせちゃって」
急いでいてもスリッパでパタパタとした音など立てない憂に
私は感心した。
振り向いて、憂を見て私はさらに放心した。
梓「……どしたの?」
憂は髪を下していた。
その姿はさながら姉のようで、
私はだらしなく顔をにやかしていたことだろう。
憂「急いでたら……切れちゃった……」
リボンって切れるものなんだなぁ、と思いながら、
お風呂上りと夜のベッドの中でしか見られない憂の髪を下した姿と普段着の見慣れなさに
クラクラとした。
憂「どうかした?」
梓「いや、なんでもないですっ。 じゃあ、いこっか」
憂「うん」
玄関のトビラを開くと、冷気が一気に吹き付けて来た。
言っても寒さは変わらないのにどうしてだか言ってしまうその一言を
私と憂は同時に吐き出した。
梓憂 「さむっ*」
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前日の晩、夜ご飯を食べながら私と憂はどこへ行こうかという計画を立てていた。
憂の作るご飯はどれもおいしい。 私の用事が終わってからだと、いつも夜ご飯は22時頃になる。
『夜は一緒に食べる』というのが、
私がこの家に住むにあたって憂とした約束だった。
その約束を私たちは忠実に守る。 約束を守るために行動していると言ってもいい。
用事が終わりしだいすぐに憂の家に直行。
寄り道なんてしない。
憂は毎日夜ご飯を作って私を待っていてくれる。
暖かい食事、憂との何気なに会話。 そのどれもが私の家族がもっていなかったもので。
私はその変化を嬉しく思いながら、それでもそう変化せざるを得なかった
私と憂自身の変化のムナシサに
たまにどうしようもなくなる。
憂「じゃあ、モールでお買い物でもしながらのんびりしよっか」
梓「そうだね。 ……あ、楽器店にも行きたいかも。 ギター、メンテ出してるから取りに行かないと」
憂「ギター? むったんは部屋にあるよね?」
梓「……憂、また部屋の掃除した?」
憂「あー……。あはは……」
テレビをつけていない部屋に憂の慌てた笑い声が響く。
梓「あははーじゃないよ! 部屋の掃除は自分でするからしなくていいっていつも言ってるのに! 」
憂「ご、ごめんね……。 でも……なんだか、ね」
梓「まぁ……。 部屋の掃除しない私が悪いんだろうけどさ」
憂「梓ちゃんは忙しいから仕方ないよ」
梓「忙しいのは憂も一緒じゃん」
憂「うーん。 でも梓ちゃんほど忙しくはないかなぁと自分では思ってるんだけどな」
そう言って、憂はお味噌汁をすすった。
「あちっ」という声が聞こえてきたけど、
反応する代わりに私もお味噌汁をすすった。
梓「たしかにちょっと熱いかもね」
憂「ひてて……。温めすぎたかも」
言いながら憂がウーロン茶を口元に運ぶ。
私はご飯とおかずを口に運びながら憂に目をやる。
お風呂上りに憂は髪をほどいている。
それが妙に際立って見えた。
憂「ん? 何かついてるかな?」
私の視線に気が付いて、コップを置いた憂が首元に手をやる。
慌てて否定しても、否定した分だけ私が思っていたことが憂に伝わりそうで
言葉がすぐに出てこなかった。
梓「あ……えっと……その……」
憂といると、たまに言葉に詰まる。
コピー機でコピー用紙が詰まってしまうみたいに。
そういう時、唯先輩が私にそうしてくれたように
憂は私の次の言葉を辛抱強く待っていてくれる。
私への親切心から来ているその行為が、
さらに私の言葉を喉の奥の方へ留まらせてしまうことを
この友人は知らない。
いや、そうじゃない。
私が意図して知らせまいとしているのだ。
内心はバレないうちにはやく言葉が出てきてほしい、と焦りにあせっているけど、
憂から見れば私はただ言葉を選んで考えているように見えているのだろう。
梓「いや、なにもないよ、うん。 あ、この魚、おいしーね」
憂「そう? よかった。 梓ちゃん魚好きだもんね」
梓「そうかな?」
憂「そうだよ」
そう言い切る憂が、親以外の他人が、
自分の好みを知っているということに口元がほころびそうになった。
憂といるとこういうあったかい気持ちが絶え間なく押し寄せる。
嬉しく思っていることを憂に知られるのが恥ずかしくて、
お味噌汁のお椀を手に取った。
憂「お出かけ、楽しみだな」
そんな追い打ちをかけてくるから、
たまらずにお味噌汁を一気に口に含んだ。
梓「あちっ!?」
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行きの急行電車の中は程よく混んでいて、世の中の休日というものの雰囲気の中に
私をあっけなく放り込んでくれた。
憂とはぐれないように、憂との距離を普段の私よりは短く保って
2人でドア付近に立って電車の中に居場所を作った。
憂はこういう時でもきちんとまっすぐと背筋を伸ばして
とても見た目的にも県的にも姿勢がよくてうらやましい。
そういうものが不自然に強制されたものではなく、小さい頃からの親の教育の賜物なのだろうなと思うと、
早速ドアに寄りかかって片足に重心をかけるような立ち方をしている私は、
端から見たらさぞかし見映えが悪いだろうなと思う。
憂「晴れてよかったね」
梓「そうだね。 駅までは歩いてて寒かったけど、
電車の中はあったかいからちょっと汗かいてきたよ」
憂「確かに、ちょっと熱いね」
そう言って、クスクスと笑い口元に手を当てて笑う憂を
私はほほえましく思いながら、
視線は身体の動きに合わせて揺れている首元まである薄い茶色の色素を見ていた。
今日はうまく憂を見ていることができそうにない。
そんなこと思っているうちに電車が目的の駅に到着した。
車両の大半の人がその駅のホームに雪崩れ込む。
改札口から出ると人の数はさらに多くなっていた。
はぐれないようにしないと、見失わないようにしないと。
そんなことを思っていると憂が私の左手を不意に掴んだ。
梓「うぇぇっ」
憂「ほら、はぐれちゃいけないから。 ね?」
梓「……う、うん」
あぁ、そうか手を繋いじゃえば気を張る必要なんてないんだ。
憂「梓ちゃんの手、あったかいね」
梓「憂の手は、つめたいね」
憂「じゃあ、2人で繋いでたらちょうどいい温度になるね」
モールは駅に直結していて、徒歩5分というアクセスの良さだ。
私は、こっちだよ、と先立ってくれる憂の後を追うように少し遅れて歩く。
懐かしい感じがして身体がぽかぽかするのは
きっと電車で暖まりすぎたせいだ。この角度から見える憂が唯先輩のように見えるからとか、
そんなんじゃない……そんなんじゃない。
そんなんじゃ憂にだって失礼だ。 唯先輩にだって失礼だ。
私がそういうめんどくさいことをごちゃごちゃ思っていると
今日の目的地にあっという間についてしまった。
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梓「はぁー、疲れたー」
憂「なんだかたくさん買っちゃったねぇ」
憂が私の前の席に腰かけて、抹茶ラテを一口飲んだ。
ゴクッという音が聞こえた。
憂「あちっ……」
梓「急いで飲むから……」
そう言って私もカフェオレを1口分ほど注意深く啜った。
梓「あつっ…...!!」
憂「自分だって同じことしてる」
梓「だ、だってぇ〜。 思ってたより熱かったんだもん」
憂「猫舌なの忘れて私にそういうこと言うんだから」
笑いながら憂は頼んだミルフィーユを器用に口へ運ぶ。
梓「ぬぬぬ……」
私はバナナケーキを一口分程に切り分けて口に放り込んだ。
憂「おいしい?」
梓「うん、まぁまぁ」
憂「よかった」
憂は食事のとき、私においしいかどうかを尋ねてくる。
たまにそう尋ねられる前に私が「おいしい」と感想を述べることもある。
そういうささやかなやり取りで憂は私の好みを記憶していくのだろう。
唯先輩とはまた別の暖かさ。
たまに実家に帰った時に、母から向けられる視線のような、そんな暖かさが胸に込み上げてきて、私は溺れそうになる。
でも、瞬きを一回でもしているうちに今日の憂は、
普段の憂とはまた別の笑顔のようなもので笑うから。
また別の感情に胸を満たされて溢れだしそうになる。
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ふと思う。
それはいつも夜寝る前にベッドの中で思っていること。
過去に戻れたらどれだけいいだろうってこと。
戻ったらそこには唯先輩がいて、ギー太を弾いて歌っている。
澪先輩が怒って律先輩を殴る。
ムギ先輩の淹れた紅茶がすべてをチャラにする。
そんな空間にいられてあの頃幸せだったけど、この気持ちのままあの空間に戻れたのなら、
今はきっとそれ以上に幸せな気持ちになれるんだろうな。
憂もきっと唯先輩の部屋から漏れてくるギー太と唯先輩の音を聴いて微笑むに違いない。
憂はそういう人だから。
他人の喜びを自分の幸せに変えられる人だから。
去年の今頃、憂はどんな風に唯先輩の音を聴いて笑っていたんだろう。
そういうの、知りたいなって思う。
唯先輩がギー太を弾いて、私がむったんを弾いて、憂がそれに微笑んで……
なんて素晴らしい世界なんだろう。 なんて、素晴らしい世界なんだろう。
隣で寝ている憂を起こさないように嗚咽をこらえて、
そんな妄想にくるまって私は毎晩ようやく眠りにつく。
それでもたとえなにかしらの具合でもってして過去に戻れたとしても、
私は私のままでしかいられないから、
同じように先輩たちの卒業をいい子ぶって見ていて、
終いには泣きながら先輩に吼え散らかしてなだめすかされて。
でも、それすらその場しのぎでしかなかったことを後で思い知らされて、
平沢家に転がり込むんだろう。
最終更新:2014年03月03日 00:41