梓と喧嘩した。

八月最後の日の夜。
律が自室で不機嫌な声を上げているのはそれが理由だった。
彼女のトレードマークのカチューシャを床に投げ出し、
外着からパジャマにも着替えず布団の中で獣の如き唸り声を上げる。
とは言え、小柄な彼女では贔屓目に見ても子犬程度の獣ではあったが。
しかし、子犬でも獣には違いない。
その程度には律は不機嫌で悔しかったのだ。


——どうしてこんな事になったんだっけ?


呻き声を止めずに、律は今日起こった出来事を思い返し始めてみる。
『自分の非を認めるため』とか、『梓に謝りたい』からなどといった理由からではない。
単に特に理由も分からずに何かに腹を立てているのが嫌になっただけだ。
喧嘩の根本的な原因が分かれば少しは落ち着ける。
そういう期待も少しはあったかもしれない。
無論、それは淡い期待でしかないと律自身も分かってはいたのだが。

八月三十一日。
律は梓と二人で街に遊びに行った。
普段であれば軽音楽部の全員で遊ぶのが常套だったが、今日に限って梓以外の予定が空いていなかったのだ。
それに関しては他の部員の薄情を責めるより、律自身の気楽さこそ責められて然るべきだった。
八月三十一日——つまり、夏休みの最終日だ。
単なる最終日であれば他の部員達も遊びに付き合ってくれただろうが、今年だけは事情が違っていた。
何せ今年の律達は高校三年生——受験生なのだから。
受験の天王山と呼称される夏休みの最終日に遊び回る胆力は、他の部員達には流石に無いらしかった。

試験週間でも遊びに付き合ってくれていた唯なら遊んでくれるのではないか。
律は若干そう期待していたのだが、残念ながらそれも叶わなかった。
どうやら幼馴染みの和に引っ張られて図書館で勉強しているらしく、
これで同級生の部員の予定が受験勉強で全て埋まってしまったわけである。
そういった理由で律が遊び相手に最後に選んだのが梓だった。

中野梓。
律より学年が一つ下の小柄なギタリスト。
子供っぽいツインテールの髪型や小柄な外見に似つかわしくなく、
根は真面目であまり熱心に活動しているとは言えない部をある意味で引っ張ってくれている。
そのため、基本的に単純で不真面目な律もよく梓に叱られているが、律はそんな梓が嫌いではない。
何だかんだ言いながらも波長が合い、律の思い付きに付き合ってくれる事も好感が持てた。
そんな梓ならば突然の誘いにも乗ってくれるはずだ、と梓に連絡したのが昨日の事である。


——律先輩、本当に受験勉強しなくても大丈夫なんですか?


本当に心配しているのか、それとも呆れているのか。
そのどちらなのかよく分からない口振りながらも、梓は遊びに行く約束を了承してくれた。
予定が無くて暇だし、次の日も日曜日だからですけど、という前置き付きではあったが。
相も変わらず生意気な後輩だったが、律はあまり気にはしなかった。
梓が生意気なのは普段通りの事ではあったし、それよりも律には梓の真面目さが嬉しかった。
真面目な梓の事だ。
きっと夏休みに入ってすぐに宿題を全て終わらせていたのだろう。
そのおかげで律は心置きなく夏休みの最終日に思い切り遊ぶ事が出来るわけだ。
正確には九月一日も日曜で休日なわけだが、それはともかく。


——おう、いらっしゃい、梓。


そう言って梓を自宅に迎えたのは今日の午前十時頃の事だ。
昨日の電話では遊びに行く場所はあえて決めず、当日に律の自室で会議しようという事にしていたためである。
勿論、計画を立てる事すらも楽しみたいと思ったからだ。
勉強などの計画を考えるのは苦手な律だが、遊ぶ計画を考える事だけは大好きだった。
何処でどう遊んでどう楽しむか。
それを考えるだけで胸が躍った。

実際、梓と遊ぶ計画を立てるのは楽しかった。
梓と律の門限の限界まで遊ぶにはどうしたらいいか。
何処をどう回れば無駄なく遊べて楽しめるか。
どの店で昼食を食べ、どの甘味処で休憩するべきか。
乗り気ではない素振りを見せていた梓ですら、見る見る内に楽しそうな笑顔を浮かべるようになっていた。

昼前に計画を立て終えて街に遊びに行ったが、勿論それもとても楽しかった。
回った場所自体は部の皆で普段遊ぶ場所と大差無かったが、それでも十分楽しめた。
十分過ぎるくらい笑い合えた、と律は今日の出来事を思い出して微笑む。
昼食は美味しかったし、体重が気になるくらいに三時のおやつも楽しんだ。
ゲームセンターで二人とも真剣になって争い、特にリズムゲームでは白熱した。
ほんの少しだけ自分が受験生であるという気掛かりはあったが、それでも梓と遊んでいて楽しかった。
律自身も自分が遊んでいる場合でない事は十分に理解している。
受験勉強をして大学に入学し、自らの将来について考えなければならない事も。
それでも、律は遊びたかったのだ。
部の皆……、いや、梓と。

梓は後輩だ。
律は上級生で、何をどうしても梓を置いて卒業する事しか出来ない。
梓を一人きり、部に残してしまう事になる。
それはどうする事も出来ない事かもしれないけれど、せめてもの抵抗はしてやりたかった。
せめて梓の胸の中に楽しい思い出を残して、卒業したかったのだ。
だからこそ、律は今日梓と遊べて満足だった。
梓に少しでも思い出を残せてやれたと思えたからだ。

だが、その満足は長くは続かなかった。
夕刻、律達はドーナツ屋でいくらかのドーナツとジュースを注文し、最後の休憩を取っていた。
ドーナツを食べ終え、梓を自宅まで送れば立てた計画は全て終わり、満足して家に帰れるはずだった。
しかし、そう上手くはいかなかったのだ。
発端は些細な事だった。
ドーナツを食べている途中、梓がトイレに立った。
昼間は遊び回ってトイレに行く時間もそう無かったから、それは無理もない事だった。
律は梓を待っている間、手持ち無沙汰に注文したジュースのストローの袋に水を垂らして遊んでいた。

が。
そんな単純な遊びが長い時間続くはずもない。
すぐに律は暇を持て余して、最後に残っていたドーナツに手を伸ばした。
二人でドーナツを何個ずつ食べたかは記憶してないが、
別にどちらかが一つ多く食べたくらいで梓も気にしないだろう。
そう律は簡単に考えていた。

結論から言おう。
勿論、簡単には済まなかった。
最後に残されていたドーナツはやはり梓の物で、それから梓は妙に律に突っ掛かった。
悪いのは自分の方である事は間違いないのは律も分かっていた。
だからこそ、最初は梓の小言に近い言葉も黙って聞いていたのだ。
やれ律先輩はいつも適当だの、やれ律先輩はいつもいい加減だの、そんな小言にも何も言い返さなかった。
悔しいが概ねその通りだと自覚していた。

けれど。
不意に梓が口から出した言葉だけは、黙って聞いている事が出来なかった。
それだけは出来なかった。


——こんな事なら、家でのんびりしておいた方がよかったですよ。


その言葉を聞いた時、律は自分の胸が激しく痛むのを感じた。
泣き出してしまいたくなるくらい、辛かった。
今日の何もかも全てが無駄にされてしまった気がしたのだ。
律のその表情の変化に気付いたらしく、梓の表情が青冷めたものに変わった。
梓もそんな言葉を口に出すつもりはなかったのだろう。
ただ勢いで言ってしまっただけなのだろうという事くらいは、律にもよく分かっていた。
だが、頭で理解する事と、心で理解する事は似ているようで異なっている。
頭ではこんな事をするべきでないと分かっていながらも、律は気が付けば立ち上がって言い放ってしまっていた。


——ああ、そうかよ! 無駄な時間を過ごさせて悪かったよ! じゃあな!


言い放ってすぐ、律は梓を置いて駆け出して行く。
ドーナツ屋の自動ドアを飛び出し、自宅まで一気に走り抜ける。
バスを使った方がいい距離だが、そんな事を気にしてはいられなかった。
ただ何も考えずに走って自室に飛び込みたかった。
胸に感じる痛みともどかしさでどうにかなってしまいそうだったのだ。

そうして、律は自室に帰って布団の中に飛び込み、
数時間以上もそのままの体勢で唸り続け、現在に至っている。


「うー……、くそー……。
何なんだよー……。何でこんな事になっちゃったんだよー……!」


何度目になるか分からない呻き声を上げる律。
今日一日の事を思い出してみた所で、やはり落ち着けるわけでもなく苛立つだけだった。
それ以上に悔しかった。
今日は本当に楽しかった。
梓と計画を立てて、二人で遊ぶのは凄く楽しかったのだ。
ドーナツの件で喧嘩した事以外、ほぼ完璧だったと言ってもいい。
だからこそ、悔しい。やるせなくて仕方が無い。
あの喧嘩さえなければ、完璧な一日だったのに。
あの喧嘩さえなければ、梓に最高の思い出をプレゼント出来たのに。


——どうにかあそこだけやり直せないもんかなあ……。


そんな事は不可能だと分かってはいるが、律はそう願わざるを得なかった。
こんな最悪な思い出を抱えて卒業したくない。
こんな最悪な思い出を持った梓を一人になんか出来ない。
この先、梓とどんな顔して会えばいいってんだ……。
そもそも、何で梓はドーナツの事であんなに怒っちゃったんだよ……。
布団の中で胎児のように丸まって、律はまた呻き声を上げた。

こう見えて、律は誰かと尾を引く喧嘩をする事には慣れていないのだ。
幼馴染みの澪とはよく喧嘩をしてきたが、喧嘩した時はすぐに謝ってすぐに仲直り出来ていた。
何度か尾を引いた事もあったが、長い付き合いだけあって何とか仲直りする事が出来た。
だからこそ、律は不安だった。
今まで梓を不安にさせた事はあったし、怒らせたり泣かせたりしてしまったも何度かあった。
しかし、それは律本人と言うよりは軽音部全体に対しての事であって、
思い返してみれば、梓と一対一で喧嘩してしまった事などこれまで無かったのだ。
梓との付き合いも、始まってまだ一年と少ししか経っていない。

仲直り出来るだろうか? と律は不安になる。
梓があんなに怒ってしまった理由も分かってない自分にそれが出来るのか。
大体、自分はそんなに悪い事をしてしまったんだろうか。
ドーナツを一つ多く食べられてしまう事が、梓にとってそんなに嫌な事だったのだろうか。
考え出すと止まらず、不安に苛まさせられ、律はまた妙な呻き声を出してしまう。


「あー、もーっ!
今日の喧嘩、無かった事になんねーかなー……!」


軽く叫び、寝苦しい熱帯夜だと言うのに、律は更に布団の中に潜り込んでしがみ付いた。
何かにしがみ付いていなければ、不安で大声で叫び出してしまいそうだった。
不器用この上ないが、それが田井中律という少女なのだった。
そして、考え疲れた律はいつしか眠りに就く。
これから先、自分の身に起こる出来事など思いも寄らずに。




玄関のチャイムの音が響いている事に気付いたのは、律が眠りに就いてすぐの事だった。
こんな夜中に何だよ、と思いながら目を開いてみて、律は驚きを隠せなかった。


「マジかよ……」


思わず口から声が漏れる。
それくらい信じ難い光景が目の前に広がっていた。
いや、実を言うとそれほどでもないのだが、驚くには十分な光景ではあった。


「もう朝かよ……?」


そうなのだ。
つい先刻、考え疲れて眠ってしまったはずなのに、
カーテンの隙間からはもう朝陽が差し込んでいたのである。
熟睡し過ぎだろ、と律は我ながら自分に呆れてしまう。
そんなに疲れてしまっていたのだろうか。

首を捻りながら上半身を起こしてみて、律はまた驚いた。
いつの間にかパジャマを着ていたからだ。
外着のままで眠ってしまったはずだが、いつの間にか寝惚けて着替えていたのだろうか。
今までの人生で一度も無かったというわけではないのだが、久し振りに起こった事だけに面食らった。


「私ってそんなに梓の事で頭がいっぱいだったってのか……?」


苦笑しながら頭を掻いていると、また玄関のチャイムが鳴った。
どうやら自宅には律以外誰も居ないらしい。
昨日は家族全員が何処かに外出していたはずだが、今日も何処かに行っているのだろうか?
ひょっとしたら、梓の事ばかり考えていたから家族の予定を聞き逃してしまったのかもしれない。
律はそう考えて寝起きの姿のままで、自室の扉を開いた。


「はーい、ただいまー」


大きめの声を上げて、玄関に向かう。
パジャマのままで来客を迎えるのはどうかとも思いはしたが、
何もネグリジェを着ているわけではないし、
何度もチャイムを鳴らしてくれている相手をこれ以上待たすのも失礼というものだろう。
律はそう考えながら、玄関扉の覗き穴から来客の姿を確認てみて、思わず息を呑んだ。


「……えっ?」


吐いた息と同時に疑問の声が漏れる。
確かに今日は日曜日だ。
休日なのだから、彼女が訊ねて来る可能性は確かにあった。
それでも、まさかこんなにも早く訊ねて来るとは思ってもみなかったのだ。

玄関扉の覗き穴の先には彼女——梓の姿があった。
昨日、喧嘩をしたばかりだと言うのに、
電話で話をしてもいないのに、まさかまた直接会いに来るなんて……。
予想だにしない事態に律の鼓動の速度が増していく。


——私はどうすりゃいいんだ?


逡巡、戸惑い、躊躇、多くの迷いの感情が律の脳内を駆け巡る。
いくら何でも言葉が全く用意出来ていないのだ。
どう対応するべきか想像も出来ていないのだ。
こんなの急過ぎる……。
しかし、律は玄関の鍵をいつの間にか開いていた。
何を言えばいいのか分からない。
何が出来るのかも分からない。
それでも、何かをするべきだという事だけは、心の何処かで分かっていたからだろう。
例え現状よりも事態が悪化してしまうとしても。


「よ、よう、梓……」


玄関の扉を開いて、梓を出迎える。
だが、律はそれ以上の事が出来ていなかった。
視線を合わせる事どころか、顔を向ける事すら出来ていない。


——何を言えばいい? 謝るのか? 梓が何であんなに怒っていたのかも分からないのに?


息が苦しくなる。
舌の根が渇いて喋り出す事が出来ない。
梓の表情を確認するのが怖い。
そうして律が何も言えずに躊躇い続けていると、不意に梓の大きな声が響いた。


「もーっ! 律先輩ったら!」


それは梓の怒気交じりの声だった。
それは律の予想していた物ではあったが、予想とは声色が全然違っていた。
昨日聞いた梓の怒りの声とは全く違っていたのだ。
昨日の梓の声が本気の怒りだとしたら、今の梓の声は普段律達を叱る声に似ていた。
律は視線を恐る恐る梓の顔に向けてみる。
向けた先で梓は律が想像していたものとは全く違う表情を浮かべていたのだ。
目の端を釣り上げながらも、軽い苦笑交じりの優しい表情を。


「あ、梓……?」


おずおずと律は梓に訊ねる。
予想とも想像とも違った展開に、脳が追い着けていないのだ。
律は梓が怒っていると思っていた。
最低でも不機嫌な表情を自分に向けるものだと思っていた。
だが、今はどうだ?
声こそ怒ってはいるが、微笑みまで浮かべている。
もう怒ってはいないのだろうか。
昨日の梓の怒りは何かの間違いだったのだろうか。


「怒って……ないのか……?」


律が訊ねると、梓が笑顔のままで頬を膨らませ、顔を横に向けた。
怒ってます、という演技をしているのは、一目瞭然だった。


「怒ってますよ。今、何時だと思ってるんですか。
昨日、律先輩が指定した時間なんですよ?」


「昨日……?」


「あ、まだ寝惚けてますね。
ほら、ちゃんと自分の目で確かめてみて下さいよ」


言って、梓が手提げ鞄の中から見慣れた携帯電話を取り出した。
時間が表示された液晶画面を律の方に向ける。
律は事態をよく呑み込めないまま、言われるままに画面に視線を向けた。
液晶画面には大きくAM10:07と表示されている。
そして、その時間表示のすぐ上には小さく……。


「……はっ?」


律は思わず間抜けな声を上げて、それ以上の事が出来なくなった。
液晶画面の時間表示のすぐ上に表示されていたからだ。
表示されていた数字は、


8.31


今日が八月三十一日である事を示す数字だ。


*}


——八月三十一日?


見間違えたのかと思い、二度三度と確認するが、
その携帯電話の数字が変わる事は当然ながら無かった。
最後にもう一度だけしつこく目を擦り、律は梓の携帯電話の画面を確認してみる。
しかし、やはり表示されていた数字は、変わらず『8.31』のままだった。


——どういう事だよ?


律は首を傾げてその場で硬直してしまう。
先日、律は梓と二人で繁華街を遊び回ったはずだ。
昼食を食べ、馴染みの喫茶店でおやつを食べ、ゲームセンターに行った。
帰る直前、ドーナツ屋でよく分からない内に言い争いになり、喧嘩別れをしてしまった。
一日どころか半日前の事なのだ。
忘れるどころかはっきりと憶えている。
いや、頭で憶えているだけでなく、全身がまだ感覚として記憶しているのだ。
街中で引っ張った梓の手の温かさ、くっついて遊んだリズムゲーム。
梓と喧嘩別れしてしまった胸の痛みに至るまで、完全に記憶している。

だが、携帯電話の液晶画面には表示されてしまっているのだ。
『8.31』と。
今日が八月三十一日である事を示す数字を。


「ちよっと……、律先輩?
本気で寝不足なんですか? 大丈夫ですか?」


律が沈黙していたのを不安に思ったのか、
それとも、単に呆れただけなのか、梓が訝しげに訊ねた。
律は何も言葉に出来ず、反応すらも出来なかった。
元より難しい事をあまり考えないようにして今まで生きて来た律なのだ。
難解な事柄を考えた時には知恵熱が出て寝込んだ。
自分は考えるよりも感情のままに行動するべきなのだと、それを指針として生きて来た。
そんな律にとって、現在自分が置かれた状況は理解不能にも程があった。


「本当に大丈夫なんですか?
顔色が悪いですよ? ひょっとして寝不足じゃなくて体調が悪いんじゃ……」


一度目の問い掛けこそ冗談交じりではあったが、
今回の言葉こそは心配の声色が混じった真剣な声色だった。
あまりにも律が黙り込んだままなので、流石にこれは異常事態なのだと察したらしい。
梓が身を乗り出し、律の額に自らの右手を重ねようとする。
律の体温を自らの手で計るつもりなのだろう。
だが、律はその梓の右手首を取って、梓の行動を遮った。
律にも梓が自分を心配してくれているのは理解出来ていたが、何となくその厚意に甘え切れなかったのだ。
その理由は律自身にも分かり切ってはいない。
もしかすると、先日——記憶の中の先日——梓と喧嘩してしまった事に負い目を感じていたからかもしれない。
結局、律に出来たのは、力無く微笑んでみせる事だけだった。


「あ、ああ、悪い、梓、大丈夫だよ。
今日、梓と遊ぶのが楽しみで、ちょっと寝不足だったんだよなー」


「私と遊ぶのがそんなに……?」


可愛らしく結ばれているツインテールを揺らして、梓が首を傾げる。
照れているわけではなく、恥ずかしがっているわけでもなく、
単に疑問に思っての言葉だという事は律にもすぐに分かった。
ちょっと自分らしくない発言だったかもな。
そう思った律は梓の手首を掴んでいた手を離して、その手を梓の頭の上に置いた。


「そりゃそうだろ。
最近は澪もムギも、唯ですら勉強ばっかで遊んでくれないんだぜ?
こうやって誰かと一緒に遊べるのはすっげー久し振りなんだよ。
例えその相手が部活の暇してる後輩だって嬉しくて、楽しみになっちゃうもんだよ」


あんまりな軽口だったかもしれない。
しかし、いつもの事だと思ったのか、梓は苦笑して肩を竦めた。


「だと思いました。
でも、律先輩、やっぱりちょっと顔色が悪いですよ?
朝ごはん食べてないんじゃないですか?」


言われてみるとその通りだった。
異常な状態に気を取られていて気が付かなかったが、
言われて初めて激しい空腹感が自分を襲っている事に律は気付いた。
逆に言えば、それほど混乱してしまっていたという意味でもあるのだろう。


「確かに朝ごはんはまだだったな……。
んじゃ、ちょっと腹ごしらえしてくっかな。
朝っぱらから呼んどいて悪いな、梓。
ちゃっちゃと食べちゃうから、居間でちょっと待っててくれるか?」


律が頭を下げながら言うと、梓はまた肩を竦めて笑った。
その仕種は『別に構いませんよ』と言ってくれているように律は思った。
律に迷惑掛けられる事など慣れているという事なのだろう。
それはそれで先輩としてどうなのかな、とも律は思ったが、
梓がそんなあまりいい先輩とは言えない自分を笑顔で受け入れてくれる事が嬉しかった。
大した先輩じゃないかもしれないけど、梓には出来る限り笑顔のままで居させてやりたい。
それが梓という後輩が出来た時から心に隠している、律の変わらぬ望みなのだから。


——でも、どういう事なんだ?


先刻、梓の携帯電話に表示されていた数字を思い出して、律は首を捻る。
八月三十一日を示す数字。
梓の時刻設定が間違っているのでなければ、今日は八月三十一日なのだろう。
記憶の中では確かに過ごしたはずの八月三十一日。
梓にからかわれているのかとも思わなくもないが、
自分ならともかく、元々梓はそんな事をするようなタイプでも無い。
昨日の喧嘩の仕返しというわけでもないだろう。


——夢……か?


結局、律は現在の異常事態をそう結論付ける事しか出来なかった。
他にどうしろと言うのだろう。
時間が巻き戻っていると考えろとでも言うのだろうか。
非現実的な漫画やドラマが嫌いではない律ではあったが、
流石に自らが置かれた状況まで非現実的な劇作に当て嵌められる程、夢見がちな性格でもなかった。
腑に落ちない事は当然大量にある。
だが、だからと言って、その疑問についての判断材料も少な過ぎた。
だからこそ、律は結論付ける事しか出来ないのだ。
これは別に異常事態でも何でもない。
梓と遊んだ記憶は単なる非常にリアリティのある夢だったのだと。
そうだと考えなければ、どうにかなってしまいそうだったのだ。
もしも時間が本当に巻き戻っているのだとしたら、ひょっとすると……。

それを考えたくはなかった。
考えてはいけないのだと律は思った。
だからこそ、律は笑顔で梓の背中を押して居間に脚を進めるのだ。
夢と同じ結末を迎えない、楽しくて気持ちのいい八月最後の日を過ごすために。
梓と一緒に楽しむために。楽しんでもらうために。


「おはようございます!
今日は八月三十一日の土曜日です!」


田井中家の居間。
朝食を用意する間、梓に暇をさせないように律が点けたテレビの画面の中。
見慣れた朝のワイドショーのレポーターは、普段通り何事も無くそう宣言していた。


2