*
「今日は妙に手際がいいですね、律先輩」
目的の店で昼食を食べ終わり、一息吐いた頃に不意に梓がそう呟いた。
軽口極まりない発言だったが、どうやら梓なりの褒め言葉らしい。
それは分かっていたのだが、律はお約束的に口を少しだけ尖らせてから反論してみせた。
「今日はって何よ、今日はって。
可愛くない後輩ね!」
「だって律先輩、いつも行き当たりばったりだし……。
この前だって、律先輩がお店に予約が入れ忘れてて、
食べる予定だったごはんを食べられなかったじゃないですか。
私、あのお店のグラタン、楽しみにしてたんですよ?」
「まあ、あの時、予約忘れてたのは私の責任だけどさ……。
でも、そのおかげで隣の店で美味しいうどんを食べられただろ?
突然のアクシデントにも柔軟な対応が出来るなんて、流石は私!」
「自慢げに言う事ですか……」
梓は呆れ顔でそう呟いたが、
すぐ後に「まあ、美味しいうどんでしたけどね」と小声で付け加えた。
フォローのつもりだったのかもしれないが、小声なのが何とも梓らしい。
基本的に梓は自分の本心を隠しがちだと律はいつも考えている。
自分が後輩という遠慮と照れもあるのかもしれない。
入部して来た当初など、梓との付き合い方が上手くいかず律はかなり苦心した。
下手をすれば梓が退部してしまうかもしれないという危機的な状況に陥ってしまった事もある。
それは梓と他の部員の接し方に温度差があったからこそ、生じてしまった問題だった。
付き合いの浅さから、お互いに遠慮と戸惑いがあって、本心を伝え合う事が出来なかったのだ。
結果的に梓が退部する事こそ無かったものの、
その騒動以来、律は梓にもっと素直になってほしいと考えるようになった。
だからこそ、多少図々しいかもしれないと思いつつも、梓に自分の本心を見せるようになったのだ。
楽しみたいと思った時には無理矢理にでも巻き込み、
からかいたい気分になった時には全身全霊の本気でからかいに掛かってみせる。
部長としてはあまり褒められた行動ではないのかもしれないが、それでいいのだと律は信じている。
もう自らの本心を隠すような事はしないのだと。
例え仲違いする事態になる事があったとしても、その時も本心のままにぶつかるべきだと。
律がその決心を持ち続けたためか、梓もかなり遠慮なく本心を見せるようになってきていた。
下らないからかいをした時にはおざなりな反応と呆れ顔を見せるし、
何らかの失敗をしてしまった時には、遠慮の無い生意気な軽口を叩く。
ちょっと生意気になり過ぎじゃないか、と思う事もたまにはあるが、律はその梓の変化が嬉しかった。
先輩と後輩というよりは同い年の友人のようだが、それで構わなかった。
それが仲間になっていくという事なのだと思えたからだ。
——でも、こればっかりはな……。
思いながら、梓に気付かれないように小さな溜息を吐いた。
梓は先刻、『今日は妙に手際がいいですね、律先輩』と言った。
生意気極まりない発言ではあったが、本音を言うと律自身も同じ考えだった。
こんなにすんなりと物事が運ぶ事など、今までの人生でそう経験した覚えが無い。
今日、律達は遊ぶ場所に迷う事も無ければ、目的の店にも並ばずに入店する事が出来た。
梓の好物が載っているメニューのページを即座に開いて手渡す事も出来た。
初めて入った店のはずだというのに、梓がトイレに行こうとした際に案内する事も出来た。
自分で自分が怖くなるくらいの手際の良さだった。
手際がいいのも当然だった。
何故なら、律はこの店に記憶の中の昨日——いや、夢か?——で訪れているからだ。
まさかと思いながらこの店に入店してみた時、正直、律は背筋が凍り付きそうになった。
記憶の中の店と寸分違い無い間取りで、メニューまで記憶そのままだったからだ。
記憶の中では昨日の出来事なのだ。
忘れっぽい性格の律とは言え、それくらいの事ははっきりと記憶している。
——やっぱり、時間が一日巻き戻ってるってのか?
そう考えそうになったが、律は慌てて首を振ってその考えを振り払う。
時間が巻き戻るなど、ドラマや漫画の中だけの出来事だ。
ひょっとすると、世界の何処かで誰かの時間が巻き戻っている事はあるのかもしれない。
科学で全てを解明出来ているわけでは無いのだし、そんな現象が起こらないとも言い切れない。
だがしかし、そんな奇怪な現象が自らの身に起こるとは、律にはどうしても思えなかった。
自分で思う事ではないのだが、律は自らをかなり一般的な人間だと思っている。
単に音楽とドラムが好きなだけの普通の女子高生だ。
単なる軽音部の部長なのだ。
霊感があるわけではないし、超常現象に遭遇した事だって一度も無い。
時間が巻き戻るなどという超常現象に遭遇するのは、
もっと人並み外れた性質や感性の持ち主——例えば唯とか——のはずなのだ。
だからこそ、律は時間が巻き戻っていない事を証明するために、
記憶の中の昨日に訪れた店に繁忙時間帯を避けて訪問してみたのだ。
記憶の中の繁忙時間帯を避けて、混雑にぶつかればそれだけで時間が巻き戻っていない証明になる。
もしも店内が混雑していなかったにしても、
店の間取りが記憶と異なっていれば、全てを夢で片付けられると思ったからだ。
だが、結果は見ての通りだった。
梓に珍しく手際がいいと褒められてしまうくらい、何もかも記憶の通りだった。
これはどういう事なのだろう、と律は思わず呻き声を漏らしてしまう。
やはり時間が巻き戻ってしまっていると考えるべきなのだろうか。
それとも、何か他の超常現象が起こって——?
実際問題、そう考えてしまった方が楽ではあった。
証明出来ない問題にはとりあえずにでも結論付けてしまった方が安心も出来る。
そうした方が恐らくは利口なのだろう。
それでも。
律はやはりそう出来ないのだった。
単純に結論付ける事は逃げのような気がして嫌だったのだ。
——梓に相談してみるか?
目の前でグラタンを美味しそうに食べている梓を見ながら、律は考える。
こんな複雑な問題を自分一人で考えても、最善の答えを出せるとは思えない。
ならば、いっそ——?
いや、と律は再び首を振ってその考えを否定した。
言って、どうなる?
相談して、どうする?
律自身がはっきり捉えられていない問題を相談されても、梓は困ってしまうだけだろう。
普段のようにからかってるだけだと思われても仕方が無かったし、
信じてもらえたとしても白昼夢か既視感だと諭されるのが関の山だ。
梓だけでなく誰だってそうするだろうし、恐らくは律自身だってそうするはずだった。
既視感と言われてしまえば、それで納得するしかない。
例えば単に律が記憶していないだけで、
中学時代にでも幼馴染みの澪と一緒に、この店に訪れた可能性だってあるのかもしれないのだから。
故に律は現在自らを取り巻く超常現象をあまり気にしない事に決めたのだ。
例え時間が巻き戻っているとしても、それにさして不都合があるわけではない。
むしろ助けられている節さえある。
現に昨日の記憶を参考にしたおかげで、この店の繁忙時間帯を避ける事が出来た。
梓も珍しく律の手際の良さを褒めてもくれている。
ならばこそ、この現象には何の不都合も無い。
そのはずだ。
不都合が生じるとすれば、恐らくはこれから先——
「律先輩……?
本当に大丈夫ですか?」
いつの間にかグラタンを食べ終えていた梓が、そう言いながら律の額に右手を伸ばしていた。
また律の体温を手のひらで計ろうとしているのだろう。
律もそれに気付いてはいたが、その梓の手のひらを避けてから言った。
「大丈夫……、って何がだよ?
私は元気百倍元気玉だぜ?」
「いえ、それならいいんですけど……。
でも、律先輩、朝からちょっと調子が悪そうだから気になってしまって……」
梓が心配そうな表情を浮かべて、その右手を引っ込める。
律が手のひらを避けた事に対して、悪い感情を抱いたようには見えなかった。
自分を純粋に心配そしているだけの表情に、少なくとも律には見えた。
その事に安心しながら、律は穏やかな微笑みを浮かべて続ける。
「心配してくれてサンキュな、梓。
でも、心配しなくても平気だよ。
朝に寝不足って言っただろ?
実はさ、今日、梓を上手くエスコートするために、徹夜で計画を立ててたんだよ。
それでちょっと疲れちゃってるように見えるだけだと思うぞ?」
それは嘘ではあったが、とてもそれっぽい嘘でもあった。
そう考えれば、律の今日の手際の良さにも、
律の調子が悪そうに見える事にもとりあえずの説明が付く。
一応は理に適った言葉だったおかげか、梓は律の言葉を素直に信じたようだった。
軽くとだけ頬を赤く染めると、律から視線を逸らして呟くように言った。
「私のために徹夜してたなんて言われても……。
まあ……、嬉しいですけど……」
どうやら少し照れてしまったようだった。
普段、ふざけているように見えるだけに、律の小さな思いやりが照れ臭いに違いない。
律は梓が自分の嘘を信じてくれた事に少しの胸の痛みを感じながらも、
梓に気取られないように軽く頷いてから強く決心した。
この現象が何なのかは分からないけれど、幸運だったと考えようと。
記憶の中の昨日、律は梓を完全に楽しませてあげる事が出来なかった。
この店の混雑にぶつかってしまった事を筆頭に、
ゲームセンターで梓の欲しがっていたぬいぐるみをUFOキャッチャーで取る事が出来なかったし、
何より帰り道に寄ったドーナツ屋でこれまでにない大喧嘩までしてしまった。
記憶の中の昨日の出来事は、律の中に気持ちの良くないものを残した。
いや、それよりも何よりも、梓に大切な思い出を作ってあげる事が出来なかった。
記憶の中の昨日は、間違いなく律達にとって最悪の日だったのだ。
だからこそ——。
「私の事はともかくさ、今日は楽しもうな、梓!」
律は自分に出来る限りの笑顔を浮かべて梓に宣言した。
そうだ、楽しんでやろう、と律は思った。
二人で楽しんで、梓に最高に楽しい思い出を作ってやるんだ。
それが私の一番やりたかった事なんだから。
この現象が何なのか見当も付かないけど、こうなったら上手く利用してやろうじゃないか!
まずはドーナツ屋で梓のドーナツを勝手に食べないようにして……、
いや、そもそもドーナツ屋に寄らずに、他の店で休憩してやれば全部解決だ。
そうすれば、きっと梓の心の中に大切な思い出を作ってやれる——!
「な、何ですか、いきなり……」
律の妙なやる気に梓は気圧された表情を浮かべたが、
すぐに普段のクールぶった表情になって肩を竦めて返した。
「そりゃ、私も今日は楽しむ気ですよ、律先輩。
折角の八月最後の日なのに、部の先輩に連れ回されるなんて思ってませんでしたもん。
こんなの楽しまないと夏休みの無駄遣いじゃないですか。
ちゃんと思い切り楽しませて下さいよ、律先輩?」
「言ったな、中野ー!」
軽く叫ぶと同時に、律は笑顔で梓の頭をくしゃくしゃに掻いてやる。
相変わらずの生意気な発言だったが、これでいいのだと律は思った。
何もかもこれでよかったのだ。
形はどうでも、方法はどうでも、梓と本当に楽しい一日を過ごすのはこれからなのだ。
ひょっとしたら喧嘩などしない一日をやり直させるために、この不思議な現象が起こったのかもしれない。
何の根拠も無いけれど、そうだといいなと律は強く強く思った。
*
家のチャイムの音が鳴る。
「……何となく分かっちゃいたけどさ」
ベッドの中。
身を起こした律は頭を抱えて呻くように呟いていた。
昨日は本当に楽しかった。
楽しかった記憶を今でもはっきりと思い出せる。
ドーナツ屋で梓と喧嘩しなかったし、そもそもドーナツ屋ではなくケーキ屋に行った。
梓の欲しがっていたぬいぐるみも、予算オーバーを無視して取ってあげた。
今度こそ最高の一日を過ごせたはずだった。
別れ際、梓も満開の笑顔を浮かべて手まで握ってくれた。
それくらい梓にとっても最高の一日のはずだった。
しかし——。
見たくなかった現実は、見ないようにしていた現実は、やはり訪れてしまっていて。
自分の見通しが甘かったのだと律は実感させられてしまうのだった。
チャイムの音が鳴っている。
聞き慣れたチャイムの音が鳴り響いている。
溜息混じりに律は開いた自分の携帯電話に、もう一度視線を落としてみる。
何度も見返しても同じ。
何度開け閉めしても同じ。
分かり切った数字が、液晶画面に無慈悲に表示されていた。
表示されていた数字は勿論、
8.31
*
不思議と呆然とはしなかった。
どんなに理不尽だろうと受け容れざるを得ない事態に直面した時、
人は酷く冷静になってしまうという話をよく聞くが、そういう事なのだろうかと律は考える。
怯えようと泣こうと叫ぼうと、どんな事態も進展しないのだ。
無論、泣き叫ぶつもりなど毛頭無いが。
今は、まだ。
その程度には、律は冷静だった。
だが、冷静だからと言って、動揺していないわけではない。
携帯電話を握り締める手も心なしか震えている。
背中を寝汗ではない冷たい嫌な汗が背中に流れるのを律は感じる。
速度を速めていく心臓の鼓動。
酷く息苦しい。
混乱の思考の沼に呼吸すら辛くなる。
不意に律は枕元に置いていたドラムスティックを強く握り締めた。
ドラムを始めて以来、否、ドラムを始める前から付き合っているスティックの一つだ。
過去の時分、律はドラムを始める事を決心したのだが、
所詮は中学生の身、中古のドラムすら購入する資金を持ち合わせていなかった。
故に律はドラムスティックを先に購入し、ドラムより長く愛用している。
大切な相棒のドラムよりも長い付き合いのドラムスティック。
片時も離れず——とまではいかないが、購入して以来、
ほぼ毎日握り締めていた日常の欠片の象徴を手に取る事で、
律は酷く鼓動する己の心臓の速度を多少は緩めさせる事が出来たのだった。
「落ち着けー……。
落ち着いて考えろよ、私ー……!」
間の抜けた光景だと自分でも思いながらも、律は自らに言い聞かせる。
癖と言う程ではないが、自分が動揺した時、律は自らに呟いて言い聞かせる事が多々あった。
顧問の
山中さわ子の予想を超えた暴走に巻き込まれた時、
理解し難い唯の天然に塗れた発言に呆れ返された時などに、律はよく己に言い聞かせている。
大丈夫なのだと。
動揺したり戸惑ったりする必要は無いのだと。
そうする事で、律はこれまで何度も平静を取り戻して来たのだ。
だが、それは裏を返せば、それだけ突然の事態に動揺し易い性質という事でもある。
律自身もそれは自覚している。
普段は軽音部を牽引する部長の立場であり、
順風満帆とはとても言えないものの、それなりに上手く振る舞えてはいたはずだ。
しかし、突然の出来事や変化には非常に弱かった。
いつも支えている幼馴染みの澪から、逆に支えられなければならない程に。
常時、天真爛漫に振る舞っているはずの唯や紬にも心配される程に。
それ程までに律は、突然の事態に途轍もなく弱いのだ。
だからこそ、律は普段以上に冷静にならなければならない。
今現在、律が置かれている異常事態について。
恐らくは巻き戻っている時間について。
一度目こそ夢か気のせい、もしくは既視感で片付けられた。
だが、もうそういうわけにはいかないだろう。
二度も生じた異常事態を夢や気のせいで片付けられる程、律も愚鈍ではないのだから。
——結局、何が起こってるんだよ?
唸り声を出しながら、律は頭を捻る。
現在、起こっている事——。
単純だ。振り返ってみるまでもない。
八月三十一日に梓と遊んだ後に帰宅し、就寝して目を覚ますとまた八月三十一日だった。
馬鹿馬鹿しい程に単純な事態に律自身も呆れたくなった。
だが、単純だからと言って、解決策が単純に見つかるというわけではない。
むしろ単純だからこそ、途方に暮れてしまう事の方が多いのではないか。
律にはそう思えてならなかった。
例えば推理ドラマなどでは、トリックを使ったが故に犯人が特定される事がよくある。
そのトリックが使えた人物はある一人の人物しか有り得ない。
故に自動的に犯人が特定されてしまう。
だったら——、と律はいつも考える。
そもそもトリックなんか使わなかったら?
そこに居る全員にアリバイが無い状態で、全員に犯行が可能な状態にしたら?
その方が下手にトリックを使うより、犯人を見つけ出す事が難しくなるんじゃないか、と。
それこそ、あらゆる可能性を考える事が出来るが故の思考迷路と言える。
時間が巻き戻っている。
否、正確には繰り返している——だろうか。
律の記憶の中では、少なくとも三回、八月三十一日を経験している。
梓と喧嘩した初回、梓を楽しませる事が出来た二回目、そして、今回の三回だ。
となると、間違いなく二回は時間が巻き戻っている事になる。
ならば、時間が巻き戻っていると称するよりは、時間が繰り返していると称した方が正解だろう。
繰り返す八月三十一日——。
何処かで聞いた気がする話だなあ、と律は他人事のように思い付く。
確かジャンルとしては、無限ループもの——でよかっただろうか。
人並みに漫画を好む律だ。
何度かそのジャンルの漫画を読んだ事もある。
ある出来事を切欠に、特定の期間が無限に繰り返す様になる——。
かなり掻い摘んで言えば、それが無限ループものというジャンルだった。
真新しいジャンルと言うわけではない。
むしろ近年、手垢が付き過ぎるほどに使い古されたジャンルと言えなくもない。
律ですら、見かける度に、またか——、と食傷気味だった。
だが、劇作として触れる事と、現実に自分が経験する事には天と地程の差がある。
例えば格闘漫画に飽き飽きしている読者であっても、
現実に誰かと格闘する機会に陥れば、動揺せずには居られないだろう。
比較的現実に近い劇作であってすら、そうなのだ。
律は現在、格闘漫画など比較出来ない超常的な現象に巻き込まれてしまっている。
事態の収束の見通しが五里霧中なのも、当然と言えば当然だった。
無論、それに甘え、思考を停止してしまうわけにもいかないが。
だからこそ、律は頭を捻って考える。
あまり出来がいいとは言えない頭で、それでも出来る限りの事を考えるのだ。
どんなに間抜けに思える考え方であってすらも——だ。
——えーっと、あの漫画じゃどうして無限ループしてたんだっけ?
スティックと携帯電話を握り締め、律がそうやって思い返したのは漫画の事だった。
現在己が置かれてしまっている漫画の様な事態——。
事態が漫画の様であるのなら、解決策も漫画の中にあるはず——。
そう単純に考えていたわけではないが、他に頼れる物も無かったから仕方が無かった。
どの道、常識など通用しないだろうし、科学も定理も今の所は役に立ちそうにない。
結局の所、異常事態には、通常ではない思考で立ち向かうしかないのだ。
まず律が思い出したのは、魔法の力で時間を繰り返している漫画の事だった。
いきなり非科学的この上ないとは思いつつも、とりあえず思考を巡らせてみる。
その漫画では、一人の魔法使いが、ある悲劇を回避する為に、
時間逆行の魔法を使用して、時間を何度も何度も繰り返させていた。
厳密には無限ループものとは違うかもしれないが、時間が繰り返している事には違いない。
——魔法ねえ……。
律は自分の思考の突飛さに苦笑してしまいそうになる。
魔法だの何だの、思考回路がメルヘンこの上ない澪の様だ。
しかし、時間が現実に繰り返している以上、魔法の存在を考慮しないわけにもいかないだろう。
だが、それを考慮したとしても、魔法と自分が関係しているとは律にはどうしても思えなかった。
何故なら、その漫画で時間が繰り返している事を認識しているのは、
当然ではあるが、時間逆光の魔法を使った魔法使いだけだったからだ。
術者だからこそ、自分が時間を繰り返させている自覚があるという単純な理由だ。
そして、無論、律は魔法使いではない。
何処かに存在しているかもしれない魔法使いが遠い空の下で魔法を使い、
何らかの偶然で律だけが時間の繰り返しを認識しているという可能性もあるが、流石にそれは無いだろう。
それこそ異常事態に異常事態を二乗した複雑怪奇な事態でしかない。
偶然と偶然を繋げる考えた方もあるが、
魔法使いと無関係な律だけが記憶を有しているなど無茶に過ぎる。
やはり、時間が繰り返している事と、律自身が関係していると考えた方が賢明だろう。
無論、律自身が魔法使いなのだと考えるわけではないが。
となると——と律はもう一つの無限ループものの漫画を思い出す。
その漫画も一つの悲劇を切欠に時間が繰り返すようになる漫画だったが、繰り返す理由は魔法ではなかった。
魔法ではないのだが、時間が繰り返している理由ははっきりしなかった。
時間が繰り返す切欠自体は律もよく憶えている。
ヒロインが主人公の死に絶望し、時間の逆行を望んだからだ。
主人公の死を拒絶したヒロインが特殊な能力に目覚め、時間を繰り返させたのだ。
ただ、その特殊能力が何なのか、詳しくは言及されなかった。
ヒロインの特殊能力は単なる舞台装置の様なものだったし、物語上では重要な事ではないという事なのだろう。
とにかく、ヒロインの心残りによって、世界の時間が繰り返すようになったのだ。
その漫画以外にも、悲劇を避けるために時間が繰り返す話は多数あった。
これなら律自身にも関連出来そうな気がしないでもない。
かなりこじ付け的な考えではあるが。
だけどなあ——、と律は考える。
心残りとは何なのだろうか。
何かをやり直したいと思った事は律にも何度もある。
後悔や反省をした事など両手では数え切れない。
だが、世界を繰り返させる程の大々的な失敗は無かったはずだ。
幸いながら、誰か友人を失ってしまった事もこれまで無い。
繰り返している八月三十一日にも心残りなど無かった。
そのはずだ。
無論、夏休みが終わる事を惜しく思ってはいたけれども。
——待てよ。
不意に律の脳裏に一人の少女の面影が過ぎる。
真面目なツインテールの後輩。
梓——。
最初の八月三十一日、律は梓と他愛の無い事で喧嘩をしてしまった。
喧嘩さえなければ最高の一日だったのに、最終的に台無しにしてしまった。
笑顔にしてやりたかったのに、大切にしてやりたかったのに、怒らせてしまった。
後悔と悔しさと反省に満ちた八月三十一日——。
確か、そう、律はその初回の八月三十一日に願わなかっただろうか。
布団の中で叫ばなかっただろうか。
『あー、もーっ!
今日の喧嘩、無かった事になんねーかなー……!』
と。
願った。
律は確かに願った。
最低な八月三十一日をやり直す事を。
八月三十一日が繰り返しているのだ、梓がこの事態に関係してないと考える方がおかしい。
だが、それでは——。
不意に——。
握り締めていた携帯電話が音を鳴らしながら振動を始めた。
突然の事に動揺しながら、律は携帯電話の液晶画面に視線を落とす。
分かり切っていた事だが、液晶画面には『あずさ』と表示されていた。
律は三コールほど躊躇ってから、通話ボタンを押して電話を耳に当てた。
すぐに不機嫌そうな後輩の声が電話の先から聞こえてくる。
「もーっ、いつまで寝てるんですか、律先輩っ?
夏休みに早起きしろとは言いませんけど、人を呼んでる時くらいは起きてて下さいよーっ!」
そして、これ見よがしに三度続けられる自宅のチャイム。
そういや、家のチャイムが鳴ってたんだっけな——。
考え込んでしまっていて、すっかり忘れてしまっていた。
——駄目だ、駄目だ!
胸の中でだけ自分を叱責し、律は軽く自らの頬を叩く。
時間は——、世界は——、律の同じ日は繰り返している。
事態の解決策など微塵も見えていない。
解決策があるかどうかも定かではない。
それでも、一つだけはっきりしている事がある。
時間が流れているという事だ。
三回目の世界かもしれないが、律は生きている。生きて、呼吸して、考えている。
梓も——、生きている。
生きて、話して、怒っている。
ならばこそ——。
律は梓の前ではいつもの自分で居なければならない。
例えまた同じ時間を繰り返してしまうとしても、それでも——。
律は大きく息を吸い込む。
もう一度だけスティックを強く握り、多少なりとも落ち着いてから声を出した。
大丈夫だ、大丈夫だと自分に言い聞かせて。
「ごめん、梓!
今日の事が楽しみで中々寝付けなかったんだよなー。
本当にごめんな!
その代わりと言っちゃ何だけど、おまえの好きなおやつを奢ってやるから、機嫌直してくれないか?
なっ? 頼むよ、梓ー?」
こうして——。
三度目の八月三十一日が始まる。
最終更新:2014年03月10日 22:09