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『全ての因果の鎖から解放された時、運命の円環は終焉に至る』


だっただろうか。
律が読んでいた無限ループものの漫画では、基本的にそうした理由でループが終わっていた。
多少難しい言葉なので理解するには多少時間が掛かったのだが、
結局はある条件を全て満たす事が出来れば無限ループが終わるらしい、という事だけは律にも分かった。
ある条件——。
大抵の場合、そのある条件に値するのは、人の想いの解放である事が多かった。


因縁——
後悔——
心残り——


とにかくそれらに近いマイナス方面の感情を原因として、世界は繰り返していた。
世界が繰り返す原因がそれであるとするのなら、
その感情の解消こそが無限ループの終焉に繋がるのは自明の理だろう。
勿論、あくまで劇作のお約束として——だが。
そして、律としても、そのお約束に頼るのはやぶさかではなかった。
そもそもにおいて、異常事態に直面した律が頼れるのは胡散臭い劇作しかないのだ。
胡散臭くとも、そこに一条の光明があるのなら、何であろうと頼らざるを得ない。
例えそれが幻惑の光明であったとしても。

それは構わない。
劇作に頼ってみた結果、失敗を引き寄せる事となったとしても律は構わない。
その程度は覚悟の上だし、一歩でも前に進んでるという実感が得られれば、
希望が気のせいであり、何もかもが偽りの希望であっても、それは全く構わないのだ。


——だけど、なあ……。


律は口元に手を当てて考える。
朝、梓が自宅を訪問する直前、考えていた疑問をまた脳内で回転させる。
即ち、自分の心残りとは何だったのか、という疑問。
否、その答えは既に出せてしまっている。
いとも簡単に導き出せてしまえている。
故にこそ、律の頭は余計に混乱してしまう。
混乱し、律自身ですら実感出来るほどの無様な呻き声を漏らしてしまうのだ。


「ど、どうしたんですか、律先輩?
次はどの乗り物に乗るかって事が、そんなに悩ましい事なんですか?」


唐突に声を掛けられ、律は少しだけ動揺してしまった。
おずおずと声がした方向に視線を向け、どうにか無理のある笑顔を浮かべる。
当然の事だが、その方向では梓が多少の呆れ顔を浮かべ、首を傾げていた。


——あんなに遊園地に行きたがってたのに、もう行きたいアトラクションが無くなったんですか?


梓の瞳はそう語っていたが、流石に口にまで出しはしなかった。
奢りで連れられて来ている立場上、あまり生意気な事を言うのもどうかと考えているのだろう。
気を遣われているのか気を遣われていないのか判断し難いが、
とりあえず自分の様子が梓に不審に思われている事だけは律にも分かる。
律は梓に気付かれないように一度深呼吸をしてから、左腕を広げて梓の首筋に回した。

「馬ー鹿、そんな事あるわけないだろ?
どう回ったら遊園地を楽しめるか、梓のために考えてやってたんだっつーの。
どのルートが一番楽しいか……、それを考えるのが遊園地の醍醐味なのだよ、梓くん!」


「はあ、それはどうも……。
って、そんな事より暑いですって、律先輩!
こんな炎天下の中でくっつかないで下さいよー!」


「いいじゃんいいじゃん。
私達放課後ティータイムの仲の良さを、周りの人達に見せつけてやろうぜ?
そんなに照れなくてもいいじゃんかよー」


「照れてません! 暑苦しいだけです!」


回した腕の中で梓が暴れるが、幸い律の方が少しだけ力で勝っている。
抵抗しても敵わないと悟ったのか、梓はすぐに脱力した様子で暴れるのをやめた。
どうやら誤魔化せたらしい——。
律は腕の中に梓の体温を感じながら、軽く胸を撫で下ろした。
先刻より多少は落ち着いた思考回路で、律は再度現在の状況に思いを馳せる。
髪の長い生意気な後輩の瞳を横目に見つめる。

梓——。
最初の八月三十一日、律の心残りになったのは間違いなく梓の事だった。
最高の一日になりかけていた最低の一日。
喧嘩別れなどという最低な経験をしてしまった、否、させてしまった最低な一日だ。
やり直したい、最低最悪な日だ。
幸か不幸か、律はその八月三十一日をやり直す事が出来た。
何の運命か因果かやり直せたのだ。
そう。やり直せたというのに——。

律は梓に気付かれないように小さく嘆息する。
嘆息せずには居られない。
先刻も考えた事だが、一般の無限ループものでは、
後悔や心残りの原因を取り除く事で、世界の繰り返しが終焉を迎えるのが基本だ。
それが無限ループもののお約束と言える。

しかし——、と律は苦悩する。
何故なら、と考えるまでもない。
律の心残りは二度目の八月三十一日で、とっくに取り除かれているからだ。
二度目の八月三十一日は、少なくとも律の中では最高の一日だった。
梓を怒らせるような事もしなかったし、別れ際の梓の笑顔はとても輝いていたはずだ。
心から満足して次の日——九月一日を迎えられる。
それくらいには最高の一日だったのだ。
だというのに、事態は何も進展していなかった。
何も変わってはいなかったのだ。
だからこそ、律は苦悩して、呻き声まで漏らしてしまうのだ。


——梓の好感度が足りなかったとか?


馬鹿馬鹿しい発想だと自分でも呆れながらも、律はそういう思考に至ってしまう。
好感度——。
俗に言う恋愛シミュレーションゲームの、主人公と作中のキャラクターとの仲の良さを表す数値の事だ。
律は恋愛シミュレーションゲーム自体をプレイした事は無いが、
恋愛要素や友情要素のあるロールプレイングゲームをプレイした事はあった。
そのゲームではあるキャラクターの好感度が一定値を越えていなければ、真のエンディングに辿り着く事が出来なかったのだ。

だったら、やっぱりこれなのか——?
馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しい発想だ。
それでも、今の律には現状をそう考える事しか出来ない。
無理矢理にでもそう考えなければ、心の平静が保てなかったと言っても過言ではない。
そうでなければ、今にも叫び出してしまいそうだった。
それに当てにならない目標であっても、無いよりはあった方が何倍も助かった。
軽い冗談ではあったが、澪の前でメジャーデビューを目標にしたおかげで、
律は軽音部の活動を少しは真剣に頑張ろうという気になれたのだから。


「それにしても、急に遊園地なんて本当にどうしたんですか?」


腕の中の梓が律に不安そうな視線を向ける。
律の突然の思い付きを怪訝に思っているのだろう。
律はこれまで、梓や澪の前で思い付いた事を適当に何度も口にしていた。
そうすれば皆が楽しんでくれるはず、と思えた時には、何でも躊躇わずに口にした。
結果、それなりに上手くやって来れたはずでもある。

だが、ある程度の一線は越える事もしなかった。
あまり大袈裟な思い付きは流石に口にしなかったし、
悪ふざけは好きだが、やっていい事とやってはいけない事の境界くらいは律にも分かる。
不意に境界を越えてしまったと感じた時には、出来る限り誠意を込めて謝った。
それが律の最低限の規律であったとも言える。

故にこそ、梓は今回の律の思い付きを怪訝に思っているのだ。
後輩を呼び出した当日、行き先も告げずに遊園地に向かうなど、
今まで実行して来た律の思い付きの行動の範疇を遥かに超えていた。
ついでに言えば、予算もかなりオーバーしていた。
自身だけならともかく、梓のフリーパスと交通費も律が負担しているのだ。
これは何かあるのではないか、と梓が考えない方がおかしかった。

だが、律はかぶりを振って笑うのだ。
否、だからこそ、律は笑わなければいけなかったのだ。
梓を心から楽しませるために。
それと同時に、謝罪の意味も込めて。


「急に行きたくなったんだから仕方ないじゃんかよ、梓ー。
私ももう受験生だし、おまえだって来年は受験生だろ?
だから、おまえとこうして遊園地に行く機会なんて無いかも、って思っちゃったんだよ。
考えてみりゃ、梓と二人で遊園地に来る事なんて無かったから、一度やってみたかったしな。
んで、思い付いちゃったからには、やれるうちにやっちゃわないとな、このりっちゃん部長としてはさ。
でもさ、あんまり急だし梓に悪いかも、って思ったから遊園地とかの費用を奢らなきゃ、って思ったんだよ。
その答えじゃ不満か?」


その言葉は半分真実で半分嘘だった。
梓と二人で遊園地に来たかったのは本当だ。
無論、軽音部のメンバー全員で遊園地で遊ぶのは別格で、楽しいに決まっている。
しかし、二人で遊ぶ事と、大勢で遊ぶ事は似ている様で遥かに異なっている。
一度、二人で思い切り遊んで、梓の事を見つめ直してみたい気持ちはずっと前からあったのだ。
こんなきっかけとは言え、それが実行出来たのは正直律も嬉しかった。

だが、同時に申し訳ない気持ちで溢れている事も、また確かだった。
三回目の八月三十一日である今日、律が遊園地に行こうと思ったのは、
遊園地なら梓を二回目の八月三十一日以上に楽しませる事が出来るかも、という打算があったからでもある。
律の心残り——或いは梓の好感度と、
世界が繰り返す原因に因果関係があるとは限らないが、試せる事は試しておかなければならなかった。
要するに律は梓との思い出を、事態の収束のために利用する事にしてしまったのだった。
止むを得ないとは言え、動機はどうであれ、それは律にとって最低な行為に他ならなかった。
故に自己満足だと律も分かってはいるが、遊園地の費用くらいは負担しなければ気が済まなかった。
そして、完全には無理だとしても、この無限ループなど関係無く梓を心から楽しませたい。
例え次に四回目の八月三十一日を迎える事になったとしても、その誓いだけは何度でも守りたいのだ。


「不満じゃありませんけど、でも、何かちょっと……」


梓が律の腕の中で独り言のように呟く。
その梓の表情は律の事を不安に思っているというより、心配に思っているように律には見えた。
やはり、今回の八月三十一日の律の行動は不自然過ぎたのかもしれない。
しかし、律は梓にそんな心配そうな顔をさせたくなかった。
もしもこれから先、何度でも八月三十一日を迎える事になったとしても、それだけは嫌だった。
梓には心からの笑顔で居てほしかった。
だからこそ、律は微笑んで言ってみせたのだ。
今度こそ、心からの笑顔で。


「あーっ、ひょっとして梓ってジェットコースターが苦手なんじゃないかー?
さっき乗った後も、何か足がふらついてたように見えたしな。
梓ちゃんってお子ちゃまだったんでちゅねー」


「何を言うんですか!
そんな事は断じて無いです!
いいでしょう、今度はこの遊園地で一番大きいジェットコースターに乗りましょう!」


「おっ、その意気だぜ、梓。
んじゃ、行こうぜー!」


梓の首に回していた腕を外し、律は梓と共にジェットコースターに向かって行く。
梓に気付かれないよう、軽く拳を握り締めて誓う。
この先どうなるかは分からない。
梓の好感度や私の心残りが無限ループに何の関係があるのかも分からない。
ひょっとしたら、関係無いのかもしれない。
それでも、梓にだけはどんなに繰り返しても最高の思い出を作ってみせるし、
私の事を心配させたりなんかしない、絶対に何があったって——。


もしも——
それが叶うのであれば——




「あー……、やっぱいい天気だなー、ちくしょー」


律は自分の手のひらを太陽に翳しながら苦々しげに呟いた。
既に経験し尽くして分かり切っている天気模様とは言え、
こうも快晴が続く——否、繰り返される——と曇り空が恋しくなって来る。
友人から太陽に例えられがちな律だが、曇天を憎々しく思っているわけではないのだ。

軽い嘆息の後、太陽から視線を逸らす。
それから、律は眼前に自らの手のひらを返してみる。


13


律の手のひらには、自覚出来る程度には下手な文字でそう記されている。
何、別に誰かに見せるわけではないし、律自身にさえ伝わればいい文字なのだから問題は無い。
時間の繰り返し——ループ——が五度目を数えた時、
律は誰に言われるでもなく自らの意思で、世界が繰り返した回数を手のひらに記すようになっていた。
それで何が変わるわけでもないだろうが、律はそうせざるを得なかったのだ。
繰り返す日常は人間から気力や活力、希望などを根こそぎ奪い取っていく。
ループしていない世界ですらそうなのだ。
自らの記憶以外、何ら変化する事が無い同じ日を生きる——。
人も、天気も、環境も、出来事も変わらない一日の繰り返し。
考えてみるだけで気分が悪くなったし、実際、四度目のループでは何度か吐いた。

故に律はせめてもの変化を求めたのだ。
信じたかったのだ。
この繰り返す一日の中に身を置いていても、せめて自分の精神だけは前に進んでいるのだと。
前進し、好転しているのだと。


「前進……してんのかなあ——?」


自嘲気味に漏らす。
いや、前進しているはずだ、と律は考える。考えようとする。
実際、手のひらに記され数字だけ八月三十一日を繰り返している内に、分かって来た事も多少はあったのだ。

繰り返す八月三十一日——。
正確にはその一日の丸ごとが繰り返しているわけではない事には、三度目の八月三十一日で律も気付いた。
三度目の八月三十一日、遊園地で存分に梓と楽しんだ律は、自宅で夕飯も取らずに自室のベッドで時計を見ていた。
願わくば八月三十一日が何事も無く過ぎ去る様に、斯様な期待が無かったと言えば嘘になる。
しかし、それ以上に確かめたい事も一つあったのだ。
結果的に律が九月一日を迎える事は出来なかっだが、それでも発見はあった。
八月三十一日が繰り返すリミットの正確な時刻だ。

午後十一時五十九分五十九秒。
律はその秒針まで目を逸らさずに見つめていた。
しかし、午前零時を迎える事は出来なかった。
長針、短針、秒針が午前零時を示した瞬間、律の身体が自室の布団の中に身を横たえてしまっていたからだ。
無論、意識して行った事ではない。
午前零時を迎えようとした瞬間、気付けば律は布団の中に居た。
先刻まで私服だったというのに、ご丁寧にパジャマにまで着替えて、だ。


——寝た気がしなかったわけだよなー。


目元に掛かる前髪を掻き上げながら、妙に冷静に律は考えた。
午前零時を迎えようとした瞬間、時間が当日の朝まで繰り返す。
身を起こして時計を確認してみると、いつの間にか十時を指し示していた。
当然、午前なのか午後なのかは時計だけでは判断出来ないが、
カーテンの隙間から差し込む陽光から察するに、当然ながら午前なのだろう。
初回の八月三十一日、律も詳しくは憶えていないが、十時過ぎにはベッドの中で眠りに就いていたはずだ。
まるで寝た気がしないはずだ。
実質、二時間しか眠っていない事になるのだから。
疲労などが全く残っていないのは、せめてもの幸いだろうか。
恐らくこれは初回の八月三十一日の前日、
つまり八月三十日——当たり前の事だが——に準備万全で眠った事が関係しているのだろう。


「八月三十日ねえ……」


律は自嘲気味に漏らして、嘆息がちにカチューシャを装着する。
四度目の八月三十一日を迎えただけだと言うのに、既に遠い昔の出来事の様だった。
まるで去年の出来事の様だったし、
このループが続くのならその思い付きも冗談では済まなくなってしまう。
出来れば布団の中で頭を抱えて蹲っていたい気分に苛まれそうになる。

しかし、そんな時間など無い事も、律はよく分かっているのだった。
耳を澄ませば、否、耳を澄ますまでもなく、聞こえてくる自宅のチャイム音。
無論、梓が玄関の前で待っているのだ。
折れ曲がりそうな心を奮起させて、律はベッドから足を下ろした。
既に世界が繰り返す現実については受け容れているし、
梓にはどの八月三十一日でも楽しく過ごさせたいと決心もしているのだから。
ならばこそ——、律はやはり時間を繰り返しながら、解決策を探るしかないのだ。


「よっしゃあっ!」


空元気でも元気。
自分に強く言い聞かせて、律はパジャマのままで玄関に向かい、梓に笑顔を見せるのだった。
繰り返す一日であろうと、梓にだけは最高の一日を過ごしてもらうために。
律はそうしなければならないと感じていた。
もしも——、もしも世界の時間が——、
私以外の人達の時間が繰り返していなかったとしたら——と。
故に律はどのループでも梓に対して真摯に向き合わねばならないのだ。

そうして律は十度のループを超え、この八月三十一日に置いてはここに居る。
見知らぬ公園のベンチ、未だ残暑厳しい日光に照らされているのである。


「お待たせしました、律先輩」


妙に人懐こい笑顔を浮かべて、梓が両手にソフトクリームを掴んで戻って来る。
律には見知らぬ公園だったが、梓にとっては馴染みらしい。
頼んでおいたソフトクリームも、律が思うよりずっと早く購入出来たようだ。
律は手のひらの文字を梓に見せないように拳を握り、柔和に笑い掛ける。


「おう、おつかれさん。
悪いな、お使いなんかさせちゃって」


「いえ、それは全然。
だけど、本当によかったんですか?」


「何が?」


「私の行きたい所に付き合ってもらっちゃってる事ですよ。
だって、今日は律先輩の方から私を誘ったんじゃないですか。
だから、きっと律先輩には行きたい所があるんだろうな、って思ってたんですよ?
それなのに、こんな私の行きたい場所ばかり付き合ってもらっちゃって……」


「いいっていいって。
それに梓の行きたい所ばかり、って言っても、音楽ショップとかじゃんか?
行きたいのが音楽関係の店なら、私だって大歓迎だよ。
おまえは忘れてるかもしれないけど、私、これでも軽音部の部長なんだぜ?」


「あ、そうですね、忘れてました。
律先輩、部長だったんですよね」


「おいこら、中野ー!」


律は両手を振り上げて飛び掛かろうとしたが、無論、飛び掛かろうとしただけだった。
梓は両手にソフトクリームを掴んでいる。
こんな状況で飛び掛かろうものなら大惨事が待っている事は想像に難くない。
梓もそれを分かっているのか、笑顔で頭を下げながら律にソフトクリームを差し出した。


「あはは、すみません、律先輩。
ほら、まずはソフトクリームが溶ける前に食べちゃいましょうよ」


それもそうだな、と律はソフトクリームを受け取り舌を這わせた。
慣れない考え事をしていたせいか、甘さが全身に染み渡る気がする。
梓は何が楽しいのかその律の様子をしばらく見ていたが、
炎天下の熱にソフトクリームが溶け始めて来た事に気付いたらしく、
「それじゃあ、失礼します」と頭を垂れてから、律の隣に行儀よく腰を掛けた。
垂れそうになっているクリームから器用に舐め取っていく。


「おー……」


感嘆の声が律の口から思わず漏れた。
「何ですか?」と梓が首を傾げたが、「何でもねーよ」と返してからその頭を軽く撫でて誤魔化した。
梓に最高の一日を過ごしてもらいたいのは確かだ。
しかし、こんな事まで言う必要は無いだろうし、梓はきっと顔を真っ赤にして怒るだろう。


——急いでソフトクリームを舐める梓の姿が可愛い、なんてさ。


苦笑がちに、思う。
梓は普段その愛らしい外見に似つかわしくなく頑固な所があり、
先輩で部長の律に対してもその態度を崩さない——どころか粗末に扱いがちな所も多々ある。
大人びたい年頃なのか、頼りない先輩達を見て不安に思っているのか、そのどちらなのかは分からない。
けれど、その梓も稀に今の様に歳相応に可愛らしい姿を見せる事がある。
律はその顔を見たくて常日頃から梓をからかっているのだが、大抵は上手くいっていない。
故にこそ嬉しくなるのだ。
不意な拍子に梓の素の姿を見られる事が。


——私、こいつに救われてるよな。


こんな異常事態に見舞われて、律は余計にそう考えてしまっている。
八度目の八月三十一日だっただろうか。
その日はプールに行ったのだが、不意に梓とはぐれてしまったのだ。
夏休み最終日という事もあって、大勢の客が最後の水泳を楽しもうとしていたのだろう。
一時間以上捜しても、律ははぐれた梓を発見する事が出来なかった。
捜し疲れ、大勢の人の中、プールサイドで頭を垂れていると胸に強い孤独が襲った。
たった一人、大切にしようと思っていた誰かを失った痛み。
自分の事を誰にも話せず、どうする事も出来ず、このまま一人で同じ日を生きていく事になるのか。
それが怖くて仕方が無くなったのだ。


——捜しましたよ。


数分後、誰かに腕を掴まれた時、正直律は泣き出しそうになった。
腕を掴んで微笑み掛けてくれていたのは、無論、梓だった。
瞬間、律はそれまで以上に強く決心したのだ。


——やっぱり、私はこの笑顔を守らなくちゃいけない。


と。
何としてもこの笑顔を守らなければならない。
どんな世界のどんな時間のどんな梓であっても、幸せであり続けてほしい。
そのためにも、このループを精一杯生き抜いてやろうと。
その律の想いに嘘は無かったし、その決心が間違っていたとは誰にも言えないだろう。

しかし、この時の律はまだ気付いていなかったのだ。
その強い想いが——、強過ぎる想いが——、律ともう一人を縛り始めている事に。
誰かと共にある事——、人に好かれるという事——、
人を幸せにしようとする事がどのような事なのか、まだ——。




「ねえ、律先輩、この後、時間はまだ空いてらっしゃいますか?」


「ふえっ……?」


喫茶店。
陽が沈み掛けた頃、意図せず律の喉から変な声が出た。
今まで聞いた事の無い言葉が梓の口から出たからだ。
この奇妙なループが始まって以来——、
どころかこのループが始まる以前にも聞いた事がない梓の言葉だった。

『時間はまだ空いてらっしゃいますか?』、この言葉自体には問題無い。
重要なのは『この後』と言う部分だ。
『この後』、つまり夏の空が完全に夕焼けに染まり切ったその後の時間という事だ。
夜の時間を共に過ごそうと言っているのだ、梓は。

律と梓はそれなりに仲の良い先輩後輩としてやって来た。
少なくとも律はそう思っているし、梓もそう思ってくれているはずだ。
だからこそ、律は梓を八月末日に遊びに誘ったのだし、梓もそれを了承してくれたのだ。
だが、飽くまでそれなりに、だ。
律も何度か梓の家に遊びに行った事はあるのだが、陽が完全に暮れるまで滞在した事は勿論一度も無かった。
仮にも先輩である身としては、後輩の家族に迷惑を掛ける気にはなれなかったからだ。
当然ながら、合宿と夏フェス以外で梓と深夜まで一緒に居た経験も無い。

しかし、梓は言ったのだ。
『この後、まだ時間は空いてらっしゃいますか?』と。
予想もしていなかった事態を律は上手く呑み込めない。


「えーっと、そうだなあ……」


瞳を覗き込んで来る梓から視線を逸らし、律は曖昧な言葉で時間を稼ぐ。
これまで繰り返していた日常の変化——。
求めていた事のはずだったのだが、いざ直面してしまうと物怖じしてしまう。
梓に気付かれないよう、律は左の手のひらに記した文字に視線を落とす。


47


四十七回目の繰り返しを示す文字。
初回を含めれば、今回で述べ四十八回目の八月三十一日という事になる。
四十八回——、本来の夏休みの期間と同等の時間をループの中で過ごしている事になる。


——もうそんなに繰り返してんのかよ。


自嘲しようと思いつつも、律の口元から笑みは漏れなかった。
滑稽過ぎて笑えもしない、とはまさにこの事だ。
四十七回のループ。
少しでも解決に向けて前進しているのならともかく、
律は十二回目のループくらいから、この現象について何の情報も得られない状態が続いていた。
元より常識では理解出来ようも無い現象ではあるが、
一歩も前進もせずにその場で足踏みを続けるのは想像以上に辛いものだった。
ループの度に変わるのは、左の手のひらに書いている数字だけ。
その点に関してだけは、律は自分の思い付きに感謝していた。
もしもループの回数を記す習慣を思い付いていなければ、とっくの昔に自らを見失っていただろうからだ。


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最終更新:2014年03月10日 22:11