「もしかして、この後、誰かと約束があるんですか?
澪先輩と一緒に夏休みの宿題を終わらせる約束をしてるとか」


意味深な沈黙を誤解したのか、梓が遠慮がちに律に訊ねた。
澪と約束をしているわけでは勿論無い。
夏休みの宿題は当然まだ終わってはいないが、明日、無理をすれば終わらないでもない。
明日が来れば、だが。

それよりも律が気になって仕方が無いのは、無論、梓の突然の申し出の事だった。
今回のループに限って、何故梓はこの後の予定などを訊ねたのか。
そんなにも特別な何かを、今回のループで起こしてしまったのだろうか。


「いや、別に約束もしてないし、予定があるわけでもないんだけどさ……」


カチューシャの上から頭を掻きながら、律は思い返してみる。
今回、つまり四十八回目の八月三十一日の事を。
否、思い返してはみたのだが——。


——特に何も変わってねー!


胸の内だけで叫ぶ。
自分でも滑稽だとは思っているのだが、律はそうせざるを得なかった。
何しろ何一つ心当たりがないのだ。
今回のループにおいて、律は梓とピクニックに行った。
梓が入部したての頃、部員全員で行った思い出の広場だ。
時間が繰り返すようになって四回目のピクニックではあったが、
前回行ったのは確か二十二回目のループの頃の事だったはずだから、そろそろまた行ってみるか、と思ったのだ。
遊び盛りの律とは言え、四十八回全て別の場所で遊べるほど、遊びのレパートリーが豊富なわけではない。

四回目とは言え、ピクニック自体は十分楽しかった。
過去三回で失敗した経験を活かして、梓が好まない場所には一切近付かなかった。
時間が合わなくて購入出来なかった屋台の鯛焼きもちゃんと買えたし、
そろそろ喉が渇き始めるだろう時間帯に買っておいたジュースを梓に渡す事も出来た。
帰りの電車では満員の時間帯を避けられたし、
二回目のピクニックの際に梓が気になった視線を向けていた喫茶店にも入店した。
何より律は梓が一番喜ぶだろう言葉を選んで、今日一日を過ごしたのだ。

それは不思議な現象と呼ぶべきなのか、或いは極自然な必然と呼ぶべきなのか。
述べ四十八回も同じ日を繰り返して来た律は、梓が何を言えば喜ぶのかほぼ把握出来ていた。
無論、人間は日によって体調や気分が変わる物だ。
同じ会話や行動をしてみた所で、同一人物から同じ反応が返って来るとは限らない。
しかし、律が過ごしているのは、律の記憶以外は全く同じ一日なのだ。
当然、梓の反応も完全に読み取れて来る。
何しろ四十八回も繰り返しているのだから。

——と、いう事は、だ。


「なあ、梓……」


「はいっ!
何ですか、律先輩っ!」


何となく声を掛けてみただけだが、梓は満面の笑みでそれに応じた。
その眩しいくらいの笑顔に律は面食らう。
律の前では滅多に見せない梓の満面の笑顔。
今まで経験が無いわけではないが、二人きりの時にこんな表情をされた事は無かったはずだ。
しかし、梓は満面の笑顔を浮かべて、律のこの後の予定まで訊ねている。
これが意味する事はつまり——。


——好感度が上がり過ぎた……とか?


遥か遠い過去、そんな事を考えた記憶が無いでもない。
思い残した事など無かったはずなのに、世界が繰り返し続けている理由——。
梓を完全に心から楽しませてあげられなければ、このループから脱せられないのではないか。
斯様な現実逃避に似た、馬鹿馬鹿しい単なる思い付き。
しかし、そうでないとも言い切れない。
ループ自体、非現実的な現象であるがゆえ、解決策まで非現実的でない保証も何処にも無いのだ。
故に——。


「時間は空いてるんだけどさ、何処に行くつもりなんだ?」


律は自らの動悸が少し激しくなり始めた事に気付きながら、それを悟られぬよう軽く笑顔を浮かべた。
これでループから脱け出せるかもしれない——。
斯様な期待が無かったと言えば嘘になるが、それ以上に嬉しくもあった。
梓に嫌われていると自らを卑下していたわけではないが、もっと仲良くなりたい気持ちがずっとあったのだ。
普段、梓の事をからかい過ぎている自覚はある。
梓を楽しませたい気持ちは常にあったのだが、自分よりも小さな彼女を可愛がりたくもあった。
悪いとは思いつつ、梓をからかってその頬を膨らませる事が楽しかったのだ。
しかし、何の巡り会わせか、この八月三十一日においては、律は梓をからかう様な事はしなかった。
ただ梓の笑顔だけを求めて行動し、梓の幸福を選択して来た。
その結果が梓のこの満面の笑顔なのだ。

だとしたら、もう律には更なる梓の笑顔を求める事しか出来ない。
梓の申し出を断る事など出来ようはずもない。


「そうですか。それはよかったです!
そうですねー……、実は今夜、両親が出掛けてて留守なんですよ。
律先輩がよければ、私の家でもう少しお話しませんか?」


「おー、梓の家か。それは面白そうだな」


「律先輩、どうせ宿題が残ってるんでしょうし、私が少し手伝ってあげますよ」


「おいこら中野ー!」


繰り返す世界で——、否、これまでの人生で初めて見た梓の幸福そうな笑顔。
律はその軽く頬を染めた梓の笑顔を守りたいと思った。
見続けていたいと思った。
それがお互いの幸福に繋がるはずだった。
しかし、やはり律と恐らく梓も気付いてはいない。
自らの胸に確かに生まれつつある感情と、それが起因して始まる現象の意味を。




梓の家を訪ねるのはどれくらい振りだったろうか。
体感時間が狂い始めている律にとって、それを思い出すのはけだし難問だった。
初夏——、確かその時期に一度訪ねた事があったはずだ。
無論、時期を思い出せただけで、梓の部屋で何もしたのかまでは思い出せなかったが。


「もうちょっと待ってて下さいね、律先輩」


楽しげな梓の声が台所から聞こえる。
梓が夕食は自分で作ると言って譲らなかったからだ。
律も準備の手伝いを申し出たのだが、それはやんわりと断られた。
どうも自分自身の手で用意した夕食を律に振る舞いたいらしい。
斯様な理由で、律は現在居間で足を崩して待っているわけだ。
「あいよ」と返事をした後、何となく右手を翳して居間の電灯に視線を向けてみる。


——眩しいなあ。


それが当然だと言う感じで、胸の中だけで呟く。
勿論、電灯が眩しいからではある。
しかし、当然ながらそれだけでは無い。
勿論、他の誰でもない梓が眩しかったのだ。
梓は元気で真っ直ぐだ。
律や唯には捻くれた発言を繰り返す事もあるが、それは不真面目な律達に原因があるとも言える。
基本的に真面目で部活の練習にも一生懸命。
成績も上位を保っており、小柄な体格ながら運動神経も悪くないらしい。
何事にも真っ直ぐなのだ、梓は。
故にこそ。


——眩しいよなあ、あいつは。


自嘲気味に律は苦笑してしまうのだ。
通常時であれば、後輩に負けないよう頑張ろう、という気概も湧いて来たものだが、
五十度近く繰り返す同じ日は、律からすっかり気力や思考力を奪い去ってしまっていた。
このループからは脱け出せないんじゃないか——、そう思えた事も両手両足の指の本数では足りない。


——私は一生、八月三十一日を繰り返し続けるのかもしれない。


その考えが脳裏を過ぎる度に、律は例えようの無い絶望に苛まれる。
いっそ何もかも捨ててしまおうか、そんな考えまで湧いて来る。
目の前で繰り返される日常に少しずつ精神を殺ぎ取られる前に——。
けれど、律はまだそうしていなかった。
ほんの少し残されたなけなしの気概を支えてくれる眩しさがあったからだ。


「お待たせしました、律先輩」


手に持った皿からいい匂いを漂わせて、梓が笑顔で居間に戻って来た。
「上手く出来たかは分からないんですけど」と言いつつ、楽しそうに配膳していく。
配膳されたのは、ハンバーグ、味噌汁、ごはん。
全ていつか梓に語った憶えがある律の得意料理だった。
恐らくは梓の胸に軽い悪戯心があったに違いない。
私だってハンバーグなら作れるんですよ——、と律に主張したかったのだろう。
苦笑でない笑顔を浮かべたくなってしまうくらい、相変わらず生意気な後輩だった。


「作ってもらった立場で、文句なんて言えないっての。
それじゃ、梓、遠慮なくいただきます」


「はい、どうぞ召し上がれ、律先輩」


梓の笑顔を見届けた後、律はゆっくりと夕食に箸を付けていく。
こう言うのも悪いとは思うのだが、正直言って形は不格好だった。
ご飯と味噌汁はともかく、ハンバーグの形がかなり歪んでいる。
普段、相当な腕前のギター捌きを見せるくせに、何故だかこういう事に関しては少し不器用らしい。
梓の手が小さい事も関係しているのだろう、そのハンバーグはまるで小さなおはぎのようだった。
しかし、味と形はそう関係している要素でもない。


「お、美味いじゃん、このハンバーグ」


「本当ですかっ?」


素直に律が褒めると、眩しかった梓の笑顔が更に輝き出した。
その姿から、余程気合を入れて夕食を作ったのだという事が簡単に想像出来る。
律のために、梓は不格好ながら美味しいこの夕食を用意したのだ。


——ははっ、嬉しいな。


枯渇し掛けていた感情が甦って来る感覚。
律は忘れそうだった自分の目的を再確認出来た気がした。
そうだ、私は梓を笑顔にしたくて八月三十一日のやり直しを願ったんだ——と。
無論、ループの原因が律の願望だと言う根拠は一切無い。
全く別の要因で八月三十一日が繰り返している可能性も多分にある。
だが、律はそれでも誓ったのだ。
何度同じ日を繰り返したって、もう梓と喧嘩したりなんかしない。
何度だって笑顔のままで同じ日を終わらせてみせると。


「ありがとな、梓」


あっという間に用意された夕食を平らげた後、
気が付けば律はテーブルの向かいに座った梓の頭に手を伸ばして撫でていた。
行儀悪いのは百も承知だったが、胸に溢れそうなこの感情の行き場が欲しかったのだ。
部室では行儀に厳しい梓だったが、今ばかりは嬉しそうに律に撫でられていた。
笑顔が自然に溢れ出す幸福な時間。
繰り返す時間の果てにこれを手に入れられたのだと思えば、決して悪い気分ではなかった。


「ご満足頂けて何よりです。あっ……」


笑顔でそう返した途端、梓が何かに気付いた表情になった。
静かに律の口元に手を伸ばしていく。
梓の親指が律に触れ、また梓は笑顔になった。
親指を律の方に向けながら、小さく口を開く。


「もう……、嬉しいですけど、急いでごはんを食べ過ぎですよ、律先輩。
ほら、付いてましたよ、ごはん粒」


梓の言う通り、その親指には律の口元に付いていたらしいごはん粒があった。
確かに急いで食べてしまったのかもしれない。
そうしたくなってしまうくらい、梓の用意した夕食が美味しかったのだ。
ただでさえ律はこの繰り返す八月三十一日において、夕食に限ってはろくな物を食べていなかった。
時間がまた繰り返せばどうせ空腹感も消えるのだから、あえて食べたいとも思わなかった。
故にこそ、梓のごはんを凄く美味しく感じた。
生きていくための活力を貰えたのだ。
律は微笑んで、頭を下げながら返す。


「ははっ、ありがとな、梓。
いやー、梓のごはんがこんなに美味しいなんて思わなくってさ。
それで一気に食べちゃったわけですよ、この律先輩としては。
んじゃ、ごはん一粒にも神様が宿るって言うし、そのごはん粒は私が……」


頂こう——、その言葉が最後まで出る事は無かった。
律が梓から受け取る前に、梓がそのごはん粒を口にしてしまっていたからだ。
瞬間、自分の胸が激しく高鳴るのを律は感じていた。


「律先輩?」


急に言葉を止めてしまった律を見つめながら、不思議そうに梓が首を傾げる。
どうにか言葉を続けようとしながらも、律は上手い言葉が浮かんで来なかった。
ただ予想外の胸の動悸に混乱してしまっていた。
先刻、梓は律の口元に付いていたごはん粒を食べた。
俗に言う間接キスだった。
別に気にするほどの事でもないはずだった。
間接キスなど生きていれば数限りなくしてしまうものだし、
律自身も唯や澪とは何度だって間接キスをしてきた憶えがある。
澪をからかうために意図的に間接キスをしてしまった事も日常茶飯事だ。

だが、それでも——。
現在、律はその日常茶飯事に動揺してしまっているのだ。
間接キスと言う日常茶飯事に。
それは恐らく——。


「あ、いや……、何でもないって」


全く説得力が無いのを自覚しつつ、律は自分の顔が熱くなってしまうのもまた感じていた。
先刻まで梓を直視出来ていたのが嘘の様だ。
間接キスを意識してしまった瞬間、律は梓の顔を見られなくなってしまっていた。


——何だよ、これ……。


混乱する頭で律は自らに問い掛ける。
初めての感覚。
間接キス程度で相手を意識してしまうなんて、律には初めての経験だった。
不意に昔読んだ漫画のワンシーンが律の脳裏を過ぎる。
澪から借りた古い少女漫画のワンシーン。
主人公の女の子が好きな男の子と間接キスをしてしまって、舞い上がってしまうありがちなシーンだ。
あははっ、お約束お約束。
そんな風に、その時の律はそのワンシーンを微笑ましく読んでいた。
ありがちなお約束のシーンだとしか思わなかった。
まさか自分が同じ状況に直面するなど夢にも思わずに。


——私、まさか梓の事……。


思い掛けて、必死に振り払う。
そんな事などあってはならなかった。
勿論、梓の事は好きだ。
真面目ながらからかい甲斐のある後輩だし、一緒に遊んでいるととても楽しい。
しかし、それは後輩として見れば、という事だ。
こんな間接キス程度で赤面してしまう様な意味での好きではなかった。
そのはずなのだ。

それでも、妙に冷静な律のもう一つの思考が自らを分析してしまっている。
本当にそうか? と。
梓を意識するきっかけが本当に無かったのか? と。
答えは、否だ。
梓は与り知らぬ事だが、律は八月三十一日を五十度弱も繰り返して来た。
梓を笑顔にする事だけを考えて、梓の幸せだけを考えて行動して来た。
失敗してしまった行動を修正しながら、常に最善の選択を取り続けて現在に至った。
最初こそこのループから脱け出すために梓の幸福を望んでいたはずだったが、
いつの間にかその手段と目的が逆転してしまっていた。
梓の幸せを求める事こそが、律の真実の目的と成りつつあった。

結果、梓はこのループにおいて初めて律を家に招待してくれたし、
夕食まで用意してくれて、何気なく間接キスまで行うようになった。
梓の幸福を望む律の想いに応じる様に、梓も好意を返してくれるようになった。
それは律にとって望んでいた事だったはずなのに——。
喜ぶべき事のはずなのに——。
律は器用な事に赤面しながら青ざめてしまっている。
律は梓に幸福になってほしかった。
楽しい一日をプレゼントしたかった。
同じ日を繰り返した結果、その願いは叶えられた。
だが、それは律の独力で叶えられた願いではないのだ。
梓が返してくれる好意は、本来の律に向けられたものではないのである。

律は自分が何を求めていたのか、唐突に分からなくなってしまった。
梓には笑顔でこの一日を過ごしてほしい。
そのために最善を尽くしたい。
しかし、それは本来の律の最善ではないのだ。
そして、律の胸の中の梓への想いだけが膨れ上がるばかりで——。
少なくとも、今の自分に梓にこんな好意を返される資格が無い事だけは確かだった。

最初の八月三十一日以来、律はまた時間が繰り返す事を望んだ。
今回のループの事だけは、心に鍵を掛けて忘れてしまおう。
梓には楽しく過ごしてほしいけれど、必要以上に好かれてもいけないんだ——。
律が新たに決心した奇妙な二律背反。
こうして——。
律は更なる無限螺旋の中に足を踏み入れていく。




——あっついなあ、ちくしょー……。


変わらぬ、変わる事のあるはずの無い熱戦が地表に降り注ぐ。
残暑の熱気が律から多くの物を奪い去っていく。
気力、期待、未来、希望、様々な物を。
そして代わりに必要のない物を押し付けていく。
溜息、気鬱、徒労、忘却、不要な代替品を。
余計な荷物ばかり背負い込まされる憂鬱に吐気までしてきそうだ。

あのループ——、
上手く立ち回り過ぎた故に梓から好意を向けられたあのループ以来、
律は前進も後退も選択出来ない二律背反に苛まれていた。
梓に好かれればこのループから脱け出せるかもしれない。
それが有り得るかどうかはともかく、とりあえずの目標を持てていた時は前進出来た。
目標があるという事は幸福だったのだ、律にとって。
それは恐らく誰にとってもそうだろう。

しかし律に限らず目標を失った時、人は自らの生存理由を失うものだ。
特に律の場合、自らの意志で目標を破棄せざるを得なくなったのだ。
その状態で無限に繰り返す日常を平然と過ごせるはずもなかった。
故にループが六十度を超えた頃、律は笑顔を失った。
否、笑ってはいる。
梓の反応を見て笑顔を浮かべる事は出来る。
だがそれは機械的な反射からの笑顔だった。
感情も何も込められていない、頬と目尻が歪ませただけの笑顔でしかなかった。
斯様な笑顔を無意識に浮かべる事が出来るようになった時、
律は完全に同じ一日を繰り返すだけの機械になったのだった。
梓の反応を見て喜ばれる行動を選択し実行する。
ただし必要以上に喜ばれないように注意を払って。


191


不意に視線を下ろせば、ただ習慣で記しているだけの数字が目に入る。
もうそんなに繰り返したのか、と嘆息する事すらない。
単にもうすぐ二百回目だな、と機械的に思い、残暑の熱気に汗が噴き出るだけだ。
機械的な生活を繰り返すようになって百度以上、真新しい発見はほとんど無かった。
分かったのはこのループが九月一日に辿り着かないという事だけだ。
それは言葉通りの意味だった。
律はどうやっても九月一日の世界を迎える事が出来ない。
一秒たりとも、だ。
何度か時計を見ながら試したから間違いない。
零時を迎えたと思った瞬間、律は八月三十一日の朝に戻される。
寸分の狂いもなく。
一秒の狂いもなく。

それで律は気付いたのだ。
このループの原因はやっぱり私自身か極近い誰からしい、と。
でなければ零時丁度に時間が巻き戻る事などあるものか。
考えるまでもなく世界には時差がある。
別の国の何処かの誰かが、律が感じる零時丁度に世界を繰り返すなど都合のいい事は無いだろう。
つまり誰かが起こしているループに無関係に巻き込まれているわけではないのだ。
少なくとも律自身も含めて律に関係した誰かが世界をループさせている。
その誰かとして考えられるのは梓だ。
律と同じく最初の八月三十一日に満足いかなかった梓が時間を巻き戻している。
それがどんな手段なのか梓自身が意識的に行っている事なのか分からないが、そう考えるのが妥当だろう。


——妥当だから何だってんだよ。


そう首を振りながら律が自嘲する。
仮に梓が時間を巻き戻しているとしても、解決策が見つからなければ発見とは言えない。
しかし、ひょっとしたら——、と律は何度か考えを進めた事もある。
怖がらずに梓との関係を更に進めれば、このループから解き放たれるのかもしれないと。
例えばキスや、恋人以上の関係の者達が行う行為をしさえすれば、梓は満足してくれるのかもしれないと。
梓と恋仲にさえなってしまえば——。
だがそれだけはしてはならない事だと、律はなけなしの意志で決断していた。
キスでも性交でもして梓を満足させられたとしても、それは一時だけの事だ。
必ずすぐに綻びが出て来るだろうし、そもそもそんな原因で梓を弄ぶ事など出来ない。

梓との関係を進める事が嫌なわけではない。
同性同士であるという事も気にならなかった。
理由や原因が何であれ、梓はこの繰り返す八月三十一日の中の救いだった。
輝きだった。
梓が笑っていてくれたから、律はどうにかこのループの中で生きられたのだ。
そんな梓と関係を進めたいと心の奥底では感じている。
しかしそれ故に——、それ故に関係を進められなかった。
律は梓が好きだ。
傍でずっと笑顔で居てほしい。
それ故に打算的な想いをぶつける事だけは出来なかった。
例え止むを得ない事情があったとしても、それだけは許される事では無かった。
許したくなかった。


「買って来ましたよ、律先輩」


柔らかい声に顔を上げると、梓が頼んでいたアイスを買って来てくれていた。
四段重ねのアイスクリーム。


「ん、サンキュな、梓」


「暑いからって食べ過ぎじゃないですか、律先輩?」


「いいじゃんかよー、
この店のアイスで試してみたい組み合わせだったんだからさ」


「まあ、律先輩がそれでいいならそれでいいんですけど」


「そうそう、私はそれでいいのだよ、梓くん。
それにこれであともう少しでこの店のアイスはコンプリートになるしな」


「そんなに来てたんですか……」


「まあなー」


時間が繰り返すようになってからだけど、と胸の中だけで律は呟く。
ループの中、五十度以上訪れたこのアイスの専門店。
梓に伝えた通り、もう三度ほど訪れれば全種食べ切る事が出来るだろう。
それはこのループが二百度を超えるより先に達成しておきたい事だった。

律は決めていた。
前進も後退も出来ないこのループ。
無限に変わらない日常を過ごすだけの繰り返し。
例え梓との関係を進めればこのループから脱け出せるとしても、それだけは律には選択出来ない。
偽りの自分で梓に好かれるなど、律にはそれこそ死よりも辛い事だった。
だったら——、と律は考える。
だったらするべき事は前進でも後退でもなく、このループの放棄だろうと。
試した所でどうなるか分かっているわけではない。
もしかすると同じループをまた経験する事になるだけかもしれない。
しかしそれが律に試せる最後に残された唯一の選択肢だった。


5
最終更新:2014年03月10日 22:12