——二百回目のループの終わりに、死のう。
アイスの甘さを口の中に感じながら、律は軽く拳を握る。
怖くないと言えば嘘になる。
だがそれ以上に無限に梓を騙し続けるループに耐え切れなかった。
勿論、そう決心した理由はそれだけではない。
逆説的にではあるが、もう一つ考えている事もあったからだ。
律は同じ一日を繰り返している。
それを認識しているのは律だけだが、仮に世界の全員もそうだとしたらどうなるだろう。
誰一人として九月一日を迎えられていないという意味にならないだろうか。
律が存在しているがために、誰も未来に進めなくなっているという事にはならないだろうか。
当然ながら単なる仮説ではあるが、もしそれが真実だとしたなら律の存在はこの世界には余計な物だ。
ならばこそ律は、自分がこの世界から消え去ってしまうべきなのだと考えたのだ。
無論、律が消えた所でループが解消されるとは限らないけれど。
目の前でアイスを頬張る梓の笑顔を見ながら律は考える。
——私が死んだらこいつは泣くのかな?
分からない。
かなり泣き虫なタイプではある梓だが、誰かの死を経験した事は少ないだろう。
特に同世代の人間の死に至っては一度も経験していないに違いない。
もしかすると号泣して、しばらくは部活動にも身が入らないかもしれない。
ギターをやめようと考えるかもしれない。
だが、きっと大丈夫だ。
梓には唯が居る。紬も澪も、同級生の憂や純も居る。
いつかは律を失った事を乗り越え、笑顔の未来を見つける事が出来るだろう。
多少寂しい事ではあるが、恐らくはそれでいいのだ。
梓が未来を掴めるのだから。
その未来に律自身が居なくとも。
それがきっと——、律が梓に出来る最期の最良の事なのだ。
*
「来ちゃったな……」
炎天下の太陽に照らされながら律が呟く。
来た。
来てしまったのだ。
来なければいいと思いながらも、心の何処かで来てほしいと考えていた日が。
「何が来たんですか?」
ツインテールを揺らして梓が律の顔を覗き込む。
誰にも聞こえないように呟いていたはずが、存外に大きな声になってしまっていたらしい。
自分で思っているよりも昂ぶっているのかもしれない。
昂ぶらないはずがなかった。
今日が最後で最期のループになるかもしれないのだから。
最低の最後であるのは分かっているが、とにかく終わる。
終わるはずだ。
「えーっとだな……」
「あ、夏休みの終わりが来たって事ですね?
私は知っての通り下級生ですから律先輩の宿題は見てあげられませんよ?」
悪戯っぽく梓に言われ、律は久しぶりに思い出す。
今日が八月最後の日で、夏休みが終わるのだという事を。
九月一日が日曜日であるため、正確には明日が夏休み最後の日になるのだが。
ともあれ夏休みが終わろうとしている事は間違いがない。
梓にとっては勿論、二百度のループを繰り返す律にとっても。
「いいよ、別に。
三年生は宿題ほとんど出てないしな」
「えっ、そうなんですか?
でも受験生なんだし、そういうものなのかな……?」
梓の推察通り、受験生である三年生にはほとんど宿題を出されていなかった。
進路に関する作文と小論文の練習、軽い各教科の課題がいくつかといった所だろうか。
全てを終えているわけではないが、律はその宿題のほとんどを終えていた。
らしくないと思いながらも念の為に早く宿題をしておいたのだ。
二学期には学園祭がある。
梓と、軽音部の仲間達と開催する最後のライブがある。
心置きなくライブに臨めるよう早めに宿題を終えていたのだ。
本来なら明日に残った宿題を全て終えられるはずだった。
しかしそれはもう今の律には関係の無い事だ。
律は苦笑とも失笑とも言えない表情を浮かべ、手のひらを太陽に翳してみる。
200
確認するまでもない。
律の手のひらに記されているのはその数字。
つい先刻書いたばかりなのだ。
諦念と共に記した数字ははっきりと記憶していた。
二百回。
実に二百回のループ。
二百一度目の八月三十一日。
律がこれと決めた日だ。
自分という人生の終わりと決めた日。
今回のループ、律は人知れず自殺を行う。
死のうと決めてからのループ、律はどう死ぬかばかり考えていた。
飛び降り、首吊り、練炭、入水、リストカット、飛び込み、
交通事故を装ってか、工事現場の事故を狙ってか、それとも服毒かいっそ割腹自殺か。
多くの死に方を考えた。
そして多くの死に方を却下した。
痛い死に方が嫌なのは当然だったが、自殺と分かる自殺にも抵抗があった。
自分が自殺した後にこのループの世界が続いたとして、友人達に傷を残したくなかったのだ。
律が自殺した事を知れば家族は勿論、唯や紬、澪は心に大きな傷を負うだろう。
さわ子も生徒の中から自殺者を出してしまった事に責任を感じるだろうし、クラスメイトも悲しむはずだ。
無論多くの物を一人で背負いがちな梓に至っては、再起不能に近い傷を負う危険性まである。
故に即座に自殺と分かる自殺をするわけにはいかなかった。
事故に見せかけた自殺も駄目だ。
単なる自殺と比較すれば、仲間達の傷も幾らかは和らぐはずだ。
しかしそれは責任を見ず知らずの他人に押し付けてしまうという事でもある。
例えば交通事故に見せかけて自殺してみたとして、
律を轢殺してしまった運転手の責任問題はどうなるというのだろうか。
赤の他人とは言え、自らの身勝手で誰かの人生を台無しにしてしまうなど、到底許される事ではない。
自らの死を最善に考えながら、それに誰かを巻き込む事をよしとしない。
それが律に残されたせめてもの良心のようなものだった。
自殺は、殺人だ。
他人を殺そうと自分を殺そうと、そこに価値の差は生じない。
残される者の事を一切考えない身勝手な行動に過ぎない。
律はそう考えていた。
そうして律がやっと見つけた最善の自殺の方法、それは山からの滑落だった。
それも立ち入り禁止で舗装などされていない山道が一番いい。
何処かの誰かに多少の責任が生じるかもしれないが、少なくとも最小限で済ませられるはずだった。
田井中律は何らかの理由で夜の山に足を踏み入れ、
何らかの理由で立ち入り禁止の山道に立ち入ってしまい、不注意から滑落事故にて死亡する。
——よりにもよって思い付いたのが滑落かよ……。
律は己の貧相な発想に苦笑してしまうが、他に思いつかない以上どうにもならない。
間抜けな上に痛そうだ。
しかも死ねなかった場合、酷い痛みと共に一晩を過ごす事になってしまう。
かなり頭の悪い自殺としか言えない。
しかし仲間や他の誰かの心に負わせる傷が最小であるのなら、間抜けでもそれが一番よかった。
ともあれ死ぬのだ。
死ななければならないのだ。
仮定にしか過ぎないが、律が死ななければ世界は九月一日を迎えられない。
唯が、澪が、紬が、梓が楽しみにしている二学期を迎えるには、それしかないのだから。
「ところで律先輩?」
不意に梓が律の横を歩きながら首を傾げた。
自分の死の決意を読み取られたのかと多少動揺しながら、とりあえず訊ね返してみる。
「どうしたんだ?」
「今日は何処へ遊びに行く予定なんですか?
そろそろ行き場所を教えて下さいよー」
「あっ……」
律は間抜けな声を出して口元を押さえる。
すっかり失念してしまっていた。
死に方と死に場所ばかりを考えていて、死ぬまでの時間の過ごし方を考えていない事に気付いたのだ。
律は今日確かに自殺する。自殺しなければならない。
しかし今すぐにというわけではない。
これまでのループと同様に、梓に最高の八月三十一日を体験させて、それから死ぬのだ。
これが最後だからと言って、最後に過ごす梓を適当に扱いたくなどなかった。
「あっ……、って律先輩、行く場所決めてなかったんですか?
決めずにこんな炎天下の中を適当に歩いてたんですか?」
「いやー、ははは……」
「まったくもう……」
目的地を決める事は簡単に出来た。
これまでのループの中で行った場所を適当に選べばいいだけだった。
しかし律は何となくそれをしなかった。
最後のループ、最期の日、梓との最後の思い出、最期に過ごす日常。
故にこれまでと違う場所に行ってみたくなったのだ。
無論何処に行こうとも、梓にとっては最初の八月三十一日だという事は分かっているが。
頭を捻り悩み始める律。
いざとなると最後に過ごすに相応しい場所を思いつかない。
いっそ自宅で会話だけして過ごすのもいいかもしれない。
律がそう思い始めた頃、梓が苦笑しながら意外な事を言い始めた。
「あの律先輩、もし行きたい場所が特にないんだったら……」
「ないんだったら?」
「私の行きたい場所に行ってもいいですか?」
最後のループ、最後の日常。
ならば最後くらい梓の好きな様に過ごしてもらうのもいいかもしれない。
いや、恐らくはそうするべきなのだ。
律はまっすぐな笑顔を梓に向けて、その形のいい頭頂部を撫でた。
「おう、いいぞー。
梓は何処に行きたいんだ?
ちょっとくらいの交通費だったら出してやるから、好きな所を言っていいぞー!」
「それじゃあお言葉に甘えまして、私が行きたい所はですね……」
*
「いいぞー、とは言ったけどさ、梓」
「はい?」
「夏休み中に遊びに行く場所が部室ってのはどうなんだよ……」
「いいじゃないですか、トンちゃんの様子も見たかったですし」
トンちゃんに餌をやりながら梓が笑う。
そう。梓が律を連れて来た場所は軽音部の部室だった。
好きな所を言っていいとは言ったものの、
まさかこの場所を選ばれるとは思っていなかった律は面食らった。
夏休み中も何度か練習で部室に集まってはいたものの、
『遊びに行く』目的で部室に集まった事はなかったし、集まる必要もなかった。
「にしても、トンちゃんの水槽、もう持って来てたんだな」
梓の家で預かっていてもらったはずだと思い出しながら律は続ける。
餌をやり終えた梓が、椅子に座ってからそれに応じた。
「はい、流石に始業式当日に運ぶのも大変ですしね。
三日前、純達に手伝ってもらって、運んでおいたんです」
「言ってくれりゃ私も手伝ったのに」
「受験生の先輩の手を煩わせるのには抵抗ありますってば」
「そりゃそうだ。
お気遣いありがとさん、よく出来た後輩」
「どういたしましてです、受験生の先輩」
皮肉なのか軽口なのか分からなかったが、律は微笑んでそれを流した。
梓の気遣いが嬉しい気持ちはあった。
しかしそれよりも激しく心臓が鼓動し始めていて、律は息が詰まりそうになっていた。
久し振りの軽音部の部室。
暦の上では十日振りくらいだろうが、体感時間では実に半年以上振りだった。
——こんな部室だったんだよな……。
忘れていた。
いや、正確には忘れていたわけではなかったが、思い出す事は少なかった。
繰り返すループに囚われてそんな事を考えてはいられなかったし、
もしかしたら意図的に思い出さないようにしていたのかもしれなかった。
いや、そうだ。
確かに律は意図的に軽音部の部室の事を思い出すのを避けていた。
しかし避けていたからこそ、その避けていた理由までも記憶の隅に追いやってしまっていた。
部室の事を考えない理由までも忘れかけていた。
それで不用意に踏み込んでしまったのだ、間抜けにも自ら不可侵領域に。
先刻までは梓の好きにさせてやろうと考えていた。
今はそれを後悔している。
思い出してしまえば切なくなるから。
躊躇ってしまうから。
このループを断ち切る事に。
この世界から消え去ってしまう事に。
「トンちゃん、元気そうでよかったな」
躊躇いを感じないよう、わざと適当な話題を切り出す。
黙っていると、泣き出してしまいそうだった。
「はい、さわ子先生にはお願いしていたんですけど、
ちゃんと毎日餌をあげてくれてるみたいでよかったです」
「さわちゃんも意外と責任感あるなー」
「そうですね、律先輩だったらすぐ忘れちゃいそうですしね」
「生意気な奴め、中野ー!」
叫んで梓にチョークスリーパーを仕掛けながら、律は思う。
——その通りだよ、梓。私って奴は本当に忘れっぽいみたいだ……。
「きゃー、やめてくださいってば、律先輩」
「うりうりうりうり」
はしゃぐ梓。
その後方で泣き出しそうになりながらチョークスリーパーを極め続ける律。
滑稽な光景だった。
律自身が自覚出来るほどに滑稽だった。
そしてその滑稽な躊躇いは止まらない。
数分後、ある意味予想出来ていた言葉を梓が発した。
それは部室に足を踏み入れた時点で、律も想像していなくもなかった言葉だった。
「ねえ律先輩、
生意気ついでに一つお願いがあるんですけど……」
「……何だ?」
「ドラム、叩いてくれませんか?
学園祭も近い事ですし、律先輩のドラムを久し振りに聴いておきたいんです」
*
久し振りと梓は言ったが、その実それほど久し振りでもなかった。
夏休みの間、補講はあったが部室で練習しなかったわけでもないのだ。
盆周辺こそ集いはしなかったものの、
それ以外の日にはかなりの頻度で練習を行っていた。
律が梓にドラムを聴かせなかったのは、現実には一週間程度といったところだろう。
律の手が震える。
足も身体も震え、何よりも心が震えてしまう。
緊張、興奮、郷愁、切なさ、多くの感情が律の中を駆け巡っていた。
梓には久し振りではない。
あえて久し振りと口にしたのは、大義名分のためだろう。
律にドラムを叩かせるための分かりやすく子供っぽい大義名分だ。
だが律にとっては真実の意味で久しぶりだった。
二百一度目の八月三十一日。
八月三十日には自宅で自主練習した事はどうにか記憶している。
だがそれ以来ドラムには触れていないし、それどころかスティックすらろくに握っていなかった。
避けていたのだ。
ドラムに触れば辛くなるから。
未来永劫辿り着けないかもしれない学園祭の事を連想してしまうから。
つまりループ云々はともかくとして、体感時間において半年以上律はドラムに触れていないのだ。
息が詰まりそうになる。
動悸がただ激しくなる。
それほど期待をしているわけではないだろうが、
それなりに自分のドラムを期待しているはずの梓の視線が痛い。
今すぐにでも逃げ出したい。
——やっぱり部室になんか来るんじゃなかった。
感情など封印してしまったはずだというのに、泣き出してしまいそうな律がそこに居た。
恐怖など押し殺したはずだというのに、今は死よりもこれから待つ未来が怖かった。
ただ怖かった。
逃げ出してしまいたかった。
だが頼まれた以上は叩かないわけにもいかないだろう。
律は深く深く呼吸した後、カチューシャの位置を直すと記憶の引き出しをどうにか開けた。
ドラムの演奏法という記憶の引き出しを。
「……こんなもんだよ」
全ての演奏を終えた後、律は吐き出すように呟いていた。
予想通りだ。
演奏後にはただ梓が戸惑いの表情を浮かべるだけだった。
分かり切っていた事だった。
律はあまり器用ではない。
器用でないからこそパートではドラムを選び、
練習嫌いながらもほぼ毎日自分の身体にドラムのテクニックを刻み込んだ。
練習と経験で一介の女子高生の軽音部員としては、かなりと言ってもいい腕前を取得したのだ。
全ては長い努力に裏打ちされた実力だった。
それが皮肉な形で証明されていた。
ドラムの演奏は言うまでもなく散々だった。
出来ていたビートの取り方すらろくに思い出せない。
半年以上のブランクの影響は勿論あっただろう。
離れていた者に実力を与えるほど、音楽は甘くはない。
だが何よりも律からドラムテクニックを奪ったもの、
それはこのループから脱け出せないかもしれないという諦念だった。
このループから脱け出せないと感じなくもなかったからこそ、律はドラムの事を考えるのを避けていた。
好きな物の事を考えると逆に胸が締め付けられた。
好きだからこそ、考えないようにしていた。
躊躇いが生まれるからだ、この世界から消え去るための。
「だ、大丈夫なんですか、律先輩……?
身体の調子が悪いとか?
それとも私が何か律先輩に無理させてしまったとか……」
梓も律の変化を敏感に悟ったのだろう。
演奏の最初の方こそ律がミスをすると膨れ面になっていたが、
何度も不自然なまでにミスを重ね出すと目に見えて心配そうな表情に変わっていった。
学園祭の成功を危ぶんだのだろうか。
勿論それもあるだろう。
しかしそれよりも律の不調の原因を心配しているのは律にも痛いほど分かった。
梓は生意気ではあるが、決して薄情な後輩ではない。
分かっているからこそ、余計に辛かった。
「すみません、律先輩。
無理に私が頼んでしまったのがいけなかったんですよね……?
どこか辛いようなら律先輩のお宅までお送りします。
送らせてください。
ですから今日はしっかり休んで下さい。
ね、律先輩?
何か問題があるようなら、私がいつでも聞きますし……」
梓の気遣いが胸に沁みて痛い。
そして思い出す、遥か遠い過去にも思える記憶。
一年前の丁度同じ時期、律は澪と険悪な関係になってしまった事があった。
結果的に言えば律の他愛のない勘違いが原因だったのだが、
律と澪が険悪な状態を必死に改善させようとしていたのが梓だった。
好んでいない猫耳まで装着して、場を和ませようとしてくれた。
梓はそういう後輩だった。
だからこそ耐えられなかった。
梓の優しい気遣いに。
梓を不安にさせてしまっている自分に。
そして恐らくは永劫に脱け出せないこの世界に。
「もういいんだよ、梓……」
気が付けば吐き出してしまっていた。
これまで誰にも、何度目の梓にも吐露しなかった自身の感情を。
「いいんだよ、梓。
もう終わりなんだ、私は……。
どうやってもどうにもならなかったし、これからもどうにもならないんだろう。
同じ所でぐるぐるぐるぐる回ってどうにかやってみたけど、何も出来なかったんだ。
何も出来るわけなかったんだよ、私は!
だからもう終わりなんだ……。
終わらせるしかないじゃんかよ……!」
「律先輩……?
一体何を……、何を言ってるんですか……?」
最終更新:2014年03月10日 22:13