菖「やっぱちょっと変わってるよね。これ幸がつけたんだよ」
意外だ。
いや、会ってまだ間もない人のことを決めつけるのは失礼だけど、これは予想外だった。てっきり菖さんか晶さんがつけたのだと思っていた。
……これはこれで失礼か。
菖「私から言うね。私の名前は吉田菖! 菖って呼んでね。ドラマやってまーす!」
幸「私は林幸。ベースをやってます。幸って呼んでください」
晶「ん、和田晶っていいます。楽器はギター。私たち三人で本気でプロ目指してる。呼び方は……晶でいいよ」
三人の自己紹介が終わった。会ってあまり間もないのに、名前で呼んでいいのだろうか。人見知り故にそんなことを思った。
まあ、あっちが促してくれているので名前で呼ばせてもらおう。
次は私たちか。咳払いをして、少し息を吸った。
澪「えっと、
秋山澪です。ふだんは探偵事務所で探偵の仕事をしています」
澪「楽器は私がベース」
唯「私はギター!」
紬「私はキーボード!」
澪「呼び方は名前でいいです」
『探偵』と聞くと、三人の表情が明らかに変わった。好奇心の色が見える。珍しい職業だろうとは思う。
だから次に訊かれることは大体予想できた。
菖「へー! やっぱ探偵ってさ、名推理とかするの!?」
澪「いや、それはないかな。身元調査とか素行調査とかが多いよ」
晶「あー……浮気調査とかか」
澪「そう。だから名推理とかそういうのは小説やドラマの影響が大きいかな、やっぱり」
菖幸「そうなんだ……」
律に目配せすると、律は小さく頷いた。
律「
田井中律、楽器はドラム。えーっと、ふだんは警察官やってる」
梓「
中野梓です。小学校の頃からギターをやっています。本屋さんで働いています」
菖「これで全員自己紹介したね!」
晶「バンド名は?」
三人の視線が私に集まった。好奇心の色を存分に含んだその視線に思わず目を背けてしまった。
ただちょっと、まだこのバンド名が恥ずかしいだけだ。
唯「『ティータイム』っていうんだよ!」
晶「ティー……タイム……?」
幸「ティーって紅茶のティー?」
唯「そうだよ」
は、恥ずかしい……。
この名前は事務所を構えるビルの管理人であるさわ子さんに付けてもらった。なんでも、私たちがいつもお茶を飲んでばかりいるからだそうだ。情けない話だけど否定できないのが悲しい。(そういえば、さわ子さんに「旅行に行く」と出発数日前に告げると、何度もうらやましいと言われた)
梓「やっぱり少し恥ずかしいですね……」
律「だな……」
晶「のほほんとしてるみたいで、なんだか……ぐっ!」
菖の素早い肘鉄が晶に決まった。打たれた晶はうめき声をあげながら脇腹を押さえた。
菖「うん、かわいいよ! 梓ちゃんも敬語じゃなくていいんだよー」
梓「いえいえ! 私、『ティータイム』の中では一つ年下なので敬語で話したいんです」
菖「そう? でも遠慮しないでね」
梓「はい」
演奏と挨拶が終わって、さらに打ち解けたような気がする。とりあえずは一安心だ。
唯「この後どうする?」
晶「少し疲れたな……」
幸「演奏して少し汗かいたから温泉に行かない?」
律「おっ、いいなそれ」
紬「せっかくいろんな温泉がある場所なんだから、入らないともったいないわ!」
なるほど、ムギの言う通りだ。
私たちは今日を入れて残り二泊。今日は二日目。まだ入っていない温泉は五つ。四日目の早い段階で帰る予定なので、三日目である明日までには全部入っておきたい。
澪「そうだな、せっかくだから入ろうか」
梓「今のうちに入っておかないと、間に合わないかもしれませんしね……」
菖「ん? みんなはいつまで泊まる予定なの?」
澪「明後日の午前中には帰る予定かな」
菖「そうなんだ……。私たちは四泊五日だよ」
律「私たちより一日多いのか……」
晶「せっかくここまで来たんだったら、たくさん練習しときたいからな」
温泉旅行ともなれば誘惑に駆られそうなものだけど、その辺りを晶は徹底している。
……もし恩那組がプロデビューするのなら、大ヒットするに違いない。こんなにがんばっているんだから。ずっと応援しようと心に留めておいた。
『静の湯』
唯「ほわー……ここは静かだねえ……」
静の湯は説明にあったように洞窟の中にあった。しきりはきちんと設置されてある。
洞窟だけあって、声を出すと大きく響いた。外部からの音はなく、私たちの声と湯しぶきのだけが聞こえる。肩まで浸かり、天井を眺めているだけで気持ちがよかった。大きく息を吸って、ゆっくりとはき出した。
澪「はぁ〜……」
紬「澪ちゃん、リラックスリラックス」
澪「ああ、ムギ……。おかげさまで、かなりリラックスできてるよ……」
紬「ふふ、よかった」
前を見ると、晶が壁を背に一息ついていた。この温泉はそれぞれが静かな空間の中で思いに耽る場所なのかもしれない……。
律「やったな〜!? くらえっ!」
唯「わっ、ちょっとかけすぎだよ!」
……多分。
近くに三の湯である『涅の湯』があると聞いたので、続けて入ることになった。
写真で見たよりもお湯の色が黒い。色だけを見ると身体に悪影響を与えそうにも思える。本当に珍しい温泉だ。
晶「黒い色って少し不気味だな……」
幸「でも、肌にいいらしいしよ」
晶「それは説明にもあったけど……」
菖「お肌スベスベだよ〜」
色はともかく、この温泉もいい湯加減だ。ついつい頭の中を空にしたまま呆然としてしまう。ずっとこの状態でもよくなってしまいそうだ。
律「梓はそんなに髪長くてめんどくさくないか?」
梓「日本人形みたいだとよく言われますね。黒くて直毛なので」
律「あー……」
唯「ムギちゃんはきれいなブロンドヘアーだよね〜」
紬「そう? ありがとう。でも、雨の日とかはくせ毛で大変なの……」
唯「あ、私もくせ毛だよ! くせ毛仲間だね!」
長い時間浸かっていると、なんだか眠くなってきた。瞼がとても重い。この強烈な誘惑と頭の中で静か格闘していると、一人の女性に目が留まった。
どこかで見たことのある人だ。どこだろう……つい最近見たはず……。見間違いじゃないはずだ。
目を凝らしてその人を見た。その顔を認識した瞬間に記憶が蘇り、眠気は吹き飛んだ。
澪「ああっ!」
驚きのあまり叫んでしまった。唯とムギが不思議そうな表情で私を見た。
憧れの『あの人』が目の前にいる。その女性は少し驚いたように振り向いた。
「あの、どうかしましたか……?」
澪「あっ、あの……もしかしてあなたは……」
よろこびと緊張が入り混じって声が震える。でも、訊かずにはいられない。短く息を吸ってから、
澪「探偵の曽我部恵さんですか……?」
恵「ええ、そうですが……」
やっぱり曽我部さんだった。信じられない。
曽我部恵。
女性探偵であり、私と同じように探偵事務所を経営している。若いながらも実績は豊富で、仕事も上々と聞いている。特に女性の依頼人から好評を博しているらしい。公式ホームページと併せて個人ブログも掲載しており、私はそこを参考にしていた。
そんな理想的な人に直接出会えるだなんて……。
澪「あ、秋山澪といいます! いつもブログ見ています! 私も探偵なんです!」
恵「あら、そうだったんですか」
澪「はい!」
恵「同業者同士、お互いにがんばりましょうね」
柔和な笑みを向けてくれた。いろいろ訊いてみたかったこともあったけど、実際に会ってみるとそんなこと忘れてしまった。そのまま呆然としていると、「それでは」と言って曽我部さんは温泉を後にした。
その背中を見送っていると、唯とムギが私の肩を叩いた。
唯「澪ちゃん、さっきの人は?」
澪「え、ああ……私の尊敬してる探偵なんだ」
紬「ああ、朝に言ってた……。綺麗な人だったね」
澪「…………」
優しそうな人だった。身に纏うオーラが私とは全く違っていた。数々の依頼をこなして自信が付いているからなのかもしれない。
とにかく、私にとって遠く偉大な存在だ。
♯
温泉からあがると、旅館に戻って少し遅い昼食を済ませた。恩那組の三人も一緒だ。
唯「いや〜食べた食べた……」
菖「まだお昼過ぎなんだねぇ」
幸「お昼に温泉入ったから、ちょっと変な感じがするね」
晶「夜までどうする?」
幸「練習はもういいんじゃないかな」
菖「楽器店は……そうだっ! 明日みんなで行かない? あっ、もちろん都合が合えばだけど……」
梓「いいですね、それ!」
律「特に予定があったわけじゃないからちょうどいいな。いいよな、澪?」
澪「うん、いいよ」
菖「ほんとに!? じゃあ、明日一緒に行こっか!」
唯「うん!」
楽器店に行くのは少し久しぶりだ。『エリザベス』をメンテナンスに出して以来だ。
……実は私も自分のベースに名前を付けているという事実は伏せている。言えば律あたりがからかってきそうで恥ずかしいからだ。
梓「明日は決まりですね。じゃあ夜は……」
菖「うーん……あっ」
腕を組んでいた菖が表情を明るくした。いたずらで子どもっぽい笑顔だ。
菖「『ティータイム』の結成までの話を聞きたいな〜」
すると晶がやれやれとばかりに肩を竦めた。
晶「まためんどうなことを……」
菖は目を輝かせて私たちを見つめた。さて、どうしようか……。
助手の唯とムギはともかく、
律と梓は事件を経て仲がよくなった。特に梓の方の事件はまだ梓にとってはデリケートな話題かもしれない。判断に迷っていると、梓が私の顔を見て頷いた。
梓「話してもらってもいいですよ。もう解決したことですし、気にしてませんよ」
澪「う、うん……」
律「私のも全然話してもらっても構わないぞ。なんなら、私の活躍を美化してもらってもいいんだぞ!」
澪「ありのまま伝えるよ」
私がそう言うと、何かを言いたそうにしていたムギが三人に向かって身を乗り出した。
紬「私たちの話が終わったら、ぜひ『恩那組』の話も聞かせて!」
晶「え」
律「プロ目指すバンドの話が聞けるのはおもしろそうだな!」
晶「どうしてそんな流れに……」
幸「まあいいじゃない」
菖「そうだよ! 減るもんじゃあるまいしー。それに、“晶の音楽始めたきっかけ”に触れるわけじゃないんだから」
唯「晶ちゃんのきっかけ?」
晶「お、おいっ! 菖!」
菖「ま、これは夜の温泉の時にでも〜」
紬「楽しみ〜♪」
晶「まったく……」
澪「えーと……」
私たちがみんな揃うまでの話、か。
思い返せば、いろいろなことがあった。楽しかったことや、うれしかったこと。怖い思いをしたこともあった。けど、それらを一緒に乗り越えることができたからこそ、『ティータイム』結成までに至ったんだと思う。
さて、どこから話そうかな。恩那組だけでなく、唯たちも話を楽しみにしているようだ。早く話し始めないと。
澪「そうだな。まず、唯と初めて出会ったことなんだけど……」
♯
澪「その事件が終わった後に律の加入が正式に決まって『ティータイム』が結成できたんだ」
話を終えた後に聞こえたのは三人の感嘆の声だった。まあ、その反応も当然のことかもしれない。事件に関わった私自身もまるで想像やドラマの世界みたいだと思う時がある。
晶「すごいな……」
幸「ドラマみたい……」
菖「みんなにはそんなにすごい話があったんだね……」
澪「まあ、誇ることでもないんだけど……」
菖「いや、立派だよ。だから結束力というか、絆が強いんだねえ」
唯「えへへ〜」
『絆』という菖の言葉が少し照れくさかった。唯はともかく、ムギと律と梓もほっぺたを赤くしていた。ただ、仲が良いのには違いない。
菖が腕を組みながら一度頷いた。
菖「ふふ〜。それじゃあ、次は私たちの結成までの話だね」
幸「どこから話すの?」
菖「入部してから、でしょ!」
晶「ほんとに話すのか……」
どういうわけか、晶は乗り気じゃなさそうだ。それに対して、菖と幸はうれしそうだった。理由はよくわからないけど、期待できそうだ。
菖「まずはね、高校の時に軽音部に入部して幸と出会ったんだ。幸のスラーっとしたモデルみたいな姿見てすぐに、この子と組もう! って思ったの」
幸「私は菖が小さくてかわいくて明るいから、一緒に組もうって決めたんだ」
律「お互いに惹かれるものがあったんだな……」
菖「で、私がドラム、幸がベースって決めたんだ。けど、ギターがいなかったから探したんだ」
紬「それで見つかったにが晶ちゃんね!」
菖「うん。『とある情熱』を燃やしている晶をギターとして迎え入れたんだ」
唯「『とある情熱』?」
菖「ふっふっふ。まあそれは温泉の時にでも晶から聞かせてもらおうよ」
晶「なに勝手に決めてるんだよ! 私は話さないからな!」
菖「もし話さないのなら私から話してみせよう」
晶「…………」
幸「とまあ、私たち三人でやっていくことにしたの」
梓「三人でですか……」
菖「うん。私たち、いつの間にかプロを目指すくらいに熱中してたんだ」
幸「部活内でバンド対決があったんだ。それで一位をとってから本気でそう思うようになって……」
菖「今に至る、と」
律「すごいな……」
梓「一位をとっても、プロを目指すのはかなりの勇気が要りますよね……」
菖「そうなんだ。そこで自信をつけるために、ライブハウスやスタジオなんかで演奏させてもらったりしてたんだ。 ……ずっと三人でね」
幸「その中で褒めてもらったり、アドバイスをもらったりしてここまで来たの。みんなの支えがなかったら、どこかでくじけてたかもしれない」
晶「だな」
すごいと思った。この三人は懸命に前を向いて、まっすぐに生きている。急に自分がちっぽけな存在だと思った。今は私たちとあまり大差のない無名のバンドだ。けど、それをしっかりと受け止めて一生懸命に練習に打ち込んでいる。
私もいつまでも悩んではいられない。とにかく行動を起こさないと何も始まらない。がむしゃらでもいいんだ。
そんなことを気づかせてもらった。
♯
『明の湯』
結局、夕飯まで私たちは話続けていた。やはり女性が集まれば話が弾むのかもしれない。
夕飯を終え、今は八人で湯に浸かっている。ゆったり……とはできない。この湯に限っては。この温泉は湯が赤色をしている。どうしても血を連想してしまい、そのたびに背筋が寒くなる。どうやら、気にしているのは私だけみたいだ。脱衣所で律がからかってきたけど、あえて無視しておいた。
澪「ふう……」
さっきの恩那組の話を聞いて、心のどこかに火がついた。やることは違ってもがんばっている人たちがいる。
私たちも負けていられない。旅行が終われば積極的に行動を起こそう。
晶「……なあ」
私に声をかけたのは晶だった。晶は私の隣まで来ると、少し上を向いた。
澪「どうしたの?」
晶「……さっきの話で言ってなかったけどさ、どうして探偵になろうって思ったんだ?」
澪「ああ……」
ため息をついて、私も晶と同じように遠くを眺めた。湯気がゆらゆらとのぼっている。ほんの数秒、ぼんやりとそれを見つめていた。すると、晶が慌てたようにとりなした。
晶「あっ、いや。話したくないならいいんだ」
澪「ううん、ちょっと思い出してたんだ……。話すよ」
探偵を志した理由。
──困っている人を助けたいんだ。
そういえば、事務所を立ち上げた時に唯にも同じことを訊かれた。そのことを思い出して少し微笑んだ。
澪「私は小さい頃、デパートで迷子になったことがあるんだ。いつの間にか、マ……お母さんとはぐれて気がつけば一人になってたんだ。怖くなって泣いてると、知らないお姉さんが声をかけてくれたんだ」
差し伸べられたあの手を、あの温もりを今でも覚えている。優しくて温かい笑顔を泣きじゃくる私に振りまいてくれた。
澪「そのお姉さんが励ましてくれたおかげで落ち着くことができて、すぐにマ……お母さんと合流できたんだ」
晶「へえ……」
澪「その時から、そのお姉さんのことが忘れられなくてさ。私もお姉さんみたいに困っている人を助けたいって思ったんだ」
晶「それで探偵、ってわけか……」
澪「うん……」
話し終えると、どこかさっぱりしたような気持ちだ。お姉さんのことを思い出したからかもしれない。
隣の晶を見ると、顔を俯けていた。
晶「そっか……」
何か思いつめているみたいだ。声をかけようか迷っていると、菖と幸が私たちのところに来た。
菖「なになに〜? 打ち明け話〜?」
晶「え?」
菖「澪ちゃんの話聞かせてもらったなら、晶からも話さないと〜」
晶「えっ、で、でも……」
唯律「聞かせてーっ!」
紬「わたしも〜!」
梓「ちょ、ちょっと大声出しすぎですよ……」
いつの間にか、全員が集合していた。菖が一同を見てから、晶に向かって頷いた。
菖「ねっ?」
晶「だーもう勝手にしろ……」
晶は諦めたように息をはいた。菖がニシシと笑ってから話し始めた。
菖「晶がギターを始めた理由だね。えーと、どこから話せばいいのかな……」
幸「それなら、ここから。晶は昔、髪長かったんだ」
唯「えっ? 今は短いけど……」
菖「最近はまた伸ばし始めたんだよ」
髪の長い晶が私には思い浮かばない。晶の顔を見ると少し顔を赤くしている。
幸「髪が長かったのが前提ね。晶はとある理由で軽音部に入部してきたの」
紬「それがさっき言ってた、『とある情熱』なの?」
菖「そう! まさにそれ! ずばり、晶は軽音部にいた男の先輩に恋していたので入部したのです!」
唯「おおっ!」
なんだかすごい展開になってきた。晶が恋する乙女だったなんて……。
もう一度晶の顔を見ると、顔から湯気が立ちのぼりそうなくらい赤くなっている。
幸「それから、晶を応援しようって私たち三人でずっと一緒なの」
菖「それから、部活内でバンド対決があったんだ。学祭で演奏して、人気投票してもらう形式で」
梓「たしか、そこで一位になったんですよね?」
菖「うん、なったよー。でね、ここで重要なのがバンド対決前に晶がある宣言をしてたんだ」
唯「どんな?」
幸「『一位になったら先輩に告白する』って言ってたんだ」
唯紬律「おおっ!!?」
三人が大声でリアクションすると、菖と幸は満足げに頷いてみせた。
梓「そ、それで……?」
菖「行ったよ、告白しにね」
幸「けど、その前にちょっと問題が起きたの。晶が告白しに行くと、他の先輩たちが私たちのことを『女の子だから一位になれた』って陰口言ってそうなんだ。晶の好きな先輩……前田先輩っていうんだけど、その人もそれに同意してるのを晶が聞いちゃったそうで……」
菖「まあ前田先輩はその場は空気読んだだけで、ちゃんと実力で判断して私たちに投票してくれたそうだけどね〜」
澪「それならよかったよ……」
菖「それから後日、晶は前田先輩のところに行ったよ。 ……長かった髪をバッサリ切ってね」
幸「『女だから人気が出たって言われないように、いっぱい練習してプロのミュージシャンになって、先輩を見返してやります!』って宣言したんだ」
梓「おー……」
唯「晶ちゃんにはそんな歴史があったんだね……」
菖「そうなんだよー……」
紬「『見返す』ってことは、晶ちゃんはまだその先輩のこと諦めてないのね!」
菖「さすがムギちゃん、名探偵! また伸ばし始めた話につながるんだよね!」
探偵のお株をムギに奪われてしまった。それはともかく、まだ話があるとは思っていなかった。まるで恋愛小説を読んでいる時のような気持ちだ。
幸「ちょっと前にライブハウスでで演奏してると、前田先輩が来てくれたんだ。レコード会社の営業としてね」
律「ん? それってもしかして……」
幸「うん、私たちをスカウトに来てくれたんだ」
菖「高校の時からすごかったからって褒めてくれたんだ。晶ほどじゃないけど、私と幸もうれしかったなー……」
二人は懐かしむように少し微笑みながら話してくれた。スカウトがかかれば当然うれしいはずだ。晶にとっては天にも昇る心地だったに違いない。
梓「その時、晶さんは……?」
菖「しましたよ、もちろん! 告白! ……ただちょっと、オチがね」
急に菖が言い淀んだ。まさか……。
菖「フられたというか……前田先輩、髪の長い子が好きらしいんだよね……」
澪梓「……ああ」
なるほど、それでまた髪を伸ばし始めたのか……。
っていうか、まだその人のこと諦めてなかったのか。第一印象からは想像もつかないような一途な性格だなあ……。相当その人のことを想っていないと、とてもできないことだ。
唯「晶ちゃんは本当にその人が好きなんだね!」
唯がそう言うと、晶は顔を俯かせた。プルプルと肩を震わせている。菖と幸が不安そうにその顔を下から覗き込んだ。
菖「晶さん……?」
晶「だあーっ!」
菖「わっ!」
晶「もう私の話は終わり! 温泉出るぞ!」
晶は顔を赤くしたまま脱衣所へと向かった。私たちはその背中を見て小さく笑った。
律「晶にそんな熱いドラマがあったなんてなー」
紬「わたし、晶ちゃんを応援する!」
唯「わたしもー!」
幸「私たちもあがろっか」
梓「そうですね」
よかったのか悪かったのかは人それぞれだろうけど、聞けてよかった。人には人の数だけドラマがある。それが垣間見えたいい機会だった。
「あら?」
温泉から出ようと湯の中を歩いていると声がかかった。出所の方を振り向くと、曽我部さんが湯に浸かっていた。驚きのあまり少し変な声が出た。
澪「そ、曽我部さん!?」
恵「またお会いしましたね。秋山さんもこの辺りで宿泊を?」
最終更新:2014年03月13日 07:59