澪「は、はい。『紫花月殿』という旅館で」

恵「あら! 私もそこに宿泊させてもらっているの」

澪「えっ、奇遇ですね!」

すごい偶然だ! 憧れの探偵とたまたま出会っただけでなく、宿泊先まで一緒だなんて! これは何かいいことがあるかもしれない。
ウキウキとした気持ちでいると、曽我部さんが私の肩越しに何かを見ているのに気づいた。どうしたんだろう。曽我部さんの顔が青ざめているような気がする。耳を澄ましてみると、低い声が聞こえてきた。ここは温泉だ。何かあるわけがない。
そう思いながら恐る恐る後ろを振り向くと、髪の毛がぞわっと逆立った。

澪「っ……」

白い湯気のずっと向こうに黒い人影が見えた。長い髪で顔がよく見えない。薄暗い岩陰の方にいるのが不気味さを引き立てている。影のようなその存在は不気味な足取りで動いている。そのたびにお湯がざぶざぶと低い音を立てた。低い呻き声を発しながらこっちに近づいている……!?

恵「きゃああああああああああああっ!!!!!」

曽我部さんは叫び声を上げた。私は恐怖のあまり喉が締まり、声が出なかった。曽我部さんはそのまま脱衣所へと駆け出した。一瞬遅れた私もその背中を追いかけた。
異変に気付いた唯たちは全力で走る私と曽我部さんを見てたじろいだ。

律「ななな何なんだっ!?」

恵「にににっにに逃げてっ! 幽霊がっ!」

唯「おおおおばけっ!?」

澪「わあああああああっ!」

菖「ええええええっ!?」

阿鼻叫喚の中、脱衣所へと逃げ込んだ。今にも戸を開けてここに忍び込んでくるようで気が気でなかった。服を乱暴に着替え、その勢いのまま私たちは外に飛び出した。
外の空気を吸って一息ついた私はその場にへたり込んだ。

澪「はあ〜……」

紬「な、何があったの……?」

澪「ゆ、幽霊がいたんだ……! 湯気の向こうに……!」

律「み……見間違いじゃないのか……?」

澪「本当だって! 曽我部さんと一緒に見たんだ!」

曽我部さんの方を見ると、まだ青い顔だった。けど、私よりは落ち着きを取り戻したみたいだ。

恵「ええ……長い髪を垂らした人影のようなものが不気味な動きで……」

晶「単にのぼせただけじゃ……」

恵「いえ、仮にのぼせていたとしても、二人揃って同じものを見ることは考えられないわ。 ……それに、この地域には温泉にまつわる怪談話もあるらしいわ」

曽我部さんがそう言うと、みんなが押し黙った。この温泉にそんな怖い話が本当に……? でも、曽我部さんが言うと、信憑性があるように思える。
沈黙を破ったのは唯だった。

唯「ゆゆゆ幽霊がほんとにいるの……?」

唯も怖いのか、カタカタと震えていた。幽霊は私だって怖い。今だって足ががくがくと震えている。

恵「今夜少し調べてみることにするわ。 ……私も少し怖いので。では私はお先に」

そう言い残して曽我部さんは先に旅館に戻って行った。

菖「あー……びっくりした……」

幸「私はびっくりしたみんなにびっくりした……」

晶「こんなにドタバタしたのは久しぶりのような気がするよ……」

菖「何だかんだで楽しかったんじゃないの〜?」

晶「まず疲れたよ……」

梓「私も疲れました……」

澪「なんかごめん……」

菖「いやいやっ! 別に謝らなくてもいいんだよっ!」

律「けど、本当に幽霊だったのか気になるな……」

梓「とりあえず、旅館に戻りましょうか……」

晶「だな……」

旅館までの道のりはみんな口数が少なかった。唯に至ってはムギの腕にずっとしがみついていた。私も幽霊のことばかり考えていたので、足取りが悪かった。
幽霊の存在は信じる信じないはともかく、みんなの頭に深く印象付いたのかもしれない。


旅館に着くと、私たちは『七号室』、恩那組の三人は『六号室』へと戻った。

菖「それじゃあ、また明日ね〜」

幸「おやすみ」

晶「じゃあな」

澪紬律「おやすみ」

梓「おやすみなさい」

唯「おやすみ〜……」

バタン

律「はあー……久しぶりにこの部屋に戻った気がするな……」

たしかにかなり密度の濃い一日だったと思う。恩那組と出会って、演奏を聞かせてもらって、温泉では互いに結成までの話をした。そして最後には幽霊騒動……。オチまで付いて申し分ない。

紬「ねえねえ。あの幽霊について少し考えてみない?」

律「考える……?」

律は疲れ果てたように寝転がって天井をぼーっと見つめていた。今はカチューシャを付けていないせいか、前髪がとても長く見える。

梓「推論するってことですか?」

紬「そう! 曽我部さんの言ってた怪談話がどんな話なのか推論するの! 小説の探偵みたいじゃない?」

澪「そうだな……」

推論か……。
推理小説とかではあるけど、自分にできるかどうかはわからない。ムギは両手を合わせてぽんと音を鳴らした。

紬「じゃあ簡単なことでもいいから、今わかっていることをどうぞ!」

澪「えーと……夜。幽霊を見たのは夜」

律「そんなことでもいいのか?」

律がすばやく起き上がってあぐらをかいた。いつの間にか私たちは円になっていた。

律「じゃあ、時間は二十時から二十一時。夕飯のあと!」

梓「場所は温泉の『明の湯』ですね」

澪「さらに細かく言うなら、『四の湯』も付けよう」

唯「どうして?」

澪「ここの温泉は数字が割り振られてるだろ? その数字に何か意味があるかもしれない」

唯「なるほど……」

唯も何か推理小説を読んだ方がいいかもしれない。最近は専らギターのギー太ばかり触っている。もっとも、勤務時間内にそんなことができる今の環境が問題だ。
それにしても、『四』か……。あまりいい番号とはいえない。
ムギを見ると、真剣味を帯びた目をしていた。既に私と同じ結論に達しているかもしれない。

紬「『明の湯』から連想できるものは?」

律「連想……?」

紬「ひっかけとかじゃなくて。ほら、パンフレットにも載ってた!」

ムギが指を立てて言うと、梓が「あ」と声を漏らした。

梓「もしかして、『血』ですか……?」

律「あっ」

律も思い出したみたいだった。なにしろ一緒に入る前に内心怖がる私をからかった律だ。忘れているはずがない。

紬「それと、数字の『四』……」

梓「それってもしかして……」

律「…………」

唯「え? え?」

律と梓がほぼ同時に察した中、唯だけが頭の上に疑問符を浮かべている。仕方ない、私が誘導しよう。腕を組んで顔をしかめている唯の方を向いた。

澪「唯、1〜5まで数字をかぞえてみて」

唯「えーっと。いち、に、さん、よん、ご」

澪「“よん”の他に別の読み方はないか?」

唯「うーん……“し”?」

澪「正解。『血』という字が来た上で、『四(し)』の漢字で思い浮かぶのは?」

唯はもう一度腕を組んでうーんと唸った。私たち四人は静かに唯を見守った。
少しすると、唯は顔を輝かせ、座った状態のまま私に身を乗り出した。

唯「『死』! 死ぬの『死』!」

澪「そう。『死』だ」

律「なんか不気味な話になってきたな……」

元々、幽霊なんてもの自体が不気味だ。思い出しただけで鳥肌が立つ。頭を振って幽霊の姿を頭から遠ざけた。

紬「澪ちゃんと曽我部さんが見たっていう幽霊はあの温泉で死んだ人かもしれないわ」

澪「その可能性は高いな……」

律「なんで温泉で、ってなるよな……」

唯「死んだ原因は何かな。 ……のぼせたとか?」

律「それだと、血とお湯の色関係なくなるんじゃないか?」

あの湯の色を思い出した。
考えただけでくらくらする。話が進むまで私は黙っていよう。

梓「お湯が真っ赤になっているのはたくさん血が出たってことですよね。となると、『失血死』……。でもふつう量に関わらず、お風呂場で血を流すことってできますか?」

律「……あるな。ありえない話じゃない。血の量はまあ、あんまり多くないけど。でも簡単にできる」

梓「えっ」

梓が判断に困っていると、律が左腕を前に差し出した。そして、左手の手首を右手で切るような仕草をした。

律「リストカットだよ」

呆気にとられる梓を尻目に私は背筋の寒い思いをしていた。隣に座っている唯も少し震えていた。唯も怖がりなのかと共感の念を抱いていると、唯が勢いよく立ち上がった。

唯「リストカット!?」

紬「落ち着いて唯ちゃん! これはあくまで怪談話の推論だから!」

唯「そ、そうだったね」

いきなり叫んだ唯に私まで驚いてしまった。そのおかげか、少し怖い気持ちが紛れたような気がした。
リストカットか……。

律「まあ、風呂じゃなくても基本的に自分の部屋とか、一人の空間でするらしいけどな」

梓「リストカットって自傷行為ですよね。切ること以外に何か意味があるんですか?」

律「精神的に不安定な人が自分の血を見て安心するとか構ってほしいから、とかは聞いたことはあるな……。私には絶対理解できないことだけどさ」

律がいつになく真面目な顔で言った。私にとっても到底理解できないことだ。万が一、精神状態が不安定になっても、リストカットだけは絶対にやらないと密かに決意した。

紬「じゃあ、次は動機ね。その女の人はどうして……。あっ、女の人でいいんだっけ?」

律「いいと思うぞ。女風呂だし、髪が長かったんだろ?」

澪「う、うん」

紬「じゃあ、その女の人はなぜ自傷行為をしたのか」

唯「他の人に切られた可能性は?」

律「私がもしその幽霊だったらあそこの温泉じゃなくて、襲ってきた人間の所に化けて出るけどな」

唯「なるほど……」

なぜ自傷行為に及んだか……。
頭の中で『明の湯』の光景を反芻してみた。
一番先に思い浮かんだのは血のように赤いお湯の色だった。あの温泉は誰もが強烈な印象を残すはずだ。前もってパンフレットとウェブで見ていたけど、実際に目にすると思っていた以上に印象深かった。
となると……

澪「たぶん……」

ぽつりと声が漏れた。無意識の行動だったので、はっと我に返った私はすぐに口を閉ざした。
すると、律がひょいと身を乗り出して私の顔を覗き込んだ。たじろいだ私は座ったまま少しだけ上体を反らした。律は私を見つめていたかと思うと、にっと笑った。

律「ははーん。さては、何かわかったな?」

澪「い、いや……」

唯「えっ、わかったの!?」

梓「本当ですかっ!」

紬「澪ちゃん、聞かせて!」

みんなが期待の眼差しで私をじっと見つめている。小学生の頃から人数の多い少ないに関わらず、注目を浴びるのは苦手だった。自信がないときはなおさらだった。大人になった今もそれはあまり変わらない。『ティータイム』のボーカルも唯に任せている。
この推論も自信はない。けど、今日は少しだけ勇気を出してみよう。

澪「……じゃあ、なぜ自傷行為に及んだか。それはたぶん、“血の量”が重要だと思う」

梓「量……」

澪「そう。温泉のお湯が赤色に染まるくらいだ。リ……リストカットよりも酷いケガだと思う。あそこで死んだのならたぶん……」

律「体のどこかの部位を落としたか、動脈でも切ったか、だな」

声が震えて言い淀んだ私に対し、律はきっぱりと言い切った。さすが警察官……というよりは性格か。

澪「とにかく、それくらい重傷だったんだ」

唯「じゃあどうしてそんなこと……」

確信部分だ。
いきなり答えを言ってもいいかもしれない。けど、その前にみんなの『明の湯』に対しての感想を聞いてみたくなった。

澪「みんなは『明の湯』を実際に見て、どう思った?」

紬「え?」

答えを言わない私に少し驚いたみたいだった。でも、文句も言わずにちゃんと考えてくれた。

唯「温かそうだなって思った!」

梓「私は珍しい色だと思いました。目を引くというか」

紬「とても明るい温泉だと思ったわ。誰でも目に留まるような」

律「印象に残りやすい温泉だったな。そりゃ、『涅の湯』みたいに黒の方がもっと珍しいんだろうけど、赤は目立つ色だからさ」

みんなの話を聞いて安心した。 ……唯のは少し違うけど。

澪「そう。赤色のお湯は目立つ。『あそこは印象に残りやすい温泉』なんだ」

梓「まあ、血の色みたいだと思わなかったわけではありませんが……」

律「……まさか『印象に残りやすい』ってのが動機なのか?」

律はたまに妙なところで鋭い。私は頷いた。

澪「たぶん、それこそが女の人が作り上げた『自分を自殺に追いやった人への復讐』だと思うんだ。」

唯「復讐?」

澪「大量の血で赤く染まった湯に女の人が死んだまま浸かっていたら、誰だってトラウマになるだろ? たとえ、恨まれている人が直接その現場を見なかったとしても……話を聞いただけでぞっとする」

律「そう言われるとそうだな。それほど怨んでいたのか……とは思うな……」

紬「たぶん夢に出てきてうなされるかも……」

ついに結論だ。息を吸って、ゆっくりと言った。

澪「自殺した理由は、『命を投げ打ってまでして怨んでいる人に強くて恐ろしい印象を焼き付けたかったから』だと思う」

私が言い終えると部屋が沈黙に包まれた。やっぱりどこかおかしかったかな。自信がなかったとはいえ、残念な気もする。少し俯いていると、ぱちぱちと音が聞こえた。
ムギが拍手をしていた。

紬「澪ちゃん、見事な推論だったわ」

澪「え……?」

梓「そうですね。一つの出来事からここまで話が進むとは思っていなかったです」

律「さすが探偵ってとこか」

唯「すごいよ、澪ちゃん!」

澪「ああいや……みんなの情報を寄せ集めただけだから……。なにも、そんなにすごいことじゃないよ。それにこれは推論、遊びだよ。答えが合ってるかどうかはわからない」

律「またまた〜! 謙遜しなすって〜」

澪「け、謙遜なんかじゃない!」

律「へへ〜」

澪「まったく……」

この調子だと、何を言ってもからかわれそうだ。私は腕を組んでため息をついた。
ふと時計を見ると、随分と針が進んでいた。

紬「あっ、もうこんな時間!」

梓「もう寝ますか?」

澪「そうだな」

珍しい行動をしたものだから頭が少し疲れた。しっかりと睡眠をとって冴えた頭の回転を緩めないといけない。

唯「え〜? せっかくの旅行なのにもう寝るの?」

律「四日目は午前中に帰るだろ? 実質フルに遊べるのはもう明日だけだぞ」

唯「あ、そっか」

澪「じゃあ、消すぞ」

唯「おやすみ〜」

律「明日も目一杯遊ぼうな!」

紬「うんっ! 楽しみ〜♪」

梓「おやすみなさい」

澪「おやすみ」

今日は楽しかった。明日の楽器店も楽しみだ。
ゆっくりと寝よう。
知恵を絞ったせいか、頭が少し熱っぽかった。知恵熱かもしれない。一瞬、眠れないのではないかと心配したけど、程なく眠りに落ちた。



私は暗い部屋の中にいた。
外から差し込む薄明かりのおかげで、今座っている場所が探偵事務所だということがわかった。いつもくつろいでいる場所でも、夜になるとまったく異なった雰囲気だ。一人、照明もない事務所に長い間座っていると、どこか虚しい気持ちになってしまう。

澪「はあ……」

癖のため息が出てしまった。ソファもデスクも薄っぺらいファイルもノートパソコンも無言を貫いている。寂しい空間だ。
その時、ガチャという音が鳴った。事務所のドアが開いていた。入り口に立っている人を見て私は反射的に立ち上がった。

澪「あ……あ……」

現れたのは『明の湯』で見たあの髪の長い幽霊だった。
体が凍りついたように動かなくなった。叫び声も出せない。なんとか数歩だけ後ずさりした。

「うううう……」

低い呻き声を発しながら一歩一歩私の方へと近づいてくる。私はついにへたり込んでしまった。もうだめだ。
幽霊の手がゆっくりと私の顔に触れた。その瞬間、目の前が真っ暗になった……。


澪「はっ!?」

唯「わっ! 起きた!」

澪「え?」

辺りを見渡すと、そこは旅館の部屋だった。四人が心配そうに私の顔を見つめていた。

澪「……朝?」

律「だいじょうぶか、澪?」

紬「ずいぶんうなされていたわ……」

澪「夢か……」

唯「どんな夢だったの?」

澪「昨日温泉で見た幽霊が事務所にやって来た夢……」

梓「澪さんの頭にもしっかりと焼き付いていますね……」

なんてことだ。遊びのつもりで話した推論の話が実際に影響するだなんて。
これからもあの幽霊の影に付き纏われるかと思うとぞっとした。

唯「だいじょうぶだよ! 朝ご飯を食べれば元気になるよ!」

律「それもそうだな」

唯の言う通りだ。朝ご飯を食べて気持ちを入れ替えよう。
布団をたたんだ後、服を着替えて部屋を出た。それから、隣の部屋で宿泊している『恩那組』の三人がいる部屋へ向かった。ドアをノックすると、部屋から晶が出てきた。

澪「おはよう」

晶「ああ……おはよう」

手で口を覆いながら晶があくびをした。昨日はあまり眠れなかったのかな?

唯「朝ご飯一緒に食べようよ!」

晶「ああ。二人も呼んでくるよ。ちょっと待ってて」

そう言ってから晶は一度部屋の中に戻った。
廊下の向こうからいい匂いが漂ってくる。温かい味噌汁を飲んでほっとしたい。

ガチャ

幸「おはよう」

菖「お待たせー! じゃあ、大広間に行こっか」

八人で大広間に向かう。
昨日までの私だったら想像もつかなかった出来事だ。少しうれしい。今日も一日が楽しみだ。

大広間に着くと、曽我部さんが一人で食事しているのが見えた。目が合うと、曽我部さんが笑顔で手招きしてくれた。

恵「おはようございます」

澪「おはようございます、曽我部さん」

恵「この方たちは……?」

澪「えっと……。こっちの二人が助手の平沢唯琴吹紬です。あとの二人は友達で、そこにいる三人はこの旅行で知り合いました」

晶「どうも」

菖「私たちも朝ご飯一緒にいいですか?」

恵「もちろん。昨日の温泉で一緒でしたよね」

晶「そうです。ありがとうございます」


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最終更新:2014年03月13日 08:00