もっと泣いたりするのかと思ってた。
でも現実は、ずいぶんあっけなかった。
パワーショベルが外壁に触れる。
ばあん。
ばらら。ばらら。
マンチェスターのハシエンダみたいに。
豊島区のトキワ荘みたいに。
茶色い芝生を踏みしめて、わたしはそれを眺めたんだ。
さよなら、さよなら。
本当にほんとに、さよなら、だね。
きっかけは、憂による一本の電話からだった。
*
唯「ただいまー」
真っ暗闇に声を掛けてから、部屋の電気をつける。
ぱちり。ぱあっと部屋が明るくなる。わたしはこの瞬間が嫌いだった。
だってひとりきりの自分が、はっきりと浮き上がってしまう気がするから。
東京に出てきてから、もう三年がたった。
勤め先は、小さな広告代理店。
卒業前ぎりぎりで内定を勝ち取って、みんな泣いて喜んでくれたっけ。
高校、大学と一緒だったみんなとも、社会に出るとばらばらになってしまった。
職場は優しくていい人ばっかりだけど、時々ふっと寂しさがこみ上げる。
いけない、いけない。
ばいばいしなくちゃ。
大人にならなくちゃ、ね。
現在のわたしの住家は、都内のアパートの六階。
非常階段から上がって、みっつめの部屋だ。
唯「わたしのへーやはろっかい♪ ベルト、ゆるーめたまーまのー♪」
鼻歌も、お隣さんに気を遣って小声で。
本当はスタンドに立てかけてあるギー太を持って歌いたかったんだけど、時間を思い出して、やめた。
小さな歌声で大きな夢を、
平沢唯が午前0時と18分をお知らせします。
唯「シャワー浴びなきゃ」
でも、お腹すいちゃった。夕御飯は、残業中にデスクで食べたコンビニのカレー。
中辛だった。大人味だって思い出して、ひとりくすくす笑う。
唯「なんかないかなー……っと」
冷蔵庫を開く。入っていたのは、コーラと玉ねぎとバターとドレッシング、それと脱臭剤。
唯「フレンチ・ドレッシングの脱臭剤炒めは?」
そう呟いたけど、憂の顔が浮かんできて、笑えなかった。
今のわたしの状況を見たら、どう思うのかな。
怒るかな。呆れるだろうか。ひょっとしたら、泣いちゃうかも。
ごめんね、憂。
それからわたしは、棚にカップラーメンがあるのを思い出した。お湯を注ぐ。きっちり三分。
カップ麺は偉大な発明だ。どんなに偉い人間でも、この三分間は必ず待たされる。
昔カップヌードルが、平和を願うような内容のCMを流したことがあったけど、けっこう理に適っていたのかもしれない。
わたしがそのCMをリメイクし直すなら、キャッチコピーはこうだ。
「平等なる時間。平和を祈ろう三分間」
南ぁ無ぅー。
カップラーメンが出来上がる間、わたしはコーラのプルタブを押し上げた。
取りあえず、ひとくち。
唯「あまいっ!」
しゅわしゅわが喉にきて、頭がきーんとする。ビールを初めて飲んだときを思い出した。
でも、ビールはいつまでたっても苦手だ。甘くないし。
女の子は、甘いのが好きなんだもんねっ。
会社の飲み会は仕方ないから、最初にビールを、それ以降はカルーアミルクを、ちびちび飲んでる。
だけど甘くて美味しいからって、飲みすぎは禁物。あれ、アルコール度たかいしね。
時計をちらり。そろそろお待ちかねの三分だ。五秒前。
5、4、3、2、
そのとき、携帯電話が鳴った。
わたしはびっくりして、持っていた割箸を落としてしまった。
ディスプレイを見遣る。無機質に表示されている文字は、「
平沢憂」。
唯「ういー!」
わたしは嬉しくなって、落ちた割箸もそのままに、携帯を耳に当てた。
だって憂からの電話、何か月ぶりだろう。
久々に聞いた妹の声は、すごく申し訳なさそうだった。
憂『あ、お姉ちゃん? ごめんね、こんな時間に』
唯「いやいや大丈夫だよー。今帰ってきたところ」
憂『こんな時間まで!? 大変だねお姉ちゃん……。ますます申し訳ないや』
唯「大丈夫だって。仕事も楽しいしねえ。憂は最近どう?」
憂は地元で、幼稚園の先生になった。
決まったとき、憂にぴったりだって、わたしは泣いて喜んだよ。
憂『わたしも楽しく働いてるよ。りょうちゃんって子がいるんだけど、今日ね……、
ってそうだ、いけない、今日お姉ちゃんに電話したのはね、』
唯「えーりょうちゃんの話はー?」
また今度ねって諭すように言ってから、続けた。
憂『桜が丘高校の校舎、無くなっちゃうんだって』
最初、なんのことだか分からなかった。
唯「え? なくなる?」
憂『うん……。取り壊しだって』
唯「取り壊し……」
つぶやくように繰り返して、やっとどういうことか分かって、
唯「えっ、えっ?」
狼狽。うろたえ。心臓のスピードが、速くなる。
ごめんね。また憂が謝って、言った。
憂『わたしもさっき、純ちゃんから聞いて知ったんだけど』
唯「うん、うん」
携帯を持つ手に、力が入る。
空っぽの左手は、気付けば汗びっしょりだった。
憂『実は、前々から言われてたんだって』
それから憂は、淡々とわたしに説明した。
耐震強度が無いため、新校舎が建てられること。
それに伴って、わたしたちが使った校舎が壊されること。
これらはもう、決まってしまったことだということ。
憂の口調はニュースキャスターみたいに平坦で、わたしは憂もショックを受けてるんだって、気付いた。
だからわたしは、努めて明るく言った。
腐っても、お姉ちゃんだもんね。
唯「じゃあわたしたちの後輩ちゃんたちは、綺麗な校舎で勉強できるんだね!」
憂『うん……』
唯「うらやましいなー。あ、わたしは勉強しなかったけどねー」
憂『ふふ』
あ、笑ってくれた。
唯「えへへ」
憂『ほんと急にごめんね。どうしてもお姉ちゃんに話したくって』
唯「いーよいーよ。むしろ、わざわざありがとうね。憂も明日、早いんでしょ?」
憂『うん』
唯「じゃ、そろそろ、ね。ほら、良い子はもう寝る時間だよー」
憂『うん。それじゃまた、ゆっくり話そうね』
唯「もちろん! おやすみ、憂」
憂『おやすみ、お姉ちゃん』
唯「ふー……」
携帯をテーブルに置く。混乱していた。
憂は、気付いたかもしれない。わたしが空元気で喋ったってことに。
胸に手を当てる。通常の速度より、ずっと速いリズムを刻んでいた。
校舎が、無くなる。
みんなと過ごした、あの部室も。
唯「あー」
ベットに腰を下ろして、ぼんやりと天井を眺めた。
色々遠くなっちゃうなあって、悲しかった。
もう帰ってこないや。
やっぱり、大人になっちゃうんだね。
*
それからわたしは、伸びきったラーメンをすすって(八つ当たりだけど言わせて。憂のばか!)、
シャワーを浴びて、布団に潜り込んだ。
せっかくだし地元に帰ろうと思い立ったのは、次の日の朝。
それから約一週間後。わたしは地元の道を、歩いていた。
本当は校舎のお別れ式に出席したかったんだけど、仕事の都合でどうしても出られなかった。
いい式だったよって、出席した憂が電話越しに、涙声で教えてくれたっけ。
唯「せかいくんしゅよ♪ さよーならー♪」
鼻歌まじりに歩く。まだちょっと肌寒いけど、道端は春を垣間見せていた。
今回の帰省は、日帰り。
家族との挨拶もそこそこに、わたしは外に出た。目的があったから。
そろそろかな……。
唯「あ」
わたしの母校が、姿を現した。
今日は、校舎が解体される日だった。
誰が決めたのかは知らないけど、これは決定事項。
きっと、偉い人が決めたのだろう。
社会は大抵、お偉いさんを中心に回ってる、らしいから。
でもカップ麺は必ず、平等な三分間を与えてくれるんだ。
わたしはそれを、通り越してしまったわけだけど。
実家から出る前、憂にも声を掛けたけど、行かないって言った。
憂「壊される姿なんて見たら、悲しくて今度こそ泣いちゃうよ……」
そっか……。
憂「だからお姉ちゃん。お見送りは頼んだよ」
唯「任せなさい!」
わたしは背筋を伸ばして、敬礼をした。
校舎の様子を見る限り、まだ取り壊しは始まっていないようだった。
グラウンドの端には、平べったい仮設校舎が建っていた。屋根は真っ青で、素材はきっとプレハブ。
わたしはちょっと離れたところで、旧校舎を眺める。
ネットや足場で厳重に囲まれ、もうすぐ取り壊すのに、やけに大切に扱われているような気がして、可笑しかった。
辺りを見渡す。つなぎを着た作業の人ばっかりで、見物人は数えるほどしかいない。
式は、大勢の人が集まったらしいのに。
今日その人たちがいないのは、憂みたいにやっぱり、悲しいからかもね。
そういえばこれも憂から聞いたんだけど、軽音部やクラスのみんなは、式にいなかったらしい。
言いだしっぺの純ちゃんは、いたらしいけどね。
社会に出てからみんなとは、一度も会ってないや。
電話もメールも。
同窓会の手紙に、常に欠席で出しているせいもあるけど、いざ携帯を手に取ると、遠慮しちゃうんだ。
忙しいんじゃないかなって。
唯「あーあ」
それからわたしは、作業している人に話しかけた。中に入らせて貰えないかって。
分かってはいたけど、やっぱり駄目だった。
そのとき、あまりに申し訳なさそうに返答されたので、わたしはひどく恐縮してしまった。
冷たくつっけんどんに、言ってくれればよかったのに。
唯「やな人間だなあ、わたしって」
そうつぶやいたら、ちょっと気持ちが軽くなって、わたしは笑ったよ。
しばらくしたら校舎の左横に、真っ黄色のパワーショベルが並んだ。
考えるまでもなく、あれで校舎を壊していくんだろう。
唯「どーん」
擬音を想像して口にしたけど、あまり実感が沸かなかった。
もうすぐ、もうすぐで、わたしたちの校舎がなくなっちゃう。
そう言い聞かせて気持ちを急かすけど、だめだった。
駄目なのは、もうわたしが諦めてるせいなのかな。
どうしようもないことだって、観念してるせいなのかな。
ふと、自分は冷たい人間になってしまったんだ、なんて思ってしまった。
憂は悲しいからって、ここに来なかった。
じゃあわたしは?
悲しくないから、ここに来ちゃったのかな?
それから、わたしたちが在学中に、もし取り壊しの話が出ていたらどうなっていただろう、って考えた。
きっと、わたしとりっちゃんが署名をしようなんて提案して、ムギちゃんは笑って賛成してくれて、
澪ちゃんとあずにゃんは溜息をつきながら、それでもわたしたちについて来てくれて、
唯「あ」
パワーショベルの先が、動いた。
ちょっと後ろに下がってから、勢いよく外壁に近づく。
唯「あ、あ」
当たった。
ばあん。
いや、ずどーん?
でも想像したよりずっと、乾いた音だった。
唯「あ……」
砕けた建物の一部が、下へと落ちていく。
端がちょっとだけ、欠けた校舎。そこに、容赦なくパワーショベルが近づく。
ばあん。
唯「もう、いいや」
帰ろう。憂が待つ実家に帰ろう。帰ってから、久々のおいしいご飯を、いっぱい食べよう。
けっきょく校舎が無くなるってことを、再確認しただけ。揺るぎない現実を、突きつけられただけ。
わたしは、麻痺してたんだ。一週間で何もかも分かったような気になった、だけだったんだ。
悲しい、かなしい。寂しいよ。思い出が、こぼれていってしまう。
これ以上見ていられなくて、わたしは踵を返した。
「きゃっ!」
と同時に、声がした。
唯「え」
信じられなかった。
だって後ろにいたのは、
唯「あずにゃん……」
梓「もう、急に振り返らないで下さいよ……」
唯先輩を驚かそうとしたのに、わたしが驚いちゃったじゃないですか。
そう言って、口を尖らす。
しばらく放心して。
唯「あずにゃーん!」
梓「わっ!」
飛びついた。
あの日と変わらない、ツインテールが揺れる。
背後では相変わらず、乾いた音が響いていた。
でもわたしの腕の中は、確かに温かかったんだ。
話を聞くと、あずにゃんは仕事(会社で事務をしてるらしい)を休んで、こっちに帰ってきたそうだ。
校舎にさよならしたかったみたいで。
梓「上手くさよなら、できませんでしたけどね」
わたしから解放されたあずにゃんは、そう言って恥ずかしそうに笑った。
梓「式にも出たかったんですけど」
唯「仕事の都合で来れなかったとか?」
梓「いえ、仕事は休みだったんです。ただ……」
唯「ただ?」
梓「踏ん切りがつかなかっただけで」
唯「へっ?」
わたしが首を傾げると、あずにゃんはちらりと校舎を見た。
わたしもつられて、校舎を見上げる。
工事は思いのほか、難航しているように見えた。
それは必死に校舎が抵抗してるからだって、思った。
がんばれ、がんばれ。
負けるな。
梓「さっきわたし、お別れ式にも出たかった、って言いましたよね」
いつの間にかあずにゃんは、こっちに向き直っていた。
梓「それ、半分は嘘なんです」
唯「うそ、って?」
梓「出席したい気持ちもあったけど、出席したくない気持ちもあった、ってことです」
笑った。哀しそうに。
梓「だって式なんて出たら、分かっちゃうじゃないですか。
校舎が、わたしたちの思い出が、壊されちゃうって、分かっちゃうじゃないですか」
あずにゃんは、喋りつづけた。言葉がこぼれるみたいに。
梓「今日もほんとは、来たくなんてなかった。電車に乗る、ぎりぎりまで迷ったんです。
ううん、電車から降りてこっちに着いたときも、まだ迷ってました。
でも、このまま校舎を見ずに帰ったら、一生後悔が残るって、そう言い聞かせて、ここまで来ました。
いざ着いてみたら、懐かしい校舎はネットに囲まれてて、わたしはすごくショックでした」
わたしは、どんな顔をしていたんだろう。
泣きそうな顔?
固い笑顔?
それとも無表情?
とにかく、あずにゃんはそんなわたしの顔を見て、ハの字になった眉を、そっと緩めた。
梓「でも唯先輩を見て、なんだかほっとしたんです」
唯「わたし?」
あずにゃんが頷く。
梓「ああ、唯先輩は変わらないんだって、そう思いました。
わたしより、ずいぶん早くここに来てましたよね?
きっと、先輩はさよならができるんだって。ちゃんと校舎にお別れができるんだって。
先輩たちが高校を卒業するときも、そうでした。
わたしはいつまでも愚図ってばっかで、でも唯先輩はそんなわたしを受け入れて、励ましてくれて。
あはは。わたし、いつまでたっても子どものままだ……」
ぎこちなく笑って。
だからわたしは、首を振った。
唯「そんなことないよ」
梓「え?」
背中で、思い出が崩れる音がする。
唯「あずにゃんがわたしを驚かそうとしたとき、先にわたしが振り向いたでしょ?」
梓「はい」
あずにゃんがうなずく。
今度はわたしが、言葉をこぼす番だ。
唯「あれ実は、帰ろうと思って後ろを向いたんだ」
梓「え……?」
唯「校舎を壊される姿を見たら、やっぱり悲しくなっちゃってね。
それまで心に麻酔を打たれたみたいに、なにも感じなかったのに」
小さく息を吸う。
唯「さっきあずにゃんは、高校卒業のときのことを話したよね。
違うよ。わたしはそんなに強くなんてない。
あずにゃんからそう見えたのは、わたしにはみんながいたから。
大学に入学しても、みんながついてるって、知ってたから。
わたしがあずにゃんの立場だったら、もっともっと泣き喚いてると思うよ」
あずにゃんは真面目な顔で、わたしの話を聞いてくれる。
わたしは続けた。
唯「わたしね、自分がすごく冷たい人になっちゃったんだって、思ったの。
ネット張りの校舎を見ても、なんにも感じなかったから。
でも違った。校舎がなくなる、悲しいって気持ちを、心の奥に閉じ込めてしまっただけ。
そうやって閉じ込めてしまえたのは、きっと、わたしが大人になっちゃったからなんだ。
嫌なことも、目と耳を塞いでしばらくすれば納得してしまえる、つまんない大人に」
梓「やめてください!」
大声を出した。
最終更新:2014年03月26日 22:39