第一章《転がる石》


『日誌 田井中律、記 2022年10月12日
 今朝、若い女とすれ違った。すぐにまた同じ女とすれ違った。その次も。そのまた次も。
 同じような髪形。同じようなメイク。同じような服装。聞き耳を立ててみれば、話している
 内容も皆同じだ。
 テレビが流行らせる菓子を求めて走り回り、この服を買わなければ男に相手にされないぞと
 テレビにそそのかされる。
 そして、浪費と虚飾とスキャンダルしか考えられなくなった頭を抱えて、自分自身の生き方すら
 決められなくなるのだ。
 知恵も知識も無くし、情報の奴隷と化した奴らは、もう手遅れとも知らずに天を仰いで
 「助けてくれ!」と叫ぶだろう。
 私はこう答える。「嫌だね」と。

 俳優も、歌手も、芸人も、知識人も、文化人も、スポーツマンも、視聴者も。
 皆、マスメディアに食い物にされる。
 メディアは脳みそを食い荒らし、代わりに何か恐ろしいものを植えつけていく。
 誰も彼もが元のままではいられない。
 それは私も、私達も同じだ。あの頃のままではいられなかった。
 いや、変われなかった奴も……

 昨夜、平沢唯が死んだ。犯人は闇の中へと姿を消してしまった。絶対に報いを受けさせてやる。
 絶対にだ』



平沢唯殺害の明くる午前。
彼女の部屋では中年の刑事が二人、疲れた顔で室内を見回していた。

刑事1「ガイシャの名前は平沢唯。年は30歳だ。来月の27日まで生きてりゃ31歳になれたのにな」

刑事2「職業はタレント、か」

刑事1「アイドルだろ? ちょっと前の」

刑事2「どっちも変わらんよ。んで、押し入ったホシにツラをぶん殴られた後、バルコニーから
    50m下の道路に突き落とされたと」

刑事1「ひでえ事をしやがる。相当恨まれていたようだぞ。このガイシャ」

刑事2「いや、怨恨の線は薄いな。確かに現金や通帳の類には手を付けていない。だが、歯ブラシや
    櫛のように本人の身体に触れている物が根こそぎ持ってかれてる。それにアクセサリーとか
    昔のステージ衣装なんかもな。極めつけにゃ、トイレの汚物入れや排水溝の毛髪まで漁った
    形跡がある、と鑑識が言っていた。十中八九イカレたファンのストーキングだろう」

刑事1「なるほど。ずっと自分だけのものにしたいから殺すって訳だ。アイドルの追っかけにも
    その辺の男にもよくある話だな。しかし、何もここまでこっぴどく殺らなくてもねえ」

刑事2「だからイカレてたんだろ。何にせよ、だ。上はどういう訳か『今日中に現場検証を終えて、
    遺族の好きにさせてやれ』ってうるさく言ってきている。もう切り上げようや」

刑事1「だな。おおい! 撤収だ! テープも剥がしとけ!」

二人の刑事は昼食の相談をしながら部屋を後にし、数名の捜査員も“警視庁 KEEP OUT”と
書かれた黄色いテープを剥がすと足早に立ち去ってしまった。



マンションのエントランス前には、うつむき加減でメモ帳に何やら書き込む田井中律がいた。
やがて、スリムなトレンチコートのポケットにペンとメモ帳を突っ込むと、談笑しながら出てくる
刑事達と入れ替わりにマンションの中へと足を運んだ。
奇妙な白黒模様のニット帽と大きなサングラスで顔の半分を隠した律を、刑事の一人がすれ違い様に
チラリと見遣る。
律は構わずに管理人室の小窓の方へ進み、エントランスの自動ドアが閉まると、刑事もすぐに律への
興味を失った。

律「こんにちは。お電話しました田井中です。1503号室の平沢さんの友人で、元の仕事仲間の……」

管理人「ああ、はいはい。では一緒に行きましょう。管理人立会いが原則ですから」

初老の管理人は小窓の横にあるドアから出てくると、律を伴ってエレベーターへと向かった。
二人が乗り込んだエレベーターの中は不気味な沈黙に支配されていた。
管理人はドアのガラスに映る背後の律をチラチラと観察し、律はポケットから出したキーホルダーを
見つめている。
“ん”という平仮名文字を模したピンクのキーホルダー。



警察の眼を盗んで、唯の墜落現場から拾った物だった。
それには一条の血液が付着している。言うまでもなく、持ち主だった唯の血だ。

管理人「どうぞ、こちらです」

エレベーターが開くと同時に管理人から声が掛かる。
律はキーホルダーをしまうと、無言で彼に付き従った。



部屋の中は、警察の捜査が入った以外は、事件当夜のままだった。
物色によって荒らされたまま、である。

律「じゃあ、妹さんに頼まれた分と私が貸していた物を整理して持って行かせて頂きますので」

管理人「……あの、その前にちょっといいですか?」

ノートと油性マジックを取り出すと、管理人はニヤニヤと下品に笑って言った。

管理人「あなた、放課後ティータイムってバンドの田井中律さんですよね」

律「ええ、まあ。元、ですけど……」

管理人「いや、娘があなたのファンでしてね。絶対サインをもらってくれ、ってうるさいもんで」

この野郎。こんな時にどんだけ不謹慎なんだ。唯にも同じ事を言ってサインをせがんだんじゃないのか。
言いたい事は山程あったが、律はしかめっ面でノートと油性マジックを受け取ると、サラサラと
手を動かし、管理人に返した。

管理人「へ……?」

ノートには太い文字で大きく『断る!』とだけ書かれていた。
律はもう彼には目もくれず、室内の整理を始めている。
頬を引きつらせた管理人は、乱暴に合鍵をテーブルに置くと不愉快そうに吐き捨てた。

管理人「私も暇じゃないものでね。下に戻ります。鍵は置いていきますから、さっさと終わらせて
    くださいよ」

ドアが閉められる音を背で受けると、律はニヤリと笑い、サングラスを外した。
怒って帰ってくれた方が都合がいい。
目的は遺品の整理ではなかったし、妹に頼まれたというのも嘘なのだから。
この部屋から唯を殺した犯人の手がかりを見つける。目的はただひとつ、それだけ。
唯には悪いが、唯の為なのだ。

律「あの時の電話…… 唯、お前は私に助けてほしかったんだよな?」

律は十二畳のワンルームを隅から隅まで徹底的に調べ尽くした。
犯人が隅から隅まで徹底的に荒らし尽くした跡をトレースするかのように。
しかし、めぼしい手がかりは何ひとつ見つからない。
それも当たり前だろう。警察のような捜査技術も無く、元に何があってそこから何がなくなっているかも
わからないからだ。
次に律はパソコンに目を付けた。
パスワードが設定されていないのは、唯の性格によるものか、それとも一人暮らし故なのか。
フォルダというフォルダをすべて開いてみたが、やはり事件に繋がるようなものは見当たらない。
あるのは詞が書かれたワード、お気に入りのサイトのショートカット、風景や仕事仲間を写した
平穏なデジカメの画像くらいなもの。

律「ふうむ……」

律は溜息を吐くとPCデスクから離れ、ベッドに腰掛けた。
枕元の辺りに写真立てがひとつ、倒れている。
何の気無しにそれを手に取り、中の写真に目を遣った。
そこに写っていたのは平沢唯、秋山澪、田井中律、琴吹紬、中野梓。放課後ティータイムの
五人である。
ただし、それは2009年、桜ヶ丘高校軽音楽部だった頃の放課後ティータイムだった。
とびっきりの。
満面の。
心の底からの。
どんな形容詞でも足りないくらいの笑顔を浮かべる五人。
律はふと、開きっ放しになっていたPCの画像に目を向けた。
そこにも放課後ティータイムの五人が写っている。2014年6月に紬が脱退する直前、日本中を
彼女達の人気が席巻していた頃の五人だ。
大人びたよそ行きの笑顔で写真に納まるメンバーの中、唯だけがあの頃のままの笑顔を浮かべていた。



その日、中野梓は塞ぎ込んでいた。
明け方近くに関係者からの電話で唯の死を知り、すべての予定をキャンセルし、終日ベッドに
横臥していた。
点けっ放しのテレビから流れてくる『平沢唯殺害』のニュースはどれも同じ内容だった。



犯人はまだ捕まっていない。熱狂的ファンによるストーキング殺人。個性派ミュージシャンで
あると同時に、お茶の間の人気を博したタレント。平沢唯さんを偲んで。
買い物に行く気も、料理をする気も起きず、夜九時を回ってようやくピザをデリバリーしたが、
一口食べて嚥下した途端、トイレで吐き戻してしまった。元々食欲など無かったのだ。

梓「唯先輩……」

一言呟いては涙を流す。今日一日でこれを何十回繰り返しただろうか。
到底受け入れられるものではない。信じたくない。夢であってほしい。冗談であってほしい。
だが、テレビは梓に現実を突きつけるように、日付が変わってもニュース番組のトップで唯の
死を報じた。
そして、その日のスポーツニュースをキャスターが明るい笑顔で伝え始め、疲弊した梓のまぶたを
睡魔が閉じようとした時、携帯電話が鳴った。
画面には『律先輩』の文字が表示されている。
切られてもおかしくない程の時間を掛けた後、梓は通話ボタンを押し、電話を耳に当てた。

梓「もしもし、律先輩ですか……?」

律『寝てたか? 少し話したい事があるんだけど、そっち行ってもいいだろ?』

梓「話って…… 唯先輩の事ですよね。出来れば違う日にして頂けると助かるんですけど。
  もう夜遅いですし」

律『時間は取らせないよ。すぐ近くに来てるんだ』

梓「近く? 今、どこですか?」

律『お前の部屋の前だ』

梓「なっ……!」

ベッドから飛び起き、ドアを開けると、確かに律がいた。

律「よう」

おかしかった。雰囲気というか、佇まいというか。妙なものを感じさせる。
能面のように無表情だが、目深に被ったニット帽の下から覗く眼だけはギラギラと光っていた。
出来れば胸ポケットに差しているサングラスを掛けてほしいくらいだが、それを言うのは
いくら何でも失礼だ。
気味の悪さを感じつつも、梓は今でも尊敬し、信頼しているこの先輩を丁重に迎え入れた。

律「遅くに悪いな。迷惑じゃなかったか」

梓「いえ、迷惑だなんて」

律「腹減ってるんだ。何か無い?」

梓「……デリバリーのピザならありますけど。じゃあ、温め直しますね」

律「いいよ、このままで。おっ、冷蔵庫にビールあるな。一本もらうぞ」プシッ

梓「やっぱり迷惑なんで帰ってもらえますか? 今すぐ」

律「やっと梓らしさが出てきたな」

梓「……もう」クスッ

不気味さは消えていなかったが、律のいつも通りっぷりに、梓は思わず苦笑してしまった。
沈みっ放しの今日一日を鑑みれば、彼女を迎え入れて良かったとさえも思っていた。
梓の内心を知ってか知らずか、律は話を始める様子も無く、冷えて固くなったピザをパクつき、
勝手に冷蔵庫から取り出した缶ビールをあおる。

律「ふう、生き返るよ」

梓「シュークリームでも食べます? 貰い物ですけど」

律「食べる食べる。甘いのに飢えてたんだ」

梓「フフッ、はいはい」

再度苦笑を漏らしながら、冷蔵庫のドアを開ける。
このまま唯先輩の話なんかしないで、ずっといつもの律先輩らしくしてくれていたらいいのに。
梓はそんな事まで考え始めていた。
しかし、振り返った梓の眼に入った物は、その考えを脆くも打ち砕いた。
血に染まった“ん”のキーホルダーがテーブルに置かれている。
シュークリーム入りの箱がドサリと床に落ちた。

梓「そ、それは……」ガタガタ

律「唯のだよ。知ってるだろ」




明け方の衝撃が、日中から夜にかけての悲しみと陰鬱が、五感に甦ってきた。
全身を震わせながら滂沱する梓。それに構わず、律は話を始める。

律「唯が殺された。誰かに。私はその誰かを探し出す」

梓「もう帰ってください……」

律「唯が私に言うんだ。事件の真相を暴いてくれって。だから、私は唯と約束した」

梓「帰ってよぉ!」

律は不意に立ち上がると、梓の胸倉を掴み、キーホルダーを眼前に突きつけた。

律「何で私がこれを持ってると思う!? 唯が私に電話してきたからだ! 殺される直前に!」

梓「!?」



律『もしもし、唯? どした?』

『誰!?』

『ぎゃっ!』

携帯電話そのものが何かにぶつかる激しい音に続き、ガラスが割れる音。

律『唯!? どうした! 何やってんだ!』

『う…… うぅ……』

ジャリジャリと細かい何かを踏みつける音。

『やめて…… お願い……』

律『唯、待ってろ! 今すぐ行くからな!』



律「私が駆けつけたのは警察が来るほんの少し前だった。唯のマンションの前に人だかりが出来てて、
  道路が血の海でさ。そこに唯が倒れてた。ひどい姿で」

梓「もう、やめてください……」

律「血だまりの中で、このキーホルダーを拾ったんだ。まだ使ってたんだな。あれから十何年も
  経ってんのに……」

胸倉を掴む力がフッと消え、梓は床にへたり込んだ。
キーホルダーは律の掌に乗せられており、彼女はそれを異様な眼光で睨みつけていた。

律「ただのイカレたストーカーにあんな殺し方は出来ない。きっと、唯はもっと暗くて大きな
  何かに巻き込まれたんだ」

梓は、今なら律の眼が放つ不気味さの正体がわかるような気がした。
頼られていた親友に、今際の時に助けを求められ、間に合わず無残な死骸と対面してしまった。
彼女のショック、喪失感、罪悪感、後悔は如何ばかりか。
怒りや悲しみといった感情を通り越し、精神を蝕まれていても不思議ではないだろう。

律「……帰るよ。どんな些細な事でも、何かわかったら教えてくれ。それと、お前もしばらくの
  間は身辺に気をつけろよ」

床に転がる箱を開け、袋入りシュークリームを三個程コートのポケットに突っ込み、玄関に向かう律。
その背中に、梓が呟いた。

梓「どうして、こんな事に…… あの頃はみんなで楽しくて……」

律「自分で降りたんだろ」

玄関のドアを開けた律が振り向かずに言った。

律「放課後ティータイムを終わらせたのは、他の誰でもない。私達自身なんだ」



『日誌 田井中律、記 2022年10月13日11時05分
 電車の中で隣に座ったカップルの女の方が、しきりに臭い臭いと男へ耳打ちしていた。
 確かにあの夜以来、風呂にも入らずに駆けずり回っている。
 だが、私には女の香水の匂いの方が我慢ならない。
 メスが交尾相手のオスを呼び寄せる悪臭だ。



 女の鼻の骨を折り、男の頭を手すりに叩きつけてやった。
 乗客は皆、見て見ぬ振り。関わり合いにならなけりゃ、対岸から火の粉は飛んで来ない
 と思っているウジ虫共。
 そうしているうちに世界中が火の粉に覆われるんだ。

 今日はムギに会おうと思う。
 もしかしたら何か有力な情報を知っているかもしれない。
 あいつは芸能事務所の社長をしているし、マスコミが言うには“世界一賢い女”らしいからな。
 何とも馬鹿馬鹿しいたわ言だが。

 それにしても、梓にもらったシュークリームが美味い』



コトブキ・エンターテインメント本社ビルの社長室。
そこで琴吹紬は革張りのソファに座り、律と向かい合っていた。
律はコートを無造作に脱ぎ捨て、Tシャツ姿となっていたが、ニット帽とサングラスは決して
外そうとしなかった。
白のTシャツには黒い大きな文字で、胸の部分に『THE END IS NIGH(終末は近い)』、
背面に『BeHinD yOU(後ろにいるぞ)』とそれぞれ書かれている。
妙な風貌、薄気味悪い雰囲気、それに体臭。気になるところは幾らでもあったが、それを
無遠慮に指摘する紬ではない。
高校時代のように、にこやかに自らの手で紅茶を淹れ、菓子を振舞った。

紬「唯ちゃんの事は本当に残念だわ。何故彼女が殺されなければならなかったのかしら……」

律「こっちが訊きたいよ。ムギ、お前は何か聞いてないのか? 業界内の噂話とか。とにかく、
  これはただのストーカーの仕業じゃない」

紬「さあ…… 噂話も何も、唯ちゃんはそれ程大物って訳でも無かったから。音楽業界でも
  タレント業界でも」

紬の言葉に、律は眉根を寄せ、サングラスに隠された眼を細く光らせた。

紬「それに、唯ちゃんのファン層は所謂オタクと呼ばれる人達が多かったから、警察の発表している
  『熱狂的なファンによるストーキング殺人』で概ね間違い無いかもしれないわね」

律「ふうん……」

律がゆっくりとソファから腰を上げた。

律「唯は音楽が大好きで大好きで、自分の求める音楽を追いかける為に苦悩し続けた。本当の意味
  での“ミュージシャン”だった。クズ共に金を吐き出させるしか頭に無い、一山幾らの淫売と
  一緒にするな」

紬「まあ。秋元さんに聞かせてあげようかしら」クスクス

律「それとな」

オーク材で出来た豪奢なデスクへ歩みを進めると、律はそこに腰掛けた。

律「少なくとも唯は放課後ティータイムの栄光を売り物にする事は無かった。どこかの誰か
  みたいに、親父から継いだ企業の宣伝に自分を使ったり、表紙に自分の写真をデカデカと
  印刷した経営指南書を出版したりはしなかった。売女に身を堕としたりはしなかったんだよ」

紬「……耳が痛いわね」

どちらの顔からも笑みは消えていた。いや、律はこの会談の最初から一度も笑顔などは浮かべて
いなかったが。
しばしの沈黙の後、律はデスクから離れ、コートを羽織った。
ついでに皿の上のクッキーやチョコレートを掴み取り、ポケットへ放り込む。

律「“世界一賢い女”のとこに何か情報が舞い込んだら、連絡をくれよ」

紬「私がそんなに心の広い女だと思う?」

律「思うよ。ああ、告別式は行くんだろ?」

紬「勿論。……りっちゃん、少し見ない間に変わっちゃったね」

律「お前もな。また太ったか?」

律が去った社長室で、秘書が電話を鳴らすまで、紬は窓の外をただジッと見つめていた。





『日誌 田井中律、記 2022年10月13日15時30分
 やはり私達は昔のままではいられなかった。

 梓はアルバイトで生計を立てながら、金にならないインディーズバンドを組んで、ライブハウスを
 中心に活動している。
 解散の後は放課後ティータイムのすべてに背を向け、ソロデビューの話も蹴り、アングラ志向に
 凝り固まっちまった。“持つ者”である自分を殺したがっていたようにも見えた。
 その割にゃショットガンをくわえて引き金を引こうとはせず、メソメソ泣くだけだったが。

 引退後のムギは鼻持ちならない高慢な女に変わってしまった。自分以外の全人類を密かに
 見下している、といった印象だ。
 梓とは逆に、放課後ティータイムのすべてを利用したあいつは、今や日本中から注目される
 実業家になった。いや、企業そのものは世界中から注目されている。
 頭脳明晰で、聡明な、剛腕を振るう、しぶとい女。スーパーコンピュータ並みの頭脳とヒグマの
 身体を持ったマーガレット・サッチャー、とムギを評していた週刊誌があったが実際そんなとこだろう。
 ムギなら第九次世界大戦後も生き残っているに違いない。

 これから残る一人を訪ねようと思う。
 私と梓を従えて、三人になった後期放課後ティータイムを更なる高みに押し上げた功労者。
 日本を代表する超一流ミュージシャン。日本人で唯一のビルボードランキング常連。最近じゃ、
 アムネスティだの熱帯雨林だのといったチャリティ活動にも精を出しているそうだ。反吐が出る。
 誰よりも唯に惹かれ魅せられながら、誰よりも唯を憎んでいた、あいつ。2014年12月31日に
 記者会見で唯の脱退を発表して以来、遂に一度も唯と連絡を取り合う事は無かった、あいつ。

 私の一番の親友だった、あいつ』



黄昏の日本武道館。
『Japan For Africa 2022』と銘打たれたチャリティコンサート会場。
控え室のひとつでは、何度も掌に“人”を書いて飲み込む秋山澪の姿があった。

澪「はぁ…… やっぱり私には無理だよ。桑田さんに桜井さんに坂本さんに…… あんな凄い
  メンバーと共演なんて」

溜息を吐いたり、頭を抱えたり、控え室内を歩き回ったり。それらを一通り繰り返した後は、
また“人”を飲む動作に戻る。
18時の開演まで、あと30分。覚悟は決めていたつもりだが、動揺は止められない。
本日七杯目のコーヒーを飲むべく、ドリップ式コーヒーメーカーに向かった時、背後から
声が掛けられた。

律「あがり症は相変わらずか」

澪が振り向くと、そこには見慣れぬ服装のよく見知った顔があった。
細身のトレンチコート、白い紙に黒いインクを垂らしたような奇妙な模様のニット帽、
大きなサングラス。
両手をポケットに突っ込んだ律が、ドアに寄り掛かり、何かをモグモグと咀嚼していた。

澪「律……! どうやってここに?」

律「んぐ…… 顔パスでここまで案内してもらえたよ。“放課後ティータイムの田井中律”も
  まだまだ捨てたもんじゃないな」

澪「……何の用だよ」

警戒と猜疑の眼差しを向ける澪。それはかつての親友を見る眼ではなかった。
律はポケットからクッキーを取り出し、口の中へ放り込む。

律「ご挨拶だな。子供の頃からバンドの解散まで何年の付き合い――」

澪「何の用だ、って聞いてるんだ」

言葉を遮られた律は、丁寧に咀嚼したクッキーを飲み込み、指を舐めながら、苦笑を浮かべる。

律「おとといの夜、唯が殺された」

澪「知ってるよ。それが何だ。私には関係無いだろ」

律「関係無くは無いぞ。犯人がどんな奴にしろ、他のメンバーが標的にされる可能性も――」

澪「下らない。もう帰ってくれ。もうすぐ開演なんだ」

律「……安心感か? 喪失感か?」

澪「は?」




律「目の上のタンコブがくたばってくれた安心感か? 憧れの存在を失った喪失感か?
  両方ってのも有りだぜ」

澪の顔が紅潮し、奥歯がギリギリと噛み鳴らされた。拳は強く握り締められ、今にも律に
殴りかからんばかりである。
しかし、その手は律には飛ばず、内線電話に延ばされた。

澪「警備ですか? 不審者が私の控え室にいるんです。大至急、来てください」

律「ハハッ、不審者か。否定しづらいな。……唯の告別式は必ず来いよ。じゃないと、せっかく
  被った慈善家の仮面が剥がされちまうぜ? なあ、ミス・ボノ」

澪「うるさい! 帰れって言ってるだろ!!」

罵声の先に律はもうおらず、控え室のドアがあるだけ。
澪の眼は涙に潤み、興奮で息が上がっている。律に言われた言葉が胸に深く突き刺さっていた。

澪「ああああああああああ!!」

絶叫と共にテーブルを引っくり返し、コーヒーメーカーを床に叩きつけ、椅子を壁に投げつける。
その激しい物音を聞いた警備員達は慌てて駆けつけた。不審者がいるとの連絡があった状況で、
平沢唯殺人事件が起きたばかりという事もあり、警備員は生きた心地がしなかった。
見ると、嵐が過ぎていったと形容したくなる控え室の中で、澪が肩で息をしている。
マスカラは涙で溶け、黒い涙となって頬を濡らしていた。
開演まであと15分しかないというのに。



『日誌 田井中律、記 2022年10月13日23時58分
 火曜日の夜、東京で平沢唯が死んだ。
 泣く者もいる。憤慨する者もいる。冷静に受け止める者もいる。面白がる者もいる。無関心な
 者もいる。
 だが、追求しようとする者は私だけだ。私以外には誰もいない。
 私は間違っているのだろうか。
 この地球上で死んでいく人間は無数にいる。戦争、犯罪、貧困、病気。世界は死の原因に
 事欠かない。
 たった一人の女の死に何か意味があるのか?
 あるとも。

 平沢唯が殺されたからだ。

 唯を殺したクソ野郎は今夜ものうのうと夕食にドリンクを付けている。
 探し出して、罰せねばならない。真実を暴き、報いを受けさせなければならない。
 その為ならば、例え世界が滅びる事になろうとも、絶対に妥協しない。絶対に』





どんな気持ちだい?
なあ、どんな気持ちなんだい?
たった一人
帰る家も無い
誰にも相手にされず
転がる石のように
――ボブ・ディラン



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