斎場の外にいた女性は、電車を乗り継ぎ、ある建物に辿り着いていた。
一見してアパートやマンションとは違う、テナント事務所が集まったビル。
その中の一室のドアの前で、女性はハンドバックの中をゴソゴソと探っている。
おそらくは鍵を探しているのだろう。
次の瞬間、彼女のすぐ真後ろでゾッとするような低い声が響いた。

律「鈴木純」

女性は飛び上がらん程に驚き、振り返った。

純「田井中、さん……?」

律「何だよ、随分と他人行儀だな。まあ、いいや。中に入れて茶くらい出してくれるんだろ?
  人を尾行するのって疲れるし、喉が渇くんだ」

純「え…… あ…… は、はい……」

気味の悪さと訳のわからない迫力に押され、純は入室を承諾してしまった。
中は然程広くない。業務用デスク。その上に置かれたパソコン。本棚。来客用ソファ。あとは
別室やトイレ、給湯室へのドア。
律は無遠慮にズカズカと中へ入ると、これまた無遠慮にドシリとソファへ腰を下ろした。

律「売れっ子音楽ライターの割りに、えらく貧乏臭い仕事場だな」

純「いっぱい仕事を入れなきゃ食べていけないだけで、儲かってる訳じゃありませんから……」

律「そんな事無いだろ。あんだけ澪の提灯記事書いといて。事務所からいくらもらってたんだ?」

純「し、知りませんよ。何ですか、それ……」

テーブルの上にコーヒーが置かれた。明らかに適当に淹れた、いかにもなインスタントコーヒー。
不味そうにすする律の、テーブルを挟んだ向かい側に、純も腰を下ろした。

純「一体、何の用ですか。コソコソ尾行なんてしてまで……」

律「そりゃ告別式には参列出来ないよな。澪を持ち上げる為に、徹底して唯を貶めてたんだから。
  憂ちゃんと唯の縁故でライターの職にありついたクセによ」

質問には答えず、耳の痛い話題を振る律。純の表情は不機嫌に曇っていく。

純「だから、何の用件で――」

律「でも、おかしいよな。遺族にも事務所にもファンにも嫌われてて、参列なんてしたくても
  出来ないのはわかってるのに、わざわざ喪服まで着込んで会場の近くまで行くなんてさ」

純「……」ピクッ

律「なあ、何故だ? 何でそんな真似をした?」

純「そ、それは…… 学生時代も、社会人になってからも、お世話になった人ですし……」

律「唯を裏切った澪の提灯持ちが、そんな殊勝なタマかよ」

純「……」

律「お前、唯と何かあったんじゃないのか? 唯の殺しについて、何か知ってるんじゃないのか?」

純「……」

否とも応ともなく、完全に黙り込んでしまった。
だんまりを決め込めば、律が諦めて帰るとでも思ったのか。



律はしばらくの間、視線を落として黙秘する純を睨みつけていたが、そのうちフウと一息吐いて、
再びコーヒーをすすった。

律「なあ、記事ってどうやって書いてんだ? 原稿用紙にサラサラッと? それとも、パソコンで
  カタカタッと?」

不意に、声の調子も話題も変わった。
純は、ほんの僅かに生まれた安心感と油断に、視線を上げて答えを返した。

純「え……? そりゃあ、今時はみんなパソコンですけど……」

律「ふうん。じゃあ、最悪でも左右一本ずつ人差し指が使えりゃ大丈夫か」

純「はい?」

コーヒーに伸ばされた純の右手。
それを素早く掴んだ律は、少しの間も置かず、小指を関節が曲がる方向とは逆に折り曲げた。
バキッと不快な音が部屋に響く。

純「ぎゃああああああああ!!」

律「右の小指を折らせてもらった。唯について何か知らないか?」

純「あ…… ああ……」

震えてうずくまる純。
能面のように無表情な律。
律は純の左腕を無理矢理捩じ上げると、先程と同じく小指を逆関節に折り曲げた。
またも不快な鈍い音が鳴る。

純「いやぁあああああああ!!」

律「左の小指も折った。唯について何か知ってたら教えてくれ」

純「ひっ、ひぃいい…… ああぁ……」

律「今度は右の薬指だ」

純「言います! 言いますから! もう、やめてぇ!」

激痛に身を捩じらせ、涙と鼻水とよだれで顔を汚しながら、純は懸命に言葉を吐き出した。
律は純の横にしゃがみ込むと、彼女の髪を掴み、無理矢理顔を上げさせる。

律「さあ、言え」

純「ううっ…… こ、殺される少し前に、唯さんがこの仕事場に来たんです。本を出したいから、
  きょ、協力してほしいって……」

律「本? どんな本だよ」

純「じ、自伝です。自伝を出版したい、と言ってました」

律「そうか。右の薬指を折られたいんだな」

純「いやぁあああ! どうして!? 正直に言ったじゃないですか!」

律「嘘を言ったからだ。唯のパソコンにはそれらしきデータは無かったし、原稿用紙もメモの
  類すらも見つからなかった。第一、自分を叩いてたライターに協力を頼む奴なんて、
  どこの世界にいるんだよ」

純「嘘じゃありません! 本当です! 本当なんです! 唯さんがここに来て、自伝の出版を
  手伝ってくれって言ったんです! それしか知りません! だからもう、痛い事はしないで!」

律「……自伝の話は、その後どうなったんだ」

純「ゆ、唯さんがここに来たのは殺される四日前で、そ、それから何の連絡も無いまま、
  その……」

律「10月11日を迎えたって訳か…… 他には? 本当にそれ以外、何も知らないのか?」

純「ですから、本当にそれしか知らな……―― あ……」

律「何だよ」

純「い、いえ、そんなに重要な事じゃ……」

律「言え。重要か、そうじゃないかは私が判断する」




純「は、はい…… ええと、自伝を出す理由を教えてくれなかったんです。私が理由を聞いたら、
  急に泣き出して…… あとは、何を言っても泣いてばかりで…… 何かに怯えるように……
  ただ、『ごめんなさい』『許して』っていう言葉だけは聞き取れました」

律「……」

髪の毛を掴む力が消え、純の身体が解放された。
立ち上がった律は、うずくまる純を無言で見下ろしていたが、やがて出口のドアへ向かった。

律「また来るからな。他に何か思い出したり、わかったりした事があったら、ここに電話しろ」

十一桁の数字を殴り書きしたメモ帳のページが破られ、ヒラリと床に落とされた。

律「ああ、それと……」

背中を向けたまま、グルリと首だけを捻る律。

律「今日の事は誰にも言わない方がいいぞ。もし警察に通報なんてしたら、今度折れるのは首だ。
  お前の親や兄貴のな」

純「い、言いません…… 誰にも言いません……!」

律は、純の絞り出すような声を背で聞きながら、事務所を出た。
はて、先程降りた最寄駅までは、どんな道順だったか。
記憶を反芻する為、街の風景を眺めつつ、足早に歩き始めた。



『日誌 田井中律、記 2022年10月15日
 この国は情報に溢れている。最早、第二の通貨と言ってもいい。
 金で情報を買い、情報で生活を、人生を買う。
 人を生かすも殺すも、盗賊に仕立て上げるも聖者に祭り上げるも、情報次第だ。
 そして、タレントやアイドル、ミュージシャンは売れるべくして売れていく。
 最初から、“こいつを流行らせる”とどこかの誰かが決め、無理矢理なマーケティングで
 いかにも流行っているように見せかける。そのうち、頭の足りない連中がそれに飛びつき、
 クソみたいな大流行の出来上がり。
 芸能界も音楽界も概ねこんなものだ。
 人柄も良く実力もある奴が浮かび上がれずに腐っていくなんて、飽きる程見てきた。
 澪の成功と唯の落ち目も、その一部に過ぎない。
 所詮、この世は情報を握れる者、情報を操れる者に左右されるのだ。

 鈴木が言っていた話は本当なのだろうか。理解出来ないし、信じられない。それを裏付ける
 証拠も無い。
 そもそもハナから信用出来る奴じゃない。
 しかし、何本かある調査の線に加える程度の価値はあるかもしれない。
 何せ、ほぼ進展していない状況に、ようやく入ってきた情報だ。
 少し整理してみよう。
 線は今のところ三本だ

 1.唯の仕事関連
 2.妹の憂ちゃん
 3.鈴木に協力を頼んでいた自伝出版

 まずは2から調べる。憂ちゃんは気の毒と思うが、こっちも必死だ。
 1はムギに協力させよう。もし断られたら、あいつの部屋に忍び込んで、色々と勝手に
 やらせてもらう。
 3は…… 3はどうしたものかな。どうも妙に気になる話だ。他と平行して進めてみるか。
 どうにも気になるんだ。

 唯は今頃どうしているだろうか。もう火葬が始まった頃だとは思うが。
 こんなに早く今生の別れが訪れるなんてな。
 もっと私に出来る事がいっぱいあったような気がする。
 あの時、もっと早く駆けつけていれば。
 あの時、真剣に話を聞いてやれば。
 あの時、直接会いに行ってやれば。
 あの時、一緒に仕事をしていれば。
 あの時、私もバンドを脱退していれば。
 あの時、唯の作曲を擁護してやれば。

 あの時、プロになんてならなければ。

 あの時、ずっと大切な友達だ、って伝えられていれば』



僧侶の読経が響き渡る中、火葬炉の前に置かれた小机には位牌と遺影が飾られ、そのすぐ近くに
唯が眠る棺が置かれていた。
本当に最後の別れ。
この後、唯は肉体を失い、灰塵となり、写真や映像や人々の思い出にしか存在しなくなるのだ。



ここにいるのは、唯の両親、憂、近しい親戚達、和、澪、紬、梓。
全員が焼香をし、小机が取り払われ、炉の扉が開けられる。
台車に乗せられた棺が、炉の内部へと運ばれつつある。
憂は虚ろな眼でその光景を眺めていた。脳裏に去来する、唯との最後の対話と共に。



あれは2022年10月6日。

憂『お姉ちゃん、またお酒を飲んでたんだね』

唯『だってぇ…… お酒飲んだ方が、よく眠れるんだもん…… ああっ、持ってかないで……!』

憂『睡眠薬はお酒と一緒に飲んだら危険なんだよ。死んじゃう事もあるんだから。それに気分が
  落ち込む病気はね、お酒を飲んだらひどくなっちゃう可能性が高いの。お願い、わかって』

唯『あぁあ…… 冷蔵庫の中が寂しくなっちゃった……』

憂『その代わり、今夜は私が晩ご飯を作るよ。ハンバーグカレー、お姉ちゃん好きでしょ?』

唯『うん……』

憂『じゃあ、テレビでも見ながら、少し待っててね』

唯『うん……』ピッ

『はい、準備が出来たようです。それでは歌って頂きましょう。秋山澪さんで――』ブツッ

唯『やっぱりラジオにしよう……』ザー

『えー、北海道札幌市のラジオネーム、アタックヤングさんからのリクエストですね。
 「僕は落ち込んだ時や元気が出ない時には放課後ティータイムの“ふわふわ時間”を聴きます。
 平沢唯さんの歌声を聴くといつも力が湧いてきます。僕が物心付く前くらいに流行った曲ですが、
 大好きです」という事でね――』

唯『……』

唯『ううっ……』ポロポロ

唯『うぇえええええん!』ポロポロ

憂『どうしたの、お姉ちゃん。悲しくなっちゃったの? 私がここにいるよ』ギュッ

唯『ういぃ、ういいいい! うぇえええええん!』ギューッ

憂『大丈夫。大丈夫だよ』

唯『ぐすっ、ラジオのね、男の子がね、ぐすっ、私の歌を聴いて、元気を出してるって。
  じゃあ、ううっ、私は、どうしたらいいの……? ひぐっ、平沢唯は、誰の歌を聴いて、
  元気を出せばいいの? うぇえええええん!』ボロボロ

憂『お姉ちゃん……』ギュッ



こんなジョークがある。
ある男が精神科医を訪ねて、こう訴えた。

「私の半生は悲惨の一言だ。もう人生に何の希望も持てないんだ。世間だってひどいものだ。
 先の見えない不安定な社会を、たった一人で生き抜く辛さがわかりますか?」

医者はこう答えた。

「簡単な事ですよ。今夜、あの有名なピエロのパリアッチのショーがありますから、行って
 きなさい。笑えば気分もよくなりますよ」

突然、男は泣き崩れた。
そして言った。

「でも先生…… 私がパリアッチなんです」

上出来のジョーク。客席は大爆笑の渦。
締めはドラムロール。
そしてカーテン。






火葬炉前は騒然としていた。
職員が台車を押して棺を炉内に運ぼうとしていた際、突如として憂が職員を突き飛ばし、
棺にすがりついたのだ。
母は床へ泣き崩れ、父は職員と共に憂を棺から引き剥がそうとし、親戚達はただオロオロと
慌てふためくばかり。
澪ら三人も、その光景には胸が締めつけられる思いだった。

憂「離して! お姉ちゃんは寝てるだけなの! お姉ちゃん、早く起きてよ! みんな、
  困ってるよ!」

父親、火葬場職員二名、そして梓も加わり、必死の力で憂を押さえつける。
それ程までに、今の憂は半狂乱となっていた。

梓「憂……! ダメだよ……!」ポロポロ

暴れる憂を押さえる腕に力を入れれば入れるだけ、梓の眼からは涙がこぼれ落ちた。
父は職員に目顔で促し、それを受けた職員は急いで棺の乗った台車を炉内に運び込む。

憂「やめて! 焼かないで! お姉ちゃんが死んじゃう! お姉ちゃん!」

そして、火葬炉の厚く重たい扉がゆっくりと閉められた。

憂「いやぁああああああ!! お姉ちゃああああああん!!」





誰がお前の別の顔を知っていただろう
誰が死の証明なんて出来るというのか
お前に別れを告げるなんて辛すぎる
現実だとわかっているのに
――レッド・ホット・チリ・ペッパーズ



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