第三章《人生は短い》


ビジネスマン達が気忙しく歩く、月曜の朝。
律はポケットに両手を突っ込んだまま、公園のベンチに浅く腰掛けていた。
サングラスの奥の眼は開かれていたが、二秒前から意識は閉ざされている。
沈黙の井戸から律を引き上げたのは、ポケットの中の携帯電話が発した振動だった。
すぐに通話ボタンを押し、耳へ当てる。

律「誰だ」

純『あの、鈴木です。鈴木純です』

律「何だよ」

純『今日、これから会えませんか?』

律「何か新しい情報でも入ったのか?」

純『い、いえ、そういう訳じゃないんですけど…… 話したい事が……』

律「……まさか、隠していた事でもあったんじゃないだろうな」

純『ち、違います! そうじゃなくて、ちょっと思い当たる事があったんですけど、それを
  考えていたら、すごく怖くなってきて…… お願いです。会って話を聞いてください』

律「わかった。ただ、人と会う約束があるから、午後1時頃にお前の仕事場へ行くよ」

純『はい、お願いします……』

電話は切られた。
物言わぬ電話を両手で持ち、額に当てたまま動かない律。
そんな彼女に、一人の中年女が話し掛けた。

女「少しいいですか? 神様はいつもあなた達を見ていらっしゃいます。審判の日が訪れ、
  世界が終わる時、悔い改めて祈りを捧げる者を、神様は――」

律「世界の終わりなら今日だ。前兆が現れた。東スポを読んだか? 大久保で頭が二つある
  猫が生まれたそうだ。今日に間違い無い」

中年女の言葉を遮り、律はニタリと笑った。
回れ右をして速やかに立ち去る中年女の背中は、サイズの合っていないブラジャーのせいで
ボンレスハムの様相を呈している。
やがて、律はベンチから腰を上げると、コートの襟を立て、朝の光が照らすタイル貼りの
舗道を歩き出した。



『日誌 田井中律、記 2022年10月17日8時22分
 神様は死んだ。悪魔は去った。今じゃ、どれも俳優が代わりを演じているんだ。
 世界はとっくに終わっているというのに、終わるぞ終わるぞと煽り立てる馬鹿共。
 滑稽を通り越して哀れに思える。

 今日、ようやく憂ちゃんに会って話を聞ける。ようやくだ。
 唯が死んだ悲しみには同情するが、泣くばかりで行動を起こさない彼女には、少し腹が
 立ってきている。
 どこの誰ともわからない野郎に姉を殺された。しかも、その野郎は捕まっていない。
 何故、地の果てまで追いつめて、復讐を遂げようとしないんだ。
 泣いている暇があるのなら、せめてもっと早い時点で私に協力するべきだったんだ。
 まあ、いい。役を演じていたいだけなら、そうしていればいい。
 私はそんなの御免だ。
 誰も見ていない舞台で、誰かに押し付けられた役を演じるなんて、到底我慢出来ない。

 午前10時に憂ちゃんと待ち合わせ。
 その後は午後1時に鈴木の仕事場へ。
 やっと兆しが見えてきたのかもしれない。
 この先の見えないハイウェイのような調査に』



自身の住むマンションの程近くにあるハンバーガーショップ。
そこに憂はいた。
駅前や繁華街の中という立地でもなく、時間も月曜の午前。店内には空席が目立つ。
店の奥の奥。外からも店員からも目が届きにくい対面式の席に、憂はひっそりと座っている。
外出もしたくなければ、人と会いたくもない。そんな心境の憂がここにいるのは、律の常軌を
逸したしつこさ故と、他にひとつ。
他にひとつだけ、たったひとつだけ望むものがあった。

律「お待たせ」




オレンジジュースのSサイズコップに差し込まれたストローの先端から眼を上げると、席の
脇に律が立っていた。
律は音も無く、憂の向かい側の席へ滑り込む。

憂「……何も頼まないんですか」

律「腹は減ってないんだ」

憂「顔色、悪いですね。大丈夫ですか?」

律「寝てないからな。てゆーか、顔色が悪いのはお互い様だろ。それよりも早速、本題に
  入りたいんだけど」

憂「ちょっと待ってください。その前に私からお願いがあるんです」

律「……何?」イラッ

ニット帽とサングラスで顔の半分が隠れていても、不機嫌な様子は充分わかる。
しかし、それでも憂は自身の意志を貫きたかった。

憂「……お姉ちゃんの最期を知りたいんです。律さんはその場にいたんですよね。教えてください。
  これが今日、律さんとお話する条件です」

律「……」

律は黙ったまま。憂も律が何かを語るまでは、もう口を開かないと心に決めている。
そして、憂にとって胃が搾り上げられるような沈黙が続いた後、律は重苦しく口を開いた。

律「11日の夜、私は何も知らず、自分の部屋で呑気に過ごしてた。そうしたら、電話が鳴ったんだ。
  唯からの電話が――



電話に出たら、唯の悲鳴が聞こえてきたんだ。驚きと恐怖が混ざったような。

律『もしもし、唯? どした?』

『誰!?』

『ぎゃっ!』

それから、携帯電話がどこかにぶつかったのか、すごい音がして、その後にガラスが割れる音が響いた。

律『唯!? どうした! 何やってんだ!』

『う…… うぅ……』

唯のうめき声と何かを踏みつけるような足音がして、唯が誰かに襲われてるんだ、って思ったよ。
唯が私に助けを求めてるんだ、って。

『やめて…… お願い……』

律『唯、待ってろ! 今すぐ行くからな!』

私はすぐに部屋を出て、車を走らせた。
電話は繋げたまんまにしてたけど、後で確かめたら、すぐに切れてた。
滅茶苦茶にスピードを出して、信号も無視して、それでも十分以上はかかったのかな。
唯のマンションの前に着いた時には、人だかりが出来てた。
急いで車を止めて、野次馬をかき分けて、その中心に行こうとしたよ。

律『クソッ、どけ! どいてくれ! 唯!』

やっとの思いで、人だかりが終わったかと思ったら、離れたところに唯が倒れてたんだ。

律『唯…… そんな…… 唯ぃいいいいいい!!』

ひどかったよ。血の海って、ああいうのを言うんだな。一面、血の海なんだ。
手も足もおかしな感じに曲がってて。
それと、脳みそだ。頭が割れて、脳みそが周りに飛び散ってた。

律『唯! 唯ぃ! 嘘だと言ってくれよ! なあ!』

気づいたら、私は道路に散らばった脳みそを必死にかき集めてた。
それを頭に戻そうとするんだけど、どうしても脳みそがどんどん出て来るんだ。
片方の目玉も飛び出してて、もう片方の眼も飛び出しそうなくらい見開かれてて。
すごく冷たかった。唯の奴、冷たくなってた。
私の手に付いた血や脳みそも冷たかった。
冷たさが、唯は死んだって事を教えてくれたみたいだった。
それから、私はその冷たさに耐えられなくなって、両手で顔を覆ったんだ。



冷たさにも、喪失感にも、悲しみにも、罪悪感にも、驚きにも、後悔にも、怖さにも、
何にも耐えられなくなった。
両方の掌の下で「唯……」ってうめいて、眼を閉じたのは田井中律だったけど……



  ――その眼を開いた時には、もう“私”になっていた」

憂「ううっ…… お姉ちゃん…… ぐうぅ、お姉ちゃん……」グスッグスッ

話の半ばまでも達しないうちに、憂は顔を伏せて嗚咽を漏らしていた。
向かい側の律は表情ひとつ変えていない。
この奇異な光景に、店員も数少ない周囲の客も、不審な視線を送っている。

律「警察が言うストーカー殺人なんて嘘っぱちさ。唯を殺した存在はもっと他の理由を持った
  何かだ。そうじゃなきゃ、あんな殺し方は出来やしない」

憂「ううっ…… ひぐっ……」グスッグスッ

律「憂ちゃんが聞きたい事はすべて話した。さあ、次は私の番だ」

しかし、憂はいまだに泣きじゃくり、顔を上げようとしない。
このままでは埒が明かない。指を折ってでも話をさせたいところだが、流石にそれははばかられた。
相手は死んだ唯の妹なのだ。
そこから三十分程、律は無言で待ち続けた。獲物を待ち続ける蛇の執念に近い。
ようやく落ち着きを取り戻したのか、しゃくり上げる回数が少なくなり、顔が徐々に上がり始める。

憂「ぐすっ…… ご、ごめんなさい。少し、落ち着いてきましたから……」

律「そうか。ありがたいね」

憂「それで、律さんは何が聞きたいんですか……」

律「全部だよ。唯についての何もかもだ」

憂「全部って言われても…… 何から話していいのか……」

律「じゃあ、まずは健康状態や精神状態からだ。あいつ、電話やメールじゃ、詳しく言いたがら
  なかったんだ」

憂は息をひとつ吸い、吐くと、頭の中で整理するように、ゆっくりと話し出した。

憂「お姉ちゃんは、アルコール依存症だったんです……」

律「アル中……?」

憂「はい。お姉ちゃん、元々お酒が大好きなのは律さんも知ってますよね。だけど、音楽の
  お仕事が減って、タレント活動がメインになった辺りから、飲む量も回数もすごい勢いで
  増えて……」

憂「無理矢理お医者さんまで連れて行って、お酒をやめるようにも言ってたんですけど、
  隠れて飲んだり、外出先で飲んだりで……」

再び憂の瞳が潤み始めた。

憂「お姉ちゃん、どんどん様子がおかしく…… 全然眠れなくなって、お部屋で塞ぎ込んで……
  落ち込んでいたら急に泣き出したり…… 助けてあげたいのに、どうしたらいいのかも……
  ぐすっ……」

律「どうして教えてくれなかったんだ。私や梓に」

憂「みんなには絶対言わないでくれって、お姉ちゃんが…… 言ったら死んでやるって……
  私、怖くて……」

律「……唯はずっと悩んでいた。放課後ティータイムの主導権を澪に奪われて以来な。
  バンドの脱退、ソロ活動の商業的失敗、バラエティ中心のタレント活動、事務所移籍、
  二度目のソロ活動失敗、仕事そのものの激減。これで悩まない奴がいたら、そいつは
  どうかしてる。唯が酒に逃げたのも、心を病んだのも、当たり前かもな」

憂「ごめんなさい…… 私がちゃんとお姉ちゃんを支えてあげられれば……」

律「そんな事を言うなら、私だってそうだよ。無理矢理にでも押しかけて行って、あいつの
  力になれば良かったんだ。でも、それをしなかった……」

憂「……」

律「他に何か、唯の行動や態度におかしなとこは無かったか? 例えば、誰かに脅されていた
  様子とか、危険な事に巻き込まれていそうな雰囲気とか」




憂「そんな…… わ、わかりません。一緒に住んでいる訳じゃないですから。昔と違って、
  あまり話をしてくれなくなりましたし。けれど、私から見る分には、そういう感じは
  ありませんでした」

律「ふうむ……」

憂「あとは、週に一度か二度、どこかへ出かけていたくらいです。行き先は絶対に教えて
  くれませんでしたけど……」

律「怪しいな」

憂「でも、そんな時は外泊せずに、ちゃんと部屋に帰って来てました。少なくとも私が知ってる
  限りでは。それに、ひどく酔って帰って来るんですけど、いつもと違って少し楽しそうでした」

律「そうか……」

空振り。ワンストライク。
審判の声が聞こえてくるようだった。
唯に一番近しい人間からの聞き込みで、この結果。
ハイウェイの照明が暗くなり、またも道の先が見えなくなりつつある。
どうしたら良いのか。
他の手掛かりも、手掛かりというには心もとないものだ。
律の頭蓋の中では、思考の渦が激しさを増していたが、顔貌は相変わらずの無表情である。
黙りこくってしまった律に対し、憂はおずおずと言葉を掛ける。

憂「あ、あの、律さん…… もし、お姉ちゃんを殺した人がストーカーじゃないとしたら、
  どんな人だと思いますか……?」

律「ん? ……まだ、わからない。残された手掛かりも、唯が置かれていた状況も、はっきり
  しない事が多いから」

憂「そうなんですか……」

律「ただ、さ…… 唯は誰かに恨みを買うような奴じゃない。だから、犯人は完全に自分の都合で、
  唯に生きててもらっちゃ困る野郎だと思う。何となくだけど」

憂「そんな人がいるんでしょうか……」

律「いるんじゃないか? 芸能界はおっかないところだからな」

憂「……」

またも沈黙の時。
常に思案を巡らせ続けている律はそれでもいいかもしれないが、憂はそろそろこの場が苦痛に
なりつつある。
帰宅したい旨を伝えるタイミングを図っているうちに、憂の視線は律が被っている白地に
黒模様のニット帽に注がれた。

憂「その帽子……」

律「帽子がどうかしたか? 部屋にあったもんを適当に被っただけだよ」

憂「ロールシャッハ・テストのカードみたいですね」

律「何だって?」

憂「ロールシャッハ・テストですよ。私、お姉ちゃんが心の調子を悪くしてから、精神医学や
  心理学の本を買って勉強してて…… その中に載っていた性格検査のひとつで、インクの染み
  みたいな模様を見せて、それが何に見えるかによって人格を分析するテストなんです」

律「ふうん……」

憂「例えば、こんな感じで――」

冷えて硬くなってしまったポテトの脇にあるトマトケチャップ。憂はそれを取ると、紙ナプキンの上に数滴、無造作に垂らした。
そして、その紙ナプキンを二つに折り曲げ、また開く。
すると、そこには赤い、左右対称の、奇妙な模様が展開されていた。

憂「――これ、何に見えますか?」

紙ナプキンが開かれた瞬間から、律には鮮明に見えていた。
頭が割れて脳がはみ出し、血と脳漿に塗れた唯の顔が。
唯がジッとこちらを見ている。眼を離す事が出来ない。

律「……キレイなチョウチョ」






律と憂の会談と、ほぼ同時刻。
コトブキ・エンターテインメント本社ビルの社長室では、真鍋和が革張りのソファに腰掛け、
紬と向かい合っていた。
テーブルの上にはコーヒー、イチゴのショートケーキ、モンブラン、それに署名捺印済みの
書類が数枚置かれている。

紬「うん、これで契約事項は全部ね。和ちゃん、これからコトブキの顧問弁護士として、
  どうかよろしくお願いします」

和「こちらこそ、よろしく。でも、今回の申し出は本当に嬉しかったわ。こう言っては何だけど、
  今は夫の選挙活動の準備で色々と入り用な時期だったから」

紬「今回の衆院選は大変そうだものね」

和「ええ。それに婿養子で私の両親とも同居してるから、普段から気を遣わせてばかりだし、
  こんな時こそ応援してあげなきゃ」

紬「もし、私に協力できる事があったら、何でも言ってね」

和「ムギにはお世話になってばかりね。本当にありがとう」

紬「ううん、お礼を言わなきゃいけないのは私の方よ。唯ちゃんの事ではそれこそお世話に
  なりっ放しだったから。路上ライブで書類送検された時も、前の事務所を移籍する時も、
  今の事務所で契約違反をしそうになった時も。何度もお骨折りしてもらって申し訳無いわ」

和「フフッ、いいのよ。幼稚園からの腐れ縁だから」

紬「本当は私も唯ちゃんの為に何かしてあげたかったんだけど。経営の忙しさで手が離せなく
  なっていて……」

和「大丈夫、きっと唯もわかっていた筈よ。誰よりも何よりも放課後ティータイムの事を、
  他のメンバー達の事を考えていたのは、あなただって。現役の頃も、引退してからも、
  ずっと……」

紬「もっと私に出来た事があったんじゃないかって、いつも考えてしまうの…… だって、
  こんなに早く、唯ちゃんとお別れするなんて思わないじゃない……」

和「……自分を責めるのは簡単よ。でも、それじゃ唯が浮かばれないわ。あの子の分も、
  私達は精一杯生きていかなきゃ。人生は続くんだから」

紬「そうね…… 人生はまだまだ続く……」

和「そういう事。じゃあ、私はそろそろ……」

書類を封筒に収め、それをバッグに入れると、和は立ち上がって一礼した。
紬も立ち上がると、内線電話に手を伸ばす。

紬「菫、私よ。真鍋先生をお送りするわ。あなたも来てちょうだい」

社長室長の斎藤菫を伴い、紬と和は揃って社長室を出た。
廊下では三人が通り過ぎる度に社員達が深々と最敬礼し、エレベーターでは乗っていた社員達が
一斉に降りて三人に箱を譲る。
そんな大手企業ではありがちな光景を繰り返しつつ、紬らはビルの正面玄関から外へ出てきた。

菫「真鍋先生、只今お送りの車が参りますので、少々お待ちくださいませ」

和「えっ? い、いいわよ。電車で帰るから」

紬「まあまあ、和ちゃんは忙しいんだから、是非送らせて。ね?」

和「そう? じゃあ、お言葉に甘えて……」

正面玄関前で談笑する紬と和。
そこから十数m先に、一人の男が歩いていた。
チェック柄のシャツがパンツインされたケミカルウォッシュ・ジーンズ。脂光りしただらしの
無いヘアスタイル。無精髭。
オフィス街には全く似つかわしくない風貌の男。
彼は視線の先に紬を捉えると、急に歩く速度を速めた。
両者の距離が縮まるにつれ、急ぎ足から早足、早足から小走り、小走りから遂には疾走と
言っても良い程のスピードへと加速されていく。
そのうち男は懐から刃渡りの長い包丁を取り出し、紬めがけて殺到した。
周囲のざわめきと悲鳴、大きな足音。
異変に最も早く気がついたのは和だった。
眼を向けると、不潔そうな男が紬に包丁を突き立てようと迫ってくるのが見えた。

和「ムギ! 危ない!」



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最終更新:2014年04月26日 20:19