男と紬が交差しようとする刹那の寸前、和は咄嗟に紬に抱きつき、道路へ押し倒した。
身を起こした紬がまず眼を遣ったのは、左腋下から背中に掛けて大きな切創を負い血を流す和。
そして、包丁を握る息の荒い男。

紬「和ちゃん!」

男「ムギ、お前も俺の物になるんだよ。唯みたいに……! ほらァ!」ダッ

紬「!?」

男は改めて紬に向かって突進する。
紬は包丁から身をかわすと、地面に突き立つ鉄製の車止めポールを素早く引き抜き、男の顔面に
狙いをつけた。

紬「ええい!」ブゥン

男「ぶっ!」

フルスイングされた鉄製ポールは男の鼻っ柱を的確に打ち抜いた。
男は大きく吹き飛ばされ、玄関前の石段に背中を叩きつけられたところで、数名の男性
社員に取り押さえられた。
内出血で変色し、腫れ上がる顔面。噴水の如く吹き出す鼻血。それでも男は紬を舐めるように
見つめる事をやめようとしない。
紬は鉄製ポールを放り投げ、和のもとに駆け寄ると、彼女の身体を抱きかかえた。

紬「和ちゃん! しっかりして! 和ちゃん!」

和「だ、大丈夫よ…… かすっただけ……」

菫「お姉ちゃ―― 社長! 大丈夫ですか!?」オロオロ

紬「私の事より和ちゃんが! 早く救急車を呼んで! 早く!」

眉根を寄せて倒れる和。
顔面蒼白で立ち尽くす菫。
錯乱気味に声を上げる紬。
更には通行人やビル内から出て来る社員が騒然とする中、組み伏せられている男は紬を見つめ
続けている。

男「クソッ、もう少しだったのに…… もう少しでムギも永遠に俺の物だったのに! ムギ!
  愛してるよ! チクショウ! 離せェ!」

そのわめき声を耳にした紬は立ち上がると、ゆっくりと男へ近づいた。
拳は固く握られ、歯はギリギリと食いしばられている。

紬「あなたが、唯ちゃんを殺したのね……?」

男「ヘヘヘ、そうだよ? 唯は永遠に俺の物になったんだ。髪の毛も経血も食べてやった。
  次はお前、その次は澪、その次は、ヒヒヒ……! みんな、俺の物に―― ぶへェ!」

男の言葉が終わらないうちに、紬の憎しみによって握り締められた拳が彼を殴りつけた。

紬「このケダモノ! 唯ちゃんを返して! 返してよぉ!!」ドガッ バキッ

菫「ああ、お姉ちゃん…… お姉ちゃん……」ガタガタ

警備員「社長! おやめ下さい!」

常務「いけません! それ以上は過剰防衛になります! あとは警察に任せましょう!」

紬「唯ちゃんを返してぇ!!」



再び、律と憂が向かい合うハンバーガーショップ。
ポケットの中の携帯電話が震え、律に着信を知らせる。
律は、ウンザリ気味の憂に配慮する事も無く、携帯電話を耳に当てた。

律「誰だよ。え? ムギの? はあ…… 何だって? 嘘だ! そんな訳があるか!」

おそらく一分にも満たない短い通話だっただろう。
会話とは言えない不可解な反応の後、律は通話の終わった携帯電話をポケットにしまった。

憂「あ、あの…… どうかしたんですか?」

単純な驚き。それと正体不明の不安感。憂は何事か尋ねずにいられなかった。
無言のまま爪を噛んでいた律であったが、やがて渋々といった調子でボソリと呟いた。

律「……犯人が捕まった。唯を殺した犯人が」




憂「ええっ!? 本当ですか!?」

律「ああ。ムギの秘書って奴からの電話だ。ついさっき、唯を殺した野郎がムギを襲ったらしい。
  でも、逆にムギにブチのめされて逮捕されたって……」

憂「逮捕、された……」

律「そんな馬鹿な……」

憂「……!」

律の一言が憂の顔色を変えさせた。これまでに無い怒りの色を強く表している。
それもそうだろう。せっかく憎い犯人が捕まったのだ。本来であれば喜ぶべきところなのに、
そんな筈が無い、とでも言いたげな態度なのだから。
尋常ではない執念で犯人探しをしていた張本人であるにも関わらず、である。
憂はもう、一秒でもこの場にいたくなかった。こんな狂人と向かい合っていたくなかった。

憂「すみません。私、そろそろ失礼します」ガタン

律「おい、待て」

席を立って出入口に向かおうとする憂。
そうはさせじと彼女の手を掴む律。
しかし、自分を引き留める手にも、その手の持ち主である律にも、憂は一瞥もくれようとしない。
すべては既に終わっていたのだ。

憂「お姉ちゃんは帰って来ないけれど…… せめて、司法が犯人を極刑にしてくれる事を願います。
  だから、律さんも、もう……」

律「唯は自伝を書こうとしていた。鈴木純に協力を頼んでいたんだ。その事について何か
  見たり聞いたりしてないか? それが真犯人に繋がる糸口かもしれないんだよ」

度し難い。救いようの無い。
フウとひとつ吐かれた憂の溜息がそう物語っていた。

憂「いい加減にしてください……!」

律の手を強引に振りほどき、憂は荒い足取りでハンバーガーショップを後にした。
一人残された律はただ視線を落とす。
紙ナプキンとトマトケチャップのロールシャッハ・カードに。
血まみれの唯の顔に。



唯『もしもし。りっちゃん、寝てた?』

律『うんにゃ、起きてたよ。どした?』

唯『あのね、純ちゃんのコラムを読んだんだけど……』

律『唯~、あいつの記事はもう読むなって言ったじゃんか。いちいち腹立ててたらキリが
  無いんだからさ』

唯『でもでもっ! ひどいんだよ! “平沢唯在籍時の前期放課後ティータイムの人気は、
  失礼ながらアイドルのそれに他ならない”なんて書いてるんだよ! もう何年も前の事
  なのに……』

律『いや、もうその放課後ティータイムも解散しちゃったようなもんだろ? 澪の奴がソロ
  アルバムなんて出して、バンドとしての新譜やライブの話も無くなったし。私や梓は
  どうすりゃいいんだよ。ったく』

唯『でも……』

律『あ、そういえばさ。この前出た唯のアルバム、良かったよ。ケルト音楽とかアンデス音楽
  とかはあんまり詳しくないけど、唯の歌やギターとピッタリ合ってた。あれ、すごいな。
  今の事務所に移って正解だったんだよ』

唯『全然、売れてないんだよね…… テレビやラジオでも掛けてもらえないし…… どうして
  なんだろう……』

律『そ、それは、ほら、あれだよ。売れてりゃ良い音楽とは限んないだろ? わかる人には
  わかるってヤツだよ』

唯『澪ちゃんのソロアルバムはあんなに大人気なのに……』

律『澪は澪、唯は唯だぞ。私はちゃんと唯の音楽の良さをわかってるからさ。それに比べて
  私なんか、ソロやりたくったってそんな実力も無いし、新しいバンド組みたくったって
  声掛けてくれる奴もいないし――』




唯『純ちゃんも、私が抜けた後の放課後ティータイムや澪ちゃんの事はすごく褒めてるのに……
  どうして私だけ……』

律『お、お~い。唯~?』

唯『やっぱり私はただのタレント、ううん、コメディアンなのかな…… 放課後ティータイムが
  人気だったのも澪ちゃんとムギちゃんのおかげで、私はいてもいなくても良かったのかな……』

律『なあ、唯……』

ガチャッ ツーツーツー

律『唯? もしもし? ……何だよ、もう』



午後1時まで、あと9分11秒。
律は、鈴木純の仕事場の前に来ていた。
先日、一度訪ねたきりではあったが、唯との思い出を回想していても自動的にたどり着ける程に
足が道順を憶えていた。
約束の時間には少し早いが、律は遠慮もノックも無く、仕事場のドアを開いた。

律「よう。来たぞ、鈴木。一体、何の――」

思わず言葉を飲み込んだ。
ドアノブを握る手に力がこもる。
しかし、その力とは裏腹に、出来る限り物音を立てずに部屋から身体を引っ込め、静かに
ドアを閉めた。
すぐに手持ちのティッシュペーパーで、ドアノブを素早く、かつ入念に拭く。
ノブを拭き終わったティッシュペーパーをポケットに捻じ込むと、律は足早にその場から離れた。
大丈夫。監視カメラは設置されていなかったし、この様子を見ている者もいなかった。大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせるも、驚きと、焦りと、苛立ちと、腹立たしさが、足取りと心臓の鼓動を
どんどん速めていく。
律は心中であらん限りの悪態を吐きながら、最寄駅への道を急ぎ足で引き返した。



『日誌 田井中律、記 2022年10月17日13時31分
 くそっ。くそくそくそくそっ。何てこった。どうなってるんだ。
 ツーストライクだ。冗談じゃないぞ。
 鈴木が死んでいた。首を吊っていた。ちくしょう。ブラ下がっていやがった。
 一体、どういう事だ。奴の方から私を呼び出したってのに。話したい事があると言ってたのに。
 ブルった様子で私に助けを求めてるようだった。
 何故そんな奴が自殺するんだ。午後には私が行くと言ってたのに。
 話が噛み合わないぞ。くそったれ。
 誰にも見られていないだろうな。おそらく、たぶん、誰にも見られていない筈だ。
 監視カメラだって無かった。本当か?
 くそっ、頭が混乱している。落ち着け。意識を集中しなければ』



律の携帯電話が本日三度目の着信を知らせたのは、彼女が朝の時点で座っていた公園のベンチに
腰を落ち着けた、まさにその瞬間だった。
律は発作的に携帯電話を地面へ叩きつけたい衝動に駆られるも、すぐに我に返り、画面表示を
確認した。
そこにあったのは“中野梓”。
通話状態にした携帯電話から聞こえてきたのは、ひどく慌てた梓の声だった。

梓『律先輩! 聞きましたか!? 唯先輩を殺した犯人が逮捕されたって!』

律「ああ、聞いたよ。ムギの秘書から連絡があった」

梓『そうでしたか。でも、本当に良かったです。こんなに早く犯人が捕まって。これで律先輩も
  犯人探しなんてしなくてもよくなりましたし……』

律「……違う。ムギを襲った奴は犯人じゃない。真犯人が別にいるんだ。絶対に」

梓『何を言ってるんですか。もう事件は解決しているんですよ。気持ちはわかりますけど、
  もう――』

律「なあ、梓」

梓『何ですか?』

律「鈴木純が死んだ」

梓『……は?』

律「鈴木純が自殺したんだ。自分の仕事場で首を吊って」




梓『ど、どういう事ですか!? そんな……! 純が……! 嘘です!』

律「勝手を言うようで申し訳無いが、落ち着いてくれ。話を円滑に進めたいんだ」

梓『だって! そんな! 純が、純が死んだなんて!』

律「私が出した結論から先に言うぞ。鈴木は自殺したんじゃない。殺されたんだ」

梓『どうして律先輩にわかるんですか!』

律『もう一度言う。落ち着いてくれ。今から説明するから』

梓『ううっ…… ぐすっ……』

律「私は唯の死を調べていく中で、鈴木の存在に当たったんだ。告別式の日の行動に怪しさを
  感じてな。それで奴から唯に関しての情報を聞き出した。梓、お前さ、唯が自伝を出版
  しようとしていたって聞いた事があったか?」

梓『い、いえ……』

律『唯の自伝出版。それが鈴木から聞き出した情報のひとつだ。他には、唯はその理由を
  言おうとせず、泣きながら誰かに謝っていたって事も。ここまではいいか?』

梓『え……? あ、はい……』

律「鈴木は今朝、私に電話してきたんだ。話したい事があるってな。唯の死そのものについてか、
  自伝についてか、今となってはわからないが。それと、何かにビビってるようだった」

梓『……』

律「話が噛み合わないんだよ、梓。道理に合わないんだ。朝、私に会いたいと言ってきた奴が、
  昼には私が行くってのに、その前に自殺しちまうなんて」

梓『……』

律「鈴木は、自覚してるしてないは別にして、何か重要な事を知ってしまったか、もしくは
  関わってしまっていた。そのせいで消された」

梓『……』

律「話を整理するぞ。唯は自伝を出版しようとしていたが、その内容が世に出ると都合の
  悪い奴がいた。だから、そいつは唯を殺した。そして、それに協力しようとしていた
  鈴木も自殺に見せかけて殺した。更に、唯殺しの犯人をでっち上げて、今回の事件を
  終わらせようとしている。こんなとこだ」

梓『……待ってください。その推理が当たっているとしたら、今度は自伝の事を調べている
  律先輩が狙われるかもしれないじゃないですか』

律「だろうな。まあ、望むところだ。手っ取り早く事件の真相を暴いて、唯の仇を討てるしな」

梓『……』

律「鈴木が殺されちまったから、自伝に繋がる線は完全に断たれた。だけど、ムギを襲った
  野郎がまだ残っている。そいつを徹底的に調べ上げて、真犯人にたどり着いてみせる」

梓『その人はもう警察に捕まっているんですよ?』

律「だから何だ。そんなの関係無い。やると言ったらやる」

梓『……』

律「……」

梓『……』

律「……梓。2014年の大晦日の事、憶えてるか?」

梓『え……?』

律「唯の脱退を発表する記者会見の後、お前と唯の二人が路上ライブやってさ、とんでもない
  大騒ぎになっただろ。交通もマヒしちゃって」

梓『あ、ああ…… ええ……』

律「あの時、二人とも警察にしょっ引かれたけど、取り調べでは唯が必死になってお前を
  かばったんだよな。お咎め無しで帰してもらえるように。全部、一人で罪を被ってさ」

梓『はい……』




律「唯は道路交通法違反で書類送検。まあ、起訴猶予処分にはなったけどさ。あの当時の
  メディアの唯叩きはマジでひどかった。でも、その後のお前の行動は嬉しかったよ」

梓『いえ…… そんな……』

律「いろんなメディアや自分のブログで、唯を擁護してくれた。事務所が止めるのも聞かないで。
  結局、お前も謹慎になっちまって…… ハハッ、あの時の澪の怒りようったら無かったな」

梓『すみません……』

律「……唯にお前がいて良かった。お前はあいつにとって最高の後輩、いや、友人だったと思うよ」

梓『……』

律「唯の仇討ちは私に任せとけ。お前は…… お前だけは、唯の事を忘れずにいてやってくれ。
  これからも、ずっと……」

梓『……』

律「じゃあ、な」

梓『……律先輩』

律「ん?」

梓『真犯人探し、私にも手伝わせてください』

律「何?」

梓『か、勘違いしないで下さい。私は律先輩の言ってる事をすべて信じた訳じゃありません。
  ただ、唯先輩と純の死の真相を知りたいだけです。ムギ先輩を襲った人が逮捕された事で
  この事件が終わってしまうのなら、律先輩と一緒にいれば何かわかるかもしれない、
  そう思っただけです』

律「うん……」

梓『それに、律先輩も心配なんです。このままじゃ、律先輩――』

律「ん……?」

梓『……とにかく! すぐにそちらに合流します。今、どこにいるんですか?』

律「今か? お前の部屋の前だ」

梓『はいぃ!?』ダッダッダッダッダッ バタン

律「すまん。ジョークだ」

梓『はっ倒しますよ! ホントにもう!』

律「今、ブクロだ。西口公園。わかりやすいように入口の方に行くよ」

梓『じゃあ、すぐに行きますから。待っててください』

律「梓……」

梓『はい?』

律「お前は…… いい友人だ。すまん…… 苦労をかけるな」

梓『何言ってるんですか。律先輩らしくないですよ』

律「そうか…… じゃあ、後でな」

電話は切られた。
物言わぬ電話を両手で持ち、額に当てたまま動かない律。
そんな彼女に話し掛ける者は誰もいない。
やがて、律はベンチから腰を上げると、コートの襟を立て、午後の日差しが照らすタイル貼りの
舗道を歩き出した。





人生は短い
くだらないケンカをしている暇なんて無いよ
馬鹿馬鹿しいとしか思えないね
だから、もう一度だけ君に尋ねたいんだ
――ザ・ビートルズ



7