2013年4月23日。私達五人は武道館のステージにいる。3rdアルバム『放課後ティータイムⅢ』
ツアーの初日。
コンサートの時は、私達も、観客も、一曲目からトップギアだ。
唯はいつも踊るようにギブソン・レスポールを掻き鳴らしながら歌い、間奏や曲間ではステージを
縦横無尽に走り回り、ギターソロはジミ・ヘンドリクスが憑依したかの如くアレンジを利かせる。
彼女のスタミナはどうなっているんだろう。もしかしたらドラムの律より運動量が多いかも
しれないのに、コンサートは毎回、終始このテンション。
私は独り密かに、観客以上と言ってもいい程、唯のアクションに釘付けとなる。
この日も唯は、飛んで跳ねて、歌って弾いて。
クライマックスは“Don’t say lazy”“GO! GO! MANIAC”“NO, Thank You!”と、黄金
パターンのセットリスト。
その中でも“NO, Thank You!”の間奏中に構成された五分近い唯のギターソロは、まさに
彼女の独壇場だった。
ステージの両サイドに建てられた階段を駆け上り、ポップな櫓の上で二階席の観客にも
アピールし、定番ムーブのウィンドミル奏法に誰もが熱狂する。
そして、そろそろ間奏も終わりに近づき、櫓から唯が降りてきた時、それは起こった。
ややフラつき気味の唯は私へと寄り添うと、突然キスをしたのだ。

澪『んんー!』ビクッ

梓(ちょ……!)

紬(うはwww)

律(おいおい。唯の奴、ハジケ過ぎだろ)

観客『うおおおああああくぁwせdrftgyふじこlp!!』

実際のところ、完全なキスとはなっていなかった。
客席や他のメンバーには確認出来なかったと思うが、唯のキスは私の唇のすぐ真横にされた
のだった。
それは唯流のパフォーマンスに過ぎない。
でも、そんなの関係無い。
唯は悪魔だ。私の心を乱す悪魔だ。
その笑顔で私を魅了し、その才能で私を羨望させ、この上、その自由奔放さで私の心まで
乱そうとするのか。
しかも、それはただのパフォーマンスに過ぎない。
観客を喜ばせる為。自分のステージアクションの為。つまりは音楽の為。
私はどんなに足掻いても唯に伍せない。
唯は天賦の才を神に与えられ、そのベクトルをすべて音楽へ向けている。
唯が持つのは本物の翼。自由に軽やかに大空を羽ばたける。
私には蝋で出来た借り物の翼しかない。たとえどんなに頑張っても、真っ逆さまに墜落して、
地を這うだけ。
そうだ。2013年4月23日。この日、私は気づいたのだ。
こんなに大好きなのに、こんなに憧れているのに、こんなに近くにいるのに。
唯は私に絶望しか与えてくれない。

澪『唯は悪魔だ…… 私の心を乱す、悪魔なんだ……』






2018年9月。黒のアウディの助手席に、私はいる。
私は作曲ノートに眼を落としながら、私と一部の人間しか知らないソロプロジェクトに
関して思いを巡らせていた。
先日、7枚目のアルバムを発表したばかりの放課後ティータイムは、もう限界に達していた。
音楽的にも、人間関係的にも。
特に、私と律の対立、そして梓の精神状態の悪化は致命的なものだった。
そこで、私とプロデューサーの提案、社長の判断を経て、ごく秘密裡に私のソロプロジェクトが
進められたのだ。
しかし、肝心のソロデビューアルバム制作がなかなか始められなかった。
やりたい事は漠然と浮かんではいるのだけど…… 何か取っ掛かりがあれば……
際限無く懊悩する私に、運転席でハンドルを握るプロデューサーが話しかけた。

プロデューサー『どう? ソロアルバムの構想はまとまった?』

澪『え、ええ…… いくつか作曲もしてるし、色々と頭の中では考えてるんですけど……』

私はまた俯く。ダメだ。何故、こんなに心を強く持てないのだろう。

プロデューサー『……そういえば、事務所を移籍した唯ちゃんだけどね』

澪『……!』ピクッ

プロデューサー『今、南米の方に旅に出てるそうだ。その前はアイルランドに滞在していたとか。
        ほとんど自腹だっていうから大変だね』

澪『唯が!? どうしてですか!?』

プロデューサー『移籍後初のアルバム制作の為だよ。どうやら民族音楽をフィーチャーした
        作品に仕上げるらしい。ある情報筋から聞いた話さ。まあ、何と言うか、
        やっぱり彼女は変わってるね』

澪『……』

プロデューサー『以前のソロ活動は大失敗だったし、バラエティ番組に出てる唯ちゃんの方が
        僕は好きだったんだけどねえ。彼女、お笑いの才能があるよ』

澪『……』

プロデューサー『澪ちゃん?』

心の中で何かが爆発した。
それはいくつもの誘爆を発生させ、大きく燃え上がるひとつの炎を形成させた。
私はすぐに携帯電話を取り出す。通話相手はマネージャーだ。

澪『もしもし、澪だけど。すぐにニューオリンズ行きのチケットを手配して。え? 何でも
  いいから、すぐに手配してよ! わかったわね!』

プロデューサー『……』ニヤニヤ

澪『ニューオリンズでオーディションをします。ベース、ドラム、キーボード、サックス、
  コーラス。バックバンドを全員、気鋭のジャズミュージシャンで固めたいんです』

プロデューサー『へえ。ベースは澪ちゃんじゃないのかい?』

澪『今回はギターでいきます。とにかく圧倒的なジャズのサウンドをフィーチャーしたアルバムに
  したいんです』

プロデューサー『最近、澪ちゃんはロック志向かと思ったけど…… 何にせよ、面白いアルバムが
        出来そうだ。プロデュースのしがいがあるね』

既にプロデューサーの声は聞こえていなかった。
私はこれ以上、唯に負ける訳にはいかないんだ。
思えば、いつも唯が作る音楽には敗北感を与えられてきた。
放課後ティータイムで共作していた時期も。唯がソロデビューした時も。
もう、秋山澪平沢唯に負ける事は許されない。
あんな、あんな、人の心をズタズタにする怪物になんか。

澪『唯には負けない…… 唯には……』ブツブツ






2008年。私は唯を見ている。



2009年。私は唯を見ている。



2010年。私は唯を見ている。



2021年11月。スウィートルームのベッドの上。
私の眼には、窓越しの星明りと街灯りが映っている。
ここはグラスタワー。東京の新名所となった138階建ての超高層ビルだ。
ムギの会社が、アメリカのヴェイト社とかいう企業との共同出資で建設したらしい。

プロデューサー『炭酸水でいいのかい?』

澪『うん……』

飲み物を持って冷蔵庫から戻ってきた彼も、窓際のキングサイズベッドで外を眺める私も、
一糸まとわぬ姿だった。

プロデューサー『今は128階のスウィートが精一杯だけど、なぁに、すぐにこの上のペント
        ハウスが手に入るよ。僕と澪ならね』

リチャード・ギアが安原義人の吹替で言いそうなセリフだけど、振り向いた私のそばにいるのは
典型的な日本人中年男性。可笑しさと同時に、どこか薄ら寒ささえ覚える。

澪『別に…… 私はそんなもの、いらないよ』

炭酸水の瓶を受け取った私は、再び窓の外へ眼を遣った。会話もそこで途切れる。
数分の沈黙の後、それに耐え切れなくなったのか、彼がグラスの水割りを飲み干して言った。

プロデューサー『……なあ、そろそろニューアルバムの制作に入ってもいいんじゃないか?
        君の意思を尊重して何も言わずにいたが、1stからもう二年以上経ってる。
        ボノの真似事も結構だけど――』

澪『ねえ、唯は今度、どんな曲を作るのかな。何か聞いてる?』

プロデューサー『またそれか! いい加減にしろ! いつまで彼女にこだわってるんだ!?
        あんなのフェードアウトした過去ネタだ! 雛壇芸人程の価値も無い!』

澪『本気で言ってるの……? だとしたら、あなたの音楽センスの底が見えたわよ』

私は嫌悪と軽蔑をたっぷり込めて、彼を睨みつけた。
放課後ティータイムから今まで、この人とやってきた事に意味なんてあったのだろうか。
この程度の男だったなんて。
放課後ティータイム時代の唯の作曲や、ソロになってからの唯のアルバムを聴いてきた筈なのに。
平沢唯の仕事に戦慄し、恐怖し続ける私を見てきた筈なのに。

プロデューサー『君は病気だよ。何の実体も無い平沢唯の影に怯えて、強迫観念に取り憑かれて
        いる。アレのどこが天才だ? 奇をてらったマスターベーションまがいの
        音楽しか作れないキワモノ歌手じゃないか』

澪『……』

私は無言でベッドから降り、服を身に着ける。
彼には一瞥もくれず、ハンドバッグを手に取り、ドアの方へ向かった。
話すだけ時間の無駄だ。
それに、彼は私を怒らせた。唯を悪く言っていいのは私だけだ、と何度も言ってきたのに。

プロデューサー『どこへ行く! 戻って来い! 自分を何様だと思ってるんだ、このイカレ女め!
        誰のおかげで今まで……!』

絶対に振り返らない。あんな男を見たら眼が腐る。耳も腐りそうだから出来れば声も聞きたく
ないし、口も腐りそうだから出来れば話したくもない。
でも、これだけは言っておかなくちゃ。

澪『もう、あなた程度じゃ私の役に立てない。あなたじゃ唯に勝てないのよ。これからは
  セルフプロデュースで活動させてもらうわ』

私はスウィートルームを後にした。






2011年。私は唯を見ている。



2012年。私は唯を見ている。



2013年。私は唯を見ている。



2022年10月11日。私は泣いている。

澪『うわぁああああああああん! 唯! 唯ぃいいいいい!』

疲れを背負って帰宅し、ベッドに潜り込んだのは明け方近い深夜。
眠りに落ちるか落ちないかの私を、一本の電話が叩き起こした。唯の死を告げる電話が。
最初はイタズラ電話かと思った。でも、そうじゃない。唯が死んだ。何者かに殺されたのだ。
何故? とは頭に浮かばなかった。誰が? とも頭に浮かばなかった。
ただ、唯がもうこの世にいない、という事実だけが私の心に刻みつけられた。

澪『唯ぃいいい! 嫌だよ! 嫌だよぉ! うわぁあああああ!』

唯はもういないんだ。
そう考えると涙が止めど無く湧いてきた。
涙を止めようと閉じたまぶたの裏に、唯の姿が浮かぶ。
笑顔で歌う唯。泣き顔で私にすがりつく唯。陰鬱な顔で写真週刊誌に載る唯。
ずっと唯だけを見てきた。
でも、私がこれから生きていくのは、平沢唯のいない世界。
唯のいない世界で、私はミュージシャンとして生きていくんだ。
もう、唯はいないんだ。
唯はいない……

涙が尽きたのは朝の五時。
太陽が地平から顔を覗かせている。今日初めて昇る、新しい太陽。
私の世界を明るく照らしてくれた、あの輝かしい太陽は、もう昇らない。
私の身も心も焼き尽くす、あの憎むべき灼熱の太陽は、もう昇らない。
ベッドから身体を起こした私は、壁のコルクボードにたった一枚だけ貼ってある写真を剥がし、
アロマキャンドル用のライターで火を点けた。
燃えていく。笑顔の私と唯が、燃えていく。

澪『唯…… 死んでくれて、ありがとう……』





遠くへ、遠くへ船出したい
去り行く白鳥のように
でも、人は大地に縛られて
この世で一番悲しい音を奏でる
一番悲しい音を
――サイモン&ガーファンクル



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最終更新:2014年04月26日 20:20